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魔術探偵 立川楓の怪奇事件簿

第二章 

 その日は突然にやってきた――。

 ――カラン、コロン――

 誰でも商店街などで一度は見たことがあるだろう。ガラガラと回す福引の機械を。大抵は外れのティッシュしかもらえないが、ここに強運の少女がいた。

「お、おおぉ、一等大当たりぃ~」

 福引会場を取り囲むギャラリーの中から、一斉に驚きの声や拍手が飛び、主催者が鐘を勢い御よく鳴らす。その中心に少女が呆然と立ち尽くしていた。

 そう。立川 楓である。


          *


 話は数時間前まで遡る――。

 矢向の事務所で書類整理の手伝いをしていた楓は、

「それ何?」と尋ねた。

 楓の視線の先には、何やら数枚の紙切れを持っている矢向の姿がある。

 持っているのはどうやら紙幣ではなさそうだ。色や紙質も違うように見える。

「お嬢ちゃんは良く手伝ってくれるからのぅ。これはバイト代みたいなものじゃよ」

「お金?」

「お金の方が良かったかね? 少しくらいならバイト代を払っても良いんじゃよ」

「良いわ。別にお金が欲しいってわけじゃないし。あたしはそういうことが目的で手伝っているわけじゃないもの」

「そうかい、なら丁度良いじゃろう……」

 楓は矢向が差し出した数枚の紙切れを受け取り、それが一体全体なんであるか確認した。

 ペラペラとした安っぽい紙切れにはこう印字してある。

『○○商店街主催。福引抽選券』

(福引券?)

 楓は福引券の裏側を見た。すると、そこには一等から五等までの商品が書かれていた。どうやら、一等は一泊二日の熱海旅行が当たるらしい。但し、残念なのはペアということだ。家族であれば皆で行けるが、中学生である楓にはペアといったら保護者と行くしかない。父や母は忙しく無理であろう。

(狙うのは二等賞品かなぁ)

 二等は薄型テレビが当たる。三十インチを超える大型ではなく、十九インチという比較的小型のテレビである。

 三等は商店街で使える一万円分の金券。四等は酒類、ジュース類の詰め合わせ。五等は商店街特製のボールペンのようだ。ハズレはポケットティッシュである。

 まぁ、小さな商店街が主催ということもあって、賞品は全体的にショボイ。だが、

(二等が当たれば、自分の部屋にテレビが置ける)

 自室にテレビの無い楓にとっては、一等や三等よりもこちらの方が使用価値があり、手に入れたいものであった。

 楓が悶々と考えを巡らしていると、矢向が尋ねた。

「考えているところ悪いのじゃが一つ問題があるんじゃ」

「問題?」

「それ四時までじゃろう。だから、今日はもう上がっても良いから早く行っておいで」

 時刻は既に午後三時を回っている――。

「それじゃあ、もう一等や二等は出ちゃったかもしれないわね」

「うむ。それはわからん。すまんのぅ。もう少し早く気がつけば、早く行ってもらえたんじゃが、歳でのぅ。すっかり忘れてしまっておったんじゃよ」

「まぁ仕方ないわ。三、四等ならまだ残っているかもしれないし。行ってみるわ」

 楓は直ぐに矢向の事務所を飛び出し、商店街へ向かった――。

 福引は公正を保つために、当たりとハズレの比率を一定にしなければならないが、そうなると福引券の枚数を最初に設定しなければならない。しかし、福引券は商店街の各店舗に配られ、既定の金額の買い物した客全員に配られるので、当日、福引をする人間の数を把握することが困難である。

 故に、予め福引回数を制限することができないため、くじの公平性を保つことが難しい。要するに、今回の場合は、早くくじを引いた方が当たりやすいのである。

 最後の方にくじを引くと、当たりを引かれ残っている賞品が少なくなるからだ。来場者数に合わせて賞品を追加する手段も考えられるが、一等や二等賞品を多くすることは、予算的に難しい。だからこそ、遅くに福引会場へ赴いた楓にとって、チャンスは少ないように思えたのだが、

(あ、まだ、一等は残っているんだ……)

 どうやら、二等、三等は既に引かれ残ってはいないが、一等だけが後一つ残っているようであった。

(でも一等賞品じゃなぁ。あ、でも、金券ショップとかに売れるのかしら……)

 せっかくもらった福引券を無駄にはできない。仕方なく福引の列に混じり、楓はくじを行うことにしたのである。

 もらった福引券は五枚である。ガラガラを回し、あっという間に四本のボールペンを手に入れた楓は、五本目のボールペンに王手をかけていたのであるが、

 ――カラン、コロン――

 そこで、話しは最初に戻る――。

 

          *


「一等、熱海旅行大当たりぃ~」

(あれ、あたし、当たっちゃったの……)

 確率はおよそ千分の一である。

 時刻は五時を回っていたため、辺りは薄暗くなり始めていた。矢向の事務所まで通うために使っているバスも、帰宅する人で混雑しており、座ることはできなかった。

 渋滞している道をのろのろと進んで行き、ようやく家に着いた時には日も落ち、すっかり暗くなっていた。

「ただいまぁ」

 と、楓が告げると母が、

「お帰りなさい、今日は随分遅かったのね」

「うん。ねぇ、お母さん実はね……」

 楓は事の顛末を話した。

「すごいじゃないの。お母さんもくじ引きはよくするけど一回も当たったことないわよ」

「当たったことが問題じゃないのよ。問題は誰がこの券を使えるかってことよ」

「どうしてよ。皆で行けば良いじゃないの」

「違うの。この券はペアなのよ。しかも、お父さんは今とっても忙しいじゃない」

「そうねぇ。確かにペアじゃ行きづらいわねぇ。他の分を買うってこともできるだろうけど。……よく考えるとお父さん、今はまとまった休みが取れないだろうし」

「そう。しかもこれ、一か月後の週末って日時が決まってるのよ」

「困ったわねぇ」

「あたし、友達と行っちゃダメかしら?」

「それはダメよ。あなたはまだ中学生なんだから、修学旅行じゃないのよ」

「で、でもせっかく当たったのに」

 母は思いついたように手を叩き答える。

「なら良い方法があるじゃない」

「え? 何?」

「矢向さんと行って来たらどうかしら?」

「矢向さんと……」

 例の一件以来、矢向と立川家は少し繋がりができていた。しかも楓が矢向と出逢い、事務所で手伝いを始めるようになってから、何事に対しても前向きになっていったので、両親は矢向のことを信頼していたのである。

「でも矢向さん、忙しいんじゃないかしら」

「それはお母さんには分からないけど、聞いてみたらどうかしら、いつもお手伝いしてるんでしょう。あの方と一緒ならお母さんは認めてあげるけど」

「う~ん。それじゃあ明日聞いてみる」

 翌日――。

 学校を終えた後、楓はその足で矢向の事務所へ向かっていた。

 毎日のように行っているので、完全に道順を覚え、今では近道も把握していた。

事務所のベルを鳴らすと、中から矢向が現れた。突然楓がやってきたので驚いていた。いつもは事前に連絡が来るのだ。

「どうしたんじゃい? お嬢ちゃん」

 早足でやってきた楓は息が上がっている。呼吸を整え、やや興奮した面持ちで答える。

「や、や、矢向さん……。あ、当たっちゃった!」

「当たった?」

「そう、商店街のくじ引き」

「何等が当たったんじゃい?」

「い、一等」

 矢向の目が驚きで大きく見開かれる。

「それは良かったのぅ。確か、なんじゃったかな、旅行券か何かじゃったかのぅ」

「うん。熱海旅行」

「熱海かぁ。あそこは温泉街じゃから、ご両親も喜ぶじゃろう」

「ううん。それが問題なの」

「問題?」

「この券、ペアなのよ。お父さんとお母さんで行ってもらっても良いんだけど、お父さん仕事が忙しいから多分行けないし、といってもあたしはまだ中学生だから友達と行くってわけにも行かないだろうし……」

「それは困った問題じゃのぅ。親御さんはなんと言っておるんじゃ?」

「そ、それが実はね……」

 楓が母から言われたことを、矢向に理由を説明すると、

「なんじゃって! わしと?」と柄にもなく叫んだ。


          *


 ――タン、タタン――

と、レールを軋る音が僅かに聞こえている。

窓の外を見ると、繁華街や民家を抜け、山道以外ほとんど何も見えない。しかしトンネルを抜けると突然、一面に海が広がった。

 グリーン車の窓から、楓はその景色を眺めていた。自分の席の隣には見慣れた老人である矢向がいる。矢向は疲れているのかうとうとと、頬杖をついて眠りについているようだ。

(せっかくの景色なのに……)

 楓はそう思いながら、再び視線を窓の外へ向けた。

 小田原を過ぎたあたりから海が広がり始めた。もうすぐ目的地の熱海のようだ。

 東京から熱海までは新幹線を使うと四十分程で到着する。東京で乗り、既に三十五分が経とうとしている。アナウンスはまだ流れていないが、楓は下車準備をしようとしていた。

 今回の旅行は、矢向からアルバイト代としてもらった商店街の福引券で、楓が引き当てた旅行である。

 今回のくじの一等を引き当てる確率はおよそ千分の一で、宝くじで一億円以上の金額が当選した場合の確率はおよそ一千万分の一である。そして、今年交通事故に遭う確率は百万分の一。さらに、ビンゴゲームで最短の四回でビンゴする確率は三十万分の一であるから、今回引き当てた旅行は比較的に当たりやすい部類に属するだろうと、矢向は楓に教えた。

(それでも千分の一……なのよね)

 楓がそんな風に考えていると、天井のスピーカーからアナウンスが流れてきた。

「間もなく熱海駅でございます。御降りのお客様は……」

 そのアナウンスで眠っていた矢向の目がぱちりと開いた。その仕草がまるで人形のようだったので楓は少しおかしくなった。

「矢向さん。もう着くみたいよ」

「うむ。そのようじゃな」

「全く、矢向さんったら寝てばかりで、せっかく良い景色が見れたのに、残念ね」

「そうじゃったのぅ。うっかりしておったわい。これからは気を付けようとするかの」

 熱海駅に到着し、新幹線を降車すると、ホーム内は他の旅行客で混雑していた。ちょうど三連休の初日ということで旅行に来ている人たちが多いのである。人の流れに飲み込まれるように、有無を言わさず改札までのろのろと流されていくと、目の前にはたくさんの売店が見えた。

 温泉街であるので、土産物を扱うお店が多く立ち並んでいるのである。まんじゅうを蒸かしている匂いが漂ってきた。

「ねぇ。矢向さん、あたしたちどのバスに乗れば良いのかしら? いっぱいあり過ぎて分からないわ」

 楓がそう言ったので、矢向は鞄の中から旅行のパンフレットを開き、バスの位置を確認した。

「わしらが乗るのは、市営のバスではなく、旅館が運営しているマイクロバスのようじゃな」

 辺りを見渡すと、温泉宿のマイクロバスらしきバスがたくさん止まっている。その中に、一際ダークトーンのバスが止まっているではないか。しかも、かなり新しい。他のバスと比べると一層目立って見える。

「お、どうやらあのバスのようじゃな。このパンフレットに書いてあるものと同じじゃ。よし、お嬢ちゃん行こうとするか」

「うん」

 楓と矢向はバスに乗り、空いている後ろの方の席に座った。既に数人の客が座っているが全体的に空席が目立つ。どうやら楓たちがこの時間の最後の客のようであった。

 客は年配の人たちが多かったが、その中に一人だけ楓と同じくらいであろう少年がいるではないか。

 座っているので背丈は確認しようがないが、痩せていて、まだ幼さが残っており、優しそうな雰囲気をもった少年であった。

 楓が会釈をすると、少年が呟いた。

「気を付けた方が良いよ」

「え?」

 すると、楓はつるっと足を滑らせ、転びそうになり、前のめりになった。それを間一髪矢向が押さえ楓を抱きとめた。

「大丈夫じゃったかい」

「あ、ありがとう、矢向さん」

 床が少しだけ濡れている、それに足を取られ滑ったようだった。その一連の流れを見ていた少年は、

「おっと、転ばなかったようだね。良かった、良かった」と、上からモノを言うように答えた。

 楓はぶすっとし、反論しようとしたが、バスが出発したので、我慢し忘れることにした。

 ブロロロと音を上げ、楓たちを乗せたバスは出発し、旅館に向かっていった。駅前のロータリー部分は混雑していたが、それを超えると途端に道が空きはじめた。運転手は慣れているのか、狭い道でも快調に飛ばして行く。

 十五分ほどバスを走らせると、遠くの方に大きな洋館が見えてきた。

 今回、楓らが宿泊するのは、今ちょうど目の前に見えてきた洋館である。昔の華族の別荘を買い取り、修繕し宿として十年程前にオープンしたのだ。

 一般的な旅館やホテルとは違い、近世のヨーロッパの貴族を思わせる、その特異な外観が話題を呼び、若い女性から年配のご婦人方まで幅広い支持を集め、繁盛しているため、なかなか予約が取れない宿であるのだ。

(……の割に、車内は空席が多いのぅ)

 と矢向が考えていると、窓の外を夢中で見つめていた楓が尋ねた。

「矢向さん、あれよね、あたしたちが泊まる宿って」

 それにつられ矢向も窓の外から見える洋館を眺めながら答えた。

「うむ。そのようじゃな。なるほど、重厚な雰囲気を持つ洋館じゃな。宿とは思えんなぁ」

「うん。あたしこんなの初めて見たわ。貴族って感じがするわね」

 バスはゆっくりと敷地内に入り、ちょうど洋館の目の前に到着した。

 洋館の入り口付近には使用人が数名、出迎えに立っているではないか。

 楓と矢向はバスを降りると、颯爽と現れた若い男性の使用人に挨拶され、屋敷内に案内された。

 レンガ造りのレトロな雰囲気を思わせる外観を眺めた後、屋敷内に入る。室内も外観と同じように歴史を感じさせるものであった。年季が入りしっくりと馴染んだ木製の家具や白い壁が天井から降りている大きなシャンデリアの淡い灯りにより、一層引き立って見えた。

 フロントで手続きを済ませると、二人は早速部屋に案内された。

 この屋敷は三階建で、客室数は七部屋あるらしい。三階に二室。二階に三室、一階に二室あるようだ。屋上もあるようだが、現在は屋上内を修理しているということもあって三階より先の階段へは立ち入り禁止の警告がかけられている。

 三階の二部屋はスイートであるが、今回楓らが泊まるのは、二階の一番右奥にある一般的な客室である。

 室内はおよそ十二畳の空間にベッドが二台、机が一台あり、壁には薄型のテレビがかけられている。二台のベッドの間には小さな台があり、そこにはレトロな電話が置かれている。プッシュ式ではなく、ダイヤルを回すタイプの電話である。

 室内の家具は新しいが、色調を合わせてあるので然程違和感はない。違和感があるとすればテレビだが、今の時代、テレビがないなんて環境の方が珍しいので、これは仕方の無いことであろう。

 黒電話をみた楓は、早速弄りまわしている。

「矢向さん、この電話、ダイヤルが押せないわよ」

「それは押すんじゃなく、回すんじゃよ。今はめっきり少なくなったが三十年くらい前まではそれが主流じゃったんじゃよ」

「へぇ。初めて見たわ。こういう電話。なんか昔にタイムスリップしたみたいね」


 現在の時刻は午前十一時――。

 昼食までまだ時間があった。そのため、二人は屋敷内や屋敷の外を簡単に散策することにした。

 エレベーターはない。故に階段を使い一階まで降り、一旦屋敷の外へ出た。ここからでは海は見えないが、そう遠くないところに海があるようだ、微かに潮風が感じるような気がした。

 屋敷の外は、バスが通ってきた道以外、雑木林に囲まれて何も見えない。その雑木林は入っていくのが困難なほど草木が生い茂っているため、屋敷を絶海の孤島に建っているかのように思わせている。

「外は何もないのね」

「うむ。どうやら外へ出てどこかに行くには、あのバスに乗って駅に行ってから行くしかないようじゃな。なるほど、だからバスの中は客が少なかったんじゃな」

「どういうこと?」

「なぁに、簡単な話じゃよ。皆、先に色々回ってから最後にここに来るんじゃよ。その方が行ったり来たりしなくて良いから合理的じゃろ。恐らく夕方過ぎになればこの屋敷は客人でいっぱいになるじゃろう」

 二人は再び屋敷内に戻り、一階から散策を始めた。

 一階フロアは入り口から見て右方向にフロント、使用人部屋や休憩室がある。入り口から真っ直ぐ先には階段があり、そこから上へ移動できる。客室が二部屋だけあり、それは左の奥の方に見えた。

 階段の隣には、もう一つ部屋があるようだ。

「ここが食堂のようじゃな」

「うん。なんかレストランみたいね」

 食堂は二十畳程の空間で、真紅のカーペットが敷かれており、中央には実際に使用できる暖炉が設置されている。テーブルは五席で客室数よりも少ない。左右には大きな出窓が三つずつあるが、カーテンが閉まっているので外の景色は見えない。

「ここって昔は誰かが住んでいたのかな?」

「恐らくそうじゃろう。それが華族や貴族制度が終わりを告げたことで、徐々に衰退し誰かに買い取られ、結局はホテルと化したわけじゃな」

「でも、幽霊はいないようね」

「そのようじゃな。気配はおろか痕跡もない。つまり、この屋敷に曰くはない。時代の流れと共に静かに消滅していった証拠じゃな」

「良かったぁ。せっかく旅行に来たのにお化け騒ぎになったら大変だもんね」

「ほっほっほっ。そのとおりじゃな」

 二人は階段を上り、自室がある二階を通り過ぎ、三階へ向かった。

 階段を上ると、直ぐに大きな出窓が見える。食堂にあったものと同じようなもので、窓と窓の間のスペースにランプが取り付けられている。それが、年季の入った木の窓枠を、より重厚なものへと変えている。

 客室は左右に二つある。中に入ることはできないが、ドアの形状から一般的な部屋では無いことは一目瞭然であった。とにかく大きいのである。

 階段にはまだ続きがあったが、警告札が下げられ、これ以上、上に上がれないようになっていた。

「ねぇ、矢向さん。この上にも何かあるのかしら?」

「うむ。これだけ大きな屋敷じゃ、大きな屋上があってもおかしくはないじゃろう。じゃがいけないようじゃな。工事か何かをしてるんじゃろう。こういう屋敷は古くから建っているから維持し、修繕するのが大変なんじゃよ」

「ふ~ん」

 楓が納得し、下へ降りようとすると、ある人物から声を掛けられた。

「お客様、どうかされましたか?」

 二人がフッと声に導かれ振り返ると、そこには執事服姿の青年が立っているではないか。どうやらここの使用人の内の一人のようである。ほっそりと背が高く、髪がやや長い、中性的な青年である。その中性的な雰囲気に似た柔らかい声をしている。

 咄嗟に楓が尋ねる

「あのぅ。この上って何があるんですか?」

「ああ、この上ですか。実は今までは殺風景な屋上であったんですが、現在庭園として利用しようと考えておりまして、その工事を行っているんです。ほとんど完成はしているのですが、オープンは来月なので、一般のお客様はまだ入ることは許されていないのですよ」

「なぁんだ。入れないんだ」

「申し訳ありません」

 使用人の青年は深くお辞儀をした。すると、矢向が話しを変えた。

「今は客人が少ないようじゃが、他の客人たちはどうしておるんじゃ?」

「ええ。多くのお客様は先にこの付近を観光されてからこちらに向かわれるのです。ここは少し温泉街から離れておりますので……」

「なるほど……」

「もし、用事があるのであれば車を回すこともできますが、いかがされますか?」

「いいや、良いんじゃよ。わしらはここで気ままにやるつもりじゃから」

「そうですか。ですが、何かありましたら直ぐにお申し付けください」

 青年はそう言うと、優雅に一礼をし去って行き、再び二人だけになった――。

 午後十二時半 ――。

 楓と矢向は昼食を取ろうと、一階にある食堂へ向かった。真紅のカーペットに足を踏み入れると、中には数名の客人らが既に昼食を取っていた。

 楓も矢向もメニューを見てパスタを選んだ。コースやら、なんやら色々あるが横文字だけで写真がなく良く分からなかったからだ。

「矢向さんって食べ物には詳しくないのね」

「わしゃ、どうもこういった畏まったものが苦手でのぅ」

「あ、それ何となく分かる。逆に疲れちゃって味が良く分かんなくなっちゃうもの」

 ふと横を見ると、隣のテーブルではバスの中ですれ違った少年の一家が昼食を取っている姿が見えた。じっと見つめると、名前も知らないような料理を器用に口へ運んでいる。全体的に優雅さを感じた。

 少年と母親、父親であろう。全体から優雅さを感じる、物静かに昼食を取っているのだ。

 父親らしき男性は、少年の歳から換算すると四十歳台後半に思えるが、ビシッとしたジャケットとスラックスに身を包み、もっと若々しく感じた。

 母親も同じで、小奇麗なワンピースを着て、その上に淡い色のショールを身に纏っている。白髪も一本もなく、ブラウンに染まっていてスタイルも抜群に良く見えた。

(きっと、どこかのお坊ちゃまなんだわ。たぶん頭も良くて、名門の中学かどこかへ行っていて、お金持ちで……。お母様なんて呼んじゃうのよ。ああ、忌々しい! しかも、バスの中であたしを滑らせて笑いものにしようとしたし、性格悪いわ)

「ねぇ。矢向さん。午後からどうする? ここじゃ何もできないわよ」

「う~む。そうしたらわしらも車を出してもらって温泉街の方へ行ってみるとするかのぅ。どうせ夕方までは自由にできるのじゃから」

「はぁ~、こんなことなら、なんか事件でも起こってくれないかなぁ。それなら退屈せずにすみそうなのに」

「そんな縁起の悪いことを言っちゃいかんよ。何もないってことは良いことじゃ。お嬢ちゃんだって前回の事件で身に沁みて感じたはずじゃよ」

「それはそうだけど、せっかく少しずつ能力も鍛えられてきたのに、それを使うことができないのはもったいないわ」

「ほっほっほっ。お嬢ちゃんは好戦的じゃなぁ。なぁに、いずれ使う機会だってあるさ。ただね。わしらの力は使わずにすめばそれに越したことはない」

「どうして?」

「魔術なんてものは信じている人間が少ないからさ。だからと言って使えば皆直ぐに信じてくれるとは限らない。むしろ逆で奇異の目で見られるだろう」

「じゃあ、自分の為に使えば良いんじゃないの? 例えば宝くじを当てるとかさ……」

「確立を操れるということか。仮に、そんな都合の良い力があったとしても、持たん方が良い……」

「え? なんでよ。宝くじが当たるのよ。三億円よ! さ・ん・お・く・え・ん。一生働かなくても良いんじゃないかしら」

「まぁ、お嬢ちゃんに言っても仕方がないかもしれんが、確立を操れるというのは、なんでも思い通りにできるということなんじゃよ」

「あら、それならもっと良いじゃないの」

「いいや違う。思い通りに事が進むというのは何も良いことばかりではない。むしろ逆じゃ」

「逆?」

「ああ……。それは……」

 矢向が話しをしようとすると、

「お待たせしました」

 と、注文した料理が運ばれてきてしまい、話しは中断された。トマトソースの酸っぱくて食欲を誘う良い香りが、なんの話をしていたのか一気に忘れさせた。

「おいしそう。いっただきまぁーす」

 二人は昼食を頬張った――。

 午後、二人は外へ出ることはしなかった。面倒だったし、雲行きが怪しくなってきたからである。

 自室のベッドで横になりながら、テレビを見ながらごろごろしていた。

「雨、降りそうね」

「そのようじゃな、外へ出なくて良かったのぅ」

「まぁね。でもなんだか退屈ね。テレビって家でも見れるし」

「そんな風に言っちゃいかん。時間があるというのはありがたいことなんじゃから」

 夕方になると雨も本降りになり「ザー」という音が室内にまで響き渡った。同時に沢山の宿泊客が訪れ、邸内は賑やかになっていった。

 それでも退屈さは免れなかった。

(ああ。ホント退屈! 矢向さんったらまた本なんて読んで、一体全体どうしてこんな環境であんなにゆっくりとくつろげるのかしら)

 時計を見るとまだ五時半だ。

(はぁ。やっぱり薄型テレビが当たればなぁ。そっちの方があたしには良かったな。やっぱり、思い通りになる力あれば完璧じゃないの)

 楓の退屈と思う心が魔を呼び覚ましたのかは分からない。

 今から数時間後の午後八時に、事件は発覚することになるのである。駅から離れ、絶海の孤島と化した、この寂しい空間の中で――。

 午後六時――。

夕食の時間帯である。邸内は既に満室になり宿泊客で混雑している。ざわざわという喧騒を切り裂いたのは、三階から聞こえた怒声であった。

その声は、昼間食堂でみた少年の一家が泊まる客室から聞こえてきたのである。

あまりに大きな怒声であったため、喧騒はピタッと鳴りやみ、次いで使用人が部屋へ向かうために階段を上る音が聞こえてきた。

「何かあったのかしら?」

「わからん。だが、わしらには関係の無い話だろう」

 それでも楓は気になって仕方がなかった。退屈さがピークを迎えたことも、大きく影響していたのだろう。楓は飛び起き、一目散に部屋の外へ出て行く。

 それを見た矢向の、

「お、お嬢ちゃんどこへ行くん……」と言う声も最後まで聞かず、三階の方へ向かった。

 同じことを考えている人が多かったのか、既に数名の中年女性のやじ馬が遠巻きに階段から部屋の方を眺めている姿が見えた。

(これじゃ、あたしもおばさんと考えることが一緒ってこと?)

 楓はそんなことを考えながら、おばさんたちの脇を一気に駆け抜け、三階まで辿り着いた。ちょうど、その時だった――。

 何か鈍い音が聞こえたかと思うと、

「貴様は黙っておれぇ!」と言う耳が痛くなるような怒声が聞こえたのだ。

 声の正体は、例の少年の父親で、鈍い音の正体は父親が使用人を殴り飛ばした時に発生した音であった。

 ドアのところに顔面を抑えている使用人の姿が見えた。

(あの人は、昼間あたしたちにこの付近のことを教えてくれた人だわ)

 直ぐに別の使用人たちが現れ、楓の脇を通り抜けていき、怒り狂っている男性を沈めるために部屋に向かっていった。

 楓には何が起きているのかよく分からない。少年の父親が、母親が少年と喧嘩をして怒鳴り散らしているかもしれない、と考えていると、

「やれやれ……」

 という声がすぐ横で聞こえた。その方向を見ると少年の横顔が見えた。背丈がほとんど一緒なので本当に目の前に顔が見えた。

 やや幼さが残る端正な顔立ちに、長い前髪が覆い被さり影を作っている。

「仕方のない人たちだなぁ。せっかくの旅行だってのに……」

 少年の口調は、まるで他人に対して言うような感じであり、同じ血を分けた両親に向かって言うようには思えなかった。

 楓が少年のことをずっと凝視していると、少年はその視線に気が付いたのか楓の方を向いた。

「何か用?」

 楓は怒声が聞こえた方に目を向けながら尋ねた。

「あの声って、あなたのお父さんじゃないの?」

「そうだよ」

「お父さんなのに、なんでそんなに冷たい口調で物を言うことができるのよ?」

「そんなのは君に関係ないだろ。それに毎回こうなんだ。いつも父は母に乱暴する。そして母は黙って殴られる。……もう、いい加減慣れちゃったんだよ」

「慣れったって……。お母さんが可哀想じゃない。あなた止めなくて良いの? 使用人の人が何人か向かって行ったけど」

「無駄だよ。止められっこない。いつもこうなるんだから。嵐は過ぎ去るのを待つしかないんだよ」

 少年はそう言うと、本当に赤の他人のように傍観者に成りすまし、怒声が聞こえる客室を無言で見つめていた。

 確かに嵐は過ぎ去った。午後七時半を迎える頃には怒声や喧騒も収まり、少年の部屋からはぞろぞろと使用人が現れていた。その中に例の青年の姿があった。頬が真っ赤に腫れている。思い切り殴られたようだ。

 その姿をやり過ごすと、階段に座りこけていた少年は立ち上がり、部屋の方へ向かっていく。その姿を見ながら楓が尋ねた。

「あなた、部屋に戻るの?」

 少年は振り返り、

「ああ。だって、あそこは僕の部屋だもの……」と、言い残しドアの向こうへ消えて行った。

(ホント、変な人……)

 楓はそう思いながら、無言でその場に立ち尽くしていた――。


          *


「……ってな事が起きたわけよ。矢向さん、どう思う?」

 楓は一階の食堂で牛ヒレのステーキを頬張りながら矢向に尋ねた。

「お嬢ちゃんも物好きよのぉ。そんな輩は放っておけば良いのじゃよ。触らぬ神に何とやらじゃよ」

「あ、でもあの人たち食事の時間なのに、ここには現れないのね。そりゃあんなことがあった後だから行きづらいか」

「ああ、なんでもスイートの客のディナーは客室まで持っていくらしいんじゃよ。だから、わざわざここまで来なくても良いんじゃろう」

「え、そうなの? あの使用人のお兄さんなんて、思い切り殴られてたのに、またあの一家に関わらなくちゃならないのね、可哀想に。だって、どう考えても普通じゃないわよ。あの一家。それにあの少年も」

「なるほど、まぁ、世間には色んな人がいるってことじゃな」

「ああいうのって、何かに憑りつかれていることはないのかな?」

「いや、それはない。万が一、あの一家の主の癇癪が、悪霊や魔術によるものだとしたら、わしらはそれを感知することができる。じゃが、そういったものは一切感じることができない」

「つまり、一切魔術的な現象は関係ないってこと?」

「うむ。まぁそう言えるだろうな」

「操られているってことはないの? なんか遠隔操作みたいなことで」

「その可能性もないだろう。もし魔術師が別にいて、彼らを操作しているのだとしたら、その魔術の根源を探っていけば良い。わしらはそのために日々訓練を重ねているから、前回のようにはいかんじゃろう」

「前回のよう?」

「そう。前回の事件を思い出してほしい。千代さんが復讐のために呼び出した悪魔が、鹿嶋田邸をはじめ、鹿嶋田教授、千代さんらの幻覚を作り、操っておったじゃろう。わしは魔術に対しての知識があるが、その使い方を完全に心得ていたわけではなかった。じゃから、屋敷全体に漂う異様な現象が、すべて悪魔によって引き起こされている魔術であるということに気が付かなかった。魔術というのは、全体的に眺めるのではなく、根源を追っていかなければならんのじゃよ」

「じゃあ、何も感じないってのは、やっぱり魔術的なことが原因じゃないんだ」

 矢向はグラスに注がれた血のように赤いワインを飲みながら呟いた。

「強いて、一つだけ可能性があるとすれば……」

 楓の手が止まった。

「え? 可能性はあるの?」

「ああ。じゃがほとんどありえないじゃろう」

「一体どういうこと?」

「うむ。魔術を知っているが、魔術を行っていないをという場合じゃ。これだとわしらからでは判別しようがない」

「どうして?」

「魔術師かどうかを図るには、魔術を行ってもらわなければならん。そうしないと判別できないんじゃよ。じゃがね……」

「だけど、何?」

「本当の魔力を持った人間なんてものは、この世に数%もおらんのじゃ。だから、こんな所でばったりと出くわす確率は恐ろしく低いじゃろう。お嬢ちゃんが福引を当てた確率よりもうんと低い」

「そっか、まぁ確かに、魔術とかお化け騒ぎは多かったけど、あたしの周りで魔術が使えるのは矢向さんしかいないものね」

「そういうことじゃな。じゃから、そんなことは気にせんで旅行を楽しむに尽きる」

「そうね。そう考えたら余計にお腹すいちゃったわ」

 楓らが仲良く食事をとっている最中、ある人物によって着々と事件は進み、屋敷を侵食していった。だが、まだこの時は誰もその事に気が付くはずもなく、平和な時間をそれぞれが過ごしていた――。

 食事を終え食堂を出ると、上の階から配膳台をガラガラと運んでくる使用人とすれ違った。その使用人は先程、スイートに泊まっている客に殴られた青年であった。

 配膳台の上にある料理は食べられているものと、全く手がつけられていないものがある。楓がその様子を見ていると、青年がその視線に気が付いたようであった。にっこりと微笑みながら尋ねた。

「御食事は如何でしたか?」

「うん。とっても美味しかったわ。あたしこんなにおいしい物を生まれて初めて食べたわよ」

「それは良かったです。明日の朝も美味しものが出るので是非御賞味下さい」

 楓も笑顔になりながら答え、ふと配膳台の方を眺めた。

「あれ、誰かしら、全く手を付けていないじゃない」

 青年はばつの悪そうな顔で答えた。

「え、ええ。まぁ」

(きっと、あの一家の誰かだわ。全くこんなおいしい料理を残すなんて)

「お兄さんも大変ね。殴られたり、食事を運んだりして。せっかく料理を運んでも食べないなんて最低ね。でも頑張ってね。お兄さんは何にも悪くないんだから」

 楓がそう言うと、青年はにっこりと微笑み、奥の方へ消えて行った。事件発生の一時間前のことであった――。


          *


 部屋に戻った楓は何となしにカーテンを開け、窓の外を眺めようとしていた。窓の外はすっかり真っ暗で、室内が明るいため、窓ガラスは鏡と化し楓を映しこんでいた。。映し出された自分の向こう側には闇が広がり、さっきまで降っていた雨が止んだようであった。

「そういえば、雨やんだみたいね」

「言われてみれば、そうじゃな。良かったんじゃないかのぅ」

 時刻は既に午後八時を回っていた。

 室内にはシャワーの設備があったが、一階の別フロアに共同の大浴場があるとのことなので、そっちの方へ行ってみようと、楓はタオルや着替えを準備することにした。

「矢向さんも大浴場ってとこに行ってみる? あたし、これから行ってくるけど……」

「お、そうじゃな、わしも行ってみるとするかのぅ」

 二人は部屋の電気を消し、鍵を持ち室外へ出ようとすると、さっきまで外を眺めていたため、カーテンを閉めるのを忘れていることに気が付き、慌てて窓へ近づき、カーテンを閉めようとした。

 その時、楓は特に窓の向こうを意識したわけではなかった。早く大浴場に行こうとしていたため、サッとカーテンを閉めようとしたからである。

 しかし……、

(あ、あれ? 今、何か見えなかった?)

 カーテンを素早く閉めようとした際に、窓の向こう側から何かが見えたような気がした。巨大な蝙蝠のように見えたので、再びカーテンを開けてみたが、気のせいであったのか、窓の向こうには立ち尽くす自分の姿しか見えなかったのである。

(う、やっぱり気のせいか)

 室外から矢向の声がする。

「お嬢ちゃん、どうかしたのかい?」

「いいえ、なんでもない。直ぐ行く!」

 楓は急いで部屋の外に出て行った。

 大浴場というのは名ばかりで、旅館にあるようなたくさんの種類のお風呂がある場所ではなく、こじんまりとしたものであった。考えてみれば、このような昔の西洋風の屋敷に大浴場があることの方がおかしいのである。

 少なからず、楓はショックであったが、せっかく来たので仕方なく湯船につかることにしたのであった。

 楓が浴場から出るときには、既に矢向が一階のロビーにあるソファーのところで待っていた。ちょうど八時半を迎える時であった。

 一階ロビー全体が慌ただしい空気に包まれている。既に全員がチェックインしたというのに、フロントがざわつき、多くの使用人が顔を出している。

 それを見た楓が尋ねる。

「何かあったの?」

「良く分からんのじゃが、わしが風呂から出た時には既にこうなっておった。もしかしたら例の一家がまた暴れだしたのかもしれんな」

「ええ。まさか。もう八時過ぎているのよ。ホントに迷惑な家族ねぇ」

 そんな話をしながら、再び自室へ戻ろうと階段を上っていくと、少年とすれ違った。昼間あった時と比べると、幾分か疲れているように見える。

「ね、ねぇ!」

 咄嗟に楓が声を出すと、少年は振り返った。

「え、な、何?」

「あなた、なんでそんなに慌てているの?」

「き、君たちは今どこへ行っていたの?」

「あたしたちは一階の大浴場へ行っていたのよ。それがどうかしたの?」

「大浴場だって。ねぇ、そこに僕の父はいなかった?」

「父親……、あたしは分かんないけど、矢向さん、いた?」

 楓がそう尋ねると、矢向が首を左右に振りながら答えた。

「いいや、浴室に君のお父上はおらんかったよ。すれ違ってもいないから、今もいないと思うが……」

「そうですか」

 少年はわざとらしく機械的にガクッと肩を落とした、その姿を見た楓が、

「何かあったの?」

「いや別に……」

「嘘、何かあったんでしょう。言いなさいよ。もしかしたら手伝えるかもしれないんだから」

 少年は指先で軽く額を拭った後、

「実は僕の父がいなくなってしまったんだ」

「いなくなった? どうして?」

「例の喧嘩がまた起きたのさ。今回は母を殴り飛ばした後、怒ってどこかへ行ってしまったんだ。まぁ、いつものことだから特に気にしてはいなかったんだけど、未だに帰って来ないんだよ」

(それで使用人さんたちが騒いでいるわけね)

「分かったわ、それでこの屋敷の中で探していないところは?」

「うん。三階と二階は大体探したんだ。探していないところは客室と、一階のフロアだけだよ」

「そしたらあなたは浴室の方へ行ってみてよ。あたしたちは食堂の方を探してみるから」

 楓はそう言うと、食堂の方へ向かって行った。食堂は営業時間を終えたというのに、明かりが点いており、中には数名の使用人がいた。彼らも少年の父親を探しているようだ。

「ここにはいないようね……」

「うむ。そのようじゃな。何か変な話じゃな……」

「変?」

「ああ。この屋敷は一般的な家庭に比べれば大きい部類に入るであろうが、決して誰かが隠れられるほど大きいものとは思えない。なのにこれだけの人数をかけてお父上を探しているというのに、未だに見つからないというのはおかしな話じゃな」

「確かにそうね。もしかして、怒って帰っちゃったんじゃない? 今頃新幹線の中だったりして」

「ありえん話ではないかもしれな」

 すると、後方から声が聞こえた。振り返ると使用人の青年が立っていた。

「それはないですよ。ここから駅までは相当離れています。この屋敷に長く務めている私でも、今まで一度として歩いて帰ったことはありません。しかも、この真っ暗闇の中をここに来て間もない方が歩いて帰るなんてことは考えられませんよ」

 それを聞いた楓が尋ねる。

「駅までは何キロくらいあるんですか?」

「大体五キロ弱といったところだよ」

 顎鬚を擦りながら矢向が、

「五キロか……、それだけの道をこの暗闇の中、歩いて帰ったというのは考えにくいな」

「ええ、そうなんですよ」

「君たちは大勢で屋敷内を探しているようじゃが、他に探していないところはないのかい?」

「残りは各々御泊り頂いている皆様の客室ですかね。外は真っ暗ですし、駐車場の方も考えられますが、先程別の人間が見に行った際には誰もいなかったとのことです」

「客室の線は薄いじゃろう。見知らぬ人間を匿うメリットが他の客には何もない」

 そこで楓が、

「屋上は?」

「屋上? でもあそこは鍵がかかっているし、工事中だから入れないんだよ」

「でも、一応探してみたの?」

「いいや、まだ誰も入っていないと思うけど」

「じゃあ、念のため行ってみましょうよ」

 楓がそう言うと、青年はフロントへ走っていき、鍵を持って再び現れ、

「よし、行ってみましょう」

 三人は屋上に向かって駆け出していった。上へあがる際に、それぞれの使用人が客室をチェックしに行っているようだ。二階にも数名の使用人がいる。

 三階を駆け抜け、警告の札を飛び越え屋上へ向かう。青年は急いで鍵を開け、ドアを開ける。

 屋上は工事をしているということもあって、何か袋や縄や工具類が置かれていて、同じ屋敷とは思えない。その空間だけ切り離されているように見える。同時に、電気が全く点いていないので薄暗い。

 楓が中に入ろうとすると、青年が楓の肩を掴んだ。

「待って?」

「どうしてよ。ここからじゃよく見えないわ」

「いや、真っ直ぐ先を良く見てよ、なんだろう、あれ?」

 最初に気が付いたのは矢向であった。長年刑事をしていた彼には、横たわる巨大な物体がなんであるか直ぐに分かったのである。

「お嬢ちゃんは、部屋戻っていなさい。これ以上近づいてはならん」

「え、どうしてよ? せっかくここまで来たっていうのに」

「良いから、行くんじゃ」

 いつもとは違う荘厳な声に楓は驚いた。次に、青年も例の物体が何であるのか気が付いたようであった。

「も、もしや……」

「お兄さんや、少しこの子を頼む」

 矢向はそう言うと、ぬかるんだ屋上へ足を踏み入れて行く。近づくにつれてその物体がなんであるのかはっきりしていく。中年の男性である。それも皆が今探している男性だ。

 そして、横たわる物体にそっと触れる。先程まで雨が降っていたので、ぐっしょりと濡れていた。

(ダメか……)

 既にこと切れており、蘇生は不可能であった。死後硬直はまだ始まっていないが、直に硬化し始めるだろう。よく見ると遺体の首には何やら縄のようなもので強く巻かれた跡があるではないか。

(絞殺か。それもかなり恐ろしい力のようだ。それを見るからに犯人は男性か……)

 矢向はそう考えていると、フッと我に返り、楓や青年の方を振り返った。すると、心配そうにこちらを見ている二人の顔がぼんやりと見える。

「警察を呼ぶんじゃ。早くな。あと、この先には誰も入っちゃいかんぞ」

「え? 何? どういうこと? あたしだけ仲間外れにしないでよ、矢向さんったら」

 青年は矢向の声を聞き、急いで下へ降りて行く。それを見た後、矢向は静かにドアを閉め、楓に向かって諭すように告げた。

「お父上がいたのだよ。お父上が……。変わり果てた姿で……」

それを聞いた楓の顔が、ゆっくりと青ざめていった――。


          *


――ドクン、ドクン――

 楓の鼓動は恐ろしいくらいに高まっていた。マラソン大会で全力を出したとしても、ここまで鼓動は高まらないであろうと感じ、自分の心臓ではないみたいに思えた。

(え、どういうことなの? あそこで横たわっている人って、私たちが探している……)

 楓が考えを巡らしていると、それを遮ったのは矢向であった。

「さぁ、お嬢ちゃん。ここから出て行こう。なるべく現場は荒らさん方が良いし、この事は誰にも言っちゃいかんぞ。パニックになるかもしれんからのぅ」

「で、でも……」

 しばらくそうしていると、再び青年が戻ってくる。何人か使用人を引き連れてきており、その中には支配人風の初老の男性がいた。

 それを見た矢向が尋ねる。

「ここの支配人の方ですかな?」

 初老の男性は答える。

「はい。支配人の西府と申します。話は新城君に聞きました」

「新城君?」

「ええ、そこの青年です。あなた方と共に……その、死体を発見したとかなんとか」

「ああ、彼ですか。分かりました。それで警察は呼ばれましたかな」

「はい。ですが一時間程かかるとのことです」

「一時間?」

「ええ、交通状況が悪く、少し時間がかかるようです。ここは少し駅から離れていますし、駅前は夕方からこの時間帯にかけて混むんですよ」

「そうですか、では現場には誰も入れてはいけません。あと、パニックにならないように他の宿泊客に言わぬ方が良いでしょうな」

「ええと、稲城様の奥様や御子息様にはどう伝えれば良いでしょうか?」

(あの一家は稲城と言うのか……)

 と、矢向は瞬時に少年ら家族の名前と顔を一致させた。

「ではこうするとしよう。三階から上の階は関係者を除いて出入り禁止にしましょう。そして、稲城一家には連絡を入れておいた方が良いが、御夫人はパニックを起こすかもしれん。事は慎重に行った方が良いじゃろう」

「は、はぁ。では……」

 西府は新城に向かい、稲城一家を連れてくるように指示を出した。新城はそれ聞き一目散に駆け出していく。

 楓は完全に蚊帳の外であるので憮然としていた。それを見た矢向が執り成すように、

「お嬢ちゃんは部屋に戻っていなさい。直に警察が来るから安心しなさい。わしも警察の人が来たらすぐに部屋に引き返すからのぅ」

「あたし、一応毎日矢向さんの事務所でお手伝いをしているんだけど……」

「うむ。そのとおりじゃ。それは感謝しておるよ」

「それってあたしも探偵事務所の一員ってことじゃないの?」

「まぁ、そう言えんこともないが、お嬢ちゃんはまだ中学生じゃからなぁ」

「歳なんて関係ないわよ。だったら、あたしもここにいたって良いじゃない? それにこの状況を見た後、一人で部屋にいるってのも良い気分しないわ」

「よろしい、ではここにいなさい。その代り静かにしているんじゃよ」

「うん!」

 二人が話しをしていると、新城が稲城一家を連れてくる。暗闇の中、二人の表情は分からなかった。

 それを見た矢向が、

「残念ですが、ご主人はもう……」

 矢向の言葉の重さに、夫人も少年も父が既に亡くなっているということを理解したようであった。意外であったのは、少年がそれ程取り乱したりはしなかったことだろう。

 夫人の方はというと、室内のドアから見える屋上に横たわっている主人の姿を見て、よろよろと貧血を起こしたように倒れ込んだ。

 それを少年と、新城青年が横から支えた。

「お母さん!」

と少年が声を上げた。その顔は青ざめ疲れ切っているように見える。そこで矢向が新城に向かって催促した。

「新城君、御夫人を部屋まで運んでおやりなさい。あと何か温かい飲み物を飲ませてあげると良いじゃろう」

 新城は夫人を支えながら答える。

「は、はい。わ、分かりました」

「それと、お嬢ちゃん、二人を手伝ってあげなさい。良いね?」

 矢向のいつもよりトーンの低い声に楓は、

「分かったわ」と呟き反論することなく新城と稲城少年の作業を手伝い、夫人を客室まで運んで行くことにした。


          *


 稲城一家が泊まる部屋はスイートいうこともあり、矢向と楓が泊まっている部屋とは比べ物にならない位に広々とした部屋であった。寝室と書斎、リビングが分かれているようだ。リビングには一面にカーペットが敷かれ、年季の入った革張りのソファーが二台L字型に設置されている。

 リビングを通ると、左右に部屋が二つ分かれている。右側が寝室。左側が書斎のようだ。どちらにもベランダがついており広々としている。少年が先頭に立ち、寝室に案内する。どうやら右の寝室を少年と夫人が使い、左側の書斎を父親が使う予定であるようであった。

 三人は夫人を寝室へ運んだ。ダブルサイズのベッドが二台ある。その内の一台に夫人を静かに寝かせると、上から布団をかけ新城が飲み物を取りに行くため、室外へ出て行くと室内には楓と少年の二人だけになった。

 重苦しい沈黙が辺りを包み込んでいる。楓は少年になんと声を掛ければ良いの分からなかったのだ。

 すると楓の心情を察したのか少年が口を開いた。

「ありがとう。お母さんを運ぶのを手伝ってくれて」

「い、いいえ。別に気にしないで」

「お父さん、ダメだったみたいだね……」

「う、うん。で、でも、もうすぐ警察の人が来るわ。そ、そうしたら絶対に犯人を捕まえてくれるわよ」

「そうかな?」

「え?」

「警察ってまだ来ていないだろう? もう犯人は逃げちゃったんじゃないのか?」

「そ、そんなことないわよ。大丈夫よ……。た、たぶん」

「ねぇ、君名前は?」

「あたし? あたしは楓。立川 楓」

「僕は稲城 誠 (いなぎ まこと) 中学一年」

「あ、じゃああたしと一緒だね。あたしも今年中学に上がったの」

「そう。ねぇ、君のおじいさんって警察の人か何かなの? 随分中心に立って指示を出していたように見えたけど」

「あ、うん。矢向さんはね、昔刑事さんだったんだけど、引退して今は探偵をしているの」

「君って変な子だね。どうして自分のおじいさんを名字で、しかもさん付けで呼ぶの?」

「あ、ああ。違うのよ。あたしは矢向さんの孫娘ってわけじゃないの。あたし、矢向さんの探偵事務所でお手伝いをしているのよ。それで……」

「ふ~ん。探偵なんだ。探偵なんて実際にいるんだねぇ。ちょっとびっくりしたよ」

 すると、遠くの方からドアを開ける音が聞こえた。しばらく待っていると、お盆の上に何やら飲み物を置いた、新城青年が現れた。湯気とその匂いから温かい紅茶であろうと、楓は察した。

 窓の外を見ると、漆黒の闇が広がっていた――。


          *


 時刻は午後九時を回ろうとしていた。未だ警察は来ていない。それでも邸内は少しずつ異様な空気で覆われていき、他の宿泊客もまた、その空気に飲まれていった。

 邸内が騒がしくなっていった。どこからか秘密が漏れたのかもしれない。だが、今はそんなことを考えている暇はなかった。

(一体誰が殺したのか?)

 矢向が、そう考えていると、稲城少年の母親を運び終えた楓が戻ってきた。

 大雑把に考えると、まず矢向と楓は犯人ではない。それはこの物語の主要な人物だからではなく、犯行時間帯のアリバイがあるからだ。

 稲城 司(いなぎ つかさ 四十五歳が殺されたとされる時間は、恐らく午後五時から六時半くらいの間だろう。

 警察が来ていないし、解剖医が正確に判断したわけではないから確実とは言えないが、死後硬直の具合からみて、そうではないだろうかと矢向は考えていた。

 矢向の顔は余程難しい表情をしていたのだろう。数カ月の付き合いでこういう表情をする時は、何か考え事をしているのだと分かっている楓が囁いた。

「あたしたちは犯人じゃないわよ。だって、ずっと一緒にいたんだし。大丈夫よ」

 矢向は我に返り答えた。

「ああ、もちろんそのとおりじゃよ」

「じゃあ、どうしてそんなに難しい顔をしているのよ?」

「あ、い、いやぁ、こりゃすまんのぅ。考え事が行き過ぎるといつもこうなるんじゃよ」

「考え事って、稲城さんが誰に殺されたかってことでしょ?」

「あ、ああ。そうじゃが、直に警察が来れば解明してくれるだろう」

「でも、まだ警察は来ていないし。少しずつ邸内も騒がしくなってる。ここは探偵さんの出番なんじゃないの?」

「そうは言うがね。こういった事件で探偵が活躍するのはお話の中だけなのじゃよ。実際探偵は蚊帳の外じゃよ」

「で、でも……。一体誰がこんな酷いことをしたんだろう?」

「それも直に警察が捜査してくれるさ」

「ねぇ、矢向さんは何か知ってるんじゃないの? だから、あんな難しい顔をしていたんでしょ? この事件、あたしが見たって変なところがたくさんあるし」

「変なところじゃと?」

「うん。まず一番おかしいところは、例の遺体は誰がどうやってあそこに運んだのかってこと。しかも、遺体は濡れていた。ということは雨が降っていた時に、殺されたってことでしょ?」

「なるほど、お嬢ちゃんは目が良いのぅ。将来は立派な刑事になれるかもしれんぞ。確かにあの遺体には不可解な場所が多い。わしが最初に触れた時、遺体まだ硬直していなかった。死後硬直は通常、死後二時間以上経つと生じる現象なんじゃ。つまり、死後二時間以内に殺されたということなんじゃよ」

「ってことは、事件が起きたとされる六時前後に食事をしていた人たちは、皆、アリバイがあることになるわよね?」

「ああ。そのとおりじゃ、じゃが……」

 その時、ドアをノックする音が聞こえた。楓がドアを開けると、新城が立っていた。

「熱海警察の方が到着いたしました」

 それを聞いた矢向は立ち上がり、ドアの方へ向かう。その後ろに楓も付いて行った。

「それで今どこに?」

「ええ、現場に到着され、捜査を開始しております。そこで、第一発見者であるあなたに用があるそうです」

「よろしい、では行こうか」

 矢向等が屋上へ向かうと、照明機器を設置し、現場の捜査が開始されていた。

 警察の到着で、邸内はより一層騒がしくなり人々は慌てふためき、好奇心旺盛なやじ馬たちが屋上に入ろうと三階付近の階段に集まり始めていた。

 矢向が屋上に行くと、現場の指揮官らしき中年の男が矢向の姿に気が付き、こちらに寄って来て、警察手帳を見せながら尋ねた。

「どうも、私、熱海署の刑事部所属の中原というものです。話は支配人に聞きました。あなたが第一発見者でよろしいですか?」

 矢向は答える。

「ええ。そのとおりです」

「発見された時の状況を教えて頂けますか?」

 そう言うと中原の隣に三十代前半くらいの刑事が付き、メモの準備を始めた。

「よろしいですかな。かいつまんで話しますと、稲城さんが行方不明になり、皆で探していたんですよ。邸内を探しても見つからなかったので屋上へ向かうと、既にこと切れた遺体が横たわっていたということです」

「あなたと稲城さんはお知り合いなのですか?」

「いいえ」

「では、なぜあなたが一緒に稲城さんを探すことになったのですか?」

「簡単な話です。使用人の方が稲城さんを探している最中、邸内は慌ただしくなりました。それ故に何をしているのかこちらから聞いたわけです。すると、稲木氏が行方不明になったということを聞いたので、こちらも協力したというわけなんですよ」

「なるほど、それで屋上へ行った時、遺体を発見したというわけですか」

「そういうことです」

「遺体を発見されたとき、遺体の方はどうなっていましたか?」

「ええ。触れたところ、ぐっしょりと濡れており、硬直は始まっておりませんでしたが、既に事切れておりました。さらに言えば、首には何かで絞められた痕がありましたのぅ」

 中原は頷きながら、

「ほぅ。随分と冷静に判断を下せるのですねぇ。普通、第一発見者は、遺体を見つけたショックと興奮であまり物事を覚えていないのですが……、失礼ですが、お名前とご職業は?」

「名前は矢向 左千夫。現在は探偵業を営んでおりますわい」

「現在というのは?」

「ええ。私は去年まで警視庁に勤めていましてね」

 警視庁という言葉を聴き、中原急にかしこまった表情を見せた。

「矢向さん……、というのは警視庁の刑事部長の……、あの矢向さんでいらっしゃいますか?」

「ええ。まぁ、そんなにかしこまらんでください。既に引退しておるんでな」

「分かりました。では、また何かあればお呼びするかもしれません。その時は宜しくお願いします」

 そう言い残し、中原刑事はビシッと敬礼をし、再び現場に戻って行った。その姿を矢向は楓と共に見つめていた。

 再び、二人は自室へ引き返した。すると楓が不安そうな顔つきで尋ねた。

「ねぇ。矢向さん。もしかしてあたしたち、疑われているのかな?」

「どうしてそう思うんじゃい?」

「だって、あの中原って刑事さん、少し怪しい目でこっちを見ていたわよ」

「いいや。心配することはない。我々は容疑者からは外れておるはずだ。万が一のため、第一発見者のわしを呼んだだけじゃよ」

「どうして?」

「簡単じゃよ。刑事っていうのは二十歳そこいらの若者が直ぐになれるわけじゃない。皆十年以上も経験を重ね、ようやく刑事になるんじゃよ。そういう人間は大抵目が肥えている。勘と言えばそれまでだが、容疑者を見つける目は鋭いものを持っているんじゃよ」

「で、でもそれだけじゃ……」

「大丈夫。恐らく、あの刑事は遺体を見て、触れて直ぐに死亡推定時刻を導き出したんじゃろう。中原という刑事は優秀な刑事じゃよ」

「でも、良く考えると、五時頃はあたしたちこの部屋に居たんだから、アリバイが無くなっちゃうんじゃないの?」

「ああ、そうだが。大丈夫じゃろう」

「なんで?」

「まず、わしらには稲城さんを殺す意味がない。あったこともない人間を、誰が殺すだろうか? 人は意味のない殺人をしない。余程の快楽殺人者を除いてはのぅ」

「ってことは怪しいのは、稲城さん一家……」

「と、一部の使用人という線もある」

「使用人?」

「ああ、屋上には鍵がかけられておった。つまり、屋上には鍵がないと入れないんじゃ。わしらが最初行った時、新城という使用人が鍵を取りに走ったじゃろう」

「じゃあ、一番怪しいの使用人の誰かってこと?」

「それも分からん。だが、少なくともわし等は捜査対象から外れているはずだ。安心しなさい」

 すると、再びドアがノックされた。先程と同じように楓が空けると、新城が目の前に立っているではないか。

「申し訳ないのですが、警察の方からの託けでして、今夜はこの屋敷を出ないでほしいとのことです。宜しくお願い致します」

 振り返る新城に向かって矢向が尋ねる。

「新城さんや、事件の方は今どうなっているんじゃ?」

「良く分かりません。現場には警察の方しか入れないのですが、どうやら我々使用人は疑われているようです」

 それを聞いた楓が話しに割って入る。

「なんで? やっぱり鍵を持っているから?」

「まぁ。それもあるんでしょうけど……」

「他にも、疑われるような理由があるということじゃな?」と、矢向は言い、新城に向かい一枚の紙切れを出した。以前楓にも渡した矢向探偵事務所の名刺である。

 名刺を受け取った新城の目が大きく見開かれる。

「た、探偵さんなのですか?」

「ええ。まぁ。良かったら話してくれますかな? 疑いを晴らすことができるかもしれん」

「ほ、本当ですか」

 そう言い、矢向は新城を部屋に招き入れたのである。空いている椅子に新城を座らせると、新城は意を決し話しを始めた。

 矢向と楓はベッドに腰掛け、その話に静かに耳を傾けた――。

 我が国の年間の殺人事件件数は、およそ千八百件である。統計上、人口十万人当たりの発生率を考えると、一.一〇となり、世界的に見ても最も低い数値が導き出される。

 さらに、自身が殺人事件の被害者となる確率は〇.〇〇〇八%程度であり、宝くじを当てるのと同じくらい低確率なのだ。

 そのため、今目の前にいる新城青年が落胆にしている理由も良く分かる。顔は青ざめ白く不健康そうであるし、疑われ、このまま掴まってしまったらどうしようという感じが、ヒシヒシと伝わってくるようであった。

「まぁ、落ち着いて、とにかく話して御覧なさい」

 と、矢向が答えると、新城は膝の上に置いた拳をギュッと握りしめながら言った。

「わ、分かりました。で、では……」

 時刻は午後十時を回っていた――。新城はチラっと時刻を確認した後、震える声で話し始めた。

「じ、実は、刑事さんの中では既に容疑者が固まっているようなんです」

「なぜ、そう思うんじゃ?」

「取り調べと言いますか、そういう尋問を受けたのが、使用人では僕と、支配人の西府さんで、後は被害者の遺族である少年と奥様だけなのです」

「なるほど、どうして使用人の中では君たち二人だけなのだろう?」

「アリバイがないのが僕ら二人だけなんです。被害者の稲城さんが殺されたとされる五時から六時頃までは、大抵の使用人が夕食の準備や客人の相手に取り掛かるため、使用人室にはいないんです。あの時間、使用人室にいたのは僕だけでした。僕は西府さんに頼まれていた事務の仕事があったので使用人室にいたんです。後は西府さんが支配人室にいたのですが、使用人室と支配人室は別にあるので、お互いがお互いのアリバイを証明することができないのですよ」

「うむ。それで、屋上は鍵がかかっているようじゃったが、それは誰が管理しているんじゃ?」

「特定の人間が管理しているわけではないんです。客室のスペアキーや館内の関係者用のスペースの鍵は、すべて使用人室で管理されています。だから、持ち出そうとすれば使用人ならば誰でも簡単に持ち出せるんです」

「それで、アリバイの証明できない君たち二人が疑われているということだね。なるほど。まぁ警察が考える最もな話じゃ。だがね……」

 矢向は顎髭を弄りながら自身の意見を展開する。その様子を楓も新城も固唾をのみながら見つめた。

「まぁ、警察がどう考えているのか置いておいて、今回の事件はおかしいところがたくさんある。まず、なぜ死体を屋上に運んだのか? ということじゃよ」

 それを聞いた楓が答える。

「う~ん。死体を隠したかったからじゃないの?」

「死体を隠すなら屋上よりも、良い場所がたくさんあるじゃろう」

「え?」

「例えば、この周りには雑木林が生い茂っている。そっちに遺棄した方が、見つかる時間を大いに稼ぐことができるじゃろう」

「つまり、屋上に死体を持っていったということは何か意味がある行為ってこと?」

「その確率が高い。お嬢ちゃんに新城君。仮に君たちが殺人犯に襲われるとしたら、まずどうする?」

 楓は眉をしかめて答える。

「そりゃ、相手にもよるけど、逃げるわよ。大声出して必死になって抵抗するわ」

 それを聞いた新城も答える。

「ぼ、僕も同じですよ。い、如何に僕が男性だからといっても、そういった境遇に立ちあえば恐怖で逃げることが優先されると思うんです」

 矢向は二人の意見を聞き話始める。

「うむ。まぁそうじゃろう。大抵の人間は逃げるし、喚く。皆怖いからじゃ。例え好戦的な人間であっても、自らを鼓舞するために叫び慄くだろうよ。ということはだ、屋上で犯人の稲城さんがやり合えば、必ず声が聞こえるはずじゃ。命を懸けた人間の叫び声を、この空間にいる誰もが聞き逃すなんてことはありえない。事実、誰一人この事件を他の客人に話していないはずであるのに、客人たちは皆、何かがこの邸内で起きたことを察したんじゃよ。それは、邸内を駆け回る慌ただしい音を聞き、異様なものを感じたからじゃろう」

「そんな些細な音でも聞き分ける力があるのに、屋上で犯人と稲城さんが闘う音を誰も聞いていないというのはおかしいということね?」

「そうじゃよ。この事実から導き出されることは一つ、犯人は稲城さんを殺してから屋上に運んだということじゃ」

 楓は困った顔になりながら、ぶつくさと呟く。

「話しがまた振り出しに戻っちゃったわ。やっぱり謎ね。屋上へ死体を運んだっていうのは……」

 矢向はフッとほくそ笑み、

「確かに謎じゃ。じゃが、この際運び方はどうでも良いんじゃよ。もっと重要な意味がそこにある」

「え? どういう意味なの?」

「簡単さ。お嬢ちゃん、君の身長と体重を教えてくれんか?」

「た、体重? な、なんでよ。そんなこと年頃の女の子に聞くもんじゃないわよ」

「それは失敬。まぁお嬢ちゃんはまだ中学生であり体も背も小さい。ということは準じて体重も小さいわけじゃ。そんな子が大の大人である稲城氏を屋上まで運べるだろうか? しかも、誰にも見つかることもなく……」

「確かにそうだわ。稲城さんの背はそれ程大きくないけど、痩せ細った体格ではないわ。恐らく六十キロ前後あるんじゃないかしら。そんな人間を運ぶことができる人間はかなり限られてくる」

 それを、聞いた新城はさらに不安になりながら反応する。

「や、やはり僕が一番怪しいということでしょうか? 容疑者の中で最も体力があり遺体を運べるのは僕くらいしかいないでしょう。西府さんは六十過ぎの高齢だし、稲城一家の少年はまだ小さい。それに奥様は女性だし……」

「ああ。容疑者の中で六十キロ程度の重量がある遺体を運べるのは、新城君だけとなる。他の人間では難しくなるだろう。こうやって考えると、アリバイのある人間であっても、屋上に成人男性を運ぶことのできる人間は限られてくる。今日の客人は大体ご婦人方が多いようじゃし」

 すっかり青ざめた新城は祈るように答えた。

「そ、そんな。で、でも僕は、僕はそんなことしていない。本当なんです!」

 矢向は微笑みながら、新城の肩を叩いた。

「ああ。分かっているよ。第一、君が犯人だとしたらこんな雑なことはしないじゃろう?」

 それを聞いた楓が尋ねる。

「雑?」

「うむ。雑じゃよ。今回の事件はどこか別の場所。例えば、人気がないような所で殺して、屋上まで運んだんじゃ。そんなことができる人間は限られている。仮に新城君が犯人だとしたら、わざわざそんな自身を犯人と特定させるようなことを行うだろうか? 鍵を拝借し、誰にも見つからないように稲城氏を呼び寄せ、殺害し、その後再び静かに屋上まで気が付かれないように遺体を運ぶなんてことは、リスクが高くなるだけで、メリットが何一つないじゃろう」

「確かに言われてみればそうね。わざわざ自分が犯人です。って言っているようなものだもの。それってつまり、真犯人が新城さんに濡れ衣を着せようとしているってこと?」

「恐らくじゃが、誰でも良かったんじゃよ。屋上まで運べそうな人間であれば誰でもね。たまたまそれに新城君が選ばれただけだろう。要するに真犯人は、屋上に運ぶことで自身を容疑者から外してもらいたかったんじゃよ」

「それって、真犯人は小柄でとても大人を運べそうにない人ってこと?」

「ああ。そうじゃ。だが……」

「だが……、なんなの?」

「ここで話は振り出しに戻るんじゃよ。どうやって遺体を屋上に運んだのかだ。これを証明できないと新城君を容疑者から外すことができない。何らかのトリックが行われたはずなんじゃが。それを見破るためにはわしも屋上に行って、もっと微細に現場を調べ、知らなくてはならないだろう。それができれば良いんじゃが……」

 すると、ドアがノックされた。楓がドアを開けると警官が立っているではないか。

「すいません。こちらに新城さんはおられますか?」

 それを聞いた楓が矢向の方を見ると、矢向は頷いた。

「ええ、少し用事がありまして、こちらにお呼びしたんですよ。どうぞ、お入りください」

 警官はドアを開けると答えた。

「ここにいたんですか。新城さん。お仕事中、何度も申し訳ないのですが、中原刑事がお呼びです。一緒に来ていただけますね」

 新城は不安そうに矢向の方を見た。

「ぼ、僕は大丈夫でしょうか?」

「ああ。また取り調べじゃろう。大丈夫。次に戻ってくるまでには、トリックを見破ってみせる。君もしっかりと自信を持って話しなさい。そうすれば何も恐れることはない。君は犯人じゃないのだからね」

「はい。あ、ありがとうございます」

 新城はそう言うと、警官と共に部屋に外へ消えて行く。再び、室内は楓と矢向の二人だけになり、静かに時間が流れた――。


          *


 楓にとって、殺人事件は特別なものであった。大体、普通に生きていればこんな事件に遭遇すること自体が稀なはずだ。楓には生まれながらに高い魔力を持ち、矢向にも扱えないような高度な魔術をも扱うことができる。その高い能力故に多くの魔術現象を引き寄せ、ここ数カ月、彼女は様々な経験をしてきたのだ。

 心霊現象、悪霊退治、そして、自らの魔力の研磨。どれも一般的な中学生が経験するような事柄ではない。だが、彼女の高い魔力がそれを可能にしてきたのである。確率に表せば、決して高いものではない。むしろ引き当てる可能性は低いはずだ。

 楓は今、目の前に起きた事件がどうなっているのか良く分からない。矢向の説明を聞いてただ何となく頷いて、理解にしているにすぎなかった。

 それでも、なんとなくではあるが、彼女自身もこの事件がおかしいのではないかと思い始めていた。

 矢向は事件についての情報をほとんど知らない。現場に入ったのは遺体を発見した時のたった数分だけである。それでも少しずつ紐解いていき、先程、新城に自らの推理を展開したのであった。警察はもっと多くの情報を知り得ているはずである。にもかかわらず、未だに犯人は捕まっていない。

 この事件の犯人が宿泊客や使用人以外の第三者であるとは考えにくい。ここは駅からかなり離れているし、ここに泊まる予定がない人は、夜、わざわざこんな何もない場所に来る必要がないからだ。ならば、犯人は確実に内部の人間であろう。それもかなり限られているはずだ。それでも未だに犯人が見つからないのは不可解であり、不気味な出来事であった。

 ひっそりと静まり返った室内で、楓はベッドの上に横になりながら尋ねた。

「矢向さん。この事件って本当に魔術は関係ないのかしら?」

 椅子に腰かけていた矢向は、楓の方に振り返り答えた。

「魔術?」

「うん。ほら、前に少し言っていたじゃない。この屋敷には魔術は感じないって。もちろんそれはあたしにも分かってる。前に経験した自分家のお化け騒ぎや、松濤の事件なんかも、直ぐに魔術や心霊の仕業だって分かる気配があった。でもここにはそういうのがない」

「そのとおりじゃ、魔術や心霊現象は起きていない……はずじゃ」

「はずって?」

「いや、お嬢ちゃんも言っているとおり、魔術や心霊現象は感知されていない。可能性があるとすれば、わしらと同じ魔術を使える人間が紛れ込んでいるのかもしれん……ということじゃな」

「紛れ込んでいる?」

「まだ分からん。あまりにも情報が少ない。ちょっと外に出てみようか。まぁ屋上には出れるか分からんが」

 二人は自室を出て、三階へ向かう。三階から屋上へ向かう階段には警官が数名立っており、それ以上先には進めないようであった。

 矢向たちの他にも、数名の客が不安そうに状況を見つめ、囁き合っていた。

 次に一階へ行き、外に出てみようとしたが、出入り口にも警官が立っており、出ようとすると遮られた。

「すいません。ただいま事件の調査中なので、誰もここから出してはいけないという指示なのです。申し訳ありません」

(これでは調べようが無いのぅ……)

 矢向はそう考え、仕方なく楓と共に自室へ引き返した。とにかくこのままでは何もできそうにない。

 時刻は午後十時半を迎えた――。

「ねぇ。矢向さん、犯人が複数ってことはないのかしら?」

「可能性はある。複数犯の場合、一番怪しいのは稲城親子だ。というより、それ以外考えられないじゃろう」

「使用人と、稲城親子って可能性は?」

「まぁ、考えられるが、ありえないじゃろう。彼らは昔からの友人というわけでもないし、どこか特別な関係があるわけでもなさそうじゃ。そんな他人同士の関係である彼らが、協力し殺人という非人道的な作業を行うこと自体がおかしい」

「確かに、じゃあ稲城親子ってことかな?」

「そうすると、どうやって鍵を持ってきたということじゃな」

「う~ん。全然分かんないわね。あたしたちも捜査できれば良いのに」

 楓はふと窓を開け、外の空気を室内に入れた。ひんやりと心地の良い風が室内を駆け巡り、楓の頬を打った。

 窓の外を見ると、僅かにパトカーのランプの光が見える。ここはちょうど屋敷の裏側なのでそれ以外は何も見えなかった。

「ああ。ロープかなんかがあれば。どっかに繋いでここから飛び降りれそうなのにね」

「バカなこと言っちゃいかんよ。そんな危ないことはせん方が良い。第一、外に出たりしたら警察に何と言われるか分からんぞ」

 噂をすれば影。であり、ちょうど二人が警官の話をしようとしたところに、警官がドアをノックしてきた。

 楓がドアを開けると、底には中原刑事が立っていた。それを見て矢向が尋ねる。

「何か御用ですかな?」

 中原は答える。

「夜分遅い中、申し訳ありません。矢向 左千夫さん。少しお話があります」

「ん。何の用かね?」

「実は新城さんがですね、探偵と弁護士を勘違いしているようで、我々の取り調べには一切答えず、あなたを通してくれと言っているのです。それで、矢向さんさえ宜しければ、捜査に協力していただきたいと思い、伺ったのですよ」

「まぁ、探偵と言ってもホームズや明智のような『名』は付きませんがな。ごく普通の探偵ですわい。まぁ、それはそれとして、事件の方はどうなっているんですか?」

「実は調査は進んでいるんですが、調べれば調べるほど不可解なことだらけでありまして。全くおかしな話ですよ。こんなことは私も初めてなんですが……」

「おかしい? というのは」

「ええ。簡単に言えば、この事件は宝くじを引くような事件なのですよ」

「ほぅ。それはまた面白い表現ですな。一体どういうことですかな?」

「我々はあらゆる可能性を調べ、最も合理的なものを選びます。大抵、殺害方法は限られるものなので、長く経験すればするほど、遺体を見ただけで、死後どれくらいでどういった方法で殺されたか、犯人はどんな奴かってことを予測することができます。しかし、今回の事件はあべこべです」

「わしも、直接捜査をしたわけではないので一概には言えませんが、似たようなことを感じますな」

「やはり、そうですか。この事件は合理性を全く無視している。すべてが偶然によって成り立ったとしか考えられないのです」

「どういうことですかな?」

「そこで、今までの経験を通したあなたの意見を聞きたいのです」

「でも良いんですかな? わしは探偵であるが部外者なんじゃよ」

「元刑事。それも元警視監の刑事部長ではありませんか」

「過去の話ですわい」

「ええ。実は、この事件犯人はすぐに発見できると思うのですが、どうも妙なところが多いのです。是非、お力を貸していただけないでしょうか?」

「なるほど、分かりました。では、少し捜査状況を聞いてもよろしいですかな? そうすれば力を貸すことができるでしょう」

「分かりました。では、ちょっと事件現場に来ていただけますか」


          *


 矢向と中原刑事が話しをするために、屋上へ向かって行った。楓も付いて行こうと矢向の後をアヒルの子供のようにトボトボと付いて行ったが、屋上へ向かう階段のところで憚られた。理由は簡単だ。重要な話をするから子供は席を外しなさいと言うものだ。

 席を外すといっても行く場所なんてない。仕方なく楓は一人、あてもなくホテル内をさ迷った。外はもう真っ暗だし、第一、警官たちが立ち代り見回りをしていて、外になんて出られそうにない。その他の場所も考えてみたが、目ぼしい場所は見当たらなかった。部屋に戻ろうかとも考えたが、そういう気分にはならなかった。

手持無沙汰になった楓は、一階のフロント付近にあるロビーのソファーにドカッと腰を降ろした。そして、真っ暗な闇が広がる外の景色を眺めた。

(そういえば、稲城さんがいなくなったっていう時間帯に、窓から何かを見たのよね。あれってなんだったんだろう。あぁ。あの時、もっと詳しく調べておけば良かったなぁ。でも、雨降ってたし、面倒だったし……。まぁ今更仕方ないか……時間でも戻せればなぁ……)

 チラッと横を見ると、一階には玄関のところに警官が二名立哨しているのが見えた。さらに、フロントには使用人の男性が難しい顔をして立ち尽くしている。その他に、ロビーに二名の宿泊客らしき初老の婦人が向かい合わせに座り、お茶を飲みながら今何が起きているのかを囁き合っている。皆、一応に事件のことが気になるようであった。

(当たり前か……。だって殺人事件なんて滅多に遭遇するようなことじゃないもんね)

 すると、後ろからこちらに近づいてくる足音が聞こえた。矢向が帰ってきたと思った楓は直ぐに後ろへ振り返ったが、そこに立っていたのは全く別の人物だった。

「大変なことになったね」

 立っていたのは、殺された稲城氏の息子である少年、誠であった。父親が殺されたというのに、なぜか異様な冷静さを保つ誠の様子に、少なからず楓は怪訝なものを感じた。

「それはあたしの台詞よ。あなたの方がどう考えたって大変じゃない」

 誠は首元をポリポリと掻きながら答える。

「ねぇ。前の席座っても良い?」

「……構わないけど」

 楓がそう言うと、誠は楓の向かい側の席に座った。

「それで、なんで僕の方が大変だって思うの?」

「そ、それは。だって、自分のお父さんが……」

 楓は言葉に詰まった。いくら誠が冷静さを保っているとしても、父親が殺されたという事実を遺族の前で口にすることは、如何なものかと躊躇したからである。

 それでも誠は冷静さを崩すことなく、

「構わないよ。僕は大丈夫さ。お母さんも今は良く眠っているし、後は警察がなんとかするはずさ」

「あなた、強いのね」

「強くなんてないよ。ただ、今更何をしたって後の祭りだろう」

「そ、そんなこと……」

「そんなことあるよ。例えば僕が犯人を見つけて、復讐のためにその犯人を殺したとしてもお父さんは蘇らない。だったら、何をしても仕方ないよ。時を戻せるのならば話しは別だけどね」

「そ、そうだけど……。そういうのって気持ちの問題じゃないの? あたしがあなたの立場だったら、絶対にそんなに冷静でいられないわ」

「そうかな?」

「そうよ。犯人を捕まえたいと思わないの?」

「さっきも言っただろ、捕まえたって今更仕方ないよ。それに捕まえられっこないよ」

「どうして? 今警察の人や矢向さんが頑張って捜査しているわ。だから、きっと犯人を見つけてくれる」

「矢向さんって、確か探偵をしている人だっけ?」

「そうよ。昔は警視監……なんたらって役職でとっても偉かったの。今は探偵をしていて、いろんな事件を捜査しているのよ」

 それを聞いた誠は興奮したように答える。

「ふ~ん。まるで明智小五郎や、金田一耕介みたいじゃないか。そんな人が日本にもいるんだねぇ」

「明智? 金田一?」

「なぁんだ。君、探偵さんの知り合いのくせに何にも知らないんだね。江戸川乱歩や横溝正史が書いた小説の中に出てくる架空の名探偵さ」

「名探偵ならあたしだって知ってるわよ。……コナンとか」

「あはは、そうだね。あれはコナン・ドイルと江戸川乱歩が混ざってるんだよ。まぁ良いけど。へぇ、じゃあ君と矢向さんってどんな関係なの?」

「う~んと、知り合いなのよ。それで、あたしは矢向さんがやっている探偵事務所の手伝いをしているのよ」

「つまり、助手ってこと?」

「まぁ、そんな感じよ。だから、直ぐに事件は解決されるわよ」

「君は助手なのに捜査しないんだね。あはは、不思議だねぇ。君は」

 楓は誠の言葉で自分が捜査に参加できなかったことを思い出し、気分が悪くなった。

「あ、あたしは別に良いのよ。あたしにはあたしで別の仕事があるの。放っておいて頂戴」

 明らかに気分を害したような素振りをみせる楓を前に、誠が取り繕いながら答えた。

「なるほどね、ホームズで有名なワトソンもホームズが知らぬ場所で頑張っていたのかもしれないしね。君も頑張りなよ。もし君が犯人を見つけられたら、僕は君を名探偵だって認めてあげるからさ、機嫌を直してよ」

「別に、怒ってなんてないわよ」

「分かったよ。じゃあ仲直りにゲームでもしない?」

「ゲーム? どこで?」

「ここで?」

「ここってテレビも何にもないじゃない?」

「テレビゲームのことじゃないよ。簡単な暇潰しさ」

「暇潰しって何をするの?」

「簡単だよ。ちょっと待ってて……」

 そう言うと、誠はポケットの中から、何やら手には鉛筆のような細長い棒をたくさん取り出した。

「それ何?」

「ペンとナイフだよ」

「それで何をするの?」

「まず、こうしてペンに傷をつける」

 鉛筆はどれも新品であり、削られていないためどれも尖っておらず、割りばしのように真っ直ぐだ。誠はその内の一本を取り出し、その先端にナイフで傷をつけた。

「削るんじゃないの?」

「ああ。傷が付いてるって分かれば良いんだ」

「どういう意味?」

「今、説明するよ。とても簡単なゲームだよ。ここに新品の鉛筆が十本ある。その内、九本はなんの変哲もないただの鉛筆。残りの一本は傷が付いた鉛筆。この十本を、君でも僕でもどちらでも良いから、傷が付いた部分が見えないように持つ。それを持っていない人がくじ引きのように一本引き当てる。普通の傷なしの鉛筆を引いたら、今度は持つ人と、引く人を逆にして、傷ありの鉛筆をどちらかが引き当てるまで交互に行い、先に傷ありの鉛筆を引き当てた方が勝ちってゲームさ」

「なんだ。結構簡単じゃない。先に傷ありのペンを引き当てれば良いわけね」

「そういうこと」

「あたし、くじ引きは強いわよ。だって、ここに来たものくじで当てたんだから」

「そう。でも、その程度で僕に勝てるかな?」

 誠はほくそ笑むように楓を見つめた。

(何こいつ、生意気!)

 と、思いながら楓は意気揚々と、

「良いわ。ならさっさとやりましょう。絶対にあたしが勝ってやるんだから」

「分かった。じゃあ君から引きなよ。僕が最初にペンを持とう」

 誠はそう言うとペンをまとめて持ち、両手でペンをこするように、ジャリジャリとシャッフルした後、傷が見えないようにペンの束を持ち、楓の前に差し出した。

「さぁ、準備は良いよ。君から引いてよ」

「ええ。一発で決めちゃうから」

 楓は舌で上唇をぺろりと舐めてからペンを勘で引いた。

 しかし――。

「残念だね。それは傷なしのペンだよ。じゃあ、次は僕の番」

 真っ新なペンを持った楓は引いたペンを机の上に置き、残りの九本を受け取り、誠と同じように擦り合わせシャッフルした後に、誠の前に差し出す。

「良いわ。引いてよ」

「うん。これで決まると思うけど、良いよね?」

「はぁ? まだ九分の一よ。難しいんじゃないの」

「さぁ、どうかな」

 誠は少し目を閉じた後、カッと目を開き一本のペンを楓の指から抜いた。

 すると、楓の額に汗が滲んだ。

「え? 嘘……」

 誠が持っているペンの先端には、先程付けた傷が付いているではないか。

「どうやら、僕の勝ちのようだね」

「ちょ、ちょっと待ってよ。もう一回! もう一勝負よ。こんなあっけなく終わるなんてルール違反よ。チャラ。こんなの」

「君、無茶苦茶言うなぁ。でも良いよ。もう一回と言わず、何度でも良いよ。僕は負ける気ないけどね」

「その自信をへし折ってやるわ。じゃあ、またあたしからね」

「分かった」

 誠は再び十本のペンを持ち、シャッフルし楓の前に差し出した。

 誠は楓の指の間から一本のペンを引いた。楓は恐る恐るそのペンの先端を見つめた。

(う、嘘でしょ……)

 ペンの先端にはナイフで付けた傷がくっきりと見えている。そして、自分の持っているペンをローテーブルの上にばらまき一本一本、先端を確認していく。

(全部傷なし……。イカサマじゃないってことよね)

 誠の顔を見ると、少年のあどけなさが残る笑顔を楓の方へ向けている。楓にはその笑顔が堪らなくいやしく見えた。

 彼女はこの傷ありのペンをどちらが先に引くかという単純なゲームを行い、未だに一度も勝っていない。既に十回以上勝負をしているのに一度も勝てないなんてことはあるのだろうか?

(そんなことあるわけないわ。きっと何か秘密があるのよ。そう、絶対にイカサマ。それしかない。何かあたしの分からないところでイカサマをしているに違いないわ)

 楓が難しい顔をして考えを巡らしていると、誠が尋ねてきた。

「どうしたの? もう一勝負する?」

「え、あ、うん。もう一回ね」

 楓がそう言うと、誠はテーブルに置かれた鉛筆を寄せ集め、楓の前に持っていった。

「それじゃ、また君からで良いよ」

「ええ……」

(次は絶対に負けない。絶対にね。ちょっと卑怯だけど今回だけは勝たせてもらうわ)

 楓はそう考え、誠の持っているペンを見つめた。彼女はペンを見ているのではない。ペンに付けた印を見ているのだ。

 印といっても誰にでも見えるものではない。魔力が無ければ見えないだろう。

 半年前、楓が初めて矢向と出逢った時、矢向は自身を本物の魔術師だと名乗るために、念力放火能力を行ったのである。

 魔術で何かを物質化させ、それに色を入れるのは単純であり基礎的な作業である。色を顕現化させるのは最もポピュラーな技術だからだ。

 それを利用して、楓は傷ありのペンを確かめる際に握った後からでも見えやすい部位に、色を塗っておいたのだ。真っ青な青色を……。

 そして今、誠が握っているペンの束の中にはハッキリと青色をしたペンが見えている。誠は気が付いていないようだ。これなら間違いなく今度は楓が勝負に勝つだろう。そう思えた。

(あなたが悪いのよ。だって、イカサマを使うんだから。一度くらいあたしが勝っても良いでしょ)

 いざ、楓がペンを当たりのペンを引こうとした時、誠の眉がピクッと動いた。そして、

「ちょっと待って……」

 楓はドキッと心臓を震わせた。通常、ペンを引く時に声をかけるのは御法度である。掛け声でそれが当たりか外れか判別できてしまうからだ。だが、自分で魔術を使い、イカサマをしたという後ろめたい行為が楓を躊躇させ、体を止めさせた。

「君、イカサマしたね。この勝負はなしだよ」

「え、そ、その。ど、どうして……。あ、あなたまさか……」

「と、とにかくこの勝負はなしだよ」

「あ、あなただってズルしてたんでしょ」

「ズ、ズルだって、どこにそんな証拠があるんだよ」

「そ、それは……、そ、その。で、でもあたしの時だってどこにも証拠はないわよ」

「多分。そう、し、印、印を付けたんだろ。君しか見えないように」

 二人が言い争いをしていると、それを聞きつけたのか使用人である新城が慌てて駆け寄ってきた。

「ちょっと、どうしたんだい。君たち?」

 気が付いた誠が答える。

「な、なんでもないですよ。ただ、ゲームをしていて熱くなってしまっただけです。すいません」

「ゲーム?」

 今度は楓が言う。

「うん。どっちが先に当たりくじを引くかってゲームをしてたんだけど、この子イカサマしたのよ」

「違うよ! イカサマは君だろ!」

「ち、違うくないわ。ア、アンタだって! 実はズルしてたくせに。よく言うわよ」

 再び、二人が口論になり始めたところを新城が止めに入った。

「わ、分かったから、口論は止めるんだ。他の御客様のご迷惑になるだろう」

 それを聞いた二人は口論を止めるが、どちらも煮え切らない憮然とした顔つきをしている。それを見て新城はある提案をした。

「よし、分かった。じゃあイカサマなしでもう一度勝負するんだ。審判は私がやろう。それで良いだろう?」

「良いわ。ただ、このペンはすべて取り換えて頂戴。あと、審判じゃなくて新城さんがペンを持ってね。それをあたしとこの子が引きあうから。稲城君、それで良いでしょ」

 腕を組みながら誠は頷いた。

「ああ。良いよ。あと、一つ、ペンに印を付けるのも新城さんにやってもらう。僕らはペンを引くとき以外、ペンに触れてはダメだよ。それで良いだろ?」

「分かったわ。じゃあ新城さんお願い」

 それを聞いた新城が答える。

「やれやれ、君たちは本当に負けず嫌いなんだねぇ。よし、分かったよ。今新しいペンを持ってくるから少し待っててね。喧嘩はしちゃダメだよ」

 新城はそう言って、フロントの奥にある使用人室へ消えて行く。その間、二人は何も話さなかった。

 実はこの時、楓も誠も、お互いがお互いのイカサマの内容を知らなかったのだ。ニアミスである。これが後に事件に大きく関わってくるが、この時はまだ二人とも分かっていなかった。

 ペンを一ケースとトレイに二人分のコーヒーを乗せた新城が帰ってくる。

「喧嘩はしなかったようだね。まぁこれでも飲んで落ち着いて」

 新城はそう言い、二人の前にコーヒーと置き、中央にシュガーケースとミルクを置いた。

「後はペンだったね。これをどうするんだい?」

 問われた誠は、ゲームの内容を首尾よく説明した。新城も直ぐにその内容を把握し、

「分かった。それじゃ直ぐに準備に取り掛かろう。ここに一ダース、つまり十二本の鉛筆がある。その内の一本の先端に、これから僕が君たちには見えないように傷を付ける。そうしたら君たちが順番に引き合うんだ。良いね」

 二人とも新城を見ながら、コクリと頷いた。

 新城は二人から見えないように、別のテーブルへ行き、十二本の内の一本に傷を付け再び二人の元へと帰ってきた。

「準備はOKだよ。じゃあどちらから引く?」

 誠が顎をしゃくった。

「君からで良いよ。レディーファーストってやつだよ」

 それを聞いた楓は頷いた。

「分かったわ。じゃあ、あたしから引くわ」

 新城は両手で十二本のペンを持っている。もちろん今回、楓は全くイカサマをしていないので、一本目に引き当てる可能性は十二分の一である。

 楓はちょうど中央にあるペンを選び引き抜く。しかし、当たりは引けなかった。

「残念。ただの鉛筆のようだね。じゃあ次は稲城君の番だね」

 誠は楓とは正反対に端の方にあるペンを選び引き抜く。

 すると、楓も新城も驚愕の表情を見せた。

「う、嘘でしょ……。こ、こんなことって」

「ど、どうやら勝負は稲城君の勝ちのようだね」

 二人の驚愕した表情を見つめながら、誠は言った。

「どう、イカサマはないだろ。僕はこれでお暇するよ。お母さんが心配だしね。立川さん。さっきは悪かったよ。ゴメン。それに、ありがとうゲームに付き合ってくれて。あ、新城さんもすいません。後、コーヒーご馳走様でした」

と、言い残し、その場から立ち去り階段を上り消えて行った。

 それを見送った後、楓が呟いた。

「完全にあたしの負けだわ……」

「そのようだね。でも楓ちゃんは良い子だね」

「何が?」

「だって稲城君を慰めてあげていたんだろ? それでゲームに付き合ってあげていたんじゃないのかい? なかなかできることじゃないよ」

「そ、そんなんじゃないけど……」

「とにかく、彼はこれから大変だよ」

「大変?」

「ああ……。警察はどうやら彼ら親子を疑い始めたようだからね……」

「そ、そんな……」

 楓がそう呟いた時、屋上にいた矢向がある異変に気が付いたのであった――。


          *


 場面は変わって屋上――。

 楓と誠が一階ロビーでゲームをしている最中、矢向と中原は屋上にて捜査を行っていた。

 屋上内は四方に照明が設置されている。この灯りがなければ、たちまち真っ暗になってしまうだろう。

 その中心に遺体があった跡がある。白いチョークで枠組みだけが書き残されている。どうやら司法解剖を行うために病院へ運ばれたようだ。

「簡単に状況を説明しますと。指紋などの確実に犯人を特定できる証拠は出ていません。ですが、手掛かりになりそうなのはいくつかありますし、大方犯人の予測もできています。順をおって説明しますが、死体の背中に付いた引きずった痕と、床に付いている引きずった痕が一致しています。次は足跡ですが、雨で消えているので、今のところ的確に調査できたわけではないですが。微かに糸の繊維らしきものを見つけました。おそらく靴を脱ぎ、靴下で犯行を行ったのでしょう。さらに、手すりに何かで擦った痕も発見されています。後、犯行に使われた凶器なども見つかっています。

これらの状況から、今のところ、アリバイが無く犯行が行える可能性のあるのは以下の四名です。まず、稲城氏の妻である稲城 雅子(三十八歳)次は息子の誠(十三歳)さらに、このホテルの支配人である西府 信夫(五十七歳) 最後に使用人の一人である新城 充 (二十七歳)になります」

「その四人の中で最も可能性の高いのは誰じゃい?」

「ええ。客観的に犯行を最もスムーズに行えるであろう人物は新城ですが、私の考えでは彼はシロですね。」

「彼には稲城氏を殺す理由がない。ということですな?」

「はい。そういうことです」

「共犯という線は?」

「可能性があるのは稲城親子ですが、御夫人が現在、ショックで倒れ寝込んでいます。とても演技とは思えない。それ以外は稲城 誠と新城、もしくは西府という線になりますが、どちらの場合も可能性は薄いです。稲城氏はここへはじめて来たそうですし、お互いに面識があったわけではないようですから」

「なるほど、それで、あなたが察している犯人というのは?」

「稲城 誠です。彼の話す態度や姿勢を見ていて、何となくそう感じていますね。恐らく科学的に調査が進めば、直ぐに彼を犯人と特定することができるでしょう。

あと、今回の旅行は彼が提案したとのことです。なんでも稲城夫妻は事ある毎に喧嘩をしていたようで、それを収め仲直りするために提案したようなんですよ」

「提案?」

「ええ。なんでも商店街の福引で当てたそうです。それで旅行でもして仲直りしてほしいという願いがあったようなんですね。まぁ、恐らくはここで父親を殺そうと計画はしていたと思うのですが……」

「うむ。それで、死体の背中に付いた跡というのは何かね?」

「はい。矢向さんは第一発見者のでお分かりだと思いますが、死体は入り口から見て、中央に仰向けで倒れていました。そして、背中には引きずった跡があります。ちょうど、入り口から見て右側の柵から中央に向かって引きずられています」

「ほう。では足跡の位置を教えてくれんかね?」

「はい。足跡は入り口から見て中央、それも右端から左端を結ぶように点々と残されていますね。さらに右側の足跡は擦れて消えかかっています。これらのことから右の柵際にあった遺体を、中央に向かい引きずったということが証明されます。歩幅はあまり広くないようですね」

「うむ。なるほど。では、次の質問じゃ。死因と凶器は分かっておるのかい?」

「確実な死因は解剖結果を待った方が良いですが、まぁ、見た感じのとおり、首を絞められたことによる窒息死で間違いないでしょう。さらに、全身を強く打っていますね。ええと、凶器は既に発見しています」

「それはなんだね?」

「ええ。クライミングロープというものです。ホテルの裏側に焼却炉があるのですが、その中から発見しました。焼却炉に放り込まれていたので、かなり形は変形していますが、ポリエステル製のため完全には焼却されず、異臭を放っていました。あとは合繊製と綿製の何かが燃やされていました。恐らく雨よけの合羽と靴下だと思われます。このことから、犯人が靴を脱ぎ犯行に及んだという線が濃厚ですね。現在、鑑識によって燃えカスから捜査が行われています」

「クライミングロープというのはなんじゃい?」

「ええとですね。ロッククライミングの際に使われるロープです。犯行に使われたらしきロープの最大耐荷重はおよそ五百キログラムの一般的なクライミングロープのようです。通常はこれらを複数用意して使用するようですね。それで、ロッククライミングというのは壁をよじ登るスポーツで、日本でもそういう施設がいくつかありますし、人気もあるようですが……」

「ほぅ。壁を上るのならば、強度は高そうじゃな」

「ええ。ポリエステル製で、クライミングで使用されるロープの中では、最もポピュラーなもののようです」

「なぜ、そんなもんを使ったんじゃろうか。ロープならもっと手軽なものがあるだろうに」

「現在はロープの入手経路を調べていますが、これにはまだ時間がかかりそうです」

 そう聞いた後、矢向は屋上内をぐるぐると回った。

(クライミングロープか……)

「中原さん。あなたは先程、この事件が偶然によって成り立っていると告げましたが、それはどう言うことなんですかな?」

 中原は矢向の方に近づいてきて話した。

「ええ。矢向さんも気が付いていると思われますが、普通、人を縛り上げるのにクライミングロープ等というものは使いません。しかも、このロープは長さ数十メートルもあり、人を縛り上げるの使用するにはやたらと長いです。しかも強度が高く処理しにくい。他にもっと安価で処理しやすく、手に入れやすいものがありますから、ということはですよ」

「クライミングロープを使用したことに意味がある。ということですな」

「はい。そうです」

「あなたがどう考えているのか、聞かせてもらえますかな」

「ええ。クライミングロープを使ったということは、殺害に使用しするという目的と、もう一つ、この屋上によじ登る目的があったんじゃないでしょうか? そうすれば鍵を使用する必要がなく屋上に登れます。その証拠に、屋上入り口に犯人の足跡らしきものが無く、中央の右端から左端にだけ足跡が残されています。さらに左側の壁の側面にも何かの繊維が残されていまして、現在調査中ですが、恐らく靴下の繊維だと私は推測しています」

「それで」

「三階の部屋から屋上へはロープを引っ掛ければ登れるのです。恐らく慣れていればロープを使わなくても登れるのですよ。ということは三階に宿泊している稲城親子にも屋上へ上がるのは簡単なのです。いえ、屋上に外壁を伝って登るのであれば、彼らにしかできないのです。これを見てください」

 中原はそう言うと、矢向を屋上の手すりのところへ案内した。

「下を見てください。何かで擦れた痕があるでしょう。ロープの摩擦で付いた痕です。しかもかなり強く引っ張ったようです。対面にも似たような痕跡があります。ロープの繊維と痕跡から微かに出た何かが溶けた痕が一致するかは現在調査中です。早ければ明日には結果が分かるでしょう。犯人はロープによって屋上へ登り、その後、そのロープを使い、稲城氏の首にロープをかけ、引き上げたのではないでしょうか。しかも、ロープ痕の下は稲城氏が宿泊するスイートルームがあります。右側の痕跡の下にはバルコニー。左側の痕跡の下には出窓があります。どちらからでも、簡単に屋上に上がることは可能です。と、考えると、このロープ痕は偶然によって付いたものではないでしょう」

「なるほど、恐らく稲城氏はバルコニーで殺害され、そのまま雨の中、ロープに吊るされた。そして、犯人は屋上の柵にロープを引っ掛け、遺体を吊り上げたということかね? それが事実だとしたら、なんとまぁ大胆なことを」

「ええ。大胆すぎます。それ以上に運に身を任せ過ぎです。ロープの強度を正確に把握し、引っ張り上げる際も余計な時間を取らず、素早く持ち上げ、死体を真ん中に持っていく。そして、ロープを外し、そのロープで自らは壁を下り、室内へ戻る。それを雨の中、誰にも見つからずにそっとやるなんて不可能です」

「確かに、そのようじゃな。周到なシュミュレーションを重ねた結果行き着く境地じゃ。一度や二度試したところでは上手くいかんじゃろうな」

「矢向さん、他に何か考えはないでしょうか? あなたをお呼びしたのもそのためなのです」

「少し考えさせてくれんか」

 矢向はそう言い、再び屋上内を回った。その際、落下防止用の柵を乗り越え、外壁を見渡し、あらゆる角度から分析を始めていた。

 矢向にも一つの推理があった。

 中原の言ったとおり、屋上への侵入経路は間違いなく外壁を伝ったものであろう。出なければわざわざクライミングのロープなど使う必要がない。そして、その綱を使い殺害し再び綱を使い下へ降り、綱を捨てたのだろう。

 大体の考えは一緒であったが、違う点は一つあった。それは死体の引き上げ方だ。一旦屋上まで上がり、そこから死体を引き上げることのできる人間は限られている。女、子供では無理だろう。

 特に、現在寝込んでいる夫人にはロープを使いここまでよじ登ることさえ難しいはずだ。となると、残るのは新城、西府、誠の三人だ。消去法で考えれば、西府は高齢だし、誠はまだ子供だ。残るのは新城になる。だが、新城を犯人にすると、わざわざこんな面倒なことをするだろうかという疑問が起きる。また、矢向が考えているトリックは、新城には行えないのだ。

 というより、矢向や中原の考えたトリックができる人間は、たった一人しかいないのである。

 そう、稲城 誠である。

 しかし、問題がある。それは中原が考えたトリックも、矢向の考えているトリックも無理が多すぎるのだ。とても実践で使えるような手口ではない。他にもしかしたら方法があるのかもしれないが、全く想像がつかなかった。

 矢向が考えている姿を中原は黙って見つめていたが、やがてしびれを切らし、急かすように尋ねた。

「矢向さん、どうですか?」

「良いでしょう。私の考えも説明します。ですが、それほど有益なものになるとは思えませんよ」

「構いません。教えてください」

「よろしい。では説明しましょうか」

 矢向は煙草の煙を吐きだすように一呼吸置いた。

「私の考えも中原刑事が考えているものと大筋は一緒です。じゃが、違う点がひとつある」

「違う点ですか?」

「ええ。それを今から説明しましょう」

矢向は顎髭を触りながら再び話しを始めた。

「まず、最初に聞いておこう。中原さん運動量というのは御存じかな?」

 中原はきょとんとした視線を矢向に送り、

「運動量って、長距離とかを走る時に必要なスタミナのことですか?」

「いいや、それじゃない。力学で使われている単位のことじゃ」

「それはわかりません。化学式なんてとっくの昔に忘れていますし、第一、学生の時もそれ程有意義に勉強したわけではありませんから」

「よろしい。では説明しましょう。わしの言いたいことはこうなんじゃ」

「お願いします」

 矢向は屋上全体を張り巡らしている、落下防止用の柵に近づいて行った。

「まずはこちらを見ていただきたい」

 中原は柵を見ながら答える。

「よく見ると、傷やがひどいですね。経年の傷で擦れ痛んだんでしょうか?」

「経年の傷だけではないんじゃ。こっちを見ると新しい傷もある」

 矢向はそう言い、柵の外側を指差す。

「何かがぶつかったんじゃ。だが、これだけでは良く分からんじゃろう。わしの推理を説明しよう」

 傷を見せた後、矢向は再び話し始めた。

「まず、犯人は稲城氏をロープで絞め殺した後、遺体の首のロープをそのまま巻いたままにした。そして客室のバルコニーに寝かしておいたんじゃ。バルコニーの前には森しかない。故に他の客が気がつくということはまずない。その後、犯人は屋上へとロープを持ち、よじ登る。ここまでは中原さんと同じじゃが、違うのは次の点……」

 中原は固唾を飲んで見守っている。

「屋上へと上がった犯人はロープを落下防止用の柵にかけ、さらに対面にある柵にもロープをかけた。故に、ロープが首に巻くだけにはいらないくらい長いんじゃ。この時、ロープは屋上の柵の上にピンと張ったはずじゃ。そして、死体を引き上げるために犯人は屋上から三階の出窓に向かって飛び降りる」

「と、飛び降りる?」

「まぁ、最後まで聞きなさい。ここで先程言った運動量の話が出てくる。運動量を求める公式は運動量[kg・m/s]=質量[kg]×速度[m/s]となるんじゃが……。つまり、飛び降りた際に発生する力を使い、遺体を引き上げたということじゃ」

 公式を聞いた途端、中原の目が点になり、頭上にははてなマークが見えそうなくらい怪訝そうな顔つきになった。

「まず、飛び降りた際に発する速度じゃが、ここから三階まで飛び降りるのには、まぁ一秒かからんじゃろう。この時の加速度はおよそ9.8m/sじゃから、飛び降りた際に発生するであろうあろう力は、体重六十キロの場合、運動量=60キロ×9.8じゃから……、ええと、588キロとなる。こうなるとロープの耐荷重をオーバーするからロープが切れる可能性が強い」

「犯人は体重が軽い人間ということですか?」

「ああ。そう言うことになる。容疑者の中で体重が最も軽いのは誠君。次に稲城夫人じゃ。稲城夫人には失礼じゃが、彼女の体格を見ると、年相応で約五十キロはあるじゃろう。先程の公式を使い、五十キロの場合を考えると、運動量=50キロ×9.8になるから、解は490キロになる。ロープの最大耐荷重は500キロじゃから、ギリギリ耐えうるかもしれん。じゃが、不安定な場所にロープは設置され、なお長さがあるのでこれだけギリギリの運動量になると切れる可能性の方が強いかもしれん」

「ということは、誠君ですか?」

「誠君は現在中学一年生。あの年代の男子はまだまだ子供だから四十キロ程度じゃろう。誠君の場合やせ形の体型をしておるから三十五キロ位じゃろうな。公式を使い計算すると、運動量=35キロ×9.8は、343キロとなる。これなら最大耐荷重より150キロほど軽いから、ロープが切れるという心配はまずない」

「やはり、矢向さんも誠くんが犯人であるとお考えなのですね?」

 矢向は一息つき答えた。

「理由はもう一つあるんじゃ。遺体は発見された時、ちょうど真ん中のところに置いてあった。例え、犯人が飛び降りた際に生じた運動量で吊りあげられ、屋上に飛ばされたとしても遺体はちょうど真ん中に来ない。恐らく端に来るはずなんじゃ。だが、中央に遺体はあった」

「確かに現場の状況はそうでした。中央にあれば、誰もが屋上で殺害したと思いますし、捜査を混乱させることができるかもしれない。だから、故意に動かしたのではないでしょうか? 背中には擦ったような痕もありますし……」

「それは簡単じゃ。犯人は遺体を吊り上げた後、もう一度屋上へと戻る必要がある。なぜなら、首に巻いたロープを外さなければならないからじゃ。その際に遺体の重さを利用して、ロープを使い再び、屋上へ戻ったんだ。その際、遺体が重りとして作用し、ずるずると真ん中付近まで引きずられたんじゃよ。じゃから、現場に残されていた足跡の内、右側のものだけが擦れ消えかけていたんじゃ。この時、犯人の体重が稲城氏より重いと、遺体はまた端に動いてしまうので、ダメじゃ。また、軽くても体重が近いと、上る際に発生する力で稲城氏の体重をオーバーするのでダメじゃ。となると残るのは、明らかに体重が軽い……」

「稲城 誠……。ということですね」

「ああ。そうじゃ。というより、今回の事件を総合的に見てみても、この犯行は彼にしかできない。三階に泊まっているし、犯行時間帯のアリバイがない。まず、犯人は彼であろうが、このトリックを証明することはできんじゃろう。第一、何のためにこんな手を込んだことを、リスクを冒してまでやったのかが理解できん。まるで、小説に出てくるトリックを真似してみよう、とでもいったかのような軽さじゃ」

「た、確かに。今、仰った理論も、私の考えた推理も、到底身を委ねることができる程の成功率があるとは思えませんね」

「恐らく、千回に一度くらいの割合じゃろうな」

「千分の一。本当に宝くじに当てるような確立ですね」

「まず、ロープを使い、屋上へ登ったり下りたりはできる。問題は死体の引き上げ方じゃよ。飛び降りた際に生じる力を使う場合は運の作用が大きい。また、中原さんが言ったようなマグロの一本釣り方式だと、どうしても遺体を柵の上へ持ち上げることが難しい」

「もしくは全く別の方法を取ったのでは……」

「そうかもしれんが、まだ何か秘密が……。まぁいずれにせよ。科学的な捜査の結果が出れば自ずと答えは出ると思うが……」

 矢向ら二人がそう言い、溜息をつきあった時、ちょうど楓が屋上に入ってきた。

「矢向さん。まだ、こんな所にいたの? もう十一時よ」

 慌てて時計を見る。確かに午後十一時を回っている。かなり長く話をしてしまったらしい。それを察した中原が答える。

「あ、いや。長時間すいません。いずれにせよ。今日すべてを解き明かすのは難しいようですね。我々はもう少し捜査を続けますが、矢向さんはお戻りいただいて結構ですよ。また、何かあれば連絡します」

「分かりました。それではお先に失礼させていただきますよ」

 矢向はそう言い、一礼をした後に楓の元へ戻った。楓は矢向に近づくなり尋ねる。

「犯人分かったの?」

「ああ。じゃがね……」

 矢向は犯人を言うべきか迷った。齢の近い誠が犯人だと告げることは、少なからず楓にショックを与えると思ったからだ。しかし、楓から意外な返答が返ってくる。

「誠でしょ」

 驚いた表情で、矢向は楓を見つめた。彼女の方は真剣そのもので、漆黒の瞳が爛々と輝いている。

「お嬢ちゃん……。知っておったのか?」

「さっき、誠とゲームしていて遊んでいたのよ。あの子、何か魔力を持っているわ。ねぇ、矢向さん。一つ聞きたいことがあるんだけど良い?」

「ああ。分かった。とりあえず、一旦部屋へ戻ろうじゃないか。話はそれからじゃ」


          *


 二人は一旦部屋へ戻った。電気をつけっぱなしで、さらにカーテンを閉めてこなかったので、外の闇が良く見えた。

 部屋に入り、楓は直ぐにカーテンを閉め、ベッドに腰を掛け、矢向に尋ねた。

「それでさっきの続きなんだけど、魔力を使用すると、分かる人間には感知できるじゃない? そうでない場合とかないの?」

「要するに、魔術を発生させても感知できないようにするということじゃな」

「うん」

「魔術を感知するには、魔力どれだけ強いかと距離によるんじゃ。強く高度な魔術が日本の裏側、つまりブラジルあたりで行われた場合、わしらは感知できんじゃろう。だが、それが都内で行われたとしたら、高確率で気が付くことができるはずなんじゃ」

「じゃあ、今みたいに屋敷の中にいれば、大体の魔術には気が付くってことなの?」

「ああ。この屋敷内にいる限り、ある程度の魔力ならば発生の根源を探ることができるじゃろう。人には五感があり、それぞれの感覚で物体や出来事を感知できるようになっておる。その感覚は研磨すればするほど、鋭敏な感覚へと研ぎ澄まされていくじゃろう。第六感も同じじゃよ。わしらはそのために日々鍛錬を重ねておる。分かる人間には分かってしまうんじゃ」

「絶対? 例外は何一つないの?」

「強いて言えば、魔力が微弱であるということ。実際にそんな魔術あるかどうかは分からんが、時間を巻き戻したり、記憶を消去したりすることが可能であれば、不可能ではないじゃろう。だが問題もある」

「問題って?」

「魔力が微弱であれば、感知することは難しい。じゃがね、魔力が弱ければ高度な魔術は使えないということじゃよ。そして、時間を巻き戻せば、せっかく引き越した魔術も元に戻ってしまう。さらに、記憶の消去は全員に施さないとならんじゃろう。例えば魔術師が二人いるのに、その内の一人だけの記憶を消去しても、もう一人が覚え、感知しているので意味がない」

「そっか……」

「どうしてそんなことを言いだしたんじゃ?」

 楓は顎に手を付き考えながら尋ねた。

「それよりも、矢向さんの方を教えてよ。捜査していたんでしょ」

「あ、ああ。構わんが……。お嬢ちゃんには少しショックなことかもしれないんじゃよ」

「大丈夫。教えてもらえない方がショックよ。ねぇ、お願いよ、矢向さん!」

 矢向は慌てる楓を落ち着かせながら答える。

「よろしい、では説明しよう……」

 時刻は午後十一時を回っており、辺りはすっかり闇に包まれていた。しかし依然として屋上を始め、三階の稲城一家の部屋では捜査が続けられていた。

 宿泊客もようやく事件に慣れてきたのか、少しずつ喧騒さは薄れてきており、部屋に入るとひっそりと静まり返っていた。

 楓らの部屋も同じように静かな空間になっていたが、それでも時折、上の階から床を慌ただしく踏む音が聞こえた。そんな中、矢向は空いた椅子に腰を掛け、楓に対して先程まで行った調査についての説明を聞かせた。中原刑事の推理、そして矢向自身の推理。さらには犯行に使われたクライミングロープ。大よそ知りえた情報をかいつまんで楓に話したのである。

 しばらくの間、静かに聞いていた楓が話し始める。

「ねぇ。その推理、多分あっているわよ。あたし、お風呂に行く前に一度窓の外に何かが落ちたのを見たの。今考えれば、ロープのようなものが見えた気がするもの。でも、問題はなんでそんな面倒な犯行を行ったのかということよ」

「うむ。そのとおりじゃ。それが一番不可解。殺害するというよりも、トリックを考え、それを行うこと自体を楽しんでいるかのようじゃ」

「確かに。それにしても、物凄く繊細な犯行ね」

「繊細?」

「ええ。だってそんなに簡単に推理どおり事が運ぶかしら?」

「ああ。それが問題じゃ。中原刑事にも言ったが、千回に一度成功するかしないかじゃろうな……」

「千分の一!」

「そうじゃ。まず、問題は遺体を引き上げる時、ロープが切れないのか? という問題。そして引き上げる際、引っかからず柵を上手く超えてくれるかという問題。さらに、何度も窓の外に出るわけだから人に見つからないで犯行を行えるかという問題。それ以外にも細かい問題はたくさんある。にもかかわらず、犯行は非常にスムーズに無駄なく行われている。それはまるで……」

「まるで、何?」

 矢向は一旦間を置き、カーテンを右手でチラッと開け窓の外を眺めながら答えた。

「何度もこの状況のシミュレーションを重ねてきたみたいだということじゃ」

「シミュレーション?」

「ああ。つまりどこかで犯行を練習してきたということじゃな」

「そんな、そんなことできるの? 練習っていっても、人をそんな理由では殺せないでしょ」

「もちろん。人以外の物を使ったのかもしれない。だが、いずれにせよ、とても付け焼刃の一撃でやり遂げることのできる犯行ではないじゃろう」

 矢向はそう言うと、カーテンを閉じ、再び椅子へ腰かけ、ふうと小さくため息を付いた後、ベッドに座っている楓の姿を眺めた。

 難しい顔をした楓の表情が見える。まだ幼いにもかかわらず、懸命に物事を考える楓の姿を見ると、矢向は見えない力に背中を押されるように、励まされるのであった。

「そうじゃ。お嬢ちゃんはわしらが捜査を進めていた時、誠君とゲームをして遊んだと言っておったのぅ。その時、何かに気が付いたようじゃが、それはなんだね?」

「実は今、矢向さんが今回の事件の犯行を成功させる確率は千分の一って言っていたでしょ」

「ああ。確かに言ったが、それはあくまで大よそじゃよ。それが何か関係あるのかね?」

「ええ。ねぇ矢向さん。あたし頭が良くないから、確率の計算方法とか良く分からないんだけど、ひとつ教えてくれない?」

「構わんよ。言ってみなさい」

 楓は先程まで誠と行っていたゲームについて、矢向に細かく説明をした。

「うん。例えば、さっき言ったゲームなんだけどあのゲームの場合、十回連続で勝つ確率ってどのくらいなのかな?」

「くじを引き当てるは十分の一、これをどちらかが当てるまで続けるわけだから、勝率は単純に二分の一じゃ。十回連続で勝つ確率じゃったな。それはおよそ0.09%。つまり千分の……」

「そう。千分の一の確率は%に直すと、0.1%。偶然かもしれないけど、誠は千分の一程度の確率なら超えることができるのよ。だって、あたしたちは十回以上このゲームを繰り返してやってきて、その内、あたしは一度も勝てなかったんだから」

 矢向は驚いた様子を見せ呟いた。

「そ、そんな馬鹿な話が……」

「ねぇ。確率を操る魔術ってないの?」

「そんな都合の良い魔術は存在せんじゃろう。魔術というのは念じることで不思議を起こす術じゃが、何でも願いを叶えるということでないんじゃよ。それに、さっきも言ったじゃろう。相手が何かしらの魔術を使えば、わしらはその魔力を感知することができるんじゃよ」

「そっか……。じゃあダメかぁ……」

 楓は溜息をつき、ベッドの上に大の字で横になった。

(はぁ~。せっかく情報が揃ってきたっていうのに、何にも分かんないや。あの時、面倒くさがらず窓の外を調べておけばなぁ……。時間を巻戻して最初から事件に立ち向かえれば、すべて上手くいくかもしれないのに)

 柄にもなく、楓はSF的なことを考えていた。

 最初は些細なきっかけだった。ただなんとなく、思ったことを頭に思い浮かべるだけであったのだ。だが、それが突然、大きな花となり楓の脳内に一筋の光を与えた。

「あああぁ!」

 突然の楓の奇声に矢向は驚き、その方向を見入った。楓は大の字で寝ている。しかし、糸で吊られた人形のようにムクッと起き上がった。

「ああ。そうかもしれない。あ、そうか。だから。そうだったんだ」

 楓はブツブツと呪文のように、何かを呟いている。とても独り言とは思えない。

 矢向は楓が事件のショックでおかしくなってしまったと思い、狼狽しながら尋ねた。

「お、お嬢ちゃん大丈夫かい? も、もう事件のことは忘れるんじゃ。明日になれば警察がきっと解決してくれる。今日はもう遅いから、もう寝ようか」

「いいえ。まだ寝れないわ!」

 そう言い、楓は立ち上がった。

「矢向さん、あたし分かったわ」

「分かったって何がだね?」

「事件についてよ。不可解な現象について……」

「なんじゃって!」

「良い矢向さん。この事件は、やはり魔術が行われていたの。彼が如何なる理由で魔術を知り、習得したのかは分からないけど、魔術は使われたのよ」

「お、お嬢ちゃん。じゃからな……」

「分かってる。魔術を使えばこちらも感知できる、云々かんぬんでしょ。でも例外があるって言っていたじゃない」

「ああ。それは記憶の消去ということかね?」

「違うわ。時間を巻戻したのよ」

「巻き戻す? そんなことしたら、せっかく引き起こした現象も元に戻ってしまうんじゃよ」

「良いのよ。それで。っていうか、そうじゃなきゃダメなの。時間を戻すって行為は、あくまで確率を無視するために使われているの」

「か、確率を無視じゃって」

「ええ。そうすれば、誠君が如何なる方法で犯行をやってのけたのか分かるわ」

「とりあえず、説明してくれんかね」

「うん。今回の事件は確率を操るのではなく、時間を巻戻すことで成り立っているの。つまり、それが天文学的な確率を超えることを可能にしているのよ。矢向さん、時間を巻戻すって行為は可能なんでしょ?」

「通常の人間が創りだす魔術ではそんなことが行えるのか分からん。じゃが、悪魔と契約することでそれは可能になるじゃろう。一説によれば悪魔は大きな代償と引き換えに時を司る魔術や、大陸を瞬時に横断するという不思議な魔術を知っているのだという」

「どういうこと?」

「良いかね。魔力を持つ方法は二通りある。一つは自分で文献を読み、努力を重ね会得する方法。つまり、わしやお嬢ちゃんのようなタイプのことじゃな」

「それ以外にも方法があるの?」

「ああ。もう一つは、誰かによって魔力を与えられたということ」

「誰かって?」

「わしらと同じような魔術を行える人間。もしくは何らかの契約によって魔術を会得するという可能性もある」

「契約って?」

「悪魔契約。悪魔と取引をして魔力を得るという方法じゃ。松濤の事件を覚えておるかね? あの事件では悪魔が関わっておったじゃろう」

「そ、そんなことできるの」

「可能じゃが、高い代償を払わなければならない」

「代償って?」

「自分の大切にしている物。その魔術のレベルに見合う自身の才能や力が必要とされるんじゃ……」

 矢向はあえて言わなかったが、今回誠が行ったとされる時間を巻戻すという、強大な魔術を得るためには、自身の命を投げうる覚悟がなければ成立しないであろう。

 こんなことを言うと、楓は今よりもずっと騒ぎ出すであろう。よって、あえて黙っていたのである。問題は、彼がどこでこんな力を得たのかということだが、それは彼に直接聞く以外、調べようがない。

 再び、楓が話し始めた。

「多分。誠は成功するまで時間を巻戻し続けたんじゃないかしら、そうなれば色々説明ができるの」

「成功するまでというのは、約千回も犯行を繰り返したというのか?」

「ええ。反復して犯行を続けるから、やり続ける程、犯行はスムーズになるはず。だから、ほとんど穴の無い、不可解な犯行ができたのよ」

「確かに、お嬢ちゃんが言うようなことが実際に行われていれば、確率は無視できるし。犯行のスピードや正確さも研磨されるじゃろう……」

 だが、なんという異常なる精神。と矢向は思っていた。時間を巻戻す魔術によって犯行を反復して行ったということは、成功までの回数だけ犯行を続けたということなのだ。

 誠が父親に対してどれだけの悪意、恨み、妬みを含めた殺意を抱いていたのかは分からない。しかし、例えどんなに強い殺意があったとしても、実の親を何度も殺害できるものなのだろうか? それは悪魔に魂を売った誠にしか分からない。

 室内はしばらくの間沈黙を保っていたが、先に楓が口を開いた。

「あたし、この推理を誠に話してくる。すべて説明すれば、あの子は観念して自首してくれんじゃないかしら?」

 誠の下へ行く。という言葉に矢向は我に返った。

「彼の下へ行くじゃって! それはダメじゃよ」

「え、どうして? 今、あたしが言ったことは当たってるでしょ。矢向さんたちが捜査している間、一階のロビーで行ったゲームだって、今の考えた方で説明できるのよ」

「ダメじゃよ」

 楓は怪訝そうに尋ねる。

「どうしてよ?」

「良いかい。仮にその推理が当たっていて、否、恐らくじゃが、誠君は今お嬢ちゃんが言ったような魔術を使える可能性が高い。そんな人物を目の前にして、今言った出来事をすべて説明したら何が起きると思うかね?」

「観念するに決まってるわ」

 矢向は肩を落とし、煙草の煙を吐くように溜息をついた。

「いいや。そんな風にはならんじゃろう。彼には時を巻戻す魔力があるんじゃ。なら、秘密がバレた瞬間にすべてを巻戻せば良いのじゃ。そして、次回からは君にバレないように事を進めるだろう」

「言われてみればそうね」

「だから、この手の力を使う人の前では、悪戯に推理を話すことや、こちらから何か魔力を使うということを避けなければならない。幸い、相手はまだこちらが魔術師であるということを知らない。これは大きなアドバンテージじゃ」

「なるほどね。あ、でも待って」

 急に楓の顔をサッと青ざめていった。それを見た矢向が慌てて答えた。

「ど、どうしたんじゃい。お嬢ちゃん、顔が真っ青じゃよ」

「や、矢向さん。ど、どうしよう。あ、あたし誠の前で一度だけ魔術を使っちゃったんだ」

「なんだって? いつどこでじゃい?」

「ついさっき。ゲームをしている時よ。あたし何度も負けちゃっていたから、悔しくてカードに魔術で印を付けたのよ。自分だけ分かるようなものだから、魔力の程度はすごく弱いと思うけど」

「確かに、その程度の魔術であったら、屋上にいたわしには感知できんじゃろう。じゃが、それは単に魔力が弱いだけであって、近くにいれば感知することは容易い。しかも、お嬢ちゃんのそばにいた誠君が、それに気が付かないはずがない」

「で、でもこうして時間は巻戻されずに済んでいるっていうのは一体?」

「考えられる可能性は、彼は魔術を使えるが魔術を知らないんじゃ」

「え、どういうこと? そんな可能性あるの?」

「簡単じゃよ。自らが進んで魔術を会得した場合は、力の流れも同時に会得できる。つまり自分の魔力を感じながら、徐々に魔術を会得するということじゃな。こうすると引き起した魔術を感知する力も同時に育まれていくから、実際に自分で魔力が使えるようになった時、魔術を感知できるようにもなるということじゃ。じゃが、契約によって魔術を得た場合はちと違うんじゃよ」

「契約の場合はどうなるの?」

「契約の内容にもよるがね、契約すると、先程言った下積みの期間を一気に飛ばすから、魔術を使えるだけで感知できないことが多々ある。今回も恐らくそうであろう。だから、お嬢ちゃんが微弱であるが魔力を使ったのにもかかわらず、魔術を感じることができなかったというのは……。たぶんじゃが、お嬢ちゃんが使った魔術を、魔術と思わずに、イカサマをしたと勘違いしたのかもしれんということじゃ」

「じゃ、じゃああたしたちはこれからどうすれば良いの? せっかく犯人を見つけて、さらに、その方法まで考え抜いたっていうのに。すごくもったいないわ」

「大丈夫じゃよ」

「でも、相手にこっちが魔術を使えるって知らせたらまずいんでしょ」

「ああ。じゃから、相手に魔術を使わせなければ良いんじゃよ」

「そんなことできるの?」

「ああ。但し準備は必要じゃよ。いきなりすべてをとっぱらうことは無理じゃ」

「どうするの?」

「魔術封じの結界を張った場所に彼を案内する。部屋全体に張ると、わしらも魔術が使えなくなってしまうから、彼を案内する場所にだけ三×三メートル程の結界を張れば良いんじゃ。そこですべてを説明し、説得させた後、契約を解除させる」

「契約を解除ってどうするの?」

「実際はかなり難しい。悪魔は非常に狡猾であるから、ほとんど契約を解除させないようなカラクリが行われているんじゃが、わしらには関係ないんじゃ」

「関係ない?」

「お嬢ちゃんには力あるじゃろう。触ったものを浄化させ成仏させるという魔術が。わしが誠君に取り憑いている悪魔を顕現化させる。それをお嬢ちゃんが触れば悪魔を消し去ることができるじゃろう」

「消し去れば、もう時間を撒き戻す魔術は使えなくなるってことね?」

「ああ。そのとおりじゃ。じゃが、直ぐに行う必要があるじゃろう。ぐずぐずしている暇はない。明日になればわしらは捜査に参加することだってできなくなるかもしれんのだからな。今すぐに準備をしようじゃないか」

「そうね、誠が警察に連れて行かれたら元も子もないものね」

「少なくとも、今日の時点では大丈夫じゃろう。科学捜査で死体の引きずった痕や、足跡の種類を調べれば、彼を犯人と特定するは時間の問題じゃ。じゃが、まだそこまで解析することはできんじゃろう。ただ、明日になれば重要参考人として連れて行かれる可能性は高い。故に速やかに作業を行うことは必要じゃが、なぁに、心配はないじゃろう」

 時刻は既に零時を迎えようとしている。すっかり夜も更け、窓の外にはうっすらと気味が悪くなるくらい霧が広がっていた――。


          *

 

 同じ頃。ホテルの一室では一人の少年が、窓辺から墨を流したような真っ黒な空を眺めながらこれまでの出来事を反芻していた。そう、あの日もこんな真っ暗な夜だった。

少年の心は物凄く冷え切っていた。両親は絶えず喧嘩をしており、それが少年の心をひどく傷つけていたためだ。彼の名は稲城 誠。極々一般的な少年であった彼を変えたのは、一人の得体の知れない存在であった。何者なのか、皆目見当は付かないが、不思議な力を持っている何かであるということは分かった。

 当時の誠は精神的に追い詰められていた。父が母に暴力を奮うようになったからだ。まだ、子供である誠には、暴走する父を止める手段がなく、いつもだまって母が叩かれたり蹴られたりする様子を遠くから眺めることしかできなかった。

 母はそれでも父と別れようとはしなかった。自分の為かもしれない。父と別れれば、例え養育費を渡されたとしても、一人で育てていけるほど、社会は簡単なものではない。父と結婚するため若くして専業主婦となった母には、これから社会でやっていくための経験や力が無かったのだ。

 誠はいつも考えていた。どうしたら穏便に事を済ませられるかということを。父をどうしたら上手く説得させ、暴力を止めさせ夫婦仲を元通りにできる方法は無いものだろうか。だが、何をどう考えても、答えは浮かび上がりそうになかったのである。

 しかしある日突然、不思議な声が聞こえた。

『殺してしまえばいい……』

 卵が腐ったような声が聞こえた。最初は空耳だと思っていた。声の方向を見ても誰もいなかったからである。不思議に思いながらも誠は生活を続けていた。

 すると、声は次第に大きく、強くなっていった。最初は一方通行で、誠が聞くだけであったのに、次段階ではその声と会話することができるようになっていたのだ。

『助かる良い方法がある』

(良い方法?)

『殺してしまえば良いんだよ』

(殺すって誰を?)

『父親だよ。嫌いなんだろ』

(分からない。でもなんとかしたい。このままじゃお母さんがあまりに不憫なんだ)

『じゃあ、殺してしまえよ』

(そんなことはできないよ。殺してしまえば僕は警察に捕まってしまうよ。捕まったらお母さんは、今より余計に悲しむよ)

『警察に捕まらなければ良いじゃねぇか』

(無理だよ。この科学全盛時代に完全犯罪なんて不可能だよ)

 僅かに、そしり笑うような不思議な声が聞こえた。ガラガラとした耳障りな声が、頭の中に広がっていった。

『大丈夫さ。俺ならその科学とやらを越えた力をお前さんに与えることができる。お前が俺を望み、母を救いたいと思うのなら……』

(科学を越えた力?)

『ああ。魔法の力さ』

『魔法の力』この言葉は血気盛んな少年の心を捉えたが、如何せん実態が謎であり、自身が作り出した妄想だと思っていた。不思議な声と話している時は、まるで眠っているかのような感覚になるためである。

 今思えば、この頃から暴力はさらにエスカレートしていったのだ。一時間以上、母は父に殴られることも少なくなかったし、父はやがて誠に対しても暴力を奮うようになっていった。それを止めるために母が身代わりになることも少なくはなく、それが誠の精神を蝕んでいき、余計に幻聴らしきと付き合う機会が増えた。

(もう、時間はあまりない。このまま父を放っておけば、いずれお母さんは、お母さんが……。だ、誰か助けてくれよ)

 誠はベッドの上で布団を頭まですっぽりと被りながら考えていた。しばらくすると、涙があふれてくる。一体、なんの涙なのか分からなかった。

 そんな時、

『何をいつまで悩んでんだよ。いつも俺が言ってるだろ。殺してしまえば良いんだよ』

 その声はいつもより強くはっきりと聞こえた。脳内に響くというよりも、自分の後方から声が聞こえたような気がしたのだ。

 誠は咄嗟に覆いかぶさった布団の中から飛び起きた。ぼんやりとした目線の先には、ゆらゆらとした影のような人物が立っているのが分かった。

「き、君は……?」

「俺か? 俺はお前を救いに来たんだよ」

「救いに?」

「ああ。俺ならお前に力を与えられる。魔法の力をな」

「き、君の目的は、なんなのさ? 無償で力を与えるなんておかしいじゃないか。は、話しがうますぎるよ」

「魂をもらう。」

「た、魂……。そ、それじゃ、死んでしまうってこと?」

「いや、魂をもらうのはお前が死んだ後だ。つまり、七十年以上も先の話だ。その代り死んだ後、お前の魂は永遠に俺のものになる」

「な、七十年も先の話で良いの? そんな先の話を契約することなんてできるの?」

「俺にとっては一日だろうと七十年であろうと大して変わらない」

「た、例え、それが本当だとしても、やっぱり僕は魂を受け渡すことなんてできないよ」

「そうか。なら、もう一つ教えてやるよ。お前の母親。このままだったら死ぬぞ」

 誠の額を冷たい汗が伝った。

「え? ど、どういうことだよ?」

「今のまま放っておいたら、やがて死ぬってことだよ。それでも良いのか?」

「な、何を証拠にそんなことを言うんだよ。お母さんはまだ元気だし、どこも病気じゃない」

「だが、いつも怪我をしているだろう? それが悪化する。損傷っていうのは表面的なものだけじゃない。むしろ危険なのは内面的なものだ。蓄積された損傷ってのは目に見えないからな」

 その時、一階のダイニングから悲鳴が聞こえた。母の声だ。今までに聞いたものの中で一番切羽つまっているような気がした。

 堪らず、誠は階段を下り、ダイニングへ向かった。ドアを開けると、ちょうど父が母の顔面を思い切り殴り飛ばした時だった。母は勢いよくキッチンへ殴り飛ばされ、床に力なく倒れ落ちていくではないか。

『良いのか? ここのままこんなことをしていたら、お前の母はそう遠くない未来、死んでしまうんだぞ』

 誠は声を遮り、暴走する父を止めようとするが、あっさりと返り討ちに遭う。子供と大人では最初から戦力差があり過ぎるのだ。

 父は誠を蹴飛ばした後、床に倒れた母を無理矢理に起こし、その無防備な体をさらに痛めつけようとした。

(このままじゃ……。このままじゃ本当に……。だ、誰か助けて)

『俺を呼べ』

 どこからか不思議な声が聞こえた。二階にいるはずのその声は、前に聞いていたような脳内に響く声に変わり、

『母親を助けたいのなら俺を呼べ』

(助けてくれよ。お願いだ。は、早くしないと)

『なら、俺を呼べ』

(呼ぶってどうやって?)

『強く念じるんだ』

 誠は念じた。そして不思議な声に身を委ねた。

(助けてくれ!)

 すると、目の前が一瞬真っ暗になり、時が止まったかのように静かになった。事実、この時は本当に時が止まっていたのである。

 目の前にはぼんやりとした影が見えた。その影の口元が震えるように動き、二階で聞いたごろごろとする耳障りな声が聞こえた。

「よし。その願いを聞き届けてやろう。但し、お前の死後、その魂は永遠に俺のものになる。それで良いな?」

 誠は躊躇した。だが、目の前にいる母親は今にも殴られそうな勢いで固まっている。それを見た瞬間、理性ではなく本能が叫んだ。

「分かった。だから、助けてくれ!」

「承知した」

 影は誠を包み込んだと思うと、直ぐにそれは晴れ声が聞こえた。

「お前に魔力を与えた」

「魔力?」

「時を司る魔術だ」

「時を?」

「ああ。お前はこれで自由に時を操れる」

「操る?」

「そうだ。お前は時間を巻戻したり、速めたりすることができる」

「そ、そんなことが……。一体どうやって?」

「簡単だ。ただ戻したいか、進めたいのか、止めたいのか念じればいいのだ。但し、時を止めた時、その場にいる人間を動かすことはできん。あくまで時の流れに逆らうのは能力を持つ者だけだ。それともう一つ、お前が魔力を得た現在より前には巻戻すことができない。つまり、最大で巻戻せるのは今の地点までだ」

 誠は念じた。とりあえず、時間を巻戻した。テープを逆再生するように、場面がきゅるきゅると変わっていく。慣れるまでそれは見たこともない不思議な光景であると思えた。

 どうやら、自分の意志で巻戻したい瞬間まで遡ることができるようだ。

(こんな力が、そ、存在するなんて……)

 誠はそう呟いたが、その時、あの不思議なことは微塵も聞こえなくなっていたのであった――。 


          *


誠は回想することを止め、真っ暗な雑木林の方を眺めていた。天気が悪く、空は厚い雲に覆われており、星はおろか月すら見えない。すべてが終わったかのように思えてならなかった。

 誠と母である雅子は三階のスイートから一階にある使用人の控室を客室として与えられていた。理由は取り調べのためである。容疑者として可能性の高い、この親子はスイートを追い出され、狭い質素な部屋で真夜中を迎えていた。

 雅子は既に眠っている。今日の出来事がかなりショックであったらしい。パニックに陥り、消え入るように倒れ込み、そのまま気を失った。今もなお眠り続けている。

 だが、そんなことは誠には関係ない話であった。すべてが終わり、自分が犯人であると暴かれれば、その時に時間を一気に事件が起こる前まで巻戻せば良いのである。そうなれば、母の状態だって戻るであろうし、父だって蘇る。悪魔から受け継いだ力がある限り、なんだって万事上手くいくのだ。

 そんな時、ドアがノックされた。

 また、警察かと思いうな垂れ、溜息をつきドアへ向かう。

「はい。どちら様ですか?」

 すると、意外な声が厚さ五センチ程度のドアの向こう側から聞こえた。

「あたしよ、立川 楓。今良い? もう寝てた?」

 既に時間は午前零時を回っている。

 なんでまたこんな時間にと思いながら答えた。

「いや、まだ寝てないよ。でももう寝ようと思っているんだ。悪いけど明日にしてくれる?」

「ちょっとで良いのよ。そんなに時間は取らせないわ」

「さっきのゲームの続きなら別の日にしてくれないか? いくらすぐにできるゲームだからっていっても、わざわざこんな夜中にするようなゲームでもないしさ」

「あら、負けるのが嫌なの?」

「違うよ。それって、さっき一度も僕に勝てなかった君が言う台詞かよ」

「次は絶対に負けないわよ。たぶん、あなたは負ける。絶対にね。まぁ負けるのが嫌なら無理には誘わないわ」

 誠は溜息をついた。

「君の負けず嫌いには恐れ入ったよ。分かったよ。じゃあ最後に一度だけだよ」

「ありがとう」

「じゃあ入りなよ」

「あなたの部屋ではお母さんが眠っているでしょ。だから、別の部屋にしましょう。あたしの部屋に来なさいよ。審判は矢向さんにやってもらうわ」

「矢向さんって例の探偵をやっている人だよね」

「ええ」

 楓がそう言うと、蝶番の錆びた音を上げたドアが開き、中から誠が姿を現した。疲れているのか目の下には隈ができている。

「じゃあ行こうか。君の部屋は何階だっけ?」

「あたしの部屋は二階よ。だから、普通の部屋なの」

「完全にアウェーだな。だって、ペンだって君が用意したものだろう?」

「いいえ。ペンはさっきゲームをした時に新城さんが持ってきてくれたものをそのまま使うわ」

 二人は階段を上り、右奥にある部屋へ移動した。相変わらず、三階や屋上では捜査が続けられ慌ただしい空気が流れているようだが、二階はそれが嘘のようにひっそりと静まり返っていた。

 楓の自室には既に矢向が準備をして待っていた。こぢんまりとしたベッドが二つあり、書き物机が一台、そして化粧台が一台あるだけの質素な部屋であった。

 だが、家具の配置場所がおかしい。普通、ホテルの一般的な部屋の家具の配置と言えば大抵壁側に設置されるものである。しかし、すべての家具が壁際から引き離されている。そして、今この部屋にある書き物机は中央に置かれている。これではベッドに行く時、かなり邪魔になるではないか。

(なぜ、あえてこんな風に置き直したんだろう?)

 誠が考えていると、

「こっちの方がゲームをやり易いでしょう。だから勝手に移動させたの。また後で直せば良い話じゃない」

 机の上には既に鉛筆が一ダース用意されており、机を挟むように椅子が二台置かれている。

 誠は椅子に腰かけ、一本一本鉛筆を眺めた。どうせ、自分が勝つであろうから、そんなに丹念には眺めない。あくまで眺めている体を楓に見せつけるためだった。

「問題なさそうだ。じゃあ早速やろうか。確認するけど一度だけだよ」

 楓は椅子に座り、誠をじっと凝視しながら、

「うん。それで良いわよ。今度はあたしが絶対に勝つわ」

 その自信はどこから来るのだと、誠が怪しんでいると、楓は一ダースの鉛筆を誠に差し出した。

「今度もあたしからで良いでしょ? 一回勝負なのに、あなたが初っ端に引いたら拍子抜けだもの」

 誠は鉛筆を受け取り、掌をこすり合わせるようにシャッフルさせながら答えた。

「ああ。構わないよ。じゃあやろうか」

「ええ」

 一階ロビーでゲームをした時の、誠の必勝法の種はこうである。

 決して自分だけに分かる目印を付けるイカサマを行ったわけではない。楓の推察どおり自分が当たりを引くまで時間を巻戻し続けただけなのだ。

 最初は十本だったため確率は十分の一。最初は大体楓が引いたので確率は九分の一になる。やり方は簡単だ。外れを引いた瞬間に引く前に時間を巻戻し、次は違うペンを引いていく。これを繰り返せば、最長でも九回目で必ず当たりを引くのである。時間を巻戻すから、魔術を使ったという痕跡も一緒に巻き戻され証拠は何一つ残らないのだ。

 今回も同じようにしようと考えていた。この力がある限り、誠は絶対に負けない……はずであった。

 運が良いのか、あるいはイカサマなのか、楓は一本目に当たりのペンを引いた。

 それを見て、誠は時間を巻戻そうと、魔術を使おうとした時、異変に気が付いた。

(魔術が使えない……)

 いくら念じても時間が巻戻らない。こんなことは初めてであった。焦った誠は握っていたペンをすべて机の上に落としてしまった。絵に描いたような落とし方であった。

「あら、あたしがいきなり当たりを引いちゃったわ。でもまぁ良いわ。あたしの勝ち。ほら言ったでしょ、今度は絶対にあたしが勝つって」

 誠は慌てふためきながら叫んだ。

「ちょ、ちょっと、待った。も、もう一回だ。もう一回!」

 そう言いながらも誠は必死に時間を巻戻すために念じ続けていたが、一向に時間は巻戻らない。

「良いわよ。あなたすごく焦っているけど、どうかしたの?」

「な、なんでもないよ。と、とにかくもう一回だ」

 次は誠が最初にペンを引くことになった。楓の手から一本を引く。当然、確率は十%であり、なかなか一度で引ける確率ではない。

「あら、それハズレね。じゃあ、次はあたしの番ね」

 誠は楓の言うことを無視し、再び念じた。恐ろしい形相で「戻れ」と念じ続けた。しかし、時間が元に戻ることはなかった。

 何かがおかしいと思い、考えを巡らせていると、それを察しているのか楓が答える。

「時間なら巻戻らないわよ」

 その声に素早く誠は反応を示す。額には汗が光り、じんわりと額を湿らせている。

「な、何を言っているんだ?」

「いくら念じても時間は巻戻らない。時の流れっていうのは、本来一定なのよ」

「き、君は一体……」

 誠は逃げようとしなかった。その場にがっくりと肩を落とし、軟体生物のようにぐんにゃりとしている。

「話しは簡単なの。あたしもあなたと同じような力を使えるのよ。あたしたちはこの力のことを魔力って言っているわ」

「あたしたち……?」

「ええ。あたしと矢向さんは魔術や霊的現象を専門に扱っている探偵なのよ」

 誠はそこで我に返った。なんだか話がおかしい。これはどうやらはめられたようだ。

(この子はどこまで気が付いているんだ? も、もしかして……)

 それを察したのか、矢向はドアの方へ向かい、入り口を遮った。それを見た楓が言う。

「あなたをこの空間から逃がすわけにはいかないの。父親殺しの犯人であるあなたをね」

 誠は楓の表情を見て悟った。すべて、見抜かれていると――。

 楓は誠の諦めの表情を見た。

「この部屋じゃ時間を巻戻すことはできないのよ。だから、観念して頂戴」

 誠はゆっくりと目を閉じ答えた。

「ああ。逃げ出したりしないよ。でも、教えてくれないか。どうして僕が犯人だって分かったのか」

「良いわ」

 楓はそう言うと、立ち上がり一枚の紙とペンを自分の鞄から取り出し、再び席に着き、何かを描き始めた。

 絵は決して上手いものとは呼べないが、屋上への死体の吊り上げ方が描かれている。

「この事件は恐ろしく偶然に偏っているの。多分、実際にこんなことを行ったら、絶対に一度や二度じゃ成功しない。そんな根底からぐらぐらした推理では誰も納得しない。でもそれで良いのよ。今回の場合は」

「それで良いってどういう意味?」

「警察の人は小説みたいに推理しないのよ。なんて言うのか、そのもっとちゃんと……」

 言葉が見つからず、楓が困っていると矢向が代わりに答えた。

「つまり、警察は合理的な方を選ぶというわけじゃ。だから、こんな偶然に偏った犯行よりも、もっと現実に沿った方法はないかと考える。そうなった時、力の無い君たち親子は捜査対象から外れると考えたわけだ」

 誠は頭をボリボリと掻きむしりながら呟いた。

「なるほど」

「でも、そんな風に現実論ばっかりに目がいくと、今回のような事件は解決しないのよ。だって、実際に行われた犯行は天文学的な確立を乗り越えて成立しているものなんだから」

「やっぱり、僕の能力に気が付いたのは、例のペンのゲームなの?」

「うん。だって、あなたは勝ち過ぎだもの」

「なぁんだ。失敗したなぁ。というより、僕以外にも超能力が使える人間が、こんなに間近にいるとは思わなかったんだ。だから、つい能力を使いたくなってしまう。でも君って凄いんだねぇ。本当に名探偵みたいだよ。だって、あんなゲームだけでここまで分かっちゃうんだもの」

「そんなことないわ。謎を解いたのは私だけじゃない。刑事さんもそうだし、矢向さんもそうだし、あたしも考えた。でも皆、ピースをそれぞれ持っているだけで、確信まで辿り着かなかった。皆の考えが合わさってここまでいきついたのよ」

 すると、誠が淡々と話し始めた。

「ふ~ん。なるほどね。合ってるよ。君たちの推理。ばっちりとね。僕が父を殺したんだ。理由は家庭内暴力さ。僕の家庭は歪んでいたし、崩壊寸前だった。その原因を作っているのが父だった。父さえいなくなれば、とずっと考えていたんだ」

 楓は何も言えず黙っていた。矢向も同じように黙り、誠の言葉を真剣に聞いていた。

「でも、なんだか間違いだったみたいだよ。母はあんなに退けられ、毎日酷い目に遭わされていたというのに、実際に父が死んでしまうとショックで寝込んでしまうのだから。ねぇ、あの犯行を実際に成功させるのはどれくらいの確立だと思う?」

「分かんない。矢向さんやあたしたちは千分の一。だから0.1%だって考えていたけど」

「千三百四十九回……」

「え?」

「だから、およそ0.07%の確率なんだ」

「ど、どうしてわかるのよ」

「君ねぇ、今自分で言ったじゃないか。僕には時間を巻戻す力があるんだよ。だから実際に成功するまで時間を巻戻し続けたんだよ。その回数を僕はカウントしていたんだ。その結果が千三百四十九分の一ってことなんだ」

「ねぇ。どうしてあんなに冷静でいられたの? いくら憎かったとはいえ、あなたは実のお父さんを、その、何度も……、何度も殺したんでしょ?」

 楓の問いに誠の表情が変わった。少年のあどけなさが消え、醜悪な顔に変わった。

「あいつを殺したのは今回の事件が初めてじゃないんだよ」

「初めてじゃない?」

「僕はこの力を手に入れてから、父が家庭で暴力を振るうたびに、殺し続けていたんだ。何千回と殺しただろうね。まぁ、時を巻戻すからすべて何事もなかったように元には戻るんだけどね」

「そ、そんな……、いくら憎んでいるから、そんなことって……」

「憎んでも憎み切れないよ。あいつはね……。だから何度も殺したんだ。ずっと殺していくと、今度はもっと、残酷に痛めつけて殺したくなる。その時のあいつの怯えた顔といったら笑えるなぁ。そのままずっと殺し続けるとさ、飽きてきて、次は推理小説に出てくるようなトリックで殺せないかなって考えたんだ。その時、ちょうどこの屋敷を雑誌で見つけたんだ。これはちょうど良いと思って、奇想天外のトリックを考えて、ここで父を何度も殺して腹いせしてやろうと考えたんだ。かなり壮大な計画だったから、随分くたびれたけどね」

「あなた、狂ってるわ」

 誠はほくそ笑みながら、

「そうかもね、魂を売ったから、人格まで変わったのかもしれないよ」

「じゃあ、なんであたしとあのゲームをしたの? ゲームをしなければ、あたしは例のトリックに気が付かなかったかもしれない」

「君みたいな幸せそうな人を見ているとね、無性に腹が立つんだ。だから、ゲームでぎゃふんと言わせてやりたかったんだよ。君は負けるとすごく悔しそうな顔をするから、それを見るだけでも楽しかったんだよ。それ以外にも、例のトリックで疲れていたから、少し君みたいのを相手してストレスを発散させたいって気持ちもあったけどね……。まぁ、結局はそれが命取りになったみたいだけど。そういや君も何か特別な力が使えるみたいだね。それでゲームの時、何度時間を巻戻しても君が勝ったのか。道理でおかしいと思ったよ」

 誠は淡々と話した。それを聞いた後、楓が尋ねる。

「ねぇ。最後に良いかしら? あなたの力はどうやって手に入れたの?」

「分からない。声が聞こえたんだ」

「声?」

「ああ。さっきも言ったけど僕の家は父の暴力が酷かったんだ。だから、僕は毎日怯えて暮らしていた。そんな状況だったから、もしかしたら幻聴なのかもしれないけれど、ずっと声は聞こえていたんだよ」

「声ってどんな?」

「がらがらとした薄気味悪い声さ。でも、その声がいずれ僕に力を与えてくれた」

 楓と矢向は顔を見合わせた。そして、二人とも声の正体が直ぐに分かった。

 松濤で起きた事件と同じである。矢向の読み通り、この事件は悪魔が関係しているのであった。

「悪魔から魔力を譲り受けたってことね」

「悪魔? そうかもしれない。この力は、確かに悪魔的だし、今思えばあの声も悪魔の囁きだったような気がするよ」

 そこで、矢向が口を挟んだ。

「誠君。君は一体、悪魔とどんな会話をしたんだい?」

「会話ですか?」

「そうじゃ。その悪魔はなんと言っておった」

「力をくれると言ったんですよ」

「何と代償に? まさか、ただとは言ってはおらんじゃろ」

「さっきも言ったでしょう。僕の魂ですよ。死んだ後の話ですけどね」

「何てことだ……」

 矢向の額から汗が止めどなく流れている。尋常ではない。その様子に楓も誠も気が付いた。

「ちょ、ちょっと矢向さんどうしたのよ?」

 矢向は慌てて尋ねた。

「悪魔に魂を売るってことの意味が分かっているのかね? 君は死後、永遠に成仏もできないまま悪魔に弄ばれるのじゃよ。それが、どんなに地獄よりも辛いってことが分からんのかね!」

 誠は溜息を付き、冷静に答えた。

「そんなの知らないですよ。どうせ、あのまま生きていても地獄だった。生きても地獄、死んでも地獄なら、何も変わらないじゃないですか。それならせめて、生きている間くらい楽しく生きたいんですよ。おかげで今は楽しく生きてますよ。あいつを殺しても、誰も文句が言えないんだからね」

 矢向は何も言わなかった。これ以上、誠に何を言っても無駄だと思ったためである。誠は既に悪魔に魅了されている。強力な力はそれだけで人を狂わせるのだ。悪魔はそれを知っていたから、魂は死後でも良いと言ったのだろう。人を狂わし、陥れるのは簡単なのである。

 室内はしんと静まり返った。すると誠が再び口を開いた。

「ねぇ、一つ良い?」

 楓が答える。

「何?」

「そろそろ、結界を解いてくれないかな」

「どうして?」

「このままじゃ、どう考えてもダメだろ。君だって何事もなく旅行を終えたいでしょ。だから、力を返してくれれば僕が時間を巻戻し、最初まで戻すよ。そうしたら万事うまくいくだろ」

 楓は矢向の方を向いた。すると、矢向は首を左右に振った。

「ダメよ。あなたの力は危険すぎる。ここで消滅させるわ」

「消滅だって? そんなことが君にできるの?」

「ええ。私の力はそういう力なのよ」

 誠は頷き、

「だったらさ、最後に一度だけ時間を巻戻させてよ。その後に、僕の力を消せば良いじゃないか」

 楓は躊躇した。なぜなら、誠に事件が起きる前まで時間を遡らせ後、魔力を消去するという作戦は、最初に自分が考えていたものであったためだ。しかし、誠の精神が狂気に染まり、快楽や腹いせに父親を殺し続けているということが分かり断念したのだ。

その作戦を狂気に染まった誠が言ったものだから、楓は少なからず動揺した。

 それを見た矢向が楓に向かって、

「お嬢ちゃん、ここはしっかり彼の魔術を封じることを考えるんじゃ。時を巻戻せるというのは、我々の記憶も一緒に巻き戻ってしまうということなんじゃよ」

 誠は矢向のことを睨み付ける。しかし、矢向は無視をして、楓を鼓舞し続けた。

「お嬢ちゃん、しっかりするんじゃ」

矢向の言葉に楓は我に返った。

「え、ええ。任せて」

 覚悟を固め誠に近づき、魔術を行った。特訓により意識的に魔力を使いこなせるようになった楓は、自分の意志であらゆる魔術を元の状態に戻すという術をコントロールすることができるようになった。これを使えば。恐らく悪魔と行った契約も、問答無用で消し去ることができるはずである。

 誠は後ずさり、

「や、止めろ、止めろ!」

 と、叫んだが、楓は気持ちを押し殺し誠の背中に触れた。すると、誠の背中から湯気が立ち上るように異様な魔力が楓の掌に吸い込まれていく。

 誠は生気が抜けたかのように、ぐったりと崩れ落ちた。

 それを見た矢向が、楓に向かって言う。

「時を司る魔術はたった今が切断したが、契約そのものを解除したわけではない。故に、契約の大元となっている悪魔を呼び出し、消滅させる必要がある」

「分かったわ」

 すると楓は室内の壁沿いに結界を張っていく。こうすることで呼び出した悪魔をこの室内に閉じ込めることができるのである。前回、あっさり逃げられてしまったので、今回は万全を尽くしてから悪魔を降臨させることにしたのであった。

「矢向さん、これで大丈夫なはずよ。それじゃ降霊の呪文はお願いね」

 矢向は頷き、悪魔を降臨させるための呪文を唱える。

 突然、室内の真ん中に煙のような影が浮かび上がっていった。煙はみるみると大きく膨れ上がり、やがて人の形を形成させていく。その姿を矢向と楓も見たことがあった。

その影は松濤でみた悪魔の形とそっくりなのだ。

楓は驚きながらも降霊した悪魔をキッと睨みつけ、

「やっぱり、あの時しっかりアンタを倒しておくべきだった。逃がしたから、こんな事件を起こしてしまったんだわ」

 呼び出された悪魔も楓と矢向の姿に気が付いた。

「こりゃ珍しいこともあるもんだ。また手前らか。同じ人間に二度も出会うことなんて何百年ぶりだろうな……」

「あたしの所為ね。でも、今回は逃がさない。今の私はあの時の私とは違う。矢向さんだって怪我も治って万全だもの」

「おいおい。おまえら何か勘違いしてねぇか? 俺は別に少年を食うために魔力を授けたわけじゃねぇよ。不幸を断ち切るために与えてやったんだ。その際に生じる代償はすべて説明したんだぜ。だから、俺が悪いなんて言いぐさはおかしいんだよ」

「不幸な人に付け入るっていう行為が許せないわ。そういう人間は大体何かを選べるっていう境遇にいないのに。何かあればそれにすがりたいって思うに決まってる。アンタはそれを良く知っているから。そういう人間たちの前に現れるんでしょ」

「違いねぇ。だが、騙しているわけじゃねぇ。ちゃんと説明し承諾してから能力を与えているんだからな」

 楓はその言葉を聞くと、力強く拳を握った。途端、彼女の周りに大きな煙が渦巻くように湧き上がってくるではないか。悪魔を消し去る準備は万端に整った。

その渦に引き込まれ、巻き込まれるように、悪魔は楓を見つめ、

「不思議な嬢ちゃんだ。こんな人間にはなかなか出逢ったことがねぇな。強く引っ張られる感じだ。それにしてもお嬢ちゃん。てめぇは俺以上に悪魔だな」

 楓は驚き答えた。

「なんですって!」

「あの少年はどうなる? 罪を償うために刑務所に入れられ、父親は死んだまま二度と戻ってこない。さらに、母親はショックでしばらく寝たきりだろうよ。あの家は今までに以上に不幸になるだろう。てめぇはあの少年を助ける選択肢を選ばずに、俺を消滅させるという暴挙に出たんだ。それは、俺以上に悪魔的な行為だろう」

「だ、黙りなさい」

「他にも言えるさ。前回に遭遇した事件だってそうさ。お嬢ちゃんは事件を解決した気になっているようだが、物見遊山で首を突っ込んだだけで、実は何一つ解決させていなんじゃねぇのかい? 俺は悪魔だが、人間たちの願いを叶え束の間の幸せを与えた。嬢ちゃんはそれをぷちぷちと摘み取るだけで正義面しやがる。それはどうなんだ。俺は、俺以上に悪魔的な所業だと思うがね」

 楓は悪魔の言うことを無視して、力を強く込め「早く消えろ」と、念じながら魔術を使った。

前回と同じように蒸気が噴き出すように悪魔は消滅していく。

 ごろごろという耳障りな声が室内に響き渡る。悪魔は一瞬では消えない。そして、意外にもほとんど抵抗をみせなかった。悪魔も悪魔でこの状況に逃げ道はないと悟っていたからなのかもしれない。

 最後に、

「お前ぇには、誰も救えねぇよ……」

 その言葉を残し、悪魔は消え去った。この世界から完全に――。


          *


 午前一時十五分――。

 事件は解決した。稲城氏殺害の犯人は、誠の自白と、捜査で判明した証拠の裏付けにより、確定された。誠は手錠をはめられ、中原をはじめとする刑事等と共に、パトカーに乗り込み、漆黒の闇の中へと消えて行った。

こうして悲しい事件は終わりを告げた。だが、楓の心には大きなしこりを残していた。彼女は最後に悪魔に言われたことが引っ掛かり続けていたのだ。

 帰りの車内で楓は矢向に尋ねた。

「ねぇ。矢向さん。あたし、これで良かったのかな? 本当はもっと早く彼らを救えたんじゃないかしら」

「どういうことじゃい?」

「だって、事件は解決したけど、あたしは誰も救えていない気がする。むしろ事件が起きる前よりも不幸にしてしまったような気がするわ」

「そんなことはないさ。お嬢ちゃんは何も悪くない」

「で、でも……。本当は彼らを救えるはずだったのに、これじゃあ……」

 矢向には楓の言いたいことが痛いほどわかった。事件というものは大抵がこういう後味の悪いものになるのだ。解決した自分達の方が悪者のように錯覚することもある。

 だが、仕事をやり続けるためには、この境遇と闘い続けなければならない。この世は矛盾で溢れかえっている。今、その事を楓に告げたとしても、楓は余計に混乱するだけで、何も解決しないであろう。

 楓は大人と子供のちょうど境目にいて、心はまだ柔らかく純粋なのだ。正義がすべて正しいと思っている時期だ。その時に何を言っても仕方がない。故に矢向は何も言わなかった。

 楓は窓の外を見ながら考え事をしていた。それは一体、自分の力はなんのためにあるかだった。

(何一つ人を救えないのなら、持っていてもしたがない。むしろ余計じゃないのよ)

 二人を乗せた電車は、ゆっくりと東京に向かって走っていく。楓の心とは裏腹に空は澄渡り、綺麗な青空が一面に広がっていた――。

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