魔術探偵 立川楓の怪奇事件簿
第三章
季節は秋を越え、冬を迎えた。吐く息は白く、朝晩の冷え込みが強くなった十二月の初旬のことであった。
舞台は楓の通う中学校。創立四十年程経つ公立の中学校である。校舎は東側に立つ数年前に改築され新校舎と、西側に立つ古びた旧校舎の二つに分かれている。新校舎の校舎は当然ながら、比較的綺麗である。しかし、旧校舎の校舎は経年の使用により古びており、汚い。そして、血気盛んな思春期特有の学校の噂とやらが存在しているのだ。
それは怪談だ。今、楓の通う桜神宮中学の旧校舎では階段の噂が全体を気味悪く覆っており、学校の問題になっていた。
午前中の授業を終え、校内は昼休みになり、慌ただしく賑やかな雰囲気が漂っている。楓のクラスも例外ではない。皆、持参したお弁当を食べながら、仲の良い友達同士でお喋りをしている。
楓の前にはセミロングのストレートヘアーをなびかせた、やや痩身の可愛らしい少女が座り、お弁当の卵焼きを頬張っている。彼女の名前は鶴見 理香 十三歳。楓の同級生である。知り合うきっかけは怪談好きの理香の前で、楓が矢向のことを喋ってしまったためであった。
楓と理香が仲良くなるまでには、そんなに時間はかからなかった。お互い、友達が居らず一人で過ごしていたし、理香自身は中学に上がってからこの地域へ引っ越してきたため、知り合いが全くいなかったのだ。
彼女はコンビニで売っているような怪談話の特集されている雑誌にカバーをかけて読んでいた。理香はオカルト好きの少女で、他のクラスメイトからはちょっと変わった人として認識されており、いつもぽつんと一人であった。
最初の出会いは席替えで席が上下になった時のことだった。放課後のホームルーム前に楓はいつもちょっと変わった本を読んでいる理香に声をかけたのであった。
「ね、ねぇ。鶴見さんってお化けが好きなの?」
理香は声をかけられたことに驚いているようだった。しかし、お化けと聞いて黙っているわけにもいかず、
「う、うん」と言った。
「見たこととかあるの?」
理香は自分が馬鹿にされていると警戒しているのか、つんけんと答えた。
「そ、それはあるわ。あたし多分そういう力あるし」
「そ、そうなんだ。実は、あたしも幽霊見たことあるんだ」と友達がいなかった楓はつい勢いで言ってしまった。
「え!」
あまりに大きな理香の声に、クラス中の人間の視線が一斉に降り注いだ。理香は特に気にしなかったが、楓は小さく縮こまった。
「ちょ、ちょっとだけだけど……」
「ど、どこで? ねぇ、教えてよ」
「う、うん。実はね……」
こんな風な経緯があり、楓は矢向のことを理香に話したのであった。
それ以降、二人は一緒に登下校する仲となり、いつも二人でいることになった。最初は幽霊の話ばっかりであったが、徐々に一般的な話もするようになり、少女マンガのような恋愛話などもするようになっていった。
*
楓がぼんやりと出会いのきっかけを反芻していると、卵焼きを食べ終えた理香が尋ねてきた。
「ねぇ、知ってる?」
理香の言葉には動詞だけで、主語がない。だから、普通はなんのことを言っているのか分からないはずだ。だが、楓には何となく理香の言いたいことが分かった。
「知ってるって? 例の噂のこと?」
「うん。また出たらしいよ」
「またぁ。今週でそれ系の目撃談何回目?」
「多分……。五回目くらいじゃないかな。今日が木曜日だから、一日一回以上は目撃者がいるってことだよ」
「それで、今回はどこに現れたの?」
「例の場所よ。ほら、あまり使われてない旧校舎・西側の階段あるでしょ? あそこの屋上へ行く踊り場のところなんだって」
「へぇ。それも例の男の子の幽霊なの?」
「うん。学校で見たこともない男子なんだって。昔、この学校で自殺した生徒の怨念だって、皆言ってるよ」
「自殺? そんな生徒いるの? あたし、この付近に来てそんなに長くないけど、桜中 (※桜神宮中の略称) で自殺者が出たなんてこと聞いたことないよ。自殺するほどの事件になれば、大々的にニュースになるものじゃないの?」
「詳しくは知らないけど、改築されるかなり前の生徒だって噂だよ。昔の話だから誰も覚えていないんじゃない?」
「ふ~ん」
現在、桜中ではこの謎の幽霊の噂で持ちきりである。小太りの男子生徒の幽霊。噂が噂を呼び、虐められて自殺をした昔の生徒だとか、他校の生徒だが、この学校に恨みのある学生の怨念だとか、様々な憶測が飛び交っているが、実はどれも間違いである。
本当の答えを楓は知っている。それが悩みの種でもあった。
現在の楓は、自在に自分の魔力をコントロールすることができるようになった。故に自分の意志で幽霊を浄化し、元の状態に戻す魔術も自分の意志で出したり消したりができるようになったのである。
今から、約八か月前、楓は矢向と出逢った。その時の彼女には、まだ魔力を操るということできなかった。そのため、やたらに引き寄せられる霊たちを片っ端から触れて成仏させていったのだが、夏休みを終え、例の熱海旅行を終えた時、彼女はある幽霊と出逢ったのである。
それが、現在校内の噂の中心である幽霊であった。彼女がやたらに幽霊を消し去らなくなった理由は大きく二つある。
一つは先も言ったように、魔力をコントロールできるようになったということ。
もう一つは熱海の事件により、自分に芽生えた魔力をやたらに使うことに躊躇し始めたことが挙げられる。
楓は悩んでいたのだ。自身に芽生えたこの強大な魔力に。そして、そんな力を持ちながら、彼女は人を救えなかった。どちらかというと、首を突っ込んだは良いが、滅茶苦茶にしただけで、ほとんど中途半端に終わっていると思い込んでいた。
熱海の事件で、悪魔に言われたことが相当に堪え、楓の心に深い傷を与えていた。だから、楓は熱海の事件以来、むやみやたらに霊を消し去るということをしていない。さらに、矢向の事務所からも足が遠のき、今ではほとんど通っていないのであった。
放課後――。
楓も理香も部活をしていないので、いつもはさっさと下校するのだが、今日の理香は少し違っていた。
「ねぇ、楓。今日ちょっと用事ある?」
「用事? 特にないけど……」
「じゃあさ、ちょっと付き合ってくれない?」
「どこか行くの?」
「例の旧校舎。西側の踊り場よ」
「へ。学校に残るの?」
「そう。例の幽霊を見に行かない?」
「ええぇ。あくまで噂でしょ。信じない方が良いよ」
「噂にしては目撃者が多すぎるわよ。絶対に何かいるわ。楓はそういうの詳しいじゃない」
「あ、あたしは別に詳しいわけじゃ……」
「いいから、とにかく一度行ってみよ。ね、お願い」
理香は掌を重ね合せ、懇願するように楓に頼み込んだ。楓は小さく溜息をつき、仕方なく付き合うことにした。理香はなかなか頑固者で一度言い出すと歯止めが効かないのだ。
二人は鞄を持ち、放課後の慌ただしい喧騒の中、西側の階段へ向かった。
旧校舎は主に理科実験室や、家庭科の実習室、音楽室がある。反対に新校舎には各学年それぞれ教室と、図書室、多目的室などがある。これとは別に体育館やグラウンド、プールも存在している。土地の狭い都内に建っている公立の中学の中では、比較的に大きい部類に入るだろう。
西側の階段とは、新校舎の先にある旧校舎の端にあるのだ。
旧校舎は当然古びている。床や壁は薄汚れている。特に新校舎の新しさに慣れて、この空間に来ると、余計に経年による変化が分かる。
旧校舎では一部の文化系の部活動が活動しているため、ひっそりとした空間ではない。新校舎程ほどうるさくは無いが、こちらもしっかりと慌ただしさに包まれている。
楓ら二人は、その喧騒の中、屋上へ向かって行く。学校中の噂なので、理香のような物好きがよく見学へ行くのだが、今日は運よく誰もいなかった。踊り場は喧騒から切り離されひっそりとしており、誰もいなかった。薄汚れた壁、埃が堪った床だけがある。
それを見た楓が、
「ほら、誰もいないじゃない。やっぱり噂なのよ」と呟いた。
だが、理香は刑事のような顔つきになり、現場検証を始めている。
「そうかしら。ねぇ、あそこ変じゃない?」
理香はそう言い、あそことやらを指差した。その方向を眺めながら楓が答えた。
「何かあるの? あたしには何も見えないけど」
理香は小さくフンと鼻息を漏らした。
「全く、楓って探偵事務所で働いてるんでしょ? だったら、このくらい分かるようじゃなきゃダメなんじゃないの?」
「へ?」
「ほら、見てみなって、この踊り場って今校内で噂になっているから、誰も掃除とかしたがらないのよ。だから、ホコリまみれになっている。でも、あそこだけなんか綺麗じゃない? ってことはあそこには誰かがいたってことよ」
「う~ん。まぁ……。そうかもしれないけど、良く考えてよ。確かに噂になってるし、それが原因で掃除とかされてないかもだけど、同時に、今日のあたしたちみたいに色んな人が見学に来てる。よく人が来てこの場に溜まるってことは、同時にホコリも飛ばすでしょ? ほら、あたしたちが立っている場所もホコリは溜まっていない」
理香はそう言われ、足元を見た。確かに、この辺りはホコリにまみれていない。楓の言うとおり、怖いもの見たさで見学に来る輩は、皆、大体同じ場所を調べるのだろう。それにほこりなんて大体どこにでも堪るものだ。理香は顔を赤らめ、
「ま、まぁそんなもんよね。あ、あたしもそのくらいは見抜けるわ」
「う、うん、そうだね。じゃあさ帰ろう。やっぱり噂なんだよ」
楓はそう言った。早くこの場から立ち去りたかったのである。早くしないと、今は運よくいなかったのだが、あいつがやってくるかもしれないのだ。
あいつとは校内の噂の張本人である。
楓らが帰ろうとした時、あいつは突然現れた。
「姉御!」
その声に、楓だけが気が付いた。振り返った先には、あいつこと、小杉 武蔵 (こすぎ むさし) が立っていた。楓はその姿を見て『あちゃぁ』という顔して額を手で覆った。
武蔵の声は一般人には聞こえない。恐らく幽霊だからだ。困るのは楓のように高い魔力がなくても聞くことができるということだろう。不思議なことに武蔵の魔力は少しずつ強くなっていき、現在では少しでも魔的な力 (※所謂、霊感のこと) があれば、感じ取れる程になっていた。そのため、校内でも幽霊を見たという噂が広がったのだ。理香は武蔵のことが見えていないのか、何も気づいていないようであった。
楓が振り返ると、武蔵が楓の方をしっかりと見つめている。武蔵は楓と同じ年齢の小太りの幽霊である。目が細く、開いているのか閉じているのか良く分からない男子生徒だ。
「姉御ぉ。どこへ行くんですか。俺はここにいますよ」
当然、楓には彼の声が聞こえていたが、無視し続けた。ここで彼に声をかければ、かなり怪しい人物になるだろう。恐らく理香は幽霊を見ることができない。だから、この空間には誰もいないと思っているのだ。にもかかわらず、楓がいきなり武蔵に声をかければ、理香の目から見た場合、楓が誰もいな空中に話しかけているという、かなり如何わしい状況が成り立つ。友人関係はこれで終焉を迎えることだろう。そんなことでせっかく作った友達を失いたくはなかった。
「ねぇ。理香、早く帰ろう。ここ寒いよ」
理香はそれでもごねる。
「うん。で、でもぉ……」
「あ、ほら、駅前になんか新しいカフェができたじゃん。今度行こうって言ってたやつ。今日この後行こーよ。こんなトコにいてもしかたないよ。幽霊はあくまで噂なんだよ」
「まぁ、そーゆーことなのかもね……。なぁんだつまんないの」
「しょうがないよ。次は見れるかもしれないよ。ね、早く行こ」
武蔵は楓が無視するので悲しくなったようだ。
「お、俺はここにいますよ。ど、どうして無視するんですか。あんまりっすよ。姉御、姉御ったらー」
それでも、楓は無視を続け、強引に理香を連れその場を後にしていった。流石の武蔵も追うのを諦め、しょんぼりと肩を落としうな垂れながら、楓らの去っていく背中を見つめていた。
二人は学校を出て、駅前にある新しく出きたこぢんまりとした喫茶店へ向かった。店内の家具は新しく、新品の樹の香りが漂っている。大きさは広くはないのだが、クラシックな雰囲気であり、ヒーリング系の音楽が流れている。二人は空いているテーブル席に座り、注文を済ませた。
待っている間、楓が尋ねた。
「残念だったね。でも、やっぱり噂は噂だったんだよ」
「う~ん。でも見た人結構多かったし、絶対今度はホントだと思ったんだけどなぁ……」
「多分。噂が広がると、誰でも見たような気になるのよ。ホント些細な変化でもそれが幽霊の仕業だって思ってしまうわけよ」
「そんなものなのかなぁ。これで桜中の怪談のほとんどが嘘っぱちってことね。なんだかショック。夢がなさすぎ」
「ほとんど? たくさんあるの」
「そ。楓、知らないの?」
「うん。何それ?」
「じゃあ教えてあげる。桜中には今日見に行った幽霊の噂以外にも、不思議な現象がたくさん起こるのよ」
「そうなの?」
「まずは、放課後旧校舎校舎の屋上へ向かう階段の踊り場には幽霊が出る。これは今日行ったやつね。
他にも、旧校舎の放送室や音楽室から、誰もいないはずなのに音が聞こえるっていう話や、旧校舎で行われている授業を抜け出すと、ドッペルゲンガーに出会うとか……。まぁ、色んな噂があるわけよ」
「そんなにたくさんあるの。誰が考えたんだろう。第一、夜中に学校なんて行かないし、後、怪談現象の多くは旧校舎で起こるのね」
「うん。旧校舎は昔、自殺した人がいたって噂だから、霊がそれに引き寄せられているのよ」
多分矢向なら、このような怪談の類はすべて科学的に証明することができると言うだろう。楓等が経験していた怪異現象は、到底科学では証明できない何かなのだ。このような曖昧な現象ではない。確固たる怪異である。
それでも楓は何も言わず、理香の意見をただ肯定した。魔術的な現象には悪戯に首を突っ込まない方が良いと心に決めている。しかし、理香は頑固だから、否定するよりも、肯定してやらなければ、面倒なことになるだろう。
「なんか、怖い学校。これじゃ一人でトイレもいけなくなるね」
「でも、楓は探偵事務所でバイトしてるんでしょ? 良いなぁ。あたしも紹介してくれないかな? あたし、結構推理には自信あるの」
「無理だよ。矢向さんの事務所。あんまり儲かってないから人を雇うの大変だろうし、もうおじいちゃんだから……」
「でも、今度頼んでみてよ。ねぇ。お願い!」
「う、うん。分かった。今度聞いてみるよ」
「ホントぉ。ありがとー。絶対だよ」
とは言ったもの、楓はここ最近矢向の事務所へ行っていない。矢向自身からも連絡はない。ずっと行かないと、行く機会を見失い、なかなか足が向かないのであった。
すると、理香が別の話題を振った。
「あ、そうだ。知ってる?」
「え、何が?」
「また出たんだって?」
「へ。ゆーれーが」
「違う違う! ドロボー。二組の生徒がやられたんだって」
「え、どーゆーこと?」
「ほら、最近ドロボー出てんじゃん。犯人はまだ捕まっていないけど、二組の子、財布盗まれたらしいよ。しかも一万も。まぁそんなに持ってくる方も悪いけど」
「ああ。あれね……」
最近、桜中では階段の他に盗難騒ぎが多いのだ。金銭もそうだが、高額そうな靴や上着等が盗まれているのである。先月、今月と立て続けに起き、未だに犯人は捕まっていない。
それを思い出し楓が答える。
「でも、酷いよね。盗むなんてさ」
「まぁね。でもあたし、なんとなく犯人の目星がついているのよ。探偵としての勘がそう言っているの」
「え、そうなの。誰が犯人なの?」
「その前に、楓はどう考えているのか教えて頂戴よ」
「あたしは校内の人間だと思う。だって、誰にも見つかってないのよ。校内の人間じゃなきゃ、ここまで校内の地理に詳しくないだろうし、校内の時間を把握できないでしょ」
「卒業生かもしれないよ」
「ううん。新校舎はできたばかりだから卒業生って線も考えにくいよ。部外者がわざわざ中学に忍び込んで盗む様な品じゃないでしょ。そ、その例えば、女の子の体操服とか盗まれたとか言えば、変質者って線もあるけど、今回のは、そういった犯行じゃない。金銭目的。しかも金額はそんなに大きくない。大人がリスクを冒してまで盗む金額じゃないでしょ。つまり、犯人はあたしたちと同じくらいの生徒ってことじゃない?」
理香はその場で深く考え込んだ。
「ま、まぁ大体あたしと似たような考えね。あたしはね、犯人を国立大だと思っているの」
「国立大!」
国立大というのは、国立 大輝 (くにたち だいき) という楓等のクラスのクラス委員を務める痩身の聡明な男子生徒である。国立大輝という名前であり頭が良いので、皆から、あだ名として国立大と呼ばれているのだ。
「でもどうして? あの子、クラス委員だし、一番真面目そうなのに」
理香は得意そうに、
「ふふん、犯人って案外一番やりそうに無い人が犯人なのよ。そうって推理の相場が決まってるのよ。国立大なら頭も良いし、皆の隙をついて盗みを働くことも可能だろうし、真面目だから先生たちも目も誤魔化せるじゃない」
「そんな理由だけで疑っちゃ駄目だよ。探偵ならしっかりと証拠を掴んでから、推理を展開しなきゃ……」
「ま、まぁそうよね。もう少し調査の必要はあるわね。あ、もしかしたら。犯人ってあいつかも!」
理香が突然大声を出したものだから、店内の視線が一斉に二人に降り注いだ。それを感じ二人は赤くなり、小さくなりながら、楓が尋ねた。
「そ、それで犯人って?」
「あの幽霊よ。今噂の!」
「へ」
「あの幽霊、人を脅かすだけじゃ物足りず、人のモノを盗むようになったのね。これはもうあたしたちであの幽霊を捕まえてとっちめるしかないわ」
さっきの話聞いてた? と言いたいところだったが、楓は我慢し、ただ頷いた。
*
翌日――。
楓は少し早く学校へ向かった。理由は武蔵に逢うためである。昨日は理香がいた手前、無視をしてしまったので謝ろうと思ったのだ。それと、もう一つ大きな理由があった。
旧校舎の階段を上っていくと、途中で武蔵に出逢った。彼の顔はどんよりと暗かったが、楓を見た途端、花が咲いたようにパッと明るくなった。
「あ、姉御ぉ……」
楓は首を左右に振り、誰もいないことを確認し、
「お、おはよう。昨日はごめん」と囁いた。
「い、良いですよ。俺も良く考えました。普通、友達の前で幽霊と話したら変ですからね」
「それなら良いんだけど。ねぇ、アンタ少し噂になってるわよ。もう少し魔力を下げた方が良いかしら」
「む、無理っすよ。魔力をコントロールするのって難しんすよ」
「でも、今のままだと魔力が強すぎて、顕現する力が強いのよ。だから、少しでも魔力なり霊感なりの力があればそれだけでアンタのことを感じ取ってしまう。これは不味いわよ」
「で、でも、なかなかコツが掴めないんすよ」
「最初はね。最初だけ。後は慣れよ。自分で魔力をコントロールできるようにならなきゃ。最初に約束したでしょ。そうしないと、あたしはアンタを消さないとならない」
「ひぃ、それは酷いっす。酷いっすよ。俺、頑張りますから」
「なら、良いけど、じゃあ今日も訓練開始ね」
武蔵の死んだ理由は聞いていない。だが、往々にして若くして死んだ人間は、死因がなんであろうと、怨念が強く残る傾向がある。若すぎる死は、死というものを強く意識させるからだ。武蔵も同じであり、それがこの世に魂だけ残ることを可能にしているのかもしれない。
しかし、その力が次第に強くなってきて、少しでも魔的な力がある人間でも、彼の姿を視れるようになってしまったのだ。このままでは幽霊を見る人間はどんどん増え続けるだろう。そうなる前に、楓は武蔵を特訓し、魔力をコントロールできるようにしてやろうと思ったのである。自身の経験から、他の学生には、悪戯に怪異へ近づいてほしくなかったのだ。
ただ、特訓を重ねても成果は表れなかったのである。
「どうすりゃ良いんすかね?」
「もっとこう、お腹に力を入れる感じなのよ。ほら、頑張って」
「はぅあー」
「違うって、それは本当にお腹に力を入れてるだけじゃん」
「でも、そんなこと言われてもぉ。難しいっすよ。姉御は何でそんなに器用に力をコントロールできるんですか?」
「あたしも特訓したのよ。最初はアンタみたいに良く分からなかった。でもやっていくうちに、この魔力がどこから湧いてくるっていうか、流れているか、みたいなのが分かるようになったの。だから、今はとにかくやるしかないわ。それが一番の早道だもの」
「ハァ……。分かりました」
「じゃあ続き、行くわよ」
こうやって朝の僅かな時間を利用して、二人は特訓を重ねているのであった。
時刻は午前八時――。
そろそろ生徒や先生が登校してくる時間だ。引き上げなければならない。楓は荷物をまとめ、コートを羽織、
「じゃあ、今日はこれでおしまい。ちゃんと見つからないようにするのよ」と言った。
特訓を終え、疲れ切っている武蔵は答える。
「は、はい。分かりました。で、でも最近、色んな人が変わりばんこにここに来るんすよ」
「そりゃそうよ。だって、あんたすごい噂になっているもの」
「学校の怪談みたいなモノっすよね? やっぱそういうのってどこの学校にもあるんすね。ほら、良く聞くじゃないですか。学校の七不思議とか」
「七不思議じゃないけど、色んな怪談話ならこの学校にもあるわよ」
「え、そうなんすか?」
「うん。多分、全部嘘だと思うけど、皆、夜の学校には何かいると思っている。だから、微かな物音でも大きな音に聞こえて、幻想と現実がごっちゃになるのよ」
「例えば、どんなのがあるんですか?」
楓は仕方なく、昨日理香に聞いた怪談話を一から教えた。すると、幽霊のくせに血色の好い顔が、どんどん幽霊らしくなっていく。その変化に怪訝なものを感じた楓は鋭く睨み付けた。
「アンタ、何でそんなに青くなってんの?」
「い、いやぁ。そのぉ」
「何よ。言いなさいよ! 隠しても無駄よ。アンタ顔色で直ぐに分かっちゃうんだから」
「じ、実は……、その怪談話の犯人、俺かもしれないっす」
「はぁ!」
「俺、夜とか暇だったんで、こっそりピアノ弾いたり、放送室に入ったりしちゃったんです。だ、誰か見ていたのかなぁ……」
楓は頭を抱えた。
「アンタ、自分の立場分かってんの。そんなことしたらもっと騒ぎが大きくなるでしょ。そうすると、アンタはもっと暮らしにくくなるわ。お祓いとかされるかもしれない。結果、アンタは強制的にこの世から消滅しなきゃならないでしょ。それでも良いの?」
「よ、よくはないっす」
「だったら、もっと自分でしっかりと魔力をコントロールできるようになってから、動き回らなきゃ、元も子もないでしょ」
「は、はい。すいません。俺、もっと特訓して早く魔力を使いこなせるようになります!」
楓はふうと溜息をつき尋ねた。
「あ、もしかしてさ、アンタ、ドロボーとかしてないわよね」
「ドロボー?」
「そう。最近この学校でドロボーが出てるのよ。多分、犯人は学生よ。盗まれた金額や盗難品を見ると大人が盗む様なものじゃないから」
「ひ、酷いっすよ。俺盗みなんてしないっす。本当っす。信じてください」
「なら、良いんだけど……」
すると、武蔵は何かを考えるように黙り込んだ。
「何、どうかしたの?」
「え、ああ、いや、実は俺、そのドロボー知ってるかもしれないっす」
楓は驚き、目を大きく見開く。
「え、どういうこと?」
「俺、その人が犯人なのかは良く分からないっす。だけど、体育や、理科の実験の時なんか、教室を移動して授業するじゃないですか。その時、誰もいなくなった教室に忍び込む奴を見たことがあるんです。でも俺、ゆーれーだし、何もできないし、もしかしたら忘れ物なのかなって思って、特に意識しなかったんですけど」
「それ、誰?」
「名前知らないっす。でも線の細い、とても盗みなんてしなさそうな生徒っす」
「男? 女?」
「男っすよ」
「誰だろう? ねぇ、写真とかあれば誰だか分かる?」
「多分、分かると思います。顔は見ましたから」
そうこう話していると、校内が慌ただしくなってきた。学生がたくさん登校してきたのだ。
「分かった。一旦中断ね。明日の朝は今日よりも少し早くここに来るわ。その時、写真を持ってくるわ」
「分かりました……」
楓はそれを聞き、直ぐに階段を下り、自身の教室へ向かった――。
朝のホームルームを終え、一限の授業の準備をしようとしていると、楓はある人物に名を呼ばれた。
楓を呼んだのは担任の長沼先生であった。
「立川、ちょっと良いか?」
楓は普段、何の変哲もないただの学生として生活しているので、風紀も乱れていないし、特に問題も起こしてない。故に担任教師に呼ばれることなんて全く無かった。そのため、担任に個人的に呼ばれることに少なからず動揺した。
「は、はい」
楓は職員室の隣にある生徒指導室へ連れて行かれた。そこは、初めて入る部屋であった。室内は暖房が効いていないので寒い。広さは六畳程で長机が二台と椅子が二脚あるだけの質素な部屋であった。
長沼は暖房のスイッチを入れずに、楓に尋ねた。
「ちょっと寒いかもしれないが、すぐ終わるから我慢してくれるか」
楓は寒さと緊張で歯をカチカチと鳴らしながら答えた。
「は、はい」
「立川、君は真面目な生徒だと思ってる。成績だってそんなに悪くなし、授業態度や風紀だって他の生徒の模範となるくらいに良い。だから、私はね、こんなのはただの噂だと思ってる」
「い、一体なんなんですか?」
「ああ。今、校内で盗難騒ぎが立て続けに起こっていることは知っているだろう? 犯人もまだ捕まっていない。先生方も協力して、教室が空くときや、放課後は特に見回りを徹底し、警備を強化しているんだ。実はね、その犯人が君じゃないかっていう報告があったんだ。それも一人じゃなく、数名から。何度も言うが、私はそんなのは噂だと思っている。君が犯人であるなんて絶対にないと信じている。だけど、教えてくれないか。君は良く朝早く学校に来ているだろう? しかも教室に行かず、別のところへ行っているそうじゃないか。君は朝早く、何をしてるんだね?」
室内はひんやりとした空気が漂っているのに、楓の背中には冷たい汗がじっとりと湧き出してきた。
(誰かに見られてたんだ。それを先生は知ってる。それじゃあ、ここで嘘を付くのは絶対に逆効果だわ)
「せ、先生。あたし泥棒なんてしてないです」
長沼はなだめるように告げる。
「分かってるよ。それを証明するために、君から話を聞きたいんだ。教えてくれないか、朝早くから何をしているのかということを」
(仕方ない、賭けるしかないか……)
「わ、笑わないですか?」
「笑う? どうしてだい? まぁ良い、笑わないから言ってごらん」
「実は、あたしオカルト好きなんです。この学校そういう怪談話がたくさんあるから、調べたたんです。流石に夜は怖いから、朝早く来て調べてたんです」
長沼は唖然としながら聞いていた。
「調べるってどうやって?」
「あ、あの、薄く切った紙をドアに挟んだりとかして、次の日に紙が落ちているか調べに回ってたんです」
そう言うと、長沼はくすくすと笑った。安堵し弛緩した空気が流れた。楓はその空気を感じ、なんとかこの場を乗り切ったと確信した。
「先生、笑わないって言ったのに」
「い、いやぁ、すまんなぁ。立川は真面目な生徒だから、そんなことには興味ないと思っていたからな。まぁ良いさ。それで幽霊はいたのかい?」
「分かんないです。でもあたしはいると思ってます。紙が落ちてたこともありますから」
「分かった。でも一つ約束してくれないか?」
「約束ですか?」
「そうだ。真犯人が捕まるまで、朝の探検は控えて欲しい。約束できるね?」
「は、はい。分かりました」
こうして楓はなんとかピンチを乗り切り、教室へ戻ることになったのだが、これでもう、朝早く武蔵の特訓に付き合うことはできなくなった。
(犯人が見つかるまでの辛抱かな)
教室に戻ると、室内は暖房によって暖かかった。一限開始の時間が間近に迫っている。楓は直ぐに授業の準備を始める。すると、
「ねぇ。どうしたの?」
楓は声の方向に振り返った。そこには後ろの席に座る理香の姿があった。
「あ、ああ。ちょっとね……」
「何かあったの? 楓が先生に呼ばれるなんて珍しいじゃん」
「ま、まぁね……」
楓が真相を言おうか言うまいか迷っていると、教室内へ一限目の担当教員が入ってきた。
ざわついていた教室の雰囲気が一変し、静かになり、日直が号令をかけ、全員で挨拶を済ませる。楓は助かったと思いながら、ほっと胸を撫で下ろした。
*
午前中の授業が終わり、楓は理香と二人でいつもどおり、仲良く昼食を取っていた。
「へぇ。長沼って酷いね。結構良い先生だと思っていたのに……」と理香が言った。
結局、楓は朝のことを理香に話したのであった。授業終了毎の休み時間にしつこく真相を尋ねられたので、ごまかし切れずに、とうとう一部を除いて真実を話したのである。
「うん。でもまぁ仕方ないよ」
「でもさ、なんで今日に限って朝早く学校へ行ったの?」
理香には毎朝早く学校へ行き、武蔵の特訓をしているということは言っていない。どちらかというと、こっちの方を隠しておきたい。話せば面倒なことになるからだ。そのため、こっちは適当に嘘をつき、ごまかすことにした。
「学校に数学の教科書とか忘れちゃったのよ。ほら、今日宿題出てたじゃない。わざわざ学校へ取りに戻るのが面倒だったから、朝早く行ってやっていたのよ」
「ふ~ん。ホント真面目ね。別に、あんな宿題一日くらい忘れても良いのに。結構やって来なかった人、いっぱいいたしね」
「まぁ。そうなんだけど。一応ね」
「でもさ、朝とかまだ学校にほとんど人が来ていないでしょ? 怖くなかったの? お化けとか出なかった?」
「出ないよ。ひんやりとしてるけど、何にもいないよ」
「なぁんだ。つまんないの。でも、いつまでも疑われるのは嫌よね。何とかして犯人を見つけないと」
「犯人を見つける?」
理香は得意そうに答える。
「そ。疑いを晴らすには、犯人を捕まえてとっちめるのが一番効果的よ」
楓はそれを聞き尋ねる。
「でも、どうやって捕まえるの? あたしたち犯人についての手がかりが全くないのよ」
「手掛かりはこれから探すしかないわ。そこで、楓の出番よ。楓は探偵の助手。つまりワトソン的な存在なんだから、手掛かりを探すのは得意なんじゃないの?」
「あたしがぁ、でも、今あたしが疑われているのに、のこのこと事件について嗅ぎまわったら、余計に疑われるんじゃないのかなぁ? それに校内の人が犯人なら、その内見つかるんじゃないの?」
「分かんないわよ。とりあえず、今日の放課後探してみましょうよ」
要するに、理香は探偵ごっこのようなものやりたいのだろうと楓は感じた。目の輝き方が普通じゃない。理香はなんとなくではあるが、楓の入学当初の姿とよく似ている。楓自身も理香を見て、そう思っていた。
(自分も昔、こんな風に目を爛々と輝かせていただろうか?)
と、懐かしくなり楓は、
「分かった。じゃあ、ちょっと探してみようかしら」と答えた。
対する理香は興奮を抑えきれないようだ。ふんふんと鼻息を荒くさせて、
「約束だよ!」
と、呟いた。
しかし、事件は思わぬ方向へ動くことになった。それは二人が昼食を食べ終えた、昼休みの中盤の時間帯に起きた。ちょうど、トイレに行っていた理香が血相を変えて戻ってきたのである。
「か、楓!」
理香の声量の大きさに教室内に生徒が一斉に驚いた。楓はなんだか恥ずかしくなり、顔を真っ赤にさせた。
「ちょ、ちょっと、一体どうしたのよ。そんな大声出して?」
理香は興奮の冷めないまま、慌てて答えた。
「で、出たのよ」
「出た?」
「ゆーれーが」
「幽霊?」
「ちょっと、とにかく一緒に来て」
理香は尋常ではないくらいに興奮していた。そのため楓は立ち上がり、理香と共に教室を小走りに飛び出した。
二人は『廊下は走らない』という張り紙の警告を無視し、懸命に走り、新校舎を抜け旧校舎へ向かった。
旧校舎へ入ると、直ぐに理香の興奮の正体が分かった。目の前十メートル程先にある廊下と階段のちょうど境のスペースに人だかりができているではないか?
「一体何?」
と、楓がつぶやくと、直ぐさま理香が答える。
「出たのよ。例の幽霊がね」
「例の幽霊?」
「ほら、昨日言ったでしょ? 桜中の怪談話、その中に旧校舎に出る幽霊の話をしたじゃない。それよ。その幽霊が出たのよ。少し小太りの男の子で、この学校で見たことのない生徒なんだって」
(旧校舎、小太り、見たことのない生徒……。まさか)
そのまさかだった。人だかりの先には武蔵がいるではないか。しかも、いつもより顕現する力が強い。きっと、武蔵自身も何かに興奮しているのだ。魔力は自らでコントロールしないと垂れ流しになったり、感情の赴くままに暴走したりするのだ。
(まずい!)
人だかりの中で騒いでいる生徒たちは決して魔力が強いわけじゃない。持っているとは言えないくらい微弱なものだろう。その程度の魔力でも武蔵の姿が見えるということは、ほとんどの生徒が武蔵を目視できるということを意味している。
楓は両腕に魔力を籠めた。このままでは騒ぎは拡大し、直ぐに騒ぎを聞きつけた教師がやってくるだろう。そうなる前に、
(武蔵をこの力で消すしかない)と考えた。
楓は魔術現象を元の状態に戻す魔術を使うことができる。これを使えば武蔵を問答無用で消し去り、成仏させることができるだろう。だが、それでは彼はこの世で残した未練や、死という重さを感じることができぬままに強制的に消し去られるということになるのだ。それが楓を躊躇させたが、生半可な考えや意志ではいずれ、大きな災いを引き起こすだろうし、誰一人救えないのだ。それを経験上知った楓は、心を鬼にして、武蔵を消すことを決断した。
人だかりをかき分けるように、理香の静止の声も聞かぬままに、楓は武蔵に対し猪突猛進の勢いで近づき、両手に魔力を込め、いざ武蔵に触れようとした時、武蔵も楓の姿に気が付き、声を上げた。
「あ、姉御。良かった。お、俺、さっき見たんす。そ、その事件の犯人。前と同じ奴だったんです。そ、それを直ぐに伝えに行こうとしたら色んな人に見つかっちゃって」
それを聞いた楓は武蔵を消し去る決断を一旦止めた。行動を意志が邪魔をするという奇妙な感覚だった。その代り、楓は武蔵の周りに結界を張り、強制的に魔力を抑え込んだ。
そして、消え入るような小さな声で囁く。
「ごめん、ちょっとの間、我慢してね」
結界を張られた武蔵は、苦しそうにその場に倒れ込んだ。
ちょうどその時であった。騒ぎを駆けつけた職員たちが数名やってきたのであった。
「こらぁ、お前達何をしているんだ」
人だかりを作ってる生徒たちが「幽霊が」とか「お化け」とか騒いでいるのを、必死に職員たちが宥め、事態を収拾しようと懸命になっている。
「と、とにかく、何があったかしらんが、一旦この場から出て行きなさい。ほら、早くしろぉ。お化けなんていないから安心しなさい」
職員の懸命の努力が実を結んだのか、事態は収縮し、騒ぎは収まった。
結局最後までその場にいたのは、楓と理香の二人だけだった。楓の横には相変わらず苦しそうに、武蔵が倒れ込んでいる。かなり強引に魔力を封じたから苦しいのである。それを見た楓が囁く。
「ご、ごめん。今、結界解くから、良い、後でまた来るから。今は上で大人しくしていて」
武蔵は結界を解かれると、貪るように息を吸い込み、
「わ、分かりました」と、小さく呟いた。
すると、最後まで残っていた二人を見かねた職員が、
「こらぁ、お前達も一旦教室へ戻りなさい。早くしなきゃダメだぞ」
と、声を上げ誘導する。
「わ、分かりました。今、行きます」
楓はそう言い、その場を後にしようとする。理香は隣で唖然とし、楓の姿を見つめていた。そして、楓が理香の横を通り過ぎようとした時、
「ちょ、ちょっと待ってよ。楓」
「え、な、何?」
「今の何? 何をしたの?」
「だ、だから、何が?」
「あたし、見たわ。人だかりができていた時、中心には男の子がいたわ。少し太った少年。絶対にいたわ。それが、楓が近づいて行ったら、急に消えた。ねぇ、楓。あなた何をしたの?」
「き、気のせいじゃないの?」
「気のせいじゃないわよ。絶対にこの目で見たもの。友達にも言えないような理由なの?」
理香の目はしっかりと楓の方を見つめていた。その黒く引き込まれそうな瞳を見ていると、これ以上隠し通すことができないと悟った。
「わ、分かった。後で説明する。とりあえず今はここを離れましょう。また先生に何か言われるわ」
「分かった。教室へ戻ろう。あそこなら暖かいし」
教室へ戻る楓の足取りは重かった。これでまた、一人関係のない人間を巻き込んでしまうからだ。しかも、それが友達の理香であるということが、より一層楓の心を重くどんよりとさせた。
トボトボと、二人は教室へ向かって歩いて行った。歩く最中は全く話さずに、ただ自分のペースでひたすらに歩いた。やがて、教室が見えてくる。暖かい暖房の空気に包まれた室内に入り、自分達の席へ座った。まだ昼休みということもあり、室内は喧騒に包まれている。談笑している女子生徒たち、カードゲームで遊んでいる男子生徒たち、各々騒いで楽しそうだ。
そんな中、楓と理香の周りの空気だけが重かった。席についてもしばらく楓は何も言えずにただ黙り込んでいた。それを見た理香はとうとう我慢できずに尋ねた。
「ねぇ、楓。お願い、教えてよ。一体、どういうことなの?」
楓は覚悟を決めた。もう隠しきれないと確信したのだ。
「かなり現実からかけ離れた話に聞こえるかもしれないけど信じてくれる?」
「もちろん。当たり前でしょ」
「実はね。あたしにはかなり強い魔力があるの。だから、簡単に幽霊を見ることができる。今までもたくさん見てきたし、学校の噂になっている幽霊も見ることができたの」
「それが例の幽霊ね」
「うん。旧校舎に現れる幽霊は、非常に顕現する力、う~ん。なんて言うのかな。普通、魔力を持っていない人って幽霊を見れないの。でも、幽霊の持っている力が強かったりすると、少しの魔力でも持ち合わせていれば見れるようになるのよ。あの幽霊はたまたまそういう力が強かったの。だから、学校で噂になるくらいに目撃されてしまった。そこで、あたしはそれをなんとかするために、朝早く学校へ行き、その幽霊を特訓していたの」
「特訓?」
「そう。魔力って、持っているだけじゃダメなの。それを自分の意志でコントロールできないと、自在に幽霊を見たり、怪異の原因を突き止めたりすることはできないのよ。例の幽霊も自分の魔力をコントロールできるようになれば、噂も自然になくなるだろうって考えたのよ」
「だから、朝早く学校に来ていたってわけね。でも、特訓していたというのに、どうしてこんな騒ぎになっちゃったのよ」
「それが問題なの。実はね、今校内で騒ぎになっている事件があるでしょ?」
理香は怪訝そうな顔つきになり、
「もしかしてドロボーのやつ?」
「うん。あの事件ってまだ犯人が捕まっていないじゃない。その犯人を例の幽霊が見たっていうのよ」
「犯人を見た?」
「うん。さっきも言ったけど、魔力って自分でコントロールできないと、暴走したり垂れ流しになったりしているのよ。それであの幽霊はドロボーを見たことで魔力をコントロールできずに興奮したってわけ。それで顕現する力がいつもより高くなっちゃって、誰でも見られるくらいに魔力が高まっていたのよ」
「で、その犯人って分かったの?」
楓は目を閉じて、首を左右に振りながら答える。
「ううん。まだ聞いてない。とてもじゃないけどあの騒ぎの中、犯人を聞くことはできなかったわ。とにかく騒ぎを鎮めることに夢中で」
「そうなんだ。じゃあまだ犯人は分かっていないってことね」
「うん……。あ、でも外見のことは少し聞いたのよ」
「外見?」
「そう。確かね男子生徒で、すごく細くて、とてもドロボーなんてしなさそうな生徒だって言ってたけど」
理香は眉間にしわを寄せ、考えを巡らし尋ねる。
「学年は?」
「分かんないわ」
「う~ん。男子で盗みをしなさそうで線の細い生徒なんて、候補がいすぎて分かんないわ。ウチのクラスを見渡しても、そういうのが数人いるじゃない? それが全校生徒ってなると数十人はいるわね。ねぇ、例の幽霊って今何をしてるの?」
「今は、旧校舎で大人しくしてもらってる。多分隠れていると思うから、見つかるってことはないと思うんだけど……」
「なら、放課後、もう一回逢いに行きましょう」
「放課後?」
「ええ。だって犯人を知ってるんでしょう。犯人を知り、そいつをとっちめれば、楓の疑いも晴れるって寸法よ」
そう言う理香の目は、輝きで満ち溢れている。どうやら肯定するしかなさそうだ。そう思い楓も、
「うん。分かった」と頷いた。
「じゃあ、放課後、また旧校舎へ行きましょ。それで幽霊に犯人を聞いて、作戦を練りましょう」
理香がそう言うと、ちょうど昼休みの終了を告げるベルが、校内全体に鳴り響いた――。
*
放課後――。
掃除をやり、ホームルームが終了すると、特に用の無い帰宅部の生徒たちは一斉に帰り支度を始め、部活やその他の作業をする生徒たちは、それぞれの活動場所へ向かって行った。
いつもならさっさと帰る二人であったが、今日は旧校舎に向かい歩いていた。放課後の旧校舎は人で溢れている。それは、楓や理香のように幽霊を見に来た生徒で溢れかえっているからである。
そんな中、理香が、
「どうしよう。結構人が多いわね。これじゃあ、とてもじゃないけど幽霊と長々と話せるような空間じゃないわ」
と、呟いた。それを聞いた楓は、
「どっか、空いてる部屋とかないかな? それか、あたしたちの教室で話すとかはダメかな?」
「そうね、皆部活してるだろうし、教室が一番無難なのかもしれないわ。教室で友達同士が談笑しているのを見て、おかしいと思う人は多分いないものね」
二人が旧校舎の怪談を上っていき、屋上へ向かうための最後の階段を上ろうとした時、武蔵の姿が見えてきた。
武蔵は踊り場の隅に体を丸めて隠れていたが、太っているため、まるで隠れている体になっていない。当然、理香にはこの姿が見えていない。
「ねぇ、楓。あたしには何も見えないけどここに本当に幽霊がいるの?」
「うん」
楓という言葉と、楓の声に武蔵は気が付き、ゆっくりと顔を上げた。そして、ぱっとと明るくなった。
「姉御!」
「ねぇ、武蔵。アンタ自分で昼休みみたいに力を高められる?」
「分かんないっす。でも、やってみます」
無意識的にしろ昼休み、あれだけ力を高めることができたのに、現在の武蔵はいつもどおりの武蔵に戻っていた。つまり、全く力をコントロールすることができなくなっていたのだ。
それを見た楓は、仕方なく自身の力を使い、武蔵を顕現させることにした。
すると、みるみる内に武蔵の姿がはっきりと現れていく。理香は突然現れた武蔵の姿を見て呟いた。
「う、嘘……」
それを見た楓が、
「理香、これが幽霊の正体。ほら、武蔵、自己紹介して」と武蔵を小突いた。
「へ。俺がですか。俺は小杉 武蔵です」
理香は武蔵を見るなり、怪訝そうな顔つきになり、武蔵をじろじろと見つめた。
「小杉君っていうの? ねぇ、私たち、どっかで会ったことない?」
「え、俺ですか? う~ん。ちょっと記憶があまりないんですよ。でも、なんか、いや、気のせいかな。良く分からないです」
「そっか。じゃあ、あたしの見間違いかもしれない。まぁ良いや。あたしは鶴見 理香。宜しくね」
「はい、宜しくお願いします。姉御のお友達ですか?」
姉御というフレーズに理香の目が点になる。そして何かを思い出すように、
「なんかその喋り方どっかで……、でも姉御って……」
「はい。姉御は姉御です」
武蔵はそう言い、楓の方を見た。その視線に理香も気が付き尋ねる。
「姉御って楓のこと?」
「そうっす。俺の命の恩人っす。だから、姉御なんすよね」
楓は困ったように答える。
「ま、まぁ良く分かんないけど、武蔵が勝手にそう呼んでいるのよ。それよりも今知りたいことはそんなことじゃないのよ」
「はい。分かってます。例のドロボーのことですよね」
「名前、分かったの?」
「名前は分からないっす。で、でも犯行は未然に防いだんすよ」
それを聞いた楓は、制服のポケットから一枚の写真を取り出した。それは入学式早々に撮ったクラスの集合写真だった。
「武蔵、この写真の中に犯人はいる?」
写真を受け取った武蔵は、一人一人の顔を丹念に眺めていく。仮に別のクラス、別の学年だったとしても調べるのはそう難しくない。少子化の影響で生徒数が減り、桜神宮中学は、各学年二クラスしかないのだ。
しかし、武蔵はある生徒を指差したのである。
「いたっす。こいつっす」
楓よりも先に、理香が尋ねた。
「ど、どれ、見せて」
武蔵が指を指した人物を見て、二人とも驚いた表情を見せた。武蔵の言ったとおり、そいつは到底ドロボーなんてしなさそうな人物だったからだ。
そんな中、武蔵が答える。
「こいつで間違いないっす。俺は今日、こいつが盗みを働こうとしているところを見つけたんで脅かしてやったんです。そしたらそいつ結構足が速くて煙のようにビューって走り去り、見失っちゃいました。まぁそれが原因でたくさんの生徒に見つかってしまうんですうけど」
今度は楓が尋ねる。
「武蔵、ほ、本当にこの人なの?」
「はい、そうっす。間違いないっすよ。何かマズイんすか?」
「ううん。そういうんじゃないんだけど……」
楓が黙り込むと、理香が静かに告げた。
「国立 大輝。通称、国立大。あたしら一組のクラス委員よ」
校内は寒いということもあって、楓ら三人は一旦教室へ向かうことにした。放課後、自分のクラスで友達同士が喋っていても、おかしな風景には見えないだろう。
幸い、放課後の教室には誰もいなかった。そこで理香は暖房のスイッチを入れ、自分の席に座った。
「でもさ、まさか本当に国立大なんて信じらんないよね。どうしてドロボーなんてしたんだろうね。一番そういうのから遠そうなのに」
それを聞いた楓が答える。
「人は見かけによらないって言うしね。でも、問題はそこじゃない」
「そこじゃないって?」
「問題なのは、犯人を知った理由よ。あたしたちは本来なら見えないはずの犯人を見ているのよ。だって武蔵は幽霊だし、ねぇ、武蔵、国立大が犯行に及ぼうとした時間っていつ?」
武蔵は腕を組み、うっすらと汚れた天井を見ながら答える。
「確か、十一時半くらいだったと思いますけど」
「十一時半ってことは、ちょうど四時間目の真っ最中ね。今日の四時間目の授業は理科で、しかも実験の日だったから、あたしたちは教室を移動していた」
今度は理香が言う。
「でもさ、実験ってなんか緩いじゃん。結構不真面目にやってる生徒とか多いし、男子とかすごい適当にやるじゃん? ほら前の時間体育だから、着替えずに体操着のまま授業受けてるし。国立大なんてクラス委員なのに、率先して体操着で授業受けているもんね。それに、先生もあんまり注意とかするタイプじゃないしね」
それを聞き楓が答える。
「うん。確かにね。だから、誰が勝手に外に出て行ったとしてもあたしたちは気が付かなかった。多分、色んな人が出たり、入ったりを繰り返したと思う」
「それの何が問題になるの?」
「あたしたちは実際に国立大が犯行を及ぼうとした瞬間を見ていない。見たのは武蔵なのよ。でも、武蔵は幽霊。だから、いくらあたしたちが見たって言っても有力な証言にならないでしょう? ほら、お前らその時間に何してたんだってことになりかねないし、第一、自分で見ていないから、細かいところまで証言することができないし、曖昧なものになっちゃうよ」
「でもさ、とりあえず国立大にズバッと言っちゃえば良いんじゃないの?」
「ううん。まだよ。言っても大した証拠にならないから言い逃れるかもしれないし、先生たちだって、まさか優秀な生徒である国立大がそんなことするはずないって言って信じないよ。だから、確実な証拠を押さえて捕まえるしかない」
「確実な証拠?」
「ねぇ、武蔵。国立大はどこにドロボーしに行ったの? この教室?」
問われた武蔵は答える。
「違うっす。この階じゃないっす。二階の教室っすよ」
「二階?」
「はい。多分、この教室の真下くらいの教室だと思うんすけど……」
それを聞いた理香が言う。
「二階って三年生の教室だし、奥は職員室もあるでしょ。国立大、なかなか良い根性してるじゃない。普通、そんなところに盗みに入らないでしょ」
楓も頷く。
「確かに……。あたしたちの真下のクラスってことは三年一組。このクラスの時間割を調べる必要があるわね」
「どうやって調べよう? 今から忍び込んだらあたしたちが怪しまれないかしら?」
「それは大丈夫。問題ないわ」
「え、どうして?」
「武蔵に見てきてもらうのよ。魔力を下げれば、武蔵の姿は一般人には映らなくなる。それを利用するの」
「ああ、なるほど」
「じゃあ、武蔵ちょっと調べてきてくれない?」
楓はそう言った後、武蔵の周りに張っていた結界を解いた。すると、武蔵の姿は理香には見えなくなった。
「分かったっす。ちょっと行ってきます」
武蔵は勢いよく教室を飛び出していった。
時刻は午後四時半を回ろうとしていた。室内にはオレンジ色の赤焼けた夕日が差し込んできている。そんな中、理香が教室のカーテンを閉めながら尋ねる。
「でもさ、あの武蔵って子、本当に楓の舎弟みたいよね」
「舎弟?」
「だってほら、楓のこと姉御なんて呼んでたし。さっきだって、時間割見てこいって言ったら一目散に駆け出したじゃない。完全に兄貴と子分っていうか、でもさ、なんで姉御なんて呼ばれてるの? 確か、命の恩人とか言ってたよね」
「う、うん。まぁね……。多分、感謝されてるだけだと思うの」
「感謝?」
「そう。幽霊の噂が流行った時、あたしは直ぐにそれを調べて、武蔵の存在を知ったの。幽霊の問題って根が深いことが多いから、他の生徒にはいたずらに近寄ってもらいたくなかったの。あたしも直ぐに成仏させてやらなきゃなって思っていたんだけど、あいつ、自分の死んだ理由も知らないの。たぶん、自分が死んでいるってことをどこかでまだ認めていないのよ。あいつ自身が自分のことを幽霊だって認めて未練がなくなるまで、あたしはあいつを放っておくことにしたんだけど、そうすると、次第に魔力が強くなってきたみたいで、目撃情報が多くなったのよ」
「それで、朝特訓していたってわけね」
「そういうこと……」
「幽霊って意外に大変なのね。あたし知らなかった」
「普通は誰も知らずに生きていくのよ。ただ、たまたまあたしたちは知っただけよ……」
教室のドアが開いた。そこには肩で息をしている武蔵の姿があった。
「調べてきたっす!」
それを見た楓が尋ねる。
「ありがとう。それでどうだった?」
武蔵はどこからか拝借してきたプリントの裏に丁寧に時間割を書き写していた。その時間割をながら楓が呟いた。
「今日の四限、三年一組は体育になってる。ってことは、やっぱりこの教室には、この時間誰もいなかったことになる。……そうだ、全部の時間割を集めよう。全校クラスでも六クラスしかないから、そんなに時間はかからない。ねぇ武蔵、お願いできる?」
「大丈夫っす。問題ないっす」
再び武蔵はドタバタと外に飛び出していく。それを見ながら理香が訝しそうに聞く。
「なんで全部のクラスを調べるの?」
「簡単よ。ねぇ、理香がもし犯人だったら、どんな時間に犯行をしようと思う?」
「え、そりゃまぁ、あんまり人がいない時を選ぶでしょ。だって見つかるじゃない」
「うん。絶対にそう。わざわざ人が多いところに盗みにはいかない。捕まる可能性が増えるだけだもの。だから、全クラスの時間割を調べて、そこから、あたしたち移動教室する可能性のある時間帯と、他のクラスで移動教室する可能性のある時間帯を照らし合わせるの。そうすると、自ずと、犯行時間帯が見えてくるってわけ」
「なるほど! そうすれば犯人がいつ犯行を行うか分かって、それを調べた上でとっちめるってわけね」
「まぁそういうことね」
「うわぁ、本当に探偵になったみたい。なんかわくわくするわ。早く武蔵君戻ってこないかなぁ」
しばらくすると、武蔵は戻ってきた。今度もどこからか拝借してきた数枚の紙を持ってきていた。ここで楓は再び武蔵に結界を張った。すると、武蔵の姿がスッと浮かび上がる。
楓と理香はそれを受け取り、犯行時間帯を調べることになったのだが、ここで、意外なことに気が付いたのであった。
「これじゃあダメだわ」
と、楓が言うと理香が、
「え、どういう意味?」
「時間割を見てよ。あたしたち一年一組が教室を移動するかもしれない可能性がある授業は、週に八回ある。その内、他のクラスも教室を移動するかもしない確率があるのは、四回しかないし、確実に移動する可能性があるのは、たった二回しかない」
「二回? どれとどれ?」
「体育。桜中の体育は、人数の関係上、学年毎に行われているから、体育のある火曜日と木曜日は、一年一組も二組も教室を空ける。それ以外の時間でも移動可能性はあるかもだけど、理科や家庭科は毎回移動しないし、美術や音楽の時間にはどこのクラスも重なっていない」
「でも、二回しかないなら逆に絞れて良いんじゃないの?」
「今までの盗難回数は一回や二回じゃないでしょ。ってことは先生たちだってかなり警戒して警備してるわよ。確実に体育のある日は警備を強化しているはず。にもかかわらず未だに犯人が捕まっていないのは、何か秘密があるのかもしれない」
「秘密かぁ。なんなんだろう」
「今まで盗難のあった日を正確に把握できれば手を打てるのかもしれないけど、そんなこと先生に聞けないし」
それを聞いた理香が嬉しそうに顔をほころばせながら、
「盗難があった日だけなら、あたし知っているわよ」
「え? どうして?」
「あたし、日記に書いてるのよ。そんなに詳しくは書いてるわけじゃないんだけど、ドロボーが出た日は、毎回それとなく書いていたから、多分分かると思う」
「ホント。じゃあこれで犯人がどういう法則で犯行に及んでいるのか分かるかもしれないよ。理香、明日ドロボーが出た日のメモを控えて持ってきてくれる?」
「分かった。明日持ってくるね」
「うん、お願い」
二人の話を聞いていた武蔵が口を挟む。
「あのぅ。じゃあ今日の犯行は偶然だったんでしょうか?」
楓は顎に手を置きながら話す。
「分かんない。でも体育の日に盗難を働くのはリスクが高い気がする。旧校舎にある音楽室や美術室、家庭科室は一つずつしかないから、あんまり授業が重ならないのよ。唯一重なる可能性のあるのが、理科で実験する時だけど、実験なんて月に一回程度だからねぇ。それに、もう一つ問題はあるのよ」
「問題っすか?」
「うん。国立大、授業を移動するのは早いけど、遅刻することはなかったと思う。授業中トイレに出たことはあるかもだけど、そんな時間僅かしかないし、とても新校舎と旧校舎を往復できる感じじゃない」
「国立大。なんか魔法使いみたいな奴っすね」
魔法使い――。そのとおりだと楓は感じていた。だが、何か魔術を使ったという痕跡は残っていない。楓も魔力が強いので、魔術が行われれば、高確率で気が付くことができるだろう。同じクラス内で発生する魔術に楓が気が付かないはずがないのである。
「とりあえず、明日理香が犯行のあった日を調べて持って来てくれたら、また捜査を再開しましょう。今のままじゃ情報が少なすぎるわね」
やる気満々の理香が答える。
「分かった。じゃあ、明日もメモ持ってくね。楓、この後どうする? 駅前でも寄って行かない?」
「うん。良いよ」
二人は教室の暖房のスイッチを切り、電気を消すと帰る仕度をした。その姿を武蔵は黙って見つめていた。彼には帰る場所がない。というより、彼は自分がどこの誰なのかすら良く分かっていなかった。武蔵がしょんぼりとしていると、楓が追い打ちをかけるように言う。
「武蔵、明日も放課後ね。朝行けなくなっちゃったのよ」
「わ、わかりました」
楓と理香は武蔵と別れ、校内を後にしていく。
こうして楓は、再び事件に立ち向かうことになった。
*
翌日――。
授業を終えた楓と理香、武蔵の三人は、昨日と同じように誰もいなくなった放課後の教室に集まり捜査をしていた。
理香は律儀にも日記を読み返し、犯人が現れた日を正確にメモしてきていた。そしてノートに書いたメモを見ながら話し始める。
「犯行は今まで十回行われてる。最初が五月の初旬、ゴールデンウィーク明けね。その後も月二回ペースで犯行は行われているわよ。ただ、どの時間帯に犯行が行われたのかは分からないんだけど、曜日は全部バラバラ法則性が全くないわ」
理香はそう言った後、メモを楓の机の上に広げた。そのメモを楓と武蔵が黙ったまま見つめていた。
なるほど確かに、曜日の法則性はない。最初の犯行日は木曜日、次は月曜、そして次は水曜、また木曜、さらには金曜に飛んだり、火曜になったり、滅茶苦茶である。
曜日だけでなく、月日も滅茶苦茶である。一週間に二回連続して起きた月もあれば、一カ月以上何も行われなかった月もある。どう考えても法則性はない。突拍子がなさすぎる。
楓は頭を抱えた。
「う~ん。やっぱり計画的な犯行じゃないのかなぁ。メモの曜日を当て込むと、あたしたちのクラスが移動教室で、他のクラスも移動する日は、昨日の一回しかなくなる」
それを見ていた武蔵が口を挟む。
「姉御、その、俺良く分かんないすけど、犯行は必ずしも授業中に行われたとは限らないっすよね? 多分すけど、授業中に行われたって限定するから可能性がどんどん狭まるんじゃないんですか?」
楓はハッと思い立ち答える。
「確かに、なんでそんなことに気が付かなったんだろう。そうだ、あたし、昨日の犯行が授業中に行われたから、他も授業中に行われたんだろうって勝手に思い込んだんだ。そうだよ。何も犯行は授業中に行われたわけじゃないんだよね」
理香も頷く。
「そうかもしれないね。でもさ、犯行時間が絞れないと、調べようがないようね。あたしたちだって国立大が毎日どこで何しているの知らないし」
「国立大かぁ~。あれ、でもさ、昨日って国立大、普通に授業行っていたよね。途中でいなくなったっけかなぁ」
そこまで言うと、楓の顔色はスッと変わっていった。
「ちょっとゴメン。もう一度見せて」
楓は机の上に広がったメモを手に取り、目の前に持っていく。
「やっぱりだ。おかしい……」
その様子を見ていた理香が、怪訝そうな顔つきになり尋ねる。
「おかしいって何が?」
「国立大は犯人じゃない……」
武蔵は慌てふためきながら答える。
「そ、そんな、俺ちゃんとこの目でちゃんと見たんす。見間違えてなんていないっす。本当っすよ。信じてください」
「あ、ゴメン武蔵。そう言う意味じゃなくて」
怪訝な表情を浮かべ、眉間にぐっとしわを寄せた理香が尋ねる。
「あたしも良く分かんないよ。楓、ちゃんと説明してよ」
「うん。ゴメン。昨日とその前の犯行は、武蔵が見たとおり国立大かもしれない。でも十月に行われた犯行は国立大じゃない」
「どうして?」
「ほら見て。十月二十日に犯行は行われている。だけどこの日は……」
「十月二十日? 何の日だっけ?」
「秋季大会。運動部の大会がある日よ。この日から三日間、学校は自習になるでしょ? 国立大は運動部に入っているから、この日学校にいなかったはず。だから、犯行をできるはずがないのよ」
「つまり、犯人は複数いるってこと?」
「うん。恐らくだけど……。国立大以外の犯人が分からないから、確実とは言えないんだけど……」
「なんだかこの事件、意外に複雑ね。道理でなかなか犯人が捕まらないわけだ」
犯人は単独ではなく複数いるかもしれない。と、錯覚させるような出来事が、十二月の半ばに起きた。それは学校が冬休みに入る一週間前のことであった――。
*
事件は吐く息も白く変わる寒い日に起きた。被害に遭った生徒は二年生の女子学生であり、財布を奪われた。中には五千円程度しか入っていなかったが、銀行のキャッシュカードや、保険証などの重要なカードが入っていた。彼女は校内で盗難被害相次いでいたので、肌身離さず、財布は持ち歩いていたのだが、上着を脱ぎ、トイレに行った僅かな時間に盗難に遭ったのであった。
この事件は大きな波紋を呼んだ。盗まれた金額はさほど大きくなかったが、キャッシュカード、保険証なども一緒に奪われてしまったため、被害総額が史上最高額になったためだ。それ故に、緊急の全校集会が行われ、その後ホームルームでも、A4のコピー用紙が一人一人に配られ、知っている情報を書くようにと担任に告げられた。もちろん、こんなことで犯人が名乗り出ることはなかった。
楓はこの紙に国立大が事件に関わっているかもしれないということを書かなかった。証拠は武蔵の証言しかない。さらに、このことを書くと後々面倒なことになるだろうと考えたためだ。
しかし、今回の事件の犯人はどう考えても国立大ではない。なぜなら、彼は盗まれたという時間帯である六限開始前の休み時間、普通に教室で佇んでいたためである。第一、国立大と被害に遭った女子生徒はなんの面識もない。だから、彼女が今日いくら持っているという情報を、国立大は知りえるはずがないのだ。
今回の犯行により、犯人が国立大以外にもいるということが証明された。楓にはもうお手上げだった。犯人たちが集団で犯行を行っているのか、あるいは、単独犯が複数いるのか分からなかったからだ。
放課後――。
楓と理香は教室で事件について話していた。
「国立大じゃなかったんだね」
と、理香が言うと、楓は小さく溜息をつきながら、
「うん、そうなんだよ。もともと複数の可能性は考えていたけど、これじゃ何も分からないわね」と答えた。
「どうしたら良いんだろう……」
「今日ホームルームの時に知っている情報を書きなさいって言う紙が配られたじゃない。それで何か変わっていくと良いんだけど」
「楓、あの紙に何て書いた? やっぱ国立大のことを書いたの?」
「ううん。あたしは何も書いてない。元々、国立大を見たって言うのも武蔵の証言だし。書いても誰も信じてくれないだろうし、万が一、筆跡から自分が書いたってことがバレたら後々面倒だと思って。理香は違うの?」
楓の返答に理香は青くなっていた。
「あたし、普通に国立大が怪しいって書いちゃったよぉ。どうしよぉ。後で絶対呼び出されるよね?」
「だ、大丈夫だよ。一応、匿名のアンケートだし。もしかしたら他の人も国立大って書いているかもしれないし」
楓はそう答えた後、再び溜息をついた。あれだけ余計な事件に首を突っ込まないと決めていたのに、気が付くと首を突っ込み、後に引けない状況になっているのである。
楓の溜息を見た理香が尋ねる。
「な、なんで楓が溜息つくのよ。溜息つきたいのはこっちの方よ。はぁ、大丈夫かなぁ?」
「ご、ごめん。いや何か、この事件は全然解決しないなって思って」
「うん、そうだよね。全然犯人捕まらないよね。頭良いんだろうな。でも、学校は警察とか呼ばないのかな? そうしたらきちんと捜査してくれそうだけど」
「事件が大きくなって世間体が悪くなるから呼ばないんじゃない? ほら、PTAとかそういうのにうるさそうだし」
「じゃあ、探偵とか。ほら、楓のバイト先の探偵さんを呼ぶとかダメなのかな? こういうのはプロがやった方が良いんじゃない?」
「矢向……さんかぁ……」
と、楓がぼんやりと呟くと、それを聞いた理香が問う。
「やこうさん?」
「え、あ、うん。あたしの知っている探偵さんの名前。矢向さんっていうの」
「学校に呼ぶわけにはいかないかもしれないけどさ、一度相談してみようよ。あたし、一度探偵事務所に行ってみたかったんだぁ」
楓は躊躇した。ここしばらくずっと矢向の元へ行っていないからだ。
「う、うん。でも急には忙しいだろうし、迷惑だから、あたしが一度聞いてみるよ。それでOKだったらね。多分、忙しくて大変だから無理だと思うけど」
「でも、一応聞いてみてよ、ねぇ、楓。お願い」
理香は両の掌を重ね合せ、楓に必死に懇願した。それを見た楓は根負けし、
「わ、分かった。とりあえず、今日家に帰ったら一度聞いてみるから」
「ホント! やったぁ。じゃあお願いね」
二人は会話を終えると、片付けをし、教室を出て一緒に下校していった。途中で理香と別れた後、楓はしばらくその場に立ちすくみ、ハッと意を決したように家の方向とは逆の方向へ向かって歩き始めた。
行先はもちろん、矢向の元へ行くためである。理香には矢向の事務所は忙しいなどと答えたが、彼の事務所が忙しくなるなどあまりないということを楓は経験上知っていた。ただ、そう言うと理香が付いてくると思ったので、あえて嘘を付いたのである。
楓は理香に対し、自分には魔力があり、霊が見えやすいということを告げてあるが、詳しいことは何も言っていない。言うと面倒なことになると思ったためだ。理香は好奇心が強いので必ず自分もやりたいと言い出すだろう。そんな生半可な気持ちで魔術に首を突っ込み、傷ついてほしくないと思っていた。
駅からバスに乗り、矢向の元へ向かった。車内はそれほど混雑をしておらず座ることができた。しばらくの間、矢向の元へは行っていなかったから、最寄りのバス停で降りた時、なんだか妙な懐かしさを感じた。
冷たい北風を切り、通い慣れた道をひたすらに歩いて行くと、視線の先に矢向の事務所が現れる。
自宅兼事務所。何も変わっていない事務所がそこにある。そして、自宅前の駐車場には黒のビートルが停まっている。車がここにあるということは多分、矢向は家にいるだろうと考えた楓は、久しぶりに事務所のドアのベルを鳴らした。
「ピンポーン」という乾いた音が室内にこだましていく。音が消えるとしばらく無音が続いたが、やがてどたどたと入口に向かい歩いてくる音が聞こえた。
その音が大きくなるにつれて、楓の心臓の鼓動も大きくなっていく。そして、
「ガラ」という音と共に、中から矢向が現れた。全く変わっていない。見慣れた矢向の姿がそこにあった。
矢向も直ぐに楓の姿に気が付いた。少し驚いているようだった。目が大きく見開かれ、額にしわが寄った。
「お嬢ちゃんじゃないか。いやぁ久しぶりじゃなぁ。元気にしておったかい?」
楓は笑顔を作り、
「ええ。矢向さんも元気そうね。良かったわ」と答えた。
「一体どうしたんじゃい?」
「うん。まず、最近しばらく来れなくてごめんなさい、自分でちょっと考えることがあって……、でも、その……、なんて言うのかな……」
矢向は楓の姿を見て、直ぐに何かあるなと感じ、
「よろしい。とにかく立ち話もあれじゃから、中に入りなさい。寒いだろうに」と室内に入るように催促した。
矢向がそう言うと、楓は室内に入っていた。事務所にはいなかったのか、暖房が入っておらずひんやりとしていた。矢向は直ぐにエアコンと部屋の中心に置いてある石油ストーブのスイッチを付けた。すると、直ぐに温かい風が室内を柔らかく覆っていった。
「まぁ座りなさい。今、暖かい飲み物を持ってこよう」
「良いわよ。そんなお構いなく」
「そうかい。でもまぁ、待っていなさい。今ちょうど淹れたてコーヒーが向こうの部屋に置いてあるんじゃよ。直ぐに戻ってくるからくつろいでなさい」
矢向はそう言うと、事務所を出て行き、自宅と繋がっている廊下に出て行った。楓は事務所内にあるソファーに座り、見慣れた室内を見渡した。楓が手伝いを始めた時、室内は書類やファイルなどでごった返していた。それキチンと整理したのが楓だった。そのため、室内は変わらず綺麗さを保っていた。棚には事件別にファイリングされた書類が並んでいるし、机の上も綺麗に整理整頓されている。
(あれから、使ってないのかな)
と、楓が考え込んでいると、コーヒーを持った矢向が再び現れた。コーヒーの良い香りが室内に充満していく。
矢向は楓の座るソファーの前に設置してあるローテーブルにコーヒーを二つ置き、自身は楓の対面に座った。そして、一息ついた後尋ねる。
「それで、今日は一体どういったご用件かな?」
楓はコーヒーを一口すすり、
「うん。実は、今通っている学校である事件が発生しているの」と答えた。
「ほう。ある事件とはなんだね?」
「盗難なの。しかも犯人は一人じゃないようなのよ」
「うむ。一人じゃない。つまり、複数いるということかな?」
「うん。でもこの複数いる犯人が、それぞれ単独で犯行を行っているのか、集団でグループを作っているのかは分からないの」
矢向は髭を擦りながら尋ねる。
「その言い草じゃと犯人の目星がついているようじゃが、詳しく教えてくれんかね?」
「ええ、実は……」
楓は幽霊である武蔵のことや、彼が目撃した国立大についてを話した。矢向はその話を興味深そうに黙って耳を傾けていた。
楓が話し終わると矢向が答える。
「なるほど。幽霊がのぅ。少しばかり厄介じゃの」
「厄介?」
「うむ。幽霊が見た犯人は証言としては成立せんじゃろう。かといって、お嬢ちゃんが幽霊を皆が見えるように顕現させるもの問題じゃのぅ。一般人に魔術的な話をして普通に聞く人はまずいないからじゃ。奇異の目で見られるだけで、良いことは何もないじゃろう」
楓は朝早く、武蔵の特訓に付き合い、危うく自分が濡れ衣を着せられそうになったことを思い出した。
「そ、そんな……。そんなのって酷いわよ。あたし、一体どうしたら良いの?」
「良い方法を教えて進ぜよう」
「良い方法?」
「そうじゃ。お嬢ちゃん、この事件からは手を引きなさい。否、今後一切魔術や事件に首を突っ込まない。それが最も関わりを断つことに最適なんじゃよ」
矢向の意外な発言に、楓はただ黙り込んだ。意外すぎて直ぐに答えが浮かばなかったからだ。その様子を見た矢向が再び話し始める。
「良いかい。お嬢ちゃん。わしはお嬢ちゃんの通っている中学校については良く知らない。じゃが、お嬢ちゃんの話を聞いて、犯人が複数おって、しかも学生が犯人かもしれないということは分かった。第一、そのようなこそこそとした窃盗騒ぎはどこの環境でも少なからずあるものじゃよ。幸い、今回は被害金額もそんなに高くはない。放っておいても、やがて犯人は捕まるだろうし、中学の教員もただ黙って見ているわけではないじゃろう。ならば、お嬢ちゃんがわざわざ出向いて犯人捜しをする必要はどこにもないということじゃよ」
「で、でも……。あたしは……」
「お嬢ちゃん。一つ聞こう」
「何?」
矢向は一息つき話し始める。
「夏、お嬢ちゃんとわしは熱海に旅行へ行ったじゃろう。偶然、商店街の福引が当たり、わしも同行することになったんじゃ。そして、そこである事件に遭遇し、我々はその謎を解き明かすことに成功したが、犯人を助けることはできなかった。後味の悪い事件じゃっただろう。お嬢ちゃん、君はなぜあの事件の後、ここへ一度も足を運ばなかったんじゃ?」
楓は再び黙り込んだ。その理由は自分が一番よく知っている。彼女がここへ足を運ばなくなった大きな理由は、事件に中途半端に関わると、ろくなことにならないということだった。
当初、彼女は同級生の理香と同じようにやる気に満ち溢れていた。自分の家の怪奇現象を解決し、己の魔力を自在に扱えるように訓練し、ある程度の魔術現象ならば自分一人で解決できるようになっていたからだ。
しかし、彼女の自信が大きく揺らぐ事件が起きる。それが、熱海旅行の際に起きた殺人事件である。
あの事件の犯人は楓と同い年の誠という少年で、複雑な家庭環境を持ち、それに嘆いた結果、顕現した悪魔によって引き起こされた事件であった。
その悪魔というものが、熱海事件の前、渋谷の松濤で起きた鹿嶋田教授の事件に関わっていた悪魔と同じであった。楓の強い魔力が悪魔を引き寄せることに一役買っていたのであろう。
松濤の時は残念ながら、楓自身が未熟であったため、悪魔を取り逃がしてしまったのであるが、熱海事件に際にはとうとう悪魔を追い詰め消滅させることに成功したのである。
だが、悪魔は消滅の間際、楓に対し、
「俺と、お前のどちらが悪魔なのか?」という問いを放った。
悪魔は悪魔だ。彼は人間に大きな代償の代わりに魔力を与え、手に入れた魂や命を弄び、生き長らえるのである。そして、悪魔を呼んだ人間たちは皆、何かに追い詰められギリギリの状態に立っているのであった。
悪魔は代償を支払えばその状態から救ってくれるのだ。だが、その代償は計り知れない。人を死に至らしめたり、死後、永遠に魂を取られたりすることもあるのだ。だが、境遇を変えるという点では、確かに悪魔は人を救っているのかもしれない。
それを、楓はいたずらに摘み取った。自らが怪奇現象に苦しみ、どんよりとした小学校生活を送ってきたからである。彼女にとって怪奇現象は悪そのもので、とにかく解決しなければならない問題であると認識していた。
しかし、実はそんなことはなかった。怪奇現象の引き金となっている事柄は、とても中学生である楓がいたずらに突っ込んでただで済む様なものではない。楓は身をもってそれを体感したが、彼女それでも事件を解決させたいという儚い想いも持っていたのだ。
怪奇現象を解決できる人間は少ない。なぜなら魔力を持ち、それを自在に魔術を使えるような人間でなければ怪異に太刀打ちできないからである。
楓は幸か不幸か大きな魔力を持っている。つまり、怪奇現象を解決することができる力が備わっているのである。ならば、その魔力を使い、例え後味の悪い事件だとしても解決の道を探し、立ち向かって行くことが責務ではないのだろうか? そして同時に、如何に魔力が高かろうが、事件を解決する力が無いのならば、悪戯に首を突っ込むの止めた方が良いのではないか? という考えの狭間で楓はぐらぐらと揺れていた。
それを矢向自身は見抜いていた。楓がこの数カ月一度もこの事務所に足を運ばなかったのはそういった背景があるのである。それを知りながら、矢向はあえて楓に尋ねたのだ。仮に事件に取り組むのが億劫になり、苦しいのであれば、ここで手を引いた方が無難であると判断したのである。
「お嬢ちゃん。どうなんじゃい?」
と矢向は急かすように尋ねた。すると楓は迷いを見せた。
「や、矢向さん、あ、あたし分からない。分からないの。一体どうしたら良いの? あたしは……、あたしは」
「お嬢ちゃん。わしがなぜ君を助けようとしたのか分かるかね?」
「助ける?」
「そうじゃ。わしと君は今年の四月に出逢ったじゃろう。あそこで出逢ったのは偶然じゃないんじゃ。君の魔力にわしが引き寄せられただけなんじゃ。だから、それを無視し、お嬢ちゃんに逢わないという選択肢も取れたし、逢っても、そのまま見過ごすという選択肢も取れた。でもわしはお嬢ちゃんの顔を見て、救ってやろうと思ったんじゃ」
「どうしてそう思ったの?」
「それはね、今のような顔をしておったからじゃよ。とても辛そうな顔をしておった。そんな顔をしてほしくなかったら救いたくなったんじゃよ。今も同じことが言える」
矢向はそう言った後、一息ついて再び話し始めた。
「お嬢ちゃん。良く聞きなさい。現在十二月の中旬。つまり、あと数週間で今年は終わるじゃろう。だから、今年中に自分で考え答えを出しなさい。わしはお嬢ちゃんが出した答えに決して異議を唱えたりはしない。仮にお嬢ちゃんがこのような怪奇現象などから足を洗いたいのであるのならば、今後一切、この事務所へ来るのは止めなさい。一度宿った魔力は捨てることは難しいが、忘れることは可能じゃろう。すべてを忘れ、普通の生活に戻りなさい。そうすれば、笑顔を取り戻すことができるじゃろう。
反対に色んなことを経験し、それでもまだ魔術に関わりたいのであるのならば、年明けにここに来なさい。わしは喜んで事件解決に協力しよう。それで良いかね?」
「自分で……、考えて答えを」と楓は不安そうに呟いた。
「そうじゃ、良く考えなさい。お嬢ちゃんはまだ若い。これから明るい未来がたくさん待っているじゃろう。じゃが、魔術に進めば必ずしも明るい未来が開けるわけじゃない。それはお嬢ちゃんが身を持って経験したはずじゃから分かると思うがね。ちょうど良い機会じゃ。良く考えると良いだろう」
「う、うん……」
その後、楓はほとんど話さなくなり、時間だけが過ぎていった。夕方六時を回る頃、楓は矢向の事務所を出てバスに乗り家路に着いた。
寒い中家に着くと、室内は冷たい外気が嘘のように暖かい空気で包まれていた。父はまだ帰って来ていなかったが、リビングでは何やら話し声が聞こえるではないか。
入ってみると、母が料理の仕上げを行い、兄がそれを手伝っていた。リビングには良い香りが漂い、楓の食欲を誘った。
今では当たり前になったこの光景も一年前には考えられないことだった。あの頃、この家は日夜怪奇現象に見舞われて散々な目に遭っていたのである。家族そろって食事をとるなんてことはほとんど無かっただろう。
そんな環境を変えたのが、楓の魔力と矢向の助けであった。そう、家族の皆は知らないが、この環境を手に入れたのは、自分自身なのだ。
人は、とてもではないが世界中の人々救うことなんてできやしない。環境が変われば人も変わるし、暮らしのリズムやルールだって違うだろう。人一人が精々守ることのできる範囲なんていうのは高が知れている。
ならば、
(その中の人を守っていければ良いのかな?)
楓はこの光景を見て、そんな風に考え始めた。何も、自分が好き好んで人様の家に土足で踏み込んでいく必要なんてどこにもない。
(そうよ。そうよね。だって、学校の事件だってあたしが悪いわけじゃないんだし、あたしが何かしなくたって、事件は起きるだろうし、犯人は捕まるかもしれないんだ。あたしはせめて自分の目に留まる人が守れればそれで良いんだよ……、きっと……)
そう考え、楓は夕食の支度をしている母と兄の元へ駆けていった。
「ねぇ。あたしもなんか手伝おうか?」
*
翌日――。
楓はある決意をして学校へ向かっていた。その決意とは、当然のことながら盗難の事件から手を引くということである。手を引けば、もう思い悩むこともないのだ。少しだけ寂しいような気もしていたが、わざわざ面倒事に首を突っ込まないでも良いだろうと心に決めたのだった。
校門をくぐり学校へ入る。玄関で靴を脱ぎ内履きに履き替え、登校してくる生徒たちをかき分けて、教室へ向かって行く。
教室は暖房の暖かい空気に包まれており、既に半数近い生徒たちが登校してきていた。皆、友達同士でお喋りをしながら、授業が始まるまでの僅かな時間を楽しんでいた。楓が自分の席に座り、鞄の中から授業の道具を取り出し、机の中にしまっていくと、教室のドアがガラッと開き、外から理香が入ってくるのが見えた。理香は、楓の姿を確認するなり、一目散に楓の元へ駆けよってきて、
「楓、おはよ。それで、どうだった?」とやる気に満ちた声で尋ねた。
「おはよう。どうだったって何が?」
「例の探偵さんのことよ。名前何て言ったかしら、ええと、エトウさんとかそんな感じの」
「矢向さんのこと?」
「そうそう。その矢向さん。頼んでくれたんでしょ?」
「頼むって、この学校の盗難事件のこと?」
「もち、そうよ。だってもう半年以上捕まっていないのよ。こりゃあ怪しいわよ。まぁ一人は分かっているけど、証拠がないもんねぇ」
「あ、ああ……、ええと、そのことなんだけど……」
「なになに? 良い返事でも聞けたの? それか話を聞いただけで犯人が分かっちゃったとか?」
「ち、違うのよ。実はね、そんな盗難事件にわざわざ首を突っ込むなって言われたのよ。というより、あたしも良く考えたの。ねぇ理香も良く考えてみてよ。来週はテスト週間でしょ? こんな事件のことを考えている暇はないし。中途半端に事件に首を突っ込むのは良くないと思う。あたしたちだって疑われるかもしれないし、テストの為の勉強だってできないかもしれないじゃない。だから、今回は手を引こうよ」
理香の顔がしょんぼりとした顔つきに変わり、
「どうしちゃったのよ。あんなに張り切って調べてたじゃない」
「そうだけどさ、あたしたちだってそれなり調べたじゃない。だけど、犯人が複数にいて、それぞれを調査していくなんて、あまりに時間が足りないわよ。大丈夫よ。後は先生たちがなんとかしてくれる」
周りをキョロキョロと見渡した後、少し声のトーンを落とし、理香が反論する。
「じゃ、じゃあさ、武蔵君はどうなるの? だって、ずっと幽霊として校内をさまよっている訳にはいかないんじゃないの。だってさ、なんていうの、幽霊って天国とか地獄へ行って生まれ変わったり、罪を償ったりするもんじゃないの? ずっとあたしたちと同じようにこの空間に居るけれど、一部の人間にしか気が付かれずに、こんな寂しい学校へ居続けるのは可哀想でしょ……」
「む、武蔵のことはなんとかするわ。成仏させてやっても良いけど、あいつはまだこの世に未練があるみたいだからね。それをしっかりと見極めた後でも遅くないと思うのよ」
「ほ、本当に辞めちゃうの……」
「うん。ゴメン……」
理香は唇とギュッと噛みしめながら、消え入るような小さな声で囁いた。
「ズルいよ。そんな力を持っているのに……」
声が小さく聞き取れなかった楓は、あえて聞こえたふりをした、多分。分かったとか、ゴメンねとか答えておけば大丈夫だと思ったためだ。
「うん。ゴメンね」
楓がそう言うと、その後理香は何も言わずに、授業の支度をし始めた。
時刻が八時三十分を回ろうとしていた時、担任の長沼が教室内に入ってきた。朝のホームルームの時間である。ざわついていた室内が静かになると日直が号令をかけ、全員で挨拶を行う。それに長沼が応え、出席を取り始める。いつもとなんら変わらない日常の風景が広がってゆく。変わっている点を挙げるのだとすれば、楓と理香の心境であった。
その後、テストを終え、終業式を迎えるまで事件はまるで起きなかった。平和な学園生活が戻って来ていた。特にクリスマスや正月といったイベントを間近に控え、明日から冬休みということもあり、校内は弛緩した空気に包まれていた。
終業式を終え、年内最後のホームルームを終えた後、楓はトイレに行った理香のことを待つために教室の窓から、外の風景を眺めていた。
ちらほらと下校していく生徒の姿が見える。皆、一応に安堵したように歩いてき、足取りも非常に軽い。
例に洩れず楓にも同じような空気が流れていた。そして、この一年を振り返り、一つ一つの想い出を、目を閉じながら感じていた。
思えばたくさんのことを経験したのである。一年前は不幸のどん底にいたから、こんなほっこりとした空気に包まれることはなかったし、いつも暗く寂しい生活を送っていたのである。それが、中学に入学し、矢向と出逢ったことで変わり始めたのだ。元から魔力の高かった楓は矢向と出逢ったことで、負の連鎖を断ち切ることができた。
(もし、あたしがあの時矢向さんと出会わなかったら……、あたしはどうなっていたんだろう)
多分、矢向と出逢わなければ、楓は不幸のどん底へはいつくばっていたのではないかと思った。否、もっと酷い生活をしていたのかもしれない。高い魔力はいわばもろ刃の剣であり、幸と不幸が表裏一体となっているのだ。
楓は高い力を宿っていたが、その従来の使い方を知らなければ、ただ単に悪霊を引き寄せるだけの強大な器なだけでなんの良いこともないだろう。しかし、矢向によって正しく魔術を使うことができるようになったことで初めて、高い魔力が武器として使えるようになったのである。
もしかしたら、楓のような境遇に苦しむ人間が他にいるのかもしれない。熱海の事件のように、後天的に魔力を得る場合もあるが、魔力を先天的に宿す人間は少ながらずいるのだ。彼らすべてが楓のような一途を辿ることができるとは、到底思えない。
矢向のような頭脳明晰であり、且つカルト的な分野にも臆することなく突き進んでいく人間は多くないだろう。ならば、そんな人と出逢うことのできる可能性は決して高くないはずだ。
しかし、突如、そんな空気を吹き飛ばし、空気を一変する事件が起きた。今までに感じたこともない。非常に高い魔力を感じ取ったのである
魔術の規模は大きく、遥か上の方から降り注ぐように、校内全体に広がる年末の弛緩した空気をすっ飛ばすように覆い隠した。
そのため、なんの魔力も持たない生徒や職員であっても、何やら異様な気配に包まれていくことを感じ始めた。漆黒の闇が広がる真夜中の樹海にただ一人、なんの道具も持たずに放り込まれたような感じだ。
クラス内も突如、別の意味で慌ただしい空気に包まれていく。楓はすぐさま廊下に飛び出した。すると、直ぐに異様な空気は消え去ったのである。楓が一人廊下で立ちすくんでいると、後ろから声をかけられた。
「姉御!」
「武蔵、今のってアンタなの?」
「今のってあの変な空気のことですよね? 違います。俺はってきり姉御のことだとばかり思ってこっちへ飛んできたんすよ」
「あ、あたしじゃないわ。こんな大きな魔力、感じたことも無いもの……」
武蔵は青くなりながら、
「そ、それって、つまり」
「うん。多分、いや絶対、この学校にはあたしとアンタ以外にも魔力を持った人間がいることになる。で、でも、そんなはずが……」
「え、ええと、なんでしたっけ、例の国立大さんですかね?」
「いや、国立大はもう帰ったわよ。それにあたし、アンタがさ、国立大が怪しいって言っていた時に、ちょっと調べてみたけど、あいつにはそんな力がなかった」
「そ、そうっすよね。あいつが魔術とか使えるんならもっと前に、魔力を感知できたはずですもんね。あ、そうだ、理香の姉御はいないんすか?」
「うん。ちょっとトイレ行ってるのよ。理香は魔力がないけど、この気配にはなんとなく気が付いたはず、それだけ今回の魔力は強大だった」
しばらく二人が立ちすくんでいると、楓は力の正体を探ろうとキョロキョロ周りを見渡した。廊下には誰一人いなかった。さらに、視界の先には誰もいなくなった教室や、水飲み場、そして、階段が見えた。
すると、階段のところから、階段を下りてくる理香の姿が見えた。
理香は廊下に立ち尽くしている楓の姿に気が付いたのか、一目散に駆け寄って来る。
「あ、ああ、楓いたいた。今のなに、なんかすごい変な感じだったけど……」
「やっぱり理香にも感じたのね。誰かがすごい大きな力を使ったのよ」
理香は息を切らせながら尋ねる。
「あの、幽霊の武蔵君じゃないの?」
それを見た楓が答える。
「り、理香、今、武蔵ここにいるんだけど」
「え、そうなの……」
(そうか、理香は今武蔵がこの場所にいることを知らないんだ。そっか、前はあたしが魔術で武蔵を呼び出したんだもんね)
楓はサッと呪文を唱え、それを理香の目の部分に向かい当てた。こうすることで理香の目にも武蔵が映り込むことになる。
「これで見えるようになった?」
「あ、うん。あれ、なんでこの間は何もしなくても見れたのに」
それを聞いた武蔵が答える。
「この間の姉御が俺の周りに結界を張って力をコントロールしてくれたんすよ。前は周りに誰もいなかったからそれで良かったんすけど、今は校内に人がたくさん残っているから理香の姉御にだけ見えるようにしてくれたんすよ」
理香は羨ましそうに、
「へぇ~。そういうことができるんだねぇ。なんか凄いなぁ」
武蔵と理香の会話を遮るように蒼白の顔をした楓が答える。
「じゃ、じゃあ、さっきの魔力は一体誰が……」
武蔵が言う。
「確かに、俺と姉御じゃないってことは、他にもこの学校に魔力を持った人間がいるってことっすよね?」
「いいえ。そんなはずは、そんなはずはないのよ」
今度は理香が問う。
「どうして楓にはそんなはずないって言い切れるのよ?」
「二人にはまだ言っていないんだけど、あたしって高い魔力あって、それが原因で霊や怪異を引き寄せていたのよ。だから今まで惨めな思いをしてきたし、不幸なこともたくさん経験してきたの。そのことがきっかけになってあたしは魔術を覚え、自分で自分の魔力をコントロールすることができるようになったの」
「それと、今のってどう関係があるの?」
「うん。つまり、あたしは霊を引き寄せちゃうのよ。だから、魔力をコントロールできるようになった時、この学校内に引き寄せてしまった霊や怪異を一人一人、成仏や消滅させていったのよ。その時、最後に残ったのが……」
「俺だった。ってことっすね」
と武蔵が答え、楓がコクリと頷いた。
「そう。最後が武蔵だったのよ。今でも霊を引き寄せることはあるんだけど、直ぐに成仏させているから、今現在この学校に残っている幽霊は武蔵一人だけなのよ」
再び理香が答える。
「でもさ、魔力が使えるのが幽霊だけじゃないんでしょ? 楓だって強い魔力を持っているんだから、この学校に楓以外にも魔力を持った人間がいてもおかしくないんじゃないの?」
「確かにそうかもしれないんだけど、魔力って感じることはできても、使える人間ってそんなに多くはないのよ。少なくとも、あたしが知っている範囲の人間の中には魔力を持った人間はいないはず……」
「どうして?」
「あたしには霊を引き寄せる魔力と、もう一つ不思議な魔術を使えるの」
「もう一つ?」
「うん。あたしは高い魔力故に、自分で触れた魔術や霊的な現象を元の状態に戻す。つまり、消し去ったり成仏させたりする魔術を使うことができるの。今はこの魔術をコントロールできるんだけど、入学したての時はコントロールできなかった。だから、その時にあたしが触れたクラスメイトや、先生なんかは魔力が無いはずなのよ」
今度は武蔵が口を挟んだ。
「要するに、魔力をコントロールできなかった時に触れた人間は、姉御の魔術によって魔力がリセットされているってわけですね?」
「そう。あたしがその魔術を使うと、問答無用で魔術や怪異を消し去ることができるのよ」
「じゃあ、姉御がこの学校の生徒一人一人に触れていけば、いつか犯人にたどり着くことができるんじゃないんですか?」
「年内は無理よ。だって、今日で二学期は終わりだし、この学校の生徒全員の住所を調べて回るなんて絶対に無理よ」
「確かに物理的にも難しいかもしれないっすね。でも今ならまだ間に合うんじゃないんすかね。まだ学校内にいるかもしれないっすよ」
「無理よ。なんて言うのかな、分が悪いわ」
「分が悪いっすかねぇ」
「うん。あたしたちは相手のことを全く知らないけど、相手はあたしたちのことを知っている可能性が高い。多分だけど、なんか意味があってあんなことをしたのよ」
「言われてみればそうっすね。一体なんのために魔力を放出したんすかねぇ? なんの意味もなく使うなんてやっぱ変っすもんね」
「分からない。警告なのかな」
「警告っすか?」
「うん。つまり、あたしたちの知らない魔力を持った人間があたしたちに対し、なんらかの警告をしているとか」
「あ、そうだ、姉御。例のドロボーじゃないんすかね? 魔力を使って盗みを働いていたとか」
「う~ん、魔力の大きさにもよるけど、相手が魔力を使えばあたしはそれを感知できるのよ。多分、慣れればアンタにもできると思うんだけど。だから、魔力を使って盗みを働いたのだとすれば、あたしはそれを感じ取れると思うのよね」
「なるほど。となると良く分かんないっすね。謎ばかりだ。何かしらの魔術を使ったんすかね?」
「分からない、でもここまで強大な魔力を持っている人間が意味もなく魔術を使うとは思えない。なんかあると思うんだけど」
二人の話を聞いて、佇んでいた理香が、
「ねぇ、楓。やっぱり調べようよ。あたしたちでさ。楓はせっかく誰も持っていないような力を持っているのに、もったいないよ」
それを聞いた武蔵が答える。
「え、姉御、調べるの止めちゃうんすか? どうしてっすか。この謎を解けるのは姉御しかいないかもしれないんすよ」
楓は頭を抱え話し始める。
「理香……、武蔵……、あたしはね不用意に魔術や怪異に近づくのを止めたいのよ。こういう不思議な現象って、魔力の有無にかかわらず誰にでも興味があることだと思うんだけど、中途半端に近づくと、良いことなんて何一つありはしない。あたしはそういう経験をしてきたの。だからあたしは、目に留まる身近な人だけ守れればそれでいいの。あとは知らない」
それを聞いた理香が鋭く楓を睨み付ける。
「本気で言ってるの? 楓?」
「うん。ゴメンね。理香はまだ分からないかもだけど、絶対不用意に近づかない方が良い。これだけは言えるの」
「なんで、なんでよ。魔力を使えるのは楓だけかもしれないのに、他の人が魔術にやられて苦しむかもしれないのよ」
「大丈夫、あえて近づかなければ大丈夫よ」
「そ、そんな……」
「ゴメン、あたしはもう誰も傷つけたくないし、傷つくのを見たくないの」
理香が力なくうな垂れると、武蔵が話に入ってくる。
「あ、姉御。じ、じゃあ俺はどうなるんすか? 俺はこの先どうなるんすか? 皆、年末でいなくなった寂しい校舎で俺は一人でいなくちゃならないんすよ。卑怯っすよ。ズルいっすよ」
「ゴメン武蔵……」
「姉御ぉ……。一体どうしちゃったんですかぁ」
楓は黙りこくった。校内は部活動を行っている生徒以外ほとんど下校していったのだ、ひっそりと静まり返っている。冷たい北風が廊下をぴゅーと駆け抜けていくと、
「ねぇ、ちょっと寒いわね。下の購買のトコの自販機で何か温かいの買わない?」
と、理香が重苦しくなった空気をなだめるように提案すると楓が一言、
「うん」と呟いた。
三人は廊下を後にし一旦教室へ戻り帰り支度をして、コートを羽織、鞄を持ち、購買の自販機へ向かった。
購買は一階の玄関脇にあるが、終業式である今日は閉まっている。しかし、自販機だけがぼんやりとした光を放ち稼働している。
理香が鞄の中から財布を取り出しながら、武蔵に尋ねる。
「ねぇ、武蔵君ってジュースとか飲めるの?」
「いえ、俺は良いっすよ。幽霊ですし、お金とかないですし」
「良いよ。遠慮しなくても、楓は何が良い?」
それを聞いた楓は、
「あ、あたしも良いわよ。自分で買うわ」と言い鞄の中から財布を取り出そうと、鞄をゴソゴソと手探りで物色していた。
(あれ、鞄の中じゃなかったかなぁ)
楓はコートのポケットを一つ一つ確認していく。次第にそのスピードが速くなり、表情が怪訝なものへと変わっていく。
それを見た理香が、
「どうしたの、楓?」と不安そうな顔つきで尋ねた。
楓は再び鞄の中を探し、漫画のように鞄をさかさまにした。すると、鞄の中から教科書やプリント類がドサっと床に散らばった。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ。こんなトコに散らかしたら不味いじゃないの」
理香は屈み、楓の教科書を丁寧に拾い集めていると、真っ青になった楓が呟く。
「ない……」
「え?」
「財布がないの」
「え、嘘でしょ。ちょっと良く探してみなって」
チクチクと肌を刺す寒さの中、楓は羽織っていたコートを脱ぎ、制服のポケット、さらにスカートのポケット等、すべてを調べたが、財布はどこにも見当たらない。
「ない。あたしの財布……」
再び、重苦しい空気が辺りに漂い始めた――。
(そ、そんなバカな)
と、楓が思うのも無理はない。なぜなら、楓は今日一日、ほとんどの時間、肌身離さず財布を持ち歩いていたからである。朝、学校に来た時は確実に持っていたし、終業式が行われる最中は制服のポケットに入れていたのだ。帰って来て、掃除を終え、最後のホームルームが始まる前に、財布を鞄の中に確かにしまったのである。
にもかかわらず、財布は魔法のように消えた。唯一、目を離した時といえば、例の強大な魔術が使われ廊下に飛び出した時だろう。あの時、教室内には数人の人がいたが、その時に盗まれたのだろうか?
(わ、分からない。でも、盗まれるとしたら、その時間しかない)
不幸中の幸いであったのは、楓の財布の中には千円程度しか入っていなかったことだ。それを思い出すと、ようやく楓は冷静さを取り戻したようだ。
楓が黙り込んでいるので、再び理香が尋ねる。
「か、楓、財布あった?」
「ううん、ない。盗まれたのかもしれない」
「え、マジで。嘘でしょ?」
「嘘だと良いんだけど、ホントに無いんだ」
理香は空いた口が塞がらないとでも言うように、大きな口をあんぐりと開け、黙り込んだ。そして、三人が購買前の自販機のところで佇んでいると、校内が少しずつ慌ただしくなっていった。一体何事であろうか?
廊下をスタスタと走ってくる音が聞こえる。音の方に目を向けると、その姿が担任の長沼であるということが分かった。
長沼は慌てて様子で校内を駆け回り、楓と理香の姿を見かけた途端、手を左右に振り、こちらに向かって走ってくるではないか。
(一体どうしたんだろう?)
と、楓が思っていると、息を切らせた長沼が尋ねる。
「君達、まだ校内にいたのか。まぁ良い。盗難に遭っていないか?」
それを聞いた楓は慌てながら答える。
「え?」
「だから、君達は盗難に遭っていないか? ちょっと鞄の中やポケットを確認してみなさい」
「え、先生。一体、どうしたんですか?」
「実はな、ちょっと盗難が起きているようなんだ。君達は大丈夫かね?」
「先生、あたしもさっきここで飲み物を買おうとして気が付いたんですが、財布なくなっているんです」
「なんだって、立川もか! 鶴見はどうだ?」
理香は持っている財布を長沼に見せた。
「あたしは大丈夫です。ずっと肌身離さず持っていたんで」
「そ、そうかぁ。鶴見は無事か。立川はいつ頃財布がなくなったのか分かるか?」
「それが、全然分からないんです。あたしも鶴見さんと同じで、ずっと肌身離さず持っていたと思うんですけど、さっきここに来たらなくなっていたんです。先生、一体何が起きているんですか?」
「いやな、実に奇妙なことが起きているんだ」
「奇妙なことですか?」
「そうだ。今、我々教職員たちも必死に事実関係を確認しているところで、すべてを把握したわけではないんだが、今のところ、鶴見以外の人間のすべての財布が消えた。生徒だけじゃなく、我々教職員の分もだ」
「ぜ、全員のですか!」
「まだ、詳しくは分からない。だが、今のところ私が確認して回っている人間の中で、無事であったのは鶴見一人だけなんだ……」
それを聞いた理香の顔がどんどん青くなっていく。
「そ、そんな……。で、でも、でもあたし」
「分かっている。君が犯人のわけないだろう。というより、こんな人間離れしたことは誰にだってできそうにない」
そのとおりである。仮に理香以外の人間の財布がすべて一斉に消えたのだとしても、そんなことは誰にだって行えない。偉大なる大泥棒のアルセーヌ・ルパンにだって不可能だろう。
第一、校内には多くの人間が下校したといっても、まだ百人程度は残っているのだ。そんな数の人間の財布をすべて奪えるわけがない。
(ということは……)
長沼には見えていないが、楓は武蔵の方をサッと見つめた。その視線に武蔵も気が付き、慌てて両手を激しく横に振りながら、
「お、俺じゃないっすよ」と、懇願するように答えた。
その姿を見た楓は長沼に気が付かれないように、静かに頷いた。
そうだ。武蔵にだってこんな犯行はできない。武蔵は幽霊であり、普通の人間には映らないこと以外、一般的な人間と相違ない。
分裂したり、時を止めたりということは行えないのである。故に、同時刻に大多数の人間の財布を奪うことはできないだろう。
ならば、
楓は唇をかみ切れそうになるくらいに、強く噛んだ。
(くそ、どうして望んでもいないのに、次から次へとこんなことが起きるのよ。あたしはもうまっぴらだって言っているのに。関わりたくないのに)
どう考えたところで、今回の事件は普通の人間によって引き起こされたものではない。そして、楓には一つの確信があった。
それは、先程感じた強い魔力である。恐らく、あの魔力が何らかの作用を働き、校内に残る多くの人間の財布を奪い取ることを可能にしたのだろう。
楓がそんな風に考えていると、長沼が尋ねる。
「どうした、立川。何か心当たりでもあるのか?」
「違います、ただ、そんな大勢の人の財布が一斉に消えるなんて変だなって思って」
「そのとおりだよ。こんなことは初めてだ。とにかく、君達はもう帰りなさい。良いね」
「分かりました」
そう言うと、長沼は再び、昼間だというのに薄暗く感じる校内へ消えていく。
「じゃあ、帰ろうか」と楓が言うと、理香が頷いた。そして玄関のところまで行き、下駄箱から自分の靴を取り出し、履こうと床に置いた時、楓はもう一つのことに気が付いた。
(あ、武蔵。武蔵ってどうするの?)
慌てて、楓が振り返ると、少し寂しそうな武蔵の姿があった。
「む、武蔵……」
と楓が呟くと武蔵が答える。
「お、俺のことなら心配しなくていいっすよ。どうせ行くところもないですし、校内でぶらぶらしてますよ。あ、そうだ、今回の事件も気になりますし、調べておきますよ」
武蔵はあえて素っ気なくそう言ったのだが、その顔は寂しさに溢れていた。楓も理香もなんだか武蔵のことが不憫になった。
(お互い、自分の家に連れて行っても良いけど、男の子だし、あ、でも幽霊かぁ、なら良いのか)
と、訳の分からないことを考えながら、想いを口にすることを躊躇していると、楓の脳内にパッとあることが閃いた。
しかし、それを行うには、再びこの事件と向き合わなくちゃならなくなるかもしれない。
(だけど、武蔵をこのまま放ってはおけない。だって、武蔵はあたしがあえて成仏をさせずに、このままにしてしまったんだ。なら、責任はあたしにある)
そう考え、楓が沈黙を破り、武蔵に声をかける。
「武蔵、付いてきて、一緒に行こう」
それを聞いた武蔵の顔は明るくなったが、直ぐに驚きの表情に変わった。
「で、でも良いんすか?」
「うん。とにかく付いて来てよ」
三人は校内を出て歩き始めた。
*
時刻は午後一時半 ――。
楓と理香は駅前で別れた。いつもならもっと別の場所で別れるのだが、今日は違っていた。武蔵をあるところに連れて行くためである。
あるところというのは、当然、矢向の事務所である。
武蔵の姿は、武蔵が力をコントロールするか、楓のように魔力を持った人間でなければ見ることができない。ならば、武蔵が理香の家に行ったところで、お互いに困るだけだろう。楓は武蔵の姿を見ることができるが、休みの期間、ずっと二人一緒というわけにはいかないだろう。いくら幽霊だからといっても着替えや入浴の姿を見られたくないし、お互いに気を使うからだ。
混雑するバスに乗り、矢向の事務所の最寄駅で降り、二人はトボトボと歩いて行った。
「姉御、どこへ行くんすか?」
「矢向さんの事務所よ。ちょっと頼んでみる」
「矢向さんって誰なんすか?」
「探偵さんよ」
「探偵っすか? なんでそんな人と知り合いなんすか?」
「探偵って言っても、心霊現象や魔術を専門に行う探偵さんなのよ。だから、あたしとつながりがあるの。武蔵のことも見えるはずだから安心しなさい」
「で、でも良いんすか? 俺逢ったことない人なのに」
「大丈夫よ。矢向さんは優しいし、とっても良い人なんだから」
とうとう、二人は矢向の事務所前に着いた。昼間だというのに、空は厚い雲に覆われてどんよりとしている。
事務所のベルを鳴らすと、矢向は直ぐに現れた。
矢向は楓の姿を見ても、幽霊であろう武蔵の姿を見ても、それ程驚きはしなかった。ただ、二人の姿を見つめ直ぐに家の中に招き入れたのである。
事務所内は使っていなかったのかひんやりと寒い。矢向は直ぐにエアコンとストーブのスイッチを入れた。
「少し寒いが、直ぐに暖かくなるじゃろう。我慢してくれるかな」
「ええ。大丈夫よ。それより、ごめんなさい。突然現れちゃって」
「なに、そんなことは気にするでないよ。今コーヒーを淹れてくるから、ちょっと待っていなさい。ああっと、そこの幽霊君もそんな肩肘を張らずにリラックスして座っていると良い」
矢向はそう言うと、事務所内から一度消えていった。
室内はカタカタと音をあげるエアコンの風と、ゴォーと燃え盛るストーブのおかけで、瞬く間に暖かくなり、楓ら二人は中央にあるソファーに隣同士に座った。
室内の書物や、書類の数に驚いたのか、それとも幽霊を見ても全く動じることがない矢向自身に驚いたのか、武蔵が言った。
「姉御、あの人って一体?」
「だから言ったでしょ。心霊や魔術といったことを専門に行っている探偵なのよ」
「そ、そんな探偵がこの世にいるんですね。まるで、漫画のような話じゃないですか」
「お化けのアンタがそんなこと言わないでよね。とにかく、矢向さんに相談してみましょう。流石に休みの期間中、一人で学校にいるのは如何に幽霊だとしても辛いものがあるでしょ?」
「まぁ、そうっすけど……」
「ねぇ、武蔵。土日、いつもはどうしていたの?」
「普通に学校にいましたよ。中を散策したり、眠ったり、考え事をしたり、まぁお化けなんで誰も見つかることがないといっても、特に何かをしたわけじゃないんですけど」
「そう。ねぇ、何か分かった?」
「何かって何がですか? 今回の盗難についてですか?」
「ううん。そっちじゃなくて、自分のこと。アンタさ自分が生きていた時、何をしていてどこにいたのか思い出せないって言っていたじゃない」
武蔵は難しい顔をしながら答える。
「実は名前以外、全然思い出せないんすよ。なんとなく覚えているのが、何か大きな力に引き寄せられてと言いますか、真っ暗中歩いていると、突然、大きな光が遠くの方で光っているのが見えたというか、そんな感じで、その大きな光に近づいて行ったら、あの学校に辿り着き、姉御に逢ったというわけなんす。多分ですが、さっき姉御が言っていた……」
武蔵の言葉をすべて聞く前に、楓が言う。
「あたしの魔力に引き寄せられたってことね。なんだか悪いことしたわね」
「いえ、そんな風に言わないでください。俺、今充実していますよ。そりゃ幽霊だから誰にも見つからないし、将来的にはどうなるとか全く分からないんですけど、なんか楽しいっすよ。だから、そんな風に言わないでください。俺、姉御にはすげぇ感謝してるんすから」
武蔵がそう言うと、コーヒーを三つ持ってきた矢向が室内に現れた。
「いやいや、ちょっとばかし待たせたかのぅ」
と、言いながら、彼は二人が座っているソファーのところまで行き、熱々のコーヒーが注がれているカップをローテーブルの上に置いた。
真っ黒で湯気を放っている液体を眺めると、楓の顔は写り込むが、幽霊である武蔵の顔は写り込まない。
矢向は二人の対面に座り込むと、一口コーヒーをすすり尋ねる。
「それで、今日はなんのようかね?」
それを聞いた楓が答える。
「実は、この幽霊を預かってほしいの。この子は桜中に出没していた幽霊で、生前の記憶が全くないのよ。多分、あたしの魔力に引き寄せられちゃったんだと思うの。それで、仲良くなったんだけど、明日から桜中は冬休みで学校は閉まるのよ。流石に休みの期間、校内に一人で残しておくのは可哀想だなって思って……、迷惑だってことは分かっているけど、あたしには矢向さんしかこういうのを頼める人がいないから、今日こうして連れてきたのよ」
「なるほど、そう言うことじゃったのかい。まぁ、わしの家にその子を置くのは構わんよ。わしは一人暮らしだし、家族もいない。だから、年末は一人で過ごさなければならんじゃろう。そういった寂しい環境の中、一人でも多くの人間がいれば、それだけで家は暖かくなるはずじゃ」
「ありがとう。矢向さん」
矢向はあえて、楓に前回の聞いた答えを聞こうとはしなかった。まだ答えは出せていないのだろうと思い込んでいたからだ。
楓はほっと胸を撫で下ろすと、ローテーブルに置かれたコーヒーを飲んだ。
「それで、ええ、そこの幽霊君。君の名前はなんと言うんじゃい?」
「あ、はい。ええと、自分は小杉 武蔵って言います。名前しか覚えていなんすけど、多分歳は姉御と同じ位だと思いますけど……」
すると矢向は目を点にさせ、
「姉御?」
コーヒーを吹き出しそうになりながら楓が訂正する。
「あ、矢向さん、この子あたしのこと姉御って呼ぶのよ、最初は断っていたんだけど、今じゃ慣れちゃってて」
矢向は微笑み答える。
「まぁ、わしは構わんよ。よろしい、ではわしの自己紹介もしておくかの、わしは矢向 左千夫 六十二歳じゃ。お嬢ちゃんから聞いているかもしれないが、探偵をしておる」
それを聞いた武蔵が尋ねる。
「ええと、確か心霊現象とか魔術を専門に扱うっていう探偵さんなんすよね」
「そうじゃな。だから君のこともちゃんと見ることができる。まぁ、ゆっくりしていきなさい」
「あ、ありがとうございます」
武蔵はようやく緊張が解けたようだった。その様子を見た楓が、武蔵に声をかけた。
「武蔵、矢向さんはあたしの師匠みたいなものだから、魔術や心霊現象の類のことを何でも知っているの。だから、何でも相談しなさい。そうすればきっと生前の記憶を何か思い出すかもしれない」
「あ、はい。そうっすね。でも、今は俺の生前の記憶よりも、もっと大事なことがあるじゃないですか」
武蔵がそう告げると、楓の顔は雲がかかったように暗くなる。その様子を矢向は一瞥し、すぐに何か厄介な問題を抱えているのだと察した。
楓が黙り込んでいるのを見つめながら、矢向は優しく言った。
「お二人さん、何かあったのかい?」
武蔵は楓の方を向いた。それでも楓は依然として俯いたまま何も言わない。そのため武蔵が代わりに、
「あ、あのぅ実は、今学校でおかしなことが起きているんです」
「おかしなこと? それはなんじゃい?」
「盗難です」
矢向は少し前に、そんなことを楓に聞いたような気がしてきた。
「盗難騒ぎが起きているんじゃったかな? そんなに酷いのかね?」
「え、ええ。酷いというよりも謎なんです」
「謎?」
「実は、今日も終業式が終わった放課後、盗難が起きたんですが、その盗難が凄いんです。校内にいたほとんどの人間の財布が盗まれたんですよ」
「ほとんどの人間が……」
それを聞いた矢向はチラッと楓の方を向いた。その視線に武蔵も気が付き頷いた。
「姉御もその被害者なんです」
「う~む。ちょっと良く分からんな。どういうことなんじゃい。確か前にそんなことを聞いた時は犯人が複数いるかもしれないってことじゃったが、その延長線上の話で良いのかね?」
今まで黙り込んでいた楓が、意を決し口を開いた。
「違うのよ。今回の事件は一般人が引き起こしたものではないの」
「どういうことだね?」
「校内にいた生徒や先生たちの財布が盗まれる前に、今までに感じたこともない大きな魔力を感じたの。多分、校内にいる誰かが魔術を行ったのよ。その強大な魔力を感じ、消えたと思ったら、財布がなくなっていた。というわけなの。でも、そんなことあり得るのかしら」
矢向は癖であるあごひげを擦りながら尋ねる。
「なんとも言えんな。財布は中身が消えたのかい? それも丸ごと全部消えたのかね?」
「あたしのは丸ごと消えてしまったの。他の人は分からないんだけど」
「うむ。では、お嬢ちゃんの話では校内にいた多くの人間のものが盗まれたということじゃが、根拠はあるかい?」
「根拠はないの、全員の調べて回ったわけじゃないから、でも、先生があたしたちのところに回って来た時、先生は職員の人達と、残っている生徒の多くの財布が盗まれたって言っていたわ」
「そうかい。助かった人は一人もおらんかったのかい?」
「え、あ、そうだ、理香。ええと、あたしの友達の理香って子がいるんだけど、この子は大丈夫だったの。ずっと肌身離さず持っていたんだって」
「不思議な話じゃ。というより、普通ではないじゃろう。まず間違いなく、お嬢ちゃんが感じた魔力が関係していると言えるはずじゃ」
「つまり、桜中にあたし以外の人間で、魔術や超能力に心得がある人間がいるってこと」
「うむ。犯人が一人と仮定した場合、話を聞く限りではそれしかありえん。一般的な人間では、同一時刻に百を超える人間の所有物を同時に盗むなんてことはありえない。あと、考えられるのは、犯人が複数いた場合だが、これもこれでおかしい」
「おかしい? どうして犯人が複数いるとおかしいの」
「良いかいお嬢ちゃん、盗難に遭った人間の人数が正確に分からんから、一概にこうとは言えないじゃろうが、仮に、百人以上も校内に残っていて、その人間たちの財布だけを盗むなんてことは、犯人が十人いたってできないだろう。障壁となる問題は多々あって、まず一つ、財布というものは人によって携帯する場所が違う。鞄に入れっぱなしという人もいるじゃろうし、お嬢ちゃんの友達のように肌身離さず持っている場合もあるし、違う場所に置いてある場合もある。だが、一般的には自分の目に届くとところか携帯するのが普通でじゃろう。故に、そんな人が常に携帯しているかもしれないものを盗み取るってとこは非常に難しいんじゃ。それも人数をかければできるというものではないし、逆に人数をかければ見つかる可能性の方が高くなるかもしれん」
「じゃあ、やっぱり単独犯で、魔術が関係しているってことよね?」
「可能性は高いのぅ……」
「でも矢向さん。魔力を持った人間が複数ってことはないの?」
「わしはその強大な魔力を感じたわけではないから良く分からないのじゃが、複数の人間が分担して魔力を使っている場合でも、わしらはその人数を把握できるんじゃよ。魔術の類は分担し一つの術を行ったとしても、一人一人が確実に魔術を行っているから、それぞれを感知することが可能なんじゃ。だから、今回の場合、強大な魔力を感知した時に、その魔術の出所が一か所であれば、一人で行っていることになるはずじゃ」
「あたしが感じたのは、一つの場所から大きな魔力が校内を覆い被さっていくことかな。この場合、一人の人間の仕業ってこと?」
「うむ。そう言うことになる」
「でも、かなり大きな魔力だったわよ」
「よろしい。では見本を見せよう。武蔵君。君は少しなら魔力をコントロールすることができるかね?」
問われた武蔵が慌てて答える。
「え、ええと、それが全くダメでして……」
「そうかね。では君の体を少し貸してもらう。お嬢ちゃん、一旦この部屋の外に出てもらえるかな? 少し寒いが実験は直ぐに終わるから我慢してもらおう」
「実験? なんのこと?」
「魔力の感知についての実験じゃ」
そう言うと、矢向は本棚から重そうな書物を数冊手に取り、ローテーブルの上に置き、
「今から、わしら二人が魔力を使ってこの本を空中浮遊させよう。その時、別の部屋にいるお嬢ちゃんはこの魔力を感じ取れるはずじゃ、魔力がどう感じ取れるかを自分の感覚で掴んでみるんじゃ。なぁに、やってみればすぐにわかるよ。では武蔵君始めようか」
矢向がそう言うと、武蔵は矢向の隣へ行き、楓は部屋の外へ出て行った。すると、武蔵が、
「あ、あの、矢向のおじいさん。お、俺、幽霊だから魔力はあるのかもしれないんですけど、本当に魔力が全然コントロールできないんです。」
「ほっほっほっ。武蔵君、大丈夫じゃ。良いかね。君は幽霊だ。幽霊が一般の人間の目に移り込むようにするには、自身の魔力をコントロールしなければならない。それができないと、写真に写り込んでしまったり、はたまた、強烈な感情の高ぶりによりポルターガイスト等の怪奇現象を引き起こしたりするんじゃ。それは君たち幽霊には魔力が宿っている証拠であり、君にも魔力を扱う土壌があるということなんじゃ。ならば、わしが君を柱として利用して間接的に魔力を与えよう。君は本を見て魔力を込めるように構えてくれればよい。後はわしが魔力を貸そう」
「あの本に向かって力を送り込む要領で良いんですね。分かりました。俺やってみますよ」
武蔵がそう言うと、矢向が部屋の外にいる楓に向かって声をかけた。
「お嬢ちゃん、準備は良いかね?」
部屋の外にいつ楓は矢向の声を聞いて答える。
「ええ、いつでも良いわ。それよりも、寒いから早く始めて頂戴」
楓の声を聞き、矢向は武蔵に再度目配せをする。
「よろしい、では始めようか」
矢向はそう言うと、厚さ十センチ以上はあろうかという分厚い本に向かって右腕をかざし、魔力を与え始めた。武蔵もそれに倣い、見よう見まねで自分自身を顕現させるように魔力を送り込む振りをした。
その様子を見て、矢向は空いた左手を武蔵にかざし、彼を操作しながら魔力を強制的に分厚い本に向かって魔力を当て始めた。
すると、みるみる内に、本は意志を持ったかのようにふわふわと宙を舞い始めたではないか。
「す、すごい……」
武蔵の口からそんな声が漏れたかと思うと、部屋の外から、もっと大きな声が飛び出してきた。
「あ、ああああ! 分かった。分かったわ。矢向さん!」
楓は大きな声で叫びながら、室内に戻ってきた。それを見た矢向はゆっくりと本を元の位置に戻した。何事もなく本はローテーブルの上に戻り、興奮した楓が言った。
「分かったわ。魔術の出所を感じたの。出所は同じだけど二種類を感じたわ。それが途中で重なって本を浮き上がらせていたのね」
「そのとおりじゃよ。ではお嬢ちゃん。今の実験を踏まえて、学校で感じた強大な魔力と今の実験の魔力を比較してみてどう感じたかい?
学校にいた時も今と同じように複数の魔力を感じたのか、あるいは、一つの魔力しか感じなかったのか。どちらかね?」
「一つよ。魔術の出所には一つの魔力しか感じなかった。矢向さんがさっき言ったように、魔力を使う人間が複数いると、あたしもそれを感じ取れるのね。ってことは……」
「今回の事件の犯人、否、例の強大な魔力を使った人間が、一人ということが証明できたわけじゃな」
「でも、誰なんだろう? あたしと武蔵以外で魔力を使える人間が校内いるなんて」
黙って聞いていた武蔵が口を挟む。
「姉御、あいつ、あいつはどうなんですか。確か、国立大ってあだ名の」
「ああ、でも国立大は違うでしょ。確かさ、強大な魔力を感じた時、国立大は既に校内にいなかったんだから」
「う~ん。じゃあ後は誰なんでしょうか? 国立大ではない誰かってことっすよね?」
「分かんない。そいつの正体はまだ誰も知らないからね」
二人の会話を聞いていると、訝しそうに矢向が尋ねる。
「お二人さん。魔術を使ったのが一人ということは、さっきの実験で分かったと思うんじゃが、校内のどの辺りから魔力が放たれたかということは分かるかね?」
二人は考え込み、先に楓が答えた。
「確か、屋上からだと思う。校舎は四階建てで屋上があるの。あたしたち一年生は四階にそれぞれの教室があって、例の力魔は上からは発生し降り注ぐように校舎を包み込んでいったの。ってことは、場所は屋上しか考えられないわ」
その意見に武蔵も同意した。
「俺も姉御の言うとおりだと思います。俺は魔力を感じた時、別館にいたんですけど、そこからでも強大な魔力が高いところから降り注ぐことを感じ取れました。だから、間違いなく屋上だと思います」
矢向は二人の意見を聞き尋ねる。
「では、お嬢ちゃん達の学校では屋上を活動場所とする、部活動や何かしらの団体は存在しているのかね?」
「ないわ。屋上ではどの部活も活動しないし、生徒が昼休みや放課後ちょっと利用するだけでそれ以外は使わないもの」
「うむ、では犯人の候補を絞ることができないのぅ。放課後、誰でも簡単に屋上に行けるとなると、容疑者の数は瞬く間に増える。困ったものじゃ」
三人の間に沈黙が訪れた。時刻は既に三時を回っている。楓は昼食を取っていないが、空腹を忘れるほどに考え込んでいた。
屋上に訪れる人間は誰か、そもそも屋上に行く人間はどんな人間か、屋上に行くルートはどうやって行くか……。そんなことをごちゃごちゃに考えていると、楓の脳内にある閃きが湧いた。それは些細な違和感がきっかけになっていた。
(あ、あれ……、あの時、確か、あの子、あそこから出てこなかったっけ……)
そう思い、さらに考えを巡らせようとした時、突如、ケータイの着信音が響き渡った。
音の出所は楓のケータイであった。シンプルな「リリリリン」という電子音が沈黙に包まれた室内に響き渡ってゆく。
楓は直ぐにケータイを取り出し、誰からかかってきたのかを確認するため、ディスプレイを眺めた。それを見て、楓は少しだけ驚いた。まるで、自分の心を見透かされていると錯覚したためだ。
電話をかけてきたのは理香であった。
「もしもし、理香。どうしたの?」
電話の先からは理香とは思えない、暗く沈んだ声が聞こえてきた。
「か、楓ぇ。ど、どうしよお」
「ちょっとどうしたの?」
「あのね。今学校から電話が来たの。そ、その今日さ、学校で大量に財布が盗まれたじゃない? あれってあたし以外の全員の生徒の財布が盗まれたんだって。そ、それで、あたしにこれから学校へ来れるかって、あ、あたし疑われてるのかな、ど、どうしよう」
消え入るような声に、楓もどうして良いのか分からなくなった。
「だ、大丈夫よ。だって、どう考えたって一人でできる犯行じゃないし、財布がなくなったとされる時間、理香はあたしたちと一緒にいたじゃない。だから大丈夫だよ。先生たちだって、本気で理香のことを疑っているわけじゃないと思うよ。多分、唯一盗まれなかった生徒っていうことで話を聞きたいんだと思うよ」
「ホ、ホントに大丈夫かなぁ。ねぇ楓、あたし怖いよ。もう嫌だよ」
楓はチラッと時計を見た、時刻は午後三時を過ぎている。それを確認した後答える。
「分かった。じゃああたしも一緒に行くよ。それなら怖くないでしょ。大丈夫よ。あたしがちゃんと証言するから。ねぇ、今三時でしょ、だから、校門前に三時半に集合ってどう? それならあたしも付き合えると思うから」
「さ、三時半に校門前ね。分かった。ゴメンね、楓」
「ううん、気にしないで。とにかく三時半ね。それじゃあ」
そう言い、楓は電話を切った。ふと、矢向らの顔を見ると、二人とも電話の内容が気になっているようで、不安そうな顔で楓の方を見つめていた。
「あたし、これから学校へ行ってくるわ」
訝しそうな顔つきになった武蔵が尋ねる。
「り、理香の姉御に何かあったんすか?」
「うん。実はね、例の大量に財布が盗まれた件、あれって学校にいた理香以外の生徒・職員、すべての人間の財布が消えたんだって。それで、唯一助かった理香が今学校に呼ばれたらしくて、理香は自分が疑われていると思って、酷く落ち込んでいるのよ。だから、あたしはこれから付き添いで学校へ行ってくる」
「そ、そんな。理香の姉御がそんなことするわけないじゃないですか。第一、たった一人でそんな大人数の財布を盗めるわけないのに。お、俺も行きます!」
楓は武蔵の意気込みを聞き、安堵した表情に変わった。
「武蔵、ありがとう。でも、今回はあたしだけで良いわ。武蔵、あなたはここで矢向さんと共に事件について考えていて欲しいの。もちろんあたしも考えるけど……」
「で、でも、お、俺だって」
「大丈夫。気持ちだけ受け取るわ。仮に、幽霊のあなたが学校へ行って証言できたとしても、話がややこしくなるだけでプラスにはならないわ。それ以上に武蔵、あなたにはここで矢向さんと共にやってもらいたいことがあるのよ」
「やってもらいたいこと?」
「そう。ねぇ矢向さん。例の強大な魔力で、ううん、魔術か何かで、財布だけを盗むってことは可能なの?」
問われた矢向は、ソファーに深く腰を降ろし、顎髭を触りながら考えを巡らしているようであった。そして答える。
「お嬢ちゃん。それは一体どういうことかね? 何の為にそんなことを聞くんだね?」
「良いから教えてちょうだいよ」
「よろしい。簡単に言えば、難しい。そんなピンポイントで特定のモノを盗むという都合の良い魔術はないだろう。だが、考えようによっては不可能じゃないかもしれん……」
「そう。なら、その方法を武蔵と一緒に考えておいてくれない」
「お嬢ちゃん……。一体、何を考えておるんだね?」
楓は眉間にしわを寄せ、苦しそうな顔になり話し始める。
「一つのことを思い出したの。確か、魔力を感じ咄嗟に廊下に飛び出し、武蔵に出逢った時、理香は階段の方から走ってきた。しかも、階段を下ってきたような気がする。良く分からないけど、あの時、あの子は屋上から四階に降りてきたのよ」
それを聞いた武蔵は、焦りながら楓に詰め寄る。
「あ、姉御。も、もしかして理香の姉御を疑ってるんですか? そ、そんな、たまたまじゃないんすか」
「落ち着いてよ、武蔵。あたしは理香を疑っていないわ。むしろ逆で、あの子を助けたいの。だから、武蔵や矢向さんの力を借りたいのよ」
「姉御、俺はどうすれば良いんすか?」
「あなたと、矢向さんには考えてもらいたいの。理香はあたしが魔術を使って触れたことがあるの。だから、多分だけどあの子にはなんの魔力も宿っていないはずなのよ。にもかかわらず、魔力を宿す可能性とか、そういうものを」
それを聞いた矢向が、武蔵を落ち着かせながら答える。
「よろしい。ではその件はこちらに任せてもらおう。お嬢ちゃんは、そのお友達と一緒に学校へ付き添ってやりなさい。もう既に三時を回っておる。待ち合わせは三時半じゃろう。なら、急いだ方が良い。終わり次第、またここへ来なさい」
「分かった。お願いね」
楓はそう言うと、コートを着て鞄を持ち、部屋から消えていき、外へ飛び出していった。二人は部屋の窓から去って行く楓の姿を眺めた。