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魔術探偵 立川楓の怪奇事件簿

第一章

 魔術は存在するのか? こう問えば、大抵の人間は「そんなものは存在しない」と答えるだろう。

だが、それは本当なのか? 古今東西を見渡しても、魔術や妖術といった人間の五感以外で感じる力を研究しなかった地域はない。

 それだけ人は、見えざる力に興味があるのだ。

 そして、異能の力は確かに存在するのである。


          *


 平成二十年、四月――。

 都内に住む、立川 楓 (たちかわ かえで) 十二歳はこの春中学校へと入学した。長いと思っていた小学校生活も、振り返ってみればあっという間だったなと感じながら、新しい通学路を歩いていた。

 今日から自分は中学生。気持ちも一新し、楽しい学生生活を送りたい、と考えたいところであるが、彼女の心情は全く違っていた。

 暗くどんよりとしている。

 理由は、楓の家庭問題にある。

 楓一家はこの地域に新居を建て、四年前に引っ越してきたのだが、それからすべてが狂ったようにおかしくなってしまったのだ。

 父は事業に失敗し、会社を辞めざるを得なくなり、給与もかなり減った。母は買い物途中に普通自動車に跳ねられ大腿骨を折る大怪我を負い、とても頭の良い兄は合格間違いなしと言われていた中学受験に失敗してしまった。

 すべてが上手くいかなくなった。家の中はギクシャクしているし、夜、電気を消すと、お化けでも住んでいるのではないかと錯覚するくらい、何かの気配を感じるのだ。

 そのため、ここは幽霊屋敷だと楓は両親に強く訴え、有名な霊媒師に頼んでお祓いをしてもらうべきだと主張したが、両親は神社に行きお祓いをする程度で、家に呼ぶということはしなかった。

「ああいうのはインチキが多い。お金ばかり取るのよ」

 というのが楓の母の言い分である。

 もっともな話だ。この世に現存する九〇%近くの霊媒師と名乗る連中及び団体は、インチキであると言えるだろう。そこには金の匂いしかない。

 それでも楓はこの家に幽霊が取り憑いていることを信じてやまなかった。

(絶対にこの家は呪われている。なのに、どうして誰もそれを信じてくれないのよ)

 楓はそんな風に考えていた。

 両親は悪いことが起きる時は、連続して良くないことが起きるものだと勝手に納得して、いつしか楓の話に耳を傾けなくなった。

 楓はしつこく両親に訴えかけ、学校の先生や近所の住民たちにも協力を願い出たが、もう誰も彼女の言うことを信じてはくれなかった。子供の戯言と判断されてしまったのだ。

 逆に、近所や学校に楓が自宅は呪われているということを、言い回っている事実が両親にバレ、こっぴどく叱られてしまったのである。

 楓は憮然として、毎日自室のベッドの中で泣いていた。

 それ以来、楓は公に家が幽霊屋敷だと言うことはなくなったが、心の奥では信じていた。未だに不幸な出来事が止まないからだ。

 父は慣れない仕事のストレスから不眠症になり、酒におぼれる日が多くなったし、母は骨折の予後があまり良くなく、普通に歩くことができなくなり、常にびっこを引いて歩いている。兄も兄で進学した公立の中学で虐めに遭い、その後の高校受験にも失敗した。

 そんな中、楓だけが不幸から切り取られたかのようになんともなく、彼女だけが普通に暮らしていた。そして、家が幽霊屋敷だということを頑なに信じきっているのであった。

 

          *


 ここで話は最初に戻る。

 楓はそんな家庭環境を抱えていたものだから、どんよりとした気分で中学校へ向かっていたのであった。

 母は足の都合で入学式に出席することができず、父も仕事で出席できなかったので、楓は一人で入学式に出て、校長先生や教頭先生、在校生代表と、新入生代表の話を聞いた後、予め発表されてあったクラスへ移動した。

 簡単な自己紹介を済ませた後、担任の先生から教科書が配られ、これからのスケジュールが発表された。その後に校内を見学し、一日の日程は終わり下校することとなった。登校する時は軽かった鞄が、帰りは教科書でいっぱいになりとても重く、肩が痛み出した。

 よろよろとなりながら、駅前にある商店街を通って行くと、少し先に見えるシャッターが下りた店の前に、学校にあるような机と椅子が二席、机を真ん中にして向かい合うように設置されているのが見えた。

 荷物が重く、肩が疲れていたので、楓はどこでも良いから少し休みたかった。お金を持っていない楓は喫茶店や、ファーストフード店に入ることができない。そのため、その椅子に腰を掛け、ずっしりと重い荷物を机の上に乗せた。時間帯が良かったのか人通りが少なく、休む場所には適している。

 机や椅子を見ると、学校で使っているものとほとんど同じであったため、学校にいるような不思議な感覚になった。肩をもみながら、椅子に深く腰をかけ休んでいると、一人の初老の男性が楓に声を掛けてきた。

「お嬢ちゃん。わしに何か用かな?」

 楓は老人を見上げた。中肉中背で顎に白髪交じりの髭をたっぷりと生やしている。服装は小奇麗でブラウンのコール天のジャケットを羽織り、下には薄いグレーのシャツを着ている。さらに、黒のツータックのスラックスを穿いていて、ジャケットと同じような色の革靴を履き、柔らかいフェルト製のソフト帽を被っている。

「おじいさんこそ誰?」

「わしかい。わしはここで占いをやっているものだが……」

「占いをやっているの?」

「そうじゃよ。お嬢ちゃんもそれを知っていて、ここで待っていたんじゃないのかい?」

「違うわ。学校の荷物が多くてくたびれちゃったの。それで休む場所を探していたの」

「なるほど。そういうことじゃったか。お客さんにしては随分若い人だと思ったからね」

 老人は意味深なことを言ったが、楓は気が付かなかった。

「それじゃ、あたしは行くわ。お店の邪魔をしちゃ悪いもの」

 楓はそう言って、重くなった荷物を持ち上げようとしたが、その手を老人に止められた。

 しわしわの手の感触が楓に伝わり、ビクッと背中を震わせた。

「まぁ、お嬢ちゃん、待ちなさい。少し占って行ったらどうだい?」

「おじいさん。あたしお金を持ってないのよ。だから、ここで勝手に休んでいたの」

「お金はいらないよ」

「どうして?」

「今日は中学の入学式だろう。たくさんのめかし込んだ御夫人を見たからね。じゃから、サービスじゃよ」

「で、でも悪いわ。それにあたしのことを占ってしょうがないわよ」

「いいや、しょうがないなんてことはないよ。お嬢ちゃん、家族を助けたいと思わんのかね?」

 楓の目の色が変わる。家族のことなど何ひとつ言っていないのにかかわらず、その話が出たからだ。

「ど、どうして知っているの?」

「お嬢ちゃんを見れば分かるんじゃよ」

「お、おじいさんは何者?」

「ふぉふぉふぉ。まぁ落ち着きなさい。一つずつ説明しよう」

 老人はそう言うと、一息つき、説明を始めた。

「まず、わしは正確に言うと占い師ではない。魔術師じゃよ。だが、そんなことを言っても誰も信じはせんじゃろう。お嬢ちゃんもなくとなく分かるじゃろう?」

「ま、魔術師なんて本当にいるの?」

「ああ、だがこの世の多くの霊媒師や魔術師たちはインチキじゃよ。皆、高額な金を請求するにのに対し、除霊に関しては全く効果がない。第一、超常現象を前にしたとき、祈りだけでは何も解決しないのじゃ。魔術や霊的現象には原因がある。その原因を取り除かない限りは、いくら祈ったところで意味はないのじゃよ」

「要はおじいさんが本物って意味?」

「そうじゃよ」

「怪しいわ。証拠はないの? あ、でも、マジックみたいのはダメよ。だから、トランプを使ったり、ハンカチで隠したりはダメ」

「ふぉふぉふぉ。お嬢ちゃんは手厳しいな。なぁに、だがそんなものは問題ない。わしのはマジックではない。例えば、さっきわしがお嬢ちゃんの家庭に触れたことはマジックでも説明できる。わしが予めお嬢ちゃんのことを調べておけば良いわけだ。これをホット・リーディングという。良くインチキ占い師が使う手じゃ。それよりも全く疑いようのない奇跡を御覧にいれよう」

 老人はそう言うと、コール天のジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれにひっかけ、シャツのカフスボタンを外し、腕まくりをした。白髪交じりの腕の毛がぴょこぴょこと生き物のように見える。楓は集中し、老人の姿を見つめた。

「そんなにじっと見る必要はないのじゃよ」

 それでも楓は見る目を休めない。しかし、驚くべきことが起こる。突如、老人の手からオレンジ色の炎が生まれたのだ。

(種も仕掛けもない。だって、炎は確かに老人の手の上に浮いている)

 楓は腰を抜かしそうになり、老人を見つめた。炎に照らされた老人の顔はぼんやりとし、しわがより強調されて見えた。

「心配する必要はない。何も怖がることはないよ」

 老人はそう言うと、近くに落ちていた枯れ葉を拾い、炎で焼いた。枯れ葉はあっという間に黒く焦げたカスになり、地面にぱらぱらと落ちた。

(これが魔術? どう考えても説明のしようがない。このおじいさんは一体?)

そんな思いが、楓の体中を包み込んでいった――。

「どうしてそんなことができるの?」

驚いた顔をしている楓の様子を、老人はじっくりと見つめた。

「念力放火能力。お嬢ちゃんには難しいかもしれないが、頭の中で思い描いたことをエネルギーにし、それを外側に顕現したにすぎない。まぁ、論より証拠、これで信じてもらえたかな?」

「ええ。もちろん信じても良いわ」

「よろしい。では、わしがお嬢ちゃんのことを占って進ぜよう」

「あたしのことは別に占わなくても良いわ。ただ、お願いがあるの」

「お願い?」

「そう、お願い。あたしの家は呪われているの。だから、何事も上手くいかないし、不幸ばかり続くの、それを何とかしてほしい」

「なるほど、ではお嬢ちゃんの家まで案内してもらえるかな」

「分かったわ」

 楓は立ち上がり、重たい荷物を再び背負い、老人を引き連れ家に向かった。

 駅前の繁華街を越えると住宅街に入り、急に物静かになる。老人も楓も何も話さなかったから余計に静かに感じる。家の近くにある小さな公園を曲がると、楓の家は直ぐに現れた。そして、家の前で楓の足は止まった。

 それを見た老人が尋ねた。

「ここかい?」

 楓は溜息をつき、チラッと横目で老人を見つめながら、

「……そうよ」

 老人は家を一望する。そしてその家が放つ邪悪な雰囲気を直ぐに感じ取った。

(こいつはなかなか厄介かもしれんな)

 老人はたっぷりと生やした髭を梳かすように触り、そう考えていた。

 楓や老人の読み通り、この家には只ならぬ雰囲気が漂っている。この土地には、元から何らかの魔術が組み込まれていたに違いない。それが何なのか調べるのは難しい。魔術の根源を辿っていくのは、卓越した魔術の知識と経験が必要だからだ。同時にその原因となっている魔術を遮断しなければ、いくら祈ったところで何も解決はしないだろう。

「お嬢ちゃん。この家はまだ新しいようだが、いつ頃引っ越してきたんだい?」

「四年前よ」

「不幸なことが起こり始めたのは引っ越して来てからかい?」

「そうよ。ねぇ。おじいさん、なんとかなるかしら」

「ここからでは、なんとも言えんな」

 老人はそう言うと、室内へ上がっていく。

 室内は強烈に怪しげな空気が漂い、悪霊が渦巻いている。主な原因として考えられるのはこの土地自身に何らかの魔術が行われているということだろう。

家内安全、商売繁盛、なんでも良いが、その類の魔術を行ったに違いない。

 その魔術が家を建てたり、壊したりする際に遮断されることがある。魔術は遮断されると効果を失うが痕跡は残るため、霊が集まりやすくなる傾向があるのだ。魔術や霊的な現象の起こりやすいところに霊が集まるのはそのためなのだ。

 霊という存在は大抵性質が悪い。それは霊が放つエネルギーの強さが関係してくる。

 一般的に人は死ぬと魂となり、この世から消える。しかし、未練、怨念を強く残した人間は魂となってもこの世に残り続けるのだ。俗にいう、呪縛霊、不浄霊といった存在である。

 彼らはこの世に対しての恨みや未練が凄まじいため、この世に残ることに執着している。そんな彼らの負のエネルギーに人が触れると極度の悪運、災いに見舞われることになるのだ。だからこそ、しっかりと原因を見極め、一体どこから怪現象が湧いてくるのか? ということを調べることは、面倒でありながら、大変重要なのである。 しかし、今回の場合、原因を直ぐに特定することができた。

 老人は商店街の店先で楓が座り込んでいたのを見た瞬間に、彼女が普通ではないということを見抜いていたからだ。それは楓自身に悪霊たちが引き寄せられるように渦巻いているが見えたためであった。 

 霊を引き寄せる体質――。これこそ魔力を持つ証明である。

 極僅かであるが、生まれながらに魔力が非常に高い人間は存在する。彼らには先天的に魔術を行う土壌があるのだ。しかし、大抵の人間はそれに気が付かず一生を終える。土壌というものはあるだけではダメなのだ。それを耕し、肥料を与えながら育てて行かなければならない。

 恐らく楓自身もその類の人間であろう。魔力というものは何がきっかけになり目覚めるか分からない、彼女の場合、もともとあったこの家の怪異に触れたことで魔力が目覚めたのだろう。ただ、不幸なことに彼女の魔力は非常に高い。魔力の高さに比例して霊は集まってくるのだ。

この家の怪現象の真の原因となっているのは、楓自身なのだ。老人は商店街を歩く彼女の悲愴な顔つきを見て、救ってやりたいと考え楓に声をかけたのである。

 彼女に家に行き、老人の考えは確信に変わった。

 楓の自宅に着いた途端、もともとこの家が持つ魔力に引き寄せられてきた古今東西の様々な霊が彼女に引き寄せられてきたのである。その数なんと千以上。

 こんな数の霊を相手にしたことはない。同時にこの状況でよくもまぁ今の今まで耐え凌いできたものだと、老人は逆に感心した。原因を取り除かなければ、この家に未来はないだろう。まず早急に必要なのは、取り憑いている霊をすべて取り払うことだ。

 時間的に難しいが、老人は早速、作業に取り掛かり、除霊の呪文を唱える。その最中で老人は考えていた。こんな除霊作業は気休めであるということを。例えもっと高度な除霊魔術の呪文を唱えたところで、彼女の魔力の前では丸腰も同然だろう。大して時間稼ぎにはならないかもしれない。その間に、楓を魔術師として目覚めさせる必要があるだろう。そうしなければ未来はないし、彼女自身も、家族自身も不幸になってしまうのだ。

 老人は呪文を唱え終える。絹糸のような細い糸で悪霊を閉じ込めたに過ぎない。数日持つかどうかといったところだろう。

「お嬢ちゃん。これでしばらくは大丈夫じゃよ」

 その声で楓の顔色がパッと明るくなる。

「本当?」

「ああ。じゃが、ずっとは続かない」

「どうして?」

 老人は答えに迷った。この小さな少女の双肩に、こんなにも重たい事実を乗せても良いのだろうかと思ったためだ。

 それでも老人は答えた。答えずにいれば老人は何も困らない。何も教えなければ少女の一家はやがて破滅するだろう。しかし、救うことができる可能性のあるうちはそれに賭けた方が良いはずである。例えそれがどんなに重たい十字架だとしても……。

「お嬢ちゃん」

「何?」

「この家の陰惨たる原因は、お嬢ちゃん自身だよ」

「え? あたし?」

「そう、お嬢ちゃんには強い力がある。それが原因でたくさんの霊がお嬢ちゃんに集まってくるんじゃ。だから、この家は不幸が続いている」

 楓の表情は先程の花が咲いたような表情とは打って変わって、この世の終わりのようなどんよりとした顔つきに変わった。

「あ、あたしが悪いの?」

「いいや。君は何も悪くない。たまたま強い力があったというだけだ。でも、このままだと君たちはさらに不幸になる」

「そ、そんな。ひどいわそんなの。何にも悪いことをしていないのに、不幸になるなんてあんまりだわ」

 老人は楓を落ち着かせるように微笑みながら、

「お嬢ちゃん。助かる方法が一つあるんじゃよ」

「え?」

「それはね。お嬢ちゃんが一人でも悪霊たちを退治できる力を手に入れれば良いんじゃよ」

「そ、そんなことできるの?」

「ああ。可能だよ。お嬢ちゃんにやる気さえあればね」

 老人はそう言うと、楓に名刺を渡した。

「もし、霊と立ち向かう気があるのなら、明日ここに来ると良い。決して怪しい場所じゃないから安心しなさい。お父さんやお母さんに言っても良いが、説明が面倒だし、どうせ信じてはくれんだろう。自分で考えて来るか来ないかは決めさない」

「明日……」

「ああ。君にやる気があれば、明日そこでまた会おう」

 老人はそう言うと去っていった。

 去って行く老人の背中を眺めながら、ふと楓は受け取った名刺を見つめた。

『矢向 左千夫 (やこう さちお) 』という名前の隣に、矢向探偵事務所という会社名が書かれている。

(探偵さん?)

 と、楓が顔を上げた時、矢向は既に消えていた――。

 家に帰った楓は自室で一人、今日の出来事を振り返っていた。

 あの矢向という老人は、確かに自分の前で異能の力を見せてくれた。少なくとも自分が知っているマジシャンや霊能力者達と比べ、一線を超えた存在であると思えた。

 だけど……。

(信じていいのだろうか?)

 矢向はこうも言っていたではないか。

「この家が不幸に覆われているのは自分の所為である」と、それが本当であるのなら、自分は覚悟を決めて、この家を悪霊から守らなければならないだろう。しかしそんなことが自分にできるのだろうか? それに相手が幽霊では誰にも打ち明けることができないではないか。

 楓は「はぁ」と溜息をついた。

 ふと、時計を見ると、既に午後七時を回っている。本来ならとっくに夕食の時間である。特に、今日は楓の入学祝ということもあり、豪華な食事が食卓に並ぶはずであった。

(それにしてもご飯遅いなぁ。あたしお腹が空いてきちゃった。お母さんったらどんなに豪勢な料理を作っているのかしら?)

 楓はそう思いながら自室を出た。

 家の中は夜だというのに、電気も付いていない。そのため、一面真っ暗闇が広がり、只ならぬ雰囲気が漂っている。そして夕食の支度をしているリビングの方からは御馳走の匂いと、異様な臭いが漂っていた。それは、臭いというよりも感覚の問題だ。楓の体中を嫌な予感が包みこんでいく。

 同時に玄関の方から何やら声が聞こえてくる。楓の家は玄関の横に電話が設置されている。声の正体は母で、母が誰かと電話をしているようだった。

(全く。お母さんったら、電気も付けずに誰と電話しているのかしら)

 楓はぶつくさと呟きながら、電気をつけ、階段を下り、玄関へ向かった。

 ちょうど楓が電話をしている母の下に辿り着いた時、電話が終わったようだった。

 辺りはしんと静まり返り、微かにリビングの方から、何かを煮るコトコトという音が聞こえている。匂いから察するにシチューではないかと思った。

 母は電話を置かず、そのまま手を離した。そのため、受話器が床にガシャンと大きな音を立てて転がり落ちる。そして、同時にその場に泣き崩れた。母の嗚咽が妙に大きく聞こえるように思えた。

 楓は直ぐに何もできず、その場に固まった。今まで不幸の連続であったが、ここまで泣き崩れた母を見るのは初めてであったためだ。混乱する中、必死に冷静さを取り戻そうと努力していると、ようやく固まりが取れ、動くことができた。

 楓は直ぐに母に駆け寄り尋ねた。

「お母さん! どうしたの? どうしちゃったのよ?」

 母は泣きながら答える。嗚咽交じりで聞き取りにくい。

「お、おにいちゃんがね、おにいちゃんがね、びょ、びょういんにはこばれったって……そ、それでいしきがないんだって」

「え? 何? どういうこと? お兄ちゃんがどうしたの? お母さんしっかりしてよ」

 母はこれ以上ない力で楓の体を強く抱きしめながら答えた。

「おにいちゃんが、がっこうで、がっこうのかえりみちに、じ、じこにあって、びょういんにはこばれたんですって……」

(え。何? 「お兄ちゃん」「帰り道」「事故」「病院」)

 楓は母のたどたどしい日本語を理解しようと、脳をフル回転させる。そして母が言ったことを導き出す。

『お兄ちゃんが学校の帰り道に交通事故に遭った。そして、病院に運ばれたのだが、意識がない』

「おかあさん。ど、どうしたら良いの? あたし、どうしたら良いの?」

 楓は母の言葉を理解した途端、激しく混乱し、何もできなくなった。明らかに、楓の抱えることのできる容量を超えている。母は母で壊れたように泣いている。親子二人その場から立ち上がることができなくなっていた。

 ギリギリの精神の中で、楓はあることを考えていた。

 それは、この不幸も自分の所為ではないかということであった。

(いや。そんなことあるわけがない。あるはずがないのに、あれ、誰がこんなことを言ったんだっけ? そうだ、確か……)

 楓はそこで、昼間に逢った不思議な老人を思い出した。そう、彼の名は矢向 左千夫。

 思い出した途端、楓は階段を駆け上がり、机の上に置いてある名刺を手に取り、ケータイを使い、その電話番号に電話をかけた。

 この時、楓の脳内には、病院に行くことも、父に電話することも、母を励ますことも、思い浮かばなかった。ただ、呪文を唱えるようにケータイのダイヤルボタンをプッシュした。

「プルルルル」というコール音が三度程続いた後、矢向は眠そうな声で電話に出た。

「もしもし、矢向探偵事務所ですが……」

「おじいさん!」

 楓は叫んだ。その声は矢向の眠気を吹き飛ばすのに十分であった。矢向の声は霧が晴れたかのように真剣になる。

「お嬢ちゃんかい? どうしたんだい?」

「おじいさん。助けて。あたしを助けて!」

 矢向はその声で何か大変なことが起きたのだと直ぐに悟り、

「よろしい。だが、少し落ち着くんだ。落ち着いて理由を話なさい」

「おじいさん。お兄ちゃんが病院に運ばれたの、意識がないの。学校の帰り道で事故に遭ったの」

 ごちゃごちゃになった日本語であるのにもかかわらず、矢向は楓の言うことを直ぐに理解したようであった。

「分かった。今お嬢ちゃん一人なのかい?」

「お母さんがいるわ。だけど、お母さんは泣き崩れちゃって……。あ、あたし、もうどうしたら良いのか」

「よろしい。わしがこれから直ぐに行こう。箒に乗るというわけにはいかんが、十分以内で行こう。それまで待っていられるね?」

「ええ。なるべく早く来て頂戴」

 そう言うと、電話は切れた。そして、楓は再び玄関まで行き、泣き崩れた母を抱き起した。

「お母さん、落ち着いて。大丈夫よ。大丈夫だから」

 楓が矢向に電話をかけたきっかり十分後、矢向は楓宅に現れた。ドアのベルが鳴ると、楓は一目散ドアを開けた。

 目の前には矢向が立っている。服装は昼間と同じであった。夜のため、ダーク色の衣類が闇に溶け込み、服と闇の境界が曖昧に見える。

「お嬢ちゃん。大丈夫じゃったかい?」

 楓は矢向の顔を見て、とても安堵し、力が抜けたように矢向に向かって倒れ込んだ。

「もう大丈夫だから、安心しなさい。まずはこの御夫人を何とかしないと」

 矢向は楓の母を起こして、リビングまで連れて行くと、勝手にグラスに水を注いで母に飲ませた。

 水をゆっくりと飲み込むと、母はようやく落ち着きを取り戻したようであった。何やらの魔法がかけてあるのか、しゃっきりとしている。

 それを見て矢向はホッと溜息をつきながら、

「落ち着きましたかな。まず、わしは決して怪しいものではありません。こういうものです」

 矢向は、昼間楓に渡したものと同じ名刺を差し出した。

 親子だからなのか、母と楓の名刺を見る姿はそっくりに見えた。矢向はそれを見るとにこりと微笑んだ。

「あ、あの探偵さんですか?」

「ええ。この年ですがね。未だ現役として頑張っておりますわい。それで、先程この家を通り過ぎようとすると、外まで聞こえる大きな泣き声が聞こえましてね。どうも不安になり尋ねさせていただいたというわけなんですよ」

「は、はぁ。お恥ずかしいところを……」

 そこまで言ったところで、母は兄が病院に運ばれたことを思い出したようだった。

「そ、そうだわ。こんなことをしてる場合じゃ。ええと矢向さん。このお礼はまたいずれ致します」

「お礼なんて構いませんよ。病院に行くのでしょう? 先程、その御嬢さんに聞きました。何の因果か私はこの辺に車を停めておりましてな。これも何かの縁。よろしければ御付き合いさせていただきたいのですが」

 楓の家から病院までは距離がある。電車を使えば余計に時間がかかるし、ちょうど自家用車は父が通勤に使っており、今は無かった。

 今からタクシーを呼ぶという悠長なことを言っている暇もなかった。

 矢向の車は楓の家の横にぴったりと止めてあった。闇に溶け込むような漆黒で小ぶりの自動車である。車内は比較的綺麗であり、ナビやETCも付いている。

楓たちは車に乗り込み、病院へ向かうことになった――。

約十キロ先にある総合病院に着いたのは、午後八時であった。

 楓と、母洋子は緊急外来の受付から病院内に入り、兄の容態を聞き、直ぐに病室へ向かっていった。

 部外者である矢向だけが、緊急外来受付の前のベンチに座り、考え事をしながら二人が帰ってくるのを待っていた。先程、楓の家に行った時、自分が時間稼ぎのためにかけた簡易的な魔術が、あっという間に遮断されているのが分かった。

 どうやら、あの家に取り憑いているのは、かなり強力な悪霊であるということが分かった。そして、早急にその原因を除去しなければならないと考えていた。

 恐らく、今回起きた楓のお兄さんの交通事故の件も、悪霊の力が働いていると言えるだろう。霊は人を死に誘うのが得意なのだ。特に精神的なダメージを負った人間が大好物だ。自殺する人間が死の間際、何かの声を聞いたり囁かれたりするのは、何も心理的な影響だけではなく、霊的な現象も含まれているのである。

 ならば、早く原因を取り除かなければならない。しかし……。

(わしの力でなんとかできるだろうか?)

 老体の矢向の魔力ではどうなるか分からない。

 彼には知識があっても、魔力が高いわけではなく、何より実戦経験が足りないのである。

 世間一般では霊的な仕業というものは、大抵が魔術によって引き起こされていることが多い。故に魔術を寸断することさえできれば、事件を解決させることができるのである。

 だが、今回は勝手が違う。人自体に原因がある。強力な魔力を宿す楓という人間に霊が吸い寄せられているにすぎない。故に、楓の家自体を浄化しても、根本である楓の魔力を取り除かなればならないのである。しかし矢向には一度芽生えた魔力を消滅させるような都合の良い魔術は思い浮かばなかった。

 となれば選択肢は二者択一である。

 一つは、矢向自身が悪霊と闘うという選択。

 もう一つは楓自身が悪霊と闘うという選択。

いずれにしろ闘わなければ問題は解決しないだろう。老人は静かに夜空を見上げ、真っ暗な空に向かって溜息をついた。


          *


 矢向が溜息をついている頃、楓と母はある病室に案内されていた。

 案内された病室は一般的な病室でなく、集中治療室であった。緊急であったため、普段は入室を厳しく制限されている室内へも特別に入ることができた。見慣れぬ機械が立ち並び、SF小説に出てくるようなアンドロイドのように器具やチューブを取り付けられた兄が静かに目を閉じ眠っていた。

 とても普通に寝ているようには思えない。同時に、この先普通に起き上がってくるようにも思えなかった。

 取り付けられている機械のどれか一つでも故障すれば、兄はあっさりと死んでしまうのではないだろうか? そんな不安が楓の心を覆っていく。

(あたしがいたから、こんなことになってしまったのかな? あたしがいなくなればお兄ちゃんは助かるのかな?)

 楓が医師に、

「お兄ちゃんは助かりますか?」

 と尋ねると、医師は楓に告げた。

「大丈夫。きっと助かるよ。お兄さんは今闘っているんだよ。もう直ぐ良くなるから、お嬢ちゃんもお兄さんを励ましてやってね」

 その声には力が感じられなかった。

 なんとなく助からない可能性の方が高いのではないだろうか? もしそんなことになってしまったら、自分はこの先笑って生きれるのだろうか。

 楓は夜の暗くなった院内を、夢遊病者のように歩いて行った。

 無意識の内に、楓は病院の外に出ようとしていた。病院の中も薄暗いが、外はもっと暗かった。

 緊急用の出入り口の横で矢向が煙草を吸っている姿が見えた。彼の口から放たれる煙が奇妙にうごめき幽霊のように思えた。楓が矢向の方へ近づいて行くと、矢向も楓の姿に気が付きしわしわの顔で微笑んでくれた。

「お兄さんの容態はどうだい?」

「お医者さんは助かるって言っていたわ。だけど、あたしにはそう思えなかった」

 矢向は怪訝そうに眉間にしわをよせ、

「どうしてそう思うんだい?」

「だって、だって……。お兄ちゃんは見たこともない器具をたくさん付けられて、横になっているのよ。ね、ねぇおじいさん。これもあたしの所為なのかしら?」

そうじゃなと、矢向は言えなかった。その代りこう言った。

「そんなことはないさ。運が悪かったんじゃよ」

「でも昼間に言っていたじゃない。この家が不幸なのは、ふ、不幸なのは……」

 あたしの所為なんでしょ。という言葉が出ないようであった。楓の必死の姿を見て、矢向は答える。

「お嬢ちゃん。大丈夫じゃよ。大丈夫。だから、そんな顔をしないでおくれ」

「ねぇ、おじいさん。どうしたら家族を救えるのかしら? どうしたらあの家を不幸から解放させることができるのかしら?」

「大丈夫じゃ、わしがなんとかしよう」

「で、でも今日の昼間にかけてくれた魔法は、ほとんど効果が無かったんじゃないの? やっぱりあたしが悪いんだわ」

 勘が良い少女だ。と矢向は思い偽ることなく答えた。

「お嬢ちゃん。わしはね、最近まで刑事として働いていたんだが、早めに退職してね、それから今までは探偵として生活している。探偵といっても浮気調査や人探しだけでなく、心霊的な現象も扱っている。今までたくさんの現象を追い、研究してきたが、お嬢ちゃんのような魔力を持った人間は初めてじゃよ。お嬢ちゃんは魔力が強すぎる上、霊が集まってきやすいんじゃ。じゃが、解決させる方法はある」

「本当に?」

「ああ。わしとお嬢ちゃんが協力し合えば良いわけじゃ。お嬢ちゃんが持っている魔力を自在に使えるようになれば、万事うまくいく。その指導をわしがしよう」

「あ、あたしにそんなことができるのかしら?」

「できる、できないの話ではない。境遇を変えたいのならば、やらなければならないだろう。でも安心しなさい。きっと大丈夫じゃから」

「ど、どうすれば良いの?」

「これからお嬢ちゃんの家に戻ろう。そして、そこで除霊を行う」

「これから? で、でもいきなりあたしそんなこと……」

「時間はあまりない。大丈夫わしの言うとおりにやるんじゃ。そうすれば上手くいく。わしの力だけではあの家に住みつく悪霊を退治することはできないが、お嬢ちゃんが協力してくれるなら、鬼に金棒。安心しなされ」

「そ、そうすれば、お兄ちゃんは助かるの? お父さんもお母さん?」

 矢向はにっこりと微笑み答えた。

「ああ。大丈夫。安心しなされ」

 それを聞き、楓はだらんとしていた両腕に力を入れ、拳をギュッと握りしめた。

「分かったわ。あたしやってみる」

 楓は力強く、そう答えた――。

 病院には母とその後やってきた父が残ることになり、楓は矢向の車に乗り家に帰ることとなった。

 楓は車内で矢向に尋ねた。

「ねぇ。除霊ってどうやるの?」

 矢向は運転しながら答えた。

「簡単な話じゃよ。お砂盛りという儀式を行う」

「お砂盛りって? それにあたしお金を持っていないの」

「お嬢ちゃん。祈祷や呪法の類で高額なお金がかかるものはインチキだと考えて良い。今回の儀式にも金など一切かからない。しかし……」

「しかし?」

「最初にも言ったのじゃが、これからやる儀式は、わしが今日の昼間に行った簡易的な祈祷の正規版であるというだけじゃ。つまり、効果は気休め程度しかない。物事は祈るだけでは何も解決しない。それは魔術現象にも同じことが言える。如何に高貴な祈祷を唱えたところで未来永劫の効果は得られないのじゃ」

「じゃあどうしたら良いの?」

「原因を断ち切る。即ち、あの家に棲みついている、お嬢ちゃんが引き寄せた悪霊を退治する。というわけじゃ」

「それを退治するのがあたしってわけね? でもあたしにそんなことができるのかしら?」

「うむ。今まで言った方法は、いわばこれから問題を解決しようとする場所。つまりお嬢ちゃんの自宅を、我々のフィールドにしようということじゃ。儀式を繰り返し行い、あの自宅を自分有利な環境に変えればなんら問題はないんじゃよ」

「おじいさんが祈祷をして、あたしの家をあたしが戦いやすいように変える。そこまでは分かったわ。でも、どうやって悪霊と闘うの? あたし自分に魔力があるなんて思えないわ。お化けだって見たことないもの」

「それも問題はない。祈祷を十分に行い、準備を整えた後、わしが棲みつく悪霊たちを交霊させる。つまり、自分の目でも見えるようにするということじゃ」

「それであたしはどうやって闘えば良いの? あたし喧嘩なんて自信ないわ」

「そんなことはせんでも良い。交霊というものはわし一人ではできんのだ。霊というものは魂と考えてもらいたい。魂はそれだけでは交霊することができない。なぜならそれを入れる入れ物がないからだ。ここでいう入れ物というのは人のことじゃ。その入れ物となる人物は魔力が高い人が一番適しているのじゃ。その方がより一層霊は引き寄せられてくるからのぅ。つまり、その役目をお嬢ちゃんにしてもらいたいというわけなんじゃよ」

「え、じゃあ私は何もしなくても良いの?」

「ああ。じゃが、棲みついている悪霊の数が多いので、体力的にはしんどいはずじゃが、ざっと二時間程でなんとかなるじゃろう」

「分かったわ」

 話しを終えると、矢向の車はちょうど楓の自宅の前に着いた。

 現在午後十時半――。

 辺りはしんと静まり返り、ひっそりとしている。街灯に虫たちが引き寄せられ、奇妙にはためいているのが見える。

 楓は車から降りると、自分の家を見つめた。見慣れた自分の家であるはずなのに、今日見るこの家はまるで異界の代物のように思えた。

 ここに悪霊が潜んでいる。と考えると楓の心は恐怖で侵食されていった。

 後から車を降りた矢向は、車のトランクから何やら工具箱を取り出した。そして、小刻みに震えている楓の肩を、解きほぐすようにマッサージしてやった。

「大丈夫じゃよ。大丈夫。安心しなされ」

「うん」

 まず矢向は、楓宅に入り適当な瓶を拝借すると、それをキッチンで良く洗って綺麗にした後、水を瓶いっぱいに入れ、庭に出て行く。庭といってもそれほど広くない。六畳程の小さな空間だ。庭には物置があり、その脇には母が育てている花があるが、今ではほとんどが枯れていた。

 矢向はそんなことは全く気にする素振りを見せず、ジャケットの内ポケットからコンパスを取り出し方角を確かめ、西北方面に歩き、さらに持っていた工具箱の中から小さなスコップを取り出し、穴を掘り始めた。

 無言で穴を掘り続けること十五分。直径五十センチ、深さ三十センチくらいの穴に先程水でいっぱいにした瓶を入れ、掘った土を穴の中に戻し、瓶を埋める。

 元来土の中には竜神がいるとされている。しかし、家を建てる場合、この竜神の住み家を一緒に埋め立ててしまうので、怒った竜神が災いを起こすとされている。そこでささやかであるが竜神に水を提供することで怒りを鎮めようとするわけだ。

 もちろん、こんな儀式は気休めだ。だが悪霊は何かを清めるという行為を嫌う。そのためこのような地道な活動の連続が悪霊を退治する際には重要なのだ。

 その後、矢向は楓宅の外側四方に晒し布から取り出した、白が混じった土のようなものを盛っていく。

「ねぇ。おじいさん何をしているの?」

「昼間、わしを家に案内してくれただろう。その時に準備したんじゃが。この家の真南にはとある神社がある。そこの神社の住職に頼み、昼間神社内の土を分けてもらった。その土と荒塩を混ぜたものを、純白の晒し布で包み、家の外側四方に盛っていくんじゃ。これをお砂盛りといって、悪霊に憑りつかれた家を洗い清める効果があるんじゃよ」

 四方に砂を盛り終わった後、矢向と楓は再び家の中に入り、家の一番大きな部屋、つまりリビングへ向かった。

 リビングに付くと矢向が口を開いた。

「さて、準備も整ったところで本題に入ろうとしようかね」

「とうとう、悪霊を呼ぶってことね」

「まぁそんなに緊張しなさんな。大丈夫じゃよ」

 これは矢向の楓を励ますようにそう告げた。彼は楓の高い魔力があれば、確実に霊を交霊させることができ、尚且つ除霊するのが可能であると考えていた。

 矢向は楓をリビングのソファーに座らせ、口寄せによる交霊術を行う。

「口寄せ」というものは死んだ魂を呼び戻す技術のことであり、古来日本では巫女がその役目を担っていた。巫女は生まれながらに魔力を宿す人間が多かったため適任であったのである。

 矢向は口寄せによって引き寄せた霊を、楓にしっかりと憑依をさせ、そこで除霊を行うことにしていた。

 魔術を用いれば高速で悪霊を退治することが可能であるが、今回のように多数の悪霊を相手にする場合には魔術師の高い魔力が不可欠である。高い魔力があるが知識を全く知らない楓には扱うことができないし、知識はあるが魔力が凡庸な矢向には魔術による退治法は使えなかった。よって、二人は一番面倒な方法を選ばざるを得なかったのだ。

 話しをまとめると、楓を媒介し、矢向の口寄せで悪霊を呼び寄せ、顕現化させた後、一体ずつ除霊を行っていくということだ。この家には千人弱の悪霊が棲みついているので、一人につき二十秒はかかるであろうから計算すると、五時間三十三分二十秒。楓の手前、二時間と宣言していたが、恐らく六時間はかかるであろう。

 気の遠くなる時間をかけて除霊をしなければならない。矢向一人ではとてもではないが、このような離れ業は行えない。たった一人で霊を呼び出しながら、直ぐに除霊をし、それを千回繰り返すなどということは、最早人間技ではない。しかし、楓の高い魔力がそれを可能にするだろうと思えた。

 口寄せにより顕現化させた霊を定着させておくには、激しく魔力を使用する。霊媒師の中に祈祷後に倒れ込む人間が多いのはそのためなのだ。だからこそ、千人もの悪霊を呼び出しつつ除霊を行うことは一人では無理なのだ。しっかりと呼び出した霊を捉えておく箱が必要なのである。

 矢向は気を整え、交霊術の準備に取り掛かり、深呼吸の後、交霊術である口寄せの呪文を唱えた。これから六時間程、除霊の儀式が続くはずであったのだが、奇跡は直ぐに訪れた。呪文を唱え、除霊した例が楓に憑りつこうとし、楓の体に触れた瞬間、霊はたちどころに消えていったのだ。

 霊を処理する方法は、主に次の二通りである。「消す」か「閉じ込める」かだ。

「消す」というものは除霊や魔術によって成仏もしくは消し去るということである。そして「閉じ込める」というものは、道具を使い、霊をその中に閉じ込めてしまうということだ。要するに交霊した霊が成仏あるいは消え去ったということになる。

(これは一体?) 

 矢向がそう思うのも無理はない。如何に知識があっても楓のような高い魔力を持つ人間に出会うことは早々ないからだ。それでも蓄積された知識をフル動員して考えた。可能性として考えられるのは楓には生まれながらに持ちえた高い魔力を駆使し、無意識的に霊や魔術現象を遮断するような魔術を心得ているということになる。つまり、彼女には魔術師を超越する強大な魔力が宿り、魔術を心得ていることになるのだ。

(だが、こんなことがあり得るのだろうか? こんな能力は魔術師にとってはまさに神の力……)

 霊や魔術現象を強制的に遮断する魔術は非常に高等な技術であり、高い魔力と気の遠くなるような鍛錬が必要になってくる。きつく絞められた縄がほどけにくいように、複雑な魔術ほど解除するには技術を要するのだ。それをこのような小さな少女がいとも簡単に、それも無意識的にやってのけたことに矢向は驚きを隠せなかった。

 そこで彼はある実験を試みた。それは同時に複数の霊を交霊させることである。万が一のこともあるのでそれに対処できるように三体を同時に交霊させた。三体であるならば楓が無意識に引き起した魔術が何かの勘違いであったとしても、時間をかければ矢向一人で対処できる。だが、楓の魔力が本物ならばたちどころに霊は成仏するだろう。

 矢向は三体の悪霊をいっぺんに交霊させ楓に憑りつかせようとした瞬間。彼女は再び無意識的に魔術を発生させた。楓に憑りつこうとした三対の霊は、彼女の体に触れた瞬間、先程と同じようなプロセスを辿り消えて逝ったのである。

 霊が煙のように消えた後、矢向は自身の考えに確信を持った。楓には神懸かり的な高い魔力があるのだ。その魔力にはもう疑いようがないだろう。矢向は、自分が一度に交霊させることのできる限界の体数を一気に交霊させ、楓の力を使い除霊をさせていった。

 すべてが終わったのは、午後九時を少し回ったところだった。つまり、除霊には三十分もかからなかったのである――。

 除霊が完了すると、矢向はリビングにある革張りのソファーに腰を降ろした。

 楓はその様子を見て、除霊が完了したのだと察した。聞いていたよりも随分早かったので拍子抜けた顔をしている。

「もう、終わったの?」

 矢向は答える。

「ああ。お嬢ちゃんのおかげだよ」

「あたしの? あたしは何もしていないけど」

「そうかい。それならそれで良いんじゃよ」

「ねぇ。おじいさん。もうこれで家は大丈夫なの?」

「ああ。そうじゃね……」

 これでももう大丈夫じゃよ。と矢向が言いかけた時、ひっそりと静寂を保っていた玄関の方から電話のベルの音が聞こえた。いつも聞き慣れたベルの音なのに、なんだか今は天使の福音のように聞こえると楓は思った。

 楓は急いで電話へ向かった。

「もしもし? 立川です」

「楓ちゃん。ちゃんと家に着いたのね。良かったわ」

 声の主は母であった。母の声は涙声であったが、どこかしら安堵した優しい口調であった。

「お母さん。どうしたの?」

「お兄ちゃん。ついさっきね、気が付いたのよ。お医者様が言うには奇跡なんですって。峠は越えたから安心しなさいって。だから、楓も安心しなさい。お母さん、念のため今日一日は病院に泊まるから、でも、お父さんがこれから帰るから安心してね」

「分かったわ。あたしは大丈夫だから。お母さんも安心して。また明日学校が終わったら病院へ行くから」

「ありがとう。そしたらまた連絡するわね。ゆっくり休むのよ。お休みなさい」

「うん。お休みお母さん」

 電話を切ると、再びリビングへ向かった。

 矢向は不安そうにこちらを見ているが、楓の表情をみると、直ぐにその表情を変え、安堵した顔になり、微笑みながら答えた。

「その顔を見ると、どうやら大丈夫だったようじゃね。となれば、わしはもう用済みじゃろう。お暇しようとするかな」

 矢向はそう言うと、立ち上がった。その姿は先程まで悪霊を除霊した姿とは、似ても似つかず、老人そのものであった。

「おじいさん」

「なんだね?」

「もう家は大丈夫なのかしら? 今は良いけどまた悪霊に取り憑かれたりしないかしら」

「家全体は祓い清められているし、しばらくの間は大丈夫じゃろう。まぁ、いずれにせよ今日はもう遅いし、急を要する話でもない。じゃがもし、興味があり話を聞きたいのであれば、昼間あげた名刺に書かれている、わしの事務所へ来なさい。そこで話を聞かせてあげよう」

「分かったわ。おじいさん、今日は本当にありがとう。あたし一人じゃ何もできなかったわ」

「そんな顔をせんでも良い。わしがやりたくてしたことじゃからな。それにしてもお兄さんが助かったようで良かったわい。お嬢ちゃんも今日は安心して眠れるじゃろう」

 矢向はそう言うと、リビングを出て玄関へ向かい靴を履き外に出て行く。楓もその後を後ろから追い、矢向の車の前まで送って行く。

 車に乗り込むと矢向はキーを回しエンジンをかけライトを付けた後、窓を下げて楓の方を向き、

「それじゃあお嬢ちゃんお休み。また機会があれば会おうじゃないか」

「うん。おじいさんも元気でね。今日はありがとうございました」

 楓がそう言うと、矢向は窓を開けたまま、車をゆっくりと始動させ、薄闇の中に消えていった。

 ハザードランプの灯りが小さくなり、見えなくなっても、楓はその方向を見続けていた。


          *


 車を走らせながら、矢向は煙草に火を付けて窓の外に煙を吐いた。体はクタクタであったが、心地の良い疲れであった。そして、一日の出来事を振り返っていった。こんな経験は長い人生の中で、初めてのことであった。

 魔術の世界はいわば職人のような世界であって、一生極めるということがない。技術を高め、知識を備えその分野に精通したとしても、次から次へと新しい現象や信じられない出来事に遭遇するのだ。

 今回の事件は極めた気になっていた矢向の鼻を挫き、再び褌を締め直そうとする気持ちを与えてくれた有難い事件でもあった。

(わしもまだまだということか。ありがたい話じゃ。まだ、この先には見慣れぬ世界が待っているかもしれないのじゃから)

 矢向はそう思い、最後に大きく煙を吐きだし、吸殻を灰皿に押し付けた。

 矢向の自宅は楓の家から五キロ程都心に向かった、三階建ての事務所兼自宅である。そのため、一階は駐車場と、事務所があり、二階にキッチンやバス等の生活スペースがあり、三階が主寝室と書庫となっている。

 この辺りに隣接している家々と矢向の自宅を比べてみると、矢向の家は遥かに大きい。豪邸のような家である。

 それもそのはずで、矢向は帝大卒のキャリアで警察官となった元エリートなのである。

 キャリアの出世は超特急だ。昇任試験など一切ないから高速エスカレーターのごとく昇進を繰り返し、二十代の後半で県本部長の課長クラスの席が用意されている。矢向自身も、四十歳で警視長、四十八歳で警視監なり、順風満帆であったが、定年間際の六十歳の時にすべてを辞め、探偵となった。

 探偵といっても、一般的な探偵とは違う。彼が探偵となった理由は刑事として刑事部二課に配属され、多くの事件を経験したきたことが挙げられる。彼の場合、キャリア組であったため、一か所に何年も定着することがなく、一、二年程で異動を繰り返していたのだが、どこの地域に行っても不思議な事件というものはあった。

 二課は主に知能犯による事件を担当するため、詐欺、横領、経済事件等、扱う事件は幅広い。幅広いのであるが、未可決事件も多い。どう調査しても犯人が浮かび上がらない。科学のメスは如何なる事件も一刀両断するように思えるが、実はそうではない。

 かの有名はSF作家、アーサー・C・クラークは言っている。

『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』

 もしこれが正しくて、科学と魔法の区別がつかないのであるならば、魔法自身も科学と区別がつかないということになる。つまり高度に発達した魔法は科学と区別がつかない。

 科学ならば、追っていけばいつか答えが見つかり、犯人へ辿り着くかもしれない。しかし、魔法によって科学のようなことが起こされているのだとすれば、永遠に犯人に辿りつくことはなく、側違いの場所を探し続けることになるのだ。

 当時の矢向にとって魔術師などという存在は偽りであり、ペテン師であり、イカサマであるという認識が強かった。事実、彼は多くのイカサマ手品師や、新興宗教団体の教祖を多く捕まえてきたのだ。

 彼らは皆イカサマやマジックを用いたトリックを使い超常現象擬きを引き起こしたフリをし、詐欺や横領を繰り返していたのである。

 だが……。未解決事件の多くは解決できそうだが、根拠が乏しかったり、科学的におかしかったりするようなことが多い。辻褄が合わない、アリバイが壊せない。なぜ未解決に限りこんなことばかりが起こるのか? これは本当に人間によって引き起こされた事件なのか?

 矢向の中で一つの答えが導き出された。

『魔術』

 到底、優秀なキャリア組の人間が考え付くような答えではない。

 もちろん彼はこの事を誰にも言わず、密かに魔術について研究をし始めた。

 中世の著名な魔術師たちは、皆、現代でいうところの天才科学者である。故にアインシュタインも、中世に生まれていれば魔術師と呼ばれていたかもしれない。

 科学が発展していなかった時代は、高度な科学を編み出すと、それが魔法であると勘違いされていたのだ。

 砂漠の砂が水を吸い込むがごとく、何かに取り憑かれたように矢向は魔術に傾倒していく。五十を迎える頃には膨大な数の書物を読み魔力の存在を確信した。そして研究を重ねることで知識と魔力が蓄えられていた。

 知識や、魔力を得ると、それを確かめたくなる、魔力を放出したくなるのだ。そして、彼は警察の仕事以外で一つの心霊現象に困る親子を助けることに成功する。

それが、魔術師、矢向 左千夫の誕生のきっかけであった――。


          *


 場面は変わり、朝を迎えた――。

 道端は通勤や通学の人間達で溢れている。その中に一人の少女がいた。

そう。立川 楓である。彼女は中学校へ向かっていた。

朝方、病院にいる母から再び電話があり、

「お兄ちゃんは集中治療室から出ることができ、意識もしっかりしている。だからもう安心しなさい」ということを聞いた。

 なので、安堵した気持ちの中学校へ通学できたし、同時に矢向に対して多大なる感謝をしていた。

(今日学校が終わったら、お礼に行こう)

 楓はそう思っていた。

 足取りも軽やかに、校門をくぐり教室へ向かう。入学早々不幸な出来事が起こらなかったことで、楓の精神的な負担は和らいでいた。

 授業を受ける際も心は落ち着いている。こんな気分は何年ぶりなんだろうか? 

 学校が終わると、下校途中にあるスーパーでお見舞い用のお菓子を買い、その足でバスに乗り病院へ向かった。学校から駅へ向かいそこからバスに乗れば二十分程で病院へ行くことができる。

 バスに揺られ、病院着き、予め母に教えてもらっていた病室へ向かうと、元気な顔をした兄と安堵している母の顔を見ることができた。

 楓はスーパーで買ってきたお菓子を取り出しながら尋ねた。

「お兄ちゃん。もう調子は良いの?」

 兄は答えた。

「ああ。もう大丈夫だよ。一体全体、なんでこんなことになったのか良く覚えていないんだ。でも、気が付いた時には霧が晴れたという感じだったよ」

「そう。良かったわ。昨日は心臓が止まるかと思っちゃったもの」

 会話を聞いていた母が尋ねてくる。

「そうだ、楓。学校はどうだったの? 今日から授業でしょう?」

「うん。別に大したことないわ。授業といっても制服を着るようになっただけで、小学校とほとんど変わらないし」

「そう。お兄ちゃんは、今日は大事を取って入院するけど、このままいけば明日の午後には退院できるそうだから、そうしたら楓の入学祝とお兄ちゃんの退院祝いをしましょうね」

 楓は照れながら首元を掻き答える。

「うん。そんなの良いのに……」

「あなたこのあと直ぐに家に帰るの?」

「ううん。あたしこの後矢向さんのところへ行こうと思って」

 母は怪訝そうに尋ねる。

「矢向さん?」

「うん。お母さん覚えていないの。昨日パニックになった私たちを助けてくれたおじいさん。ほら、病院まで送ってくれたおじいさんよ」

「あ、ああ。そうだったわね。いやだわ、お母さんすっかり忘れちゃって。改めてお礼に行かないとね」

「うん。だから今日あたしがお礼に行ってくるわ」

「あなた大丈夫? ちゃんと一人で行けるの? お母さん夕方には病院に出れるから、その後一緒に行かない?」

「ううん。あたし先に行くわ。ちょっとあのおじいさんに聞きたいことがあるの。それにあたしはもう中学生だからそんなに心配することないわ」

「そう、じゃあ母が夕方御礼に伺いますって伝えておくのよ」

「うん。分かった。それじゃあお兄ちゃんも元気でね。明日退院できると良いね」

 楓がにっこりと微笑みながらそう言うと、兄もにっこりと手を振って答えてくれた。

 それを見た後、楓は病室を出て矢向の家に向かうことにした。場所は分かっている。制服のポケットに昨日貰った名刺を入れてきたのだ。

 名刺を取り出し、住所を調べる。ここからそう遠くない。バスに乗って駅まで行けば、電車で行くことが可能であろう。

 楓は病院を出て、歩き始めた――。


          *


 穏やかな風の中、楓が家路に向かって歩いている最中、同じような風を受けている一人の老人がいた。窓を開けていると、春の心地の良い風が部屋の中をすうっと通っていく。最近ようやく暖かくなってきた。花粉症の人間にとっては辛い時期かもしれないが、暑くなく、寒くないという環境は心地が良いものであった。こんな時期は一年でそう多くはないだろう。

 そんなことを考えている老人とは魔術探偵の矢向である。彼は自室のソファーに座り、ある書類を読みながら、昨日の出来事を反芻していた。

「楓」まだ中学に上がって間もない少女。しかし、高い魔力を宿す少女。あの小さな体の中に、高名な魔術師が束になっても敵わぬような魔力が内包されているのだ。

(実に不思議じゃ)

 矢向はそう考えながらローテーブルの上に置いた書類に目を通す。この書類は午前中ファックスで届けられたものであった。簡単に言うと事件の依頼書である。依頼主はとある不動産会社の社長。異様な物件の調査を依頼してきたのである。

 矢向の事務所は表向きには、探偵事務所ということになっているのだが、知る人とぞ知る魔術現象に対応する事務所である。

 故に、このような依頼は多い。幽霊屋敷の調査、悪霊退治、祈禱。

 今回の幽霊屋敷調査も例に洩れず似たようなタイプの依頼であった。

 実を言うと曰く付きの物件は、そう少なくはない。ただ、曰くが付いているだけで実際は何も起こらないという物件の方が多いのである。しかし、極稀にどうにも手の付けようがない幽霊屋敷となった物件がある。

 このような物件は、大抵このようなことが言える。

 一、住居者が恐ろしく速いスピードで入れ替わる。

 二、多数の住居者による心霊現象の目撃談。

 三、住居者がいなくなってからある程度の時期が空いている。

 四、原因とされる事件が自殺や他殺であるということ

 この四つの内、一つでも当てはまれば幽霊屋敷であるという疑いがある。特に四番のように自殺や他殺、人の死があったとされる現場は悪霊が棲みついている可能性が非常に高い。

 場所は渋谷区松濤――。この場所から遠くはない。車を使い、国道二四六を走り、山手通りに入ればすぐだろう。

 依頼主の話では、曰くとなっている物件を壊し新たにマンションの建設をしたいのであるが、あまりに心霊現象の類の苦情が多いので、取り壊す前に見て欲しいというものであった。

(まぁ恐らくは悪霊絡みではあろうが、行ってみないことには、調査のしようがない。仕方ない。早速明日にでも取り掛かることにしようか)

 矢向はそう考え、依頼を受けることにした。すると、玄関の方から来客を告げるベルの音がした。

(今日はやけに客が多いのぅ)

 そう考えながら、矢向はドアを開けた。ドアの先には意外な人物が待っていた。

 そう。例の魔術少女、楓である。

 驚きながらも矢向は、

「お嬢ちゃんじゃったか。どうしたんだい?」

 楓は後ろで手を組みはにかみながら、

「昨日のお礼に来たのよ」

「あ、ああ。そうかい。わざわざすまなかったのぅ。ここまで遠いから、さぞ疲れただろう? 中に入りなさい」

 矢向はそう言うと、楓を事務所ではないリビングの方へ案内し、ソファーに腰をかけさせたあと、キッチンへ向かいお茶の用意をした。

「おじいさん。あたし何もいらないわよ。あと、今日の夕方お母さんが改めてお礼に来るって言っていたわ」

 矢向はグラスに注いだお茶を、楓の前に差し出し尋ねる。

「改めて? どうして一緒に来なかったんじゃい?」

 楓はお茶を受け取り答える。

「お母さんはまだ病院にいるのよ。あ、でももうお兄ちゃんは大丈夫なの、明日には退院できるんですって。まぁお母さんと来なかった理由はそれだけじゃないの。あたし聞きたいことがあるのよ」

「聞きたいこととはなんだね?」

「うん。昨日のこと。興味があればここに来なさいって言ったのは矢向さんじゃない。あたしね興味があるの。どうしてこんなことになったのか聞きたいの。だって昨日の事件はあたしが原因だったんでしょう?」

「まぁ、そうじゃがお嬢ちゃんのおかげで除霊は簡単に終わらせられたんじゃよ」

「あたしのおかげ?」

「お嬢ちゃんはこの話に興味があるようだし、別に隠しておくのも意味の無いことじゃから正直に言うと、お嬢ちゃんには強い魔力が宿っている。それも並大抵の強さではない。強大な魔力じゃ」

「強大な魔力?」

「そう。強い魔力に霊や魔術は強く引き寄せられる。昨日の除霊でお嬢ちゃんの家の幽霊はすべて消滅したが、再びお嬢ちゃんの力に引き寄せられて集まってくる可能性は高い」

 楓の顔がサッと青ざめていく。それをみた矢向がすかさず、

「しかし安心しても良い。お嬢ちゃんは無意識に霊や魔術を寸断する非常に高等な魔術を心得ている。すなわち、訓練次第では自分で引き寄せられる幽霊や魔術を消し去ることができるというわけじゃ」

「で、でもあたし魔術なんて知らないし、幽霊のことだって見えないわ」

「訓練によって見ることは可能じゃよ。お嬢ちゃんのような高い魔力があれば、半日もあれば霊を見る目を作り上げることができるじゃろう。だがね……」

「だけど何?」

「何も進んでこの世界に飛び込まないでも良いだろうに。わしが定期的にお嬢ちゃんの家を訪問し御祓いすることも可能なのじゃよ。少ない数の霊であれば、わしでも難なく対応できるからのぅ」

「そういうわけにはいかないわ」

「どうしてそう思うんじゃ?」

「だって、この世にはあたしのように悪霊が棲みついている家だってあるのでしょ?」

「そうじゃな。じゃが、それ程多くはないんじゃ」

「でも、実際にそういう境遇にいる人たちがいて、苦しんでいるというのに、あたしは見て見ぬふりをするなんてできないわよ」

「お嬢ちゃん……。まさか、君はそういった人々を救いたいというわけかい?」

「ええ。だってあたしにはそれができるんでしょ? 遠くに行くことはできないかもしれないけど、近くの事件なら協力することができるわ」

「確かにお嬢ちゃんがいれば鬼に金棒であると言えるが……。お嬢ちゃんはまだ小さいだろう」

「大丈夫よ。それにアルバイト代だっていらないわ。あたしはおじいさんにとっても感謝してるんだから」

 楓の目は真剣そのものであり、若い人が魅せる希望に満ち溢れている目をしていた。矢向はその眼を見て、今回の依頼に楓も同行させてみようかと考えていた。

 事件の内容は楓の家と同じ幽霊屋敷である。そんな境遇にも因果なものを感じていた。

 そして――。

「お嬢ちゃん。今日これからある曰く付きの物件へ行ってくるが、一緒に来るかね? 場所は渋谷区でここから近いし、夕方六時までには帰って来られるだろう」

 楓は真剣な眼差しを矢向に向け答える。

「大丈夫。あたしも行くわ!」

「よろしい、では決まりじゃな。直ぐに行こうとしようか」

 二人は事務所を出て、駐車スペースに置いてある黒い車に乗り込む。もちろん運転するのは矢向である。左ハンドルであるため、楓は右側にある助手席に乗り込んだ。

 二人を乗せた車は住宅街を越え、やがて国道二四六号に入り、目的地まで進んで行く。

 運転しながら矢向がボソッと言う。

「この時間帯は比較的空いているんじゃな」

 楓は窓ガラスに映りこむ矢向の顔を見ながら、

「普段はもっと混雑しているの?」

「ああ。朝晩は特にひどい。ずっと渋滞じゃよ」

「ふーん。ねぇ矢向さん。今日の依頼ってどんな依頼なの?」

「今日これから行く場所は、お嬢ちゃんの家とよく似ているんじゃよ」

「幽霊屋敷ってこと?」

「幽霊屋敷というと穏やかな感じはせんが、曰く付きの物件を調査しに行くというわけじゃ」

「矢向さんは今までたくさんの幽霊を見てきたの?」

「わしもそこまで経験豊かなわけではないから、たくさんというほどは見てきてはおらんのじゃ。じゃが、この世にはまだまだ解明されていない超常現象が多数存在している。科学的に限界を感じた時、魔術的なことが功を奏する場合もあるのじゃよ」

「矢向さんはどうして探偵になったの?」

「わしは一年前まで、警察官じゃったんじゃが、多くの未解決の事件を経験してきてのう。情報を集め、科学の粋を極めた検証を度重ね行ったが、結局未だに犯人は捕まっていない事件は多いんじゃよ。しかも、わしはキャリア組だったから一つの現場に長く滞在しなかった。だからこそ、じっくりと一つの事件に取り組みたい。そう思ったんじゃよ」

「警察官だったのね。ねぇ、じゃあ、いつから魔術を始めたの? ほら、前に火を起こして見せてくれたじゃない」

「わしが魔術を始めたのは四十過ぎじゃよ。当然、その時は警察官であったから、空いた時間を使い、書物を読み、鍛錬に励んだというわけじゃ」

「火はどうやって起こせるの? マジックじゃないんでしょ」

「もちろんそうじゃよ。詳しいことは後で説明するが、魔術で何かを投影するということは初歩中の初歩なんじゃよ。とりわけ色は簡単に顕現することができる。わしがあの時見せたのは、基本色である赤を顕現させ、火のように見せたにすぎない」

「それはあたしにもできるってこと?」

「もちろん。鍛錬すれば誰にでもできるんじゃよ。意図した物体を顕現することが魔術。意図しない場合は精神病と言えるだろう」

 車は二四六を抜け、池尻から山手通りに入って行く。

「さて、もう直ぐじゃよ」

 矢向の言ったとおり、五分程で直ぐに目的地へ到着した。

 車を幽霊屋敷の脇に止め、二人は車を降りた。目の前に見える曰く付きの幽霊屋敷は、見るからに怪しげな一軒家であった。恐らく築三十年程経っており、ここ数年は誰も住んでいないのだろう。

 楓はその幽霊屋敷とされている家を眺めながら、

「ここが今日調べるっていう家?」

 矢向は顎鬚をさすりながら家を見上げ、

「ああ。そうじゃよ。だが、その前に聞き込みから始めるか」

「聞き込み?」

「ああ。そうじゃよ。ある程度調べては来ているが、実際にこの家がどういう遍歴を辿ったのか街の人に聞く必要があるじゃろう」

 矢向はそう言うと、周りに立ち並ぶ民家の一軒一軒を回って行く。しかし、このご時世、あまり協力的ではない人が多い。十軒回ってもまともに会話を聞いてくれる人は半分にも満たなかった。まるで、この家のことをタブーと思っているような拒否反応を多くの住民が見せた。

 聞き込みを終えると楓は尋ねた。

「ねぇ、何か分かったの? 後ろで聞いていると有益な情報があったと思えないけど」

「いや、そんなことはないさ。まず間違いないな。この家は幽霊屋敷じゃよ」

「どうして?」

「今日の午前中、詳しい資料を見て、自分でも調べてみたんじゃが、この家は昔、ある事件があったんじゃ」

「そ、そんな。警察に頼まなくても良いの?」

「いや警察も調べていたさ」

「調べていたって?」

「この事件は、かれこれ二十年も前の話なんじゃよ。」

 矢向はそう言うと、家の裏側に回っていく。

「鍵はこの家のガスの給湯器の所に置いておくという話じゃ。それでは早速行こうとするか?」

 ガスの給湯器だけは誰かが鍵を入れに来たためなのか、蜘蛛巣や汚れが取り払われている。矢向は給湯器を開け、中に置いてある鍵を取り出す。

 そして、矢向は玄関の方へ行き鍵を開け、中に侵入して行く。かびのような臭いが鼻腔を激しくつく。そして、後ろを振り返るとカタカタと震えている楓がしっかりと付いてきているではないか。

「お嬢ちゃん。大丈夫かい?」

 と、矢向が尋ねると楓はびくびくしながら答える。

「え、ええ、全然大丈夫。こ、怖くなんかないわ」

 しばらく進むとリビングが見えてくる。電気が付いていないので、昼間だというのに恐ろしく薄暗い。家具は置いてあるが、埃を山のようにかぶり、天井には至るところに蜘蛛巣が張り巡らされ、床も傷んでおり、踏むとギシギシと変な音を上げる。

部屋一面を見渡すと、矢向の足が止まった。それに気がついた楓が尋ねる。

「ど、どうしたの?」

 楓の声が耳に入らないのか、矢向は一人考えていた。

 楓には見えていないが、今この空間には恐ろしい数の悪霊が彷徨っている。恐らく、楓に引き寄せられているのだ。そして、悪霊たちが渦巻いているその先に、ある一室が見える。

 何の部屋なのか分からない。しかし、この家の根幹となる原因はそこにあるだろうと、矢向は刑事時代の勘から確信していた。

 あの部屋から放たれる、怨念のような臭気は常軌を逸している。

(これでは霊感が強い人間でなくても気が付くはずだ。道理で何年も人が寄り付かないわけだ)

矢向はそう考え、楓の方を振り返った。楓は懸命に恐怖と闘っているように見え、その姿がとても愛らしく見えた。矢向には子供がいないため、楓が自分の孫のような存在に思えたからだ。

「お嬢ちゃん。わしはちょっとこの先に見えるあの部屋へ行ってくる。お嬢ちゃんはここで待っていなさい」

「え、どうして? あ、あたしも行くわ」

「まぁ良く聞きなさい。どうやらこの家の原因はあの部屋にあるようだが、凄まじい程の怨念を感じる。多分じゃが、あの部屋で昔、何かが起きたんじゃ。その時の被害者の怨念が今も強く残っている」

「それなら、余計に一人で行くなんて賛成できないわ。あたしも行く」

「大丈夫。良いかい。まず先にわしが一人で行く。しばらく調べてみて、良いようであればお嬢ちゃんを呼ぶ。それまではここにいなさい。大丈夫、安心しなさい」

 矢向はそう言うと、楓の体に呪文を唱えた。いわゆる結界である。結界があればしばらくは一人でも大丈夫であろう。楓も渋々承諾し、一人リビングに残ることになった。矢向はそれを見て微笑み、一人奥の部屋へ進んで行く。

 二十年も前の話だから、現場がそのまま保存されているということはありえない。

 意を決しドアを開けると、室内はずっと密室であったためなのかカビ臭い。部屋の広さは十畳ほど。入り口のドアの対面に、一×一メートル程の大きめの出窓がある。床はフローリングでカーペットは敷かれていない。昔は敷かれていたのかもしれないが、現在は取り払われているようであった。その証拠にカーペットが敷かれていたであろう個所とそうでない個所では色の濃さが違っている。

 室内にはそれしかない。床には何か置かれていたであろう痕が無数に残されていることから、この部屋は誰かの寝室、もしくは書斎であったと想像できるが、今更そんなことを考えても仕方がない。

 矢向は部屋の隅々まで見渡した後、この家の怨念の元である悪霊に目を向ける。悪霊は出窓の方からこちらを恨めしそうに見つめている。

 簡単に言えば、煙のような人間である。背丈は百六十センチ程、その高さから女性であろう。同時に、この悪霊自体が昔この場所で亡くなった人間であると雰囲気や警察時代の経験から察したのだ。

 事実、二十年前この場所である女子大生が亡くなったのである。 

 矢向は彼女の下へ進む。怨念は凄まじく強い。これではとてもではないが真っ当な人間は住めないだろう。異様な現象に精神を蝕まれ悩まされるはずだ。故に住んでも直ぐに屋敷から出て行くだろう。

 彼女の怨念をなんとかしなければならない。彼女の霊は、強い怨念により悪霊化してしまっている。対話は不可能であろう。彼女の魂はその理不尽な境遇に耐えきれず、悪霊となり、この世を呪い続けるという暴挙に出たのである。

(ばつが悪い)

 矢向はそう感じた。何が原因なのかは分からないが、若くしてこの世を去った彼女は、それが悔しくて、腹立たしくて仕方なかったのであろう。その理不尽な想いが悪霊化し、この世に残るということを可能にしたのだ。そして、普段飄々と生きて暮らしているこの世の人間たちを呪うことで精神を安定させていた。矢向はこの時、そう考えていた。

 とにかく今は除霊しなければならない。その未練をすべて断ち切ってやらなければならないのだ。強力な倦怠感が体中を襲う。このままではこの家も、彼女自身も報われない。

 矢向が悪霊に近づこうと一歩踏み出した時、強烈なポルターガイスト現象が起きた。

 突然、地震のように床が揺れ、家の窓ガラスがガタガタ震えたと思うと、一気に割れ、床に零れた。その音は遠くの方からも聞こえてくる。どうやらこの家全体の窓ガラスが割れたようだ。すると、それに驚いた楓が慌てて部屋の中に入ってきた。それもたくさんの悪霊を連れて……。

「や、矢向さん。一体どうしたのよ? ま、窓が窓が」

 矢向は楓を落ち着かせるように答える。

「大丈夫じゃよ。安心しなさい」

 ポルターガイストは収まることを知らない。揺れは次第に大きくなっているし、窓ガラスの破片がこちらを向いて、今にも飛び掛かってきそうになっている。

「お嬢ちゃんわしの傍から離れてはならんぞ」

 そう言うと矢向はポケットの中から、マジックを取り出し、床に何やら書き始めた。

「な、何をしているの?」

「結界みたいなもんじゃよ。さっきのような口で唱える呪文だけでは足りないんじゃよ」

「つ、つまり悪霊がいるってことね?」

「ああ。出窓の所におるのぅ。恐らく彼女がここの怪現象を引き起こしている正体じゃろう」

「出窓の所? あたしには見えないわ」

 楓がそう言った後、床に散らばっていたガラスの破片が、意志を持ったように、すっと浮き上がり、突如矢向と楓に襲いかかった。

 楓は堪らず悲鳴を上げるが、矢向の描いた結界のおかげで、尖ったガラスの破片は楓らに突き刺さる前に、見えない壁に当たったかのように粉々に砕け散った。

「大丈夫。安心しなさい。良いかい。わしの後ろにぴったりといるんじゃよ。わしはこれから除霊をしなければならない」

 矢向はそう言うと立ち上がり、楓をしっかりと後ろへ隠し、口寄せの呪文を唱え始めた。

 窓際にいる悪霊はみるみる内に顕現化されていき、楓の目にも見えるようになった。

 数秒後、白く煙のようにぼんやりとした悪霊は完全に顕現化された。その姿はとても悲しそうに見えた。どれだけ悩めばこれだけの表情ができるのだろうか? と楓は考えていた。

「矢向さん。あの人とても悲しそう」

「ああ、彼女はここで亡くなった人間なんじゃろう。だが、その想いが強すぎる故に、悪霊化しこの世に多大なる被害を与えるようになってしまった。彼女を責めることは誰にもできん。しかし、このまま放っておくわけにはいかない。成仏させてやらねば」

 矢向は素早く除霊の呪文を唱える。先日、楓の家で行った時と同じように……。

 除霊の呪文が悪霊となった彼女の周りを包み込んでいく。すると、悪霊は絹を裂いたような甲高い叫び声を上げる。

 鼓膜が破れそうな声だ。それでもその声に耐えながら矢向は除霊を続けるが、今回の怨念の渦巻く悪霊を退治するだけの力が無かった。通常ならば、それが分かったところで一旦退散し、策を練れば良い。しっかりと対策を立てて勝負すれば、分は矢向に傾くだろう。

 しかし、何かを守りながら戦うということになれていないため、退散しようとした際に、一瞬ではあるが隙ができた。その時、矢向が見せた隙を見逃すまいと、一つのガラスの破片が結界を突き破り、左足に直撃したのである。

「ぐぁっ!」

 矢向の口から嗚咽が漏れる。そして、ガクッと膝をつき倒れ込む。その瞬間ガタッと魔力が落ちた。この時、ポルターガイストは未だに衰えをみせず、暴走を続けている。

(しまった。なんということだ。この年でまさか霊に後れを取るとは。不覚だった)

 矢向はそう考え、痛む足を懸命に動かし、せめて楓だけでも守ってやらなければならないと彼女自身に覆い被さろうとした時、楓が突然立ち上がり、結界の外に出て、怨念のもととなっている悪霊に向かって走り出した。

 矢向は必死に叫ぶ。

「お嬢ちゃん!」

 追いかけようとしても、痛みが襲い上手く立ち上がれない。

 楓は矢向の声が耳に入らないのか、悪霊に向かって突進して行く。

 そして――、

「これ以上暴れないで!」

 楓の声が室内に轟いたと思うと、楓は悪霊に向かって覆いかぶさるように飛びついた。

 途端、液体が蒸発して気体となっていくように、悪霊がしゅるしゅると消えていった。楓の魔力から無意識に魔術が発生したのである。悪霊は甲高い声を上げ、必死に抵抗しているようであったが、徐々に気体化し、天へ立ち登っていく。

 悪霊が消えていく最中、最後に楓は悪霊の声を聞いた。そして、それに無言で頷いた。すると、あれだけ禍々しかった悪霊は、安堵したような顔つきに変わり消えて逝った。同時に、彼女に引き寄せられていた悪霊も、後を追うように消えて逝った。

 すべてが終わった後、室内は先程までのポルターガイストによる喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 そんな中、矢向が口を開く。

「お、お嬢ちゃん。大丈夫かね?」

 楓は自分のことよりも矢向のことを心配しながら、

「あたしは大丈夫。それよりも、矢向さんは大丈夫なの?」

「ああ。わしか……、こんなものは大したことではないよ」

 そうは言うが、矢向の顔は苦悶の表情を浮かべている。それでも必死に立ち上がろうとしている。

「矢向さん、無理をしないでよ。病院へ行きましょう」

「あ、ああ。そうじゃな。でも、まぁ、お嬢ちゃんのおかげで一件落着じゃろう。霊の気配はどこにも感じられなくなった」

「いいえ。まだよ」

「なんだって?」

「まだ、事件は終わっていないのよ」

「どういうことだね?」

「あたし、最後にあの幽霊に触れた時、感じたのよ。彼女の想い、そして願いを」

「想いと願い?」

「ええ。彼女は言っていたわ。あの人を助けてって」

「あの人?」

「そう言っていたの。あの人はこの近くにいる大学の教授だって……」

「お嬢ちゃん、なんだってそんなことが分かるんだい?」

「彼女の意志が最後、あたしの中に入ってきたのよ。詳しいことは後で話すわ。とりあえず矢向さんは病院へ行かなくちゃ。話はその後でも十分間に合うわ」

 楓はそう言うと、倒れている矢向のもとへ近づき、肩を貸して彼をゆっくりと起き上がらせた。

「矢向さん。車、運転できるかしら?」

「ああ。怪我したのは左足だから、運転には問題ないだろう」

「良かったわ。あたしは運転できないもの」

 外に出て、彼らはゆっくりと車に乗り込んだ。幽霊屋敷は相変わらず、水を打ったように静まり返っていた――。

 矢向は病院へ行き七針縫うことになった。流石に霊の仕業であるとは言えないので、転んだ時にガラスの破片を踏んづけてしまったと言い訳をした。苦しい言い訳であったかもしれないが、医師は特に気にすることなく「今度からは気を付けてくださいね」と、納得したようであった。

 歩くと左足首に鈍痛が走る。二、三歩歩くだけなら我慢できるが、これをずっと続けるのは無理だと判断し、松葉杖を借りた。彼は松葉杖を使ったことが一度もなかったので、慣れるまで脇の下を強く圧迫し余計に苦しそうに見えた。

 その姿を見ながら楓が、

「矢向さん大丈夫? かなり苦しそうだけど」

 矢向は額に汗を浮かべ、

「なぁに問題ないさ。直に慣れるだろう」

「ちょっとどこかで休んでいく?」

「その方がよさそうじゃな」

 二人は病院の外にあるカフェへ向かった。

 平日の昼間ということもあり、店内は閑散としているが、二人にとってはそれが逆に都合が良かった。あまり、人がたくさんいるところで霊の話をするのは、なるべく避けたいからだ。

 店内の一番端の席を選び、向かい合わせになるように二人は座り、適当にコーヒーを注文した。コーヒーは直ぐに来た。側から見るとおじいさんと孫という関係で、とても悪霊と闘ってきた人間には見えないだろう。

 楓自身も先程まで、鬼気迫るような境遇に身を置いていたというのに、今は喫茶店で穏やかに過ごしているギャップがとても不思議に思えた。

 コーヒーが席まで運ばれると、矢向は口を開いた。

「それで、お嬢ちゃん話の続きを聞かせてくれるかい。まだ事件は終わっていないということを言っておったが、あれはどういう意味なんじゃい?」

 楓もコーヒーを一口飲んだ。普段ブラックを飲まない楓は、眉間にしわを寄せている。

「そのままの意味よ。あの事件にはまだ先があるみたいなの」

「あの女の幽霊がそう言っていたというわけじゃな。さっきの話だと、お嬢ちゃんが触れた瞬間、霊の意識が流れ込んできたということじゃったが、それで間違いは無いね?」

「ええ。触れた時に感じたの」

「なるほど。高い魔力を持つと霊の意志を感じることができるというからのぅ。となると、どうやらこの事件はわしが予め考えていたものとは違うようじゃな。それで事件の続きとはなんだい?」

「うん。あの幽霊は鹿嶋田 久って人を助けてあげてって言っていたの」

 矢向は素早くその名前を持っていたメモ帳に記した。

「うむ。それ以外に感じたことはあるかい?」

「ううん。とにかくあの人を助けてあげてって言っていたのよ」

「そうかい。では少し調べてみようとするかね」

「調べるって、どうやって?」

「実は刑事時代の仲間に信頼のおける人間がおってな、彼なら何か調べてくれるだろう。まぁいずれにしても今日はもう何もできん。これを飲み一休みしたら、一旦帰ろうか。家まで送って行こう」

「うん。でも……」

「大丈夫じゃよ。何かあったら直ぐに連絡しよう。お嬢ちゃん、お家の番号を教えてくれるかな?」

「家の電話じゃなくて、あたしのケータイに連絡してよ。そっちの方が便利でしょ」

「こりゃ驚いた。今の中学生は携帯電話を持っているんじゃな」

「今じゃ小学生だって持ってるわよ。じゃあ、ちょっとケータイ貸して、あたしが登録しといてあげるから」

「あ、ああ。すまないね」

 楓は矢向の携帯に赤外線を使い、素早く自分の連絡先を登録し、自分の携帯にも矢向の連絡先を登録した。

「これで大丈夫。立川 楓っていうのがあたしだからね」

「よろしい。では何かあれば直ぐに連絡しよう」

 二人が喫茶店を出ようとすると、太陽が西の空の地平線上をゆっくりと動いているのが見えた。もう少しで日が沈み、辺りは暗くなるだろう――。


          *


 矢向は混雑する二四六号を通り、自宅へ戻ってきた。楓を自宅まで送って行っていたので、辺りはすっかり薄暗くなり、肌寒く感じた。痛む足を引きずり書斎の椅子へドカッと腰を掛けると、警官時代の知人である人間へ連絡を取ってみることにした。

 友人の名は平間 敬三といい、矢向の刑事部二課時代の部下である。キャリア組の矢向と違い、平間は二課で数少ないノンキャリア組で現在も刑事部二課で犯罪と闘っている。

 実のところ探偵業を始めてから彼とは何度か調査関連のことで連絡を取ったことがるのだ。よって今回も電話すると、直ぐにその件を調べてくれることになった。

 連絡を取った後、矢向はリビングへ移動し、酒を飲みながら一日を振り返っていた。思い出すと傷口が痛み出したが、それを忘れるように酒を煽った。

 平間から矢向の下に、連絡が来たのは二日後のことであった。

 受話器の先から、懐かしい声が聞こえる。

「まぁ矢向さんがおかしな注文をつけてくるのは、今に始まったことじゃないんですけどね。今回も随分と昔のことを引っ張り出してきたもんだって、逆に感心しちゃいましたよ」

「いつもすまないね。ちょっとこっちであの物件を調べてくれと言われているもんでね」

「事件の担当が一課ですし、それもかなりの前の事件なんで調べるのに苦労しましたが、まぁ必要な情報は揃えられたと思います」

「うむ。それでどんな情報だい?」

「どうやらこの事件は、自殺ってことで処理されていますね。ただ……」

「ただ、なんだい?」

「ええ。実は自殺と処理される前に、他殺という線でも捜査されていたようです。まぁ遺書が発見されていたので、自殺説が濃厚な上での他殺説の調査になるので、どこまで力を入れ調査したのか分かりません。それで、容疑者が数名いまして、最も有力であったのが鹿嶋田 久。当時、駒場にある帝大の数学科の教授をしていた人間です。現在は何をしているのか分かりません、この当時五十歳なので現在は七十歳になりますが、年齢的には存命であるとは思うんですが……」

「それで、その鹿嶋田という教授はなぜ容疑者から外れたんだね?」

「ええ、それなんですがね。どうにも崩せないアリバイがあったそうなんです。被害者の死亡推定時刻は、午後五時半から六時半にかけてであろうと解剖医が結論を出しています。これはほぼ間違いないでしょうし、何かトリックが使われた形跡はありませんでした。まぁ、容疑者が帝大の理学部教授ということで、科学的には何度も検証を重ねたようですね。ただ、この教授、被害者の死亡推定時刻に大学の理学部の会議に出席しているんですね。会議時刻は午後五時から八時過ぎまで、多くの証言があるので、まず間違いなく会議に出席していたでしょう。それで容疑者として外されたようです」

「なぜ容疑者として彼が浮かび上がったのか分かるかい?」

「それなんですけど、一概にこれというものは分かりません。ただ、被害者の女性と最も交流があったのは鹿嶋田教授のようです。彼女は鹿嶋田教授の研究室に所属する学生であったようですし、中には二人は恋愛関係にあったんじゃないかという証言もあったようです。これは鹿嶋田本人が否定していますので、真実かどうかは分からないですね。まぁいずれにせよ自殺説が濃厚であったため、調査はあっさりと打ち切られたようですね」

「なるほど、いや、すまない。わざわざありがとう。君だってこんなことをしている程暇な人間じゃないのにね」

「いえ、別に、でもなんでこんな昔の件を?」

「なぁに、簡単な話さ。彼女の住んでいた家が今売りに出されているのだが、何しろ曰く付きだろう、その調査を依頼されてね。まぁそれだけなんだ」

「そうですか。探偵業って本当になんでもするんですね。こりゃ警察よりしんどそうだ。性質の悪い依頼も多そうですし」

「いやそんなことはないさ。まぁとにかくありがとう。また何かあったら連絡するし、暇があれば久しぶりに逢おうじゃないか」

「ええ。その時は矢向さんの奢りだと助かりますよ。ではお元気で。また何かあれば連絡ください」

 翌日――。

 矢向は帝大教授である鹿嶋田 久なる人物について調べていた。

 帝大のホームページに鹿嶋田の名前が載っていない。となると、別大学へ移ったか、辞職したかだ。

 とりあえずはこの鹿嶋田という人物の行方を探すのが先決である。もし仮に殺人だとしても、罪を償わせることはできない。既に時効が成立しているからだ。

 それでも、矢向をここまで突き動かしているのは、楓が聞いたと言う霊の最後の遺言を信じているからである。割に合わない。真実を知るのは割に合うことばかりではないのだ。だが、真実を知ってやることが、霊の遺言に応える唯一の手段であると思えた。

 矢向の紹介の際記したように、彼は帝大出身であるが、理学部ではなく法学部出身であるため、理系学科との直接的な関わりは全くない。

 それでも彼には同期で現在も大学の教授として働いている人物に心当たりがあり、その人物に連絡を取り、鹿嶋田という教授について尋ねてみることにしたのだ。

 午前中に案件を話し連絡を取ると、午後一番で直ぐに連絡が返ってきた。

「久しぶりだね。まさか矢向から連絡が来るなんて驚いたよ」

「いきなりすまないね。取り急ぎ聞きたいことが合ってね。それで何か分かったかい?」

「ああ。鹿嶋田教授のことだよな。まぁ彼は理学部の教授だから、詳しいことは分からないのだけれど、理学部に知り合いがいるからね、尋ねてみたよ」

「すまない。それでどうだった?」

「ああ。率直に事実を言うと、鹿嶋田教授は既に亡くなっておられる。もう二十年程前の話らしい」

「二十年前!」

「そうだ。なんでも昔、彼の研究室の学生が自殺をしたらしいのだが、それに関して警察に取り調べを受け、自身も容疑者として疑われたようだ。それが影響して理学部内ではかなりの事件になったらしい。もちろん、彼には確固としたアリバイがあったから、直ぐに容疑者から外れ、事件は自殺として処理されたのだが、その後、自殺した学生を追うように自身もお亡くなりになったという話だ」

「そうなのか……。それで死因は?」

「心筋梗塞らしい。それと、公にはなっていないが、事件に巻き込まれたことへのショックが大きく、それを機に自殺をしたという説もあるようだが真相は分からない。なぁ、なんだってこんな昔の話を引っ張り出したんだ? 矢向と鹿嶋田教授は全く接点がないだろう」

「ん、まぁ少しばかり縁があってな。だが、死んでいたとは知らなかったよ。いやぁ、わざわざすまない」

「そうか、まぁ良いさ。そうだ鹿嶋田教授の家は帝大から近いんだが、縁があったのなら線香を上げに行くくらい構わないだろう? 一応、連絡先教えておこうか?」

「分かった。ありがとう」

 電話を終えた後、矢向は痛む足を引きずり、メモした住所の場所を行こうと玄関へ向かった。

 住所は世田谷区の太子堂。松濤からそれ程離れていない。

 現在、午後二時――。

 仕度を終え、靴を履き玄関のドアを開こうと手をかけた時、外からベルが鳴った。咄嗟にドアを開けると目の前には少しむっつりとした楓が立っていた。

「お嬢ちゃん、どうしたんじゃ?」

「どうしたんじゃ? じゃないわよ。あたしずっと連絡を待っていたのに、ここ二、三日全く連絡をくれなかったら来てみたのよ。ねぇ矢向さん、もう松葉杖は使わなくて良いみたいね。でもまだ痛むんでしょ。そんな足でどこへ行こうっていうのよ?」

(なんとまぁ勘の良いお嬢ちゃんだ)

 と矢向は感じながら言い訳を考えていた。心霊調査なら露知らず、事件が関わってくるとなると、これ以上楓を巻き込むつもりはなかったためだ。

「ん。まぁちょっとこれから病院へ行くんじゃよ。悪いが、また今度来てもらえるかな? その時までにはちゃんと調べておくからね」

 楓の表情は憮然としている。彼女は嫌な予感があったため、今日、この場に来たのである。

幽霊屋敷の調査後、楓が家に帰ると嬉しい知らせが待っていた。それは兄が予定どお退院できるということである。やはり、この家に棲みついていた悪霊を退治してから悪いことが起きなくなった。今まで悪いことばかりであったため、喜びも一際大きかった。

 母と二人の夕食を終えた後、楓は自室で横になりながら考え事をしていた。今日自分が接したあの女の幽霊はとても悲しそうだった。きっと自分達が経験したよりも悲惨な人生を送って来たに違いない。

(なら、犯人を捕まえて懲らしめてやらなくちゃ)

 時効のことを良く知らない楓は、とにかく犯人を捕まえてやるということばかりが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。しかしその時、ある考えが脳内を過ぎった。それは矢向が自分をちゃんと捜査の中に入れてくれるのか? ということだった。良いことの後には悪いことが待っているかもしれない。そういった疑惑が湧いたのだ。

確か矢向は喫茶店で聞きたいことを聞いて、ささっとメモを取り、自分だけで何とかしようとしていなかっただろうか? その前の幽霊屋敷だってそうである。楓は最初悪霊の部屋に入れなかったのだ。一連の流れを思い返せば思い返すほど、疑惑は大きく膨らんでいく。楓は魔力だけでなく、調査能力も潜在的に高いものを持っていたのである。

 そして矢向が調査に出ようとしたその日、不安の種は完全に花開いた。故に楓は矢向の下に赴いたのである。自分の勘が当たったことに嬉しさを感じながらも、捜査から外されている拒絶感を受け、頬を膨らませて言った。

「嘘。なんか隠しているような気がするわ。だって、この間行った病院って総合病院だから午前中しか診療していないのよ。この間は緊急だったから緊急外来へ行けたけど、今回は違うんじゃないの?」

 矢向は自分の嘘の精度の低さよりも、楓の頭の回転の速さに驚いていた。

「あ、ああ。そうじゃったな。うっかりしていたよ」

「ねぇ。鹿嶋田って人の行方が分かったんじゃないの? そうでしょ! でなきゃこんな足でわざわざ出かけたりしないわよ」

(なんという。この子は本当に鋭い)

 矢向はそう感じ、隠すことを止めた。

「お嬢ちゃん。わしの負けじゃよ。そうなんじゃ、お嬢ちゃんが察したとおり鹿嶋田教授は見つかったんじゃ。だが……」

「どうしたの?」

「実はもう亡くなっておるんじゃ。それでわしはこれから鹿嶋田教授の家に行ってみようと思っているといったところじゃ」

「それは嘘じゃなさそうね。それあたしも付いて行って良いでしょ」

「構わんが、お嬢ちゃん学校はどうしたんじゃい? まだ授業中じゃないのかい?」

「今週まで午前中で授業は終わりなのよ。だから、心配いらないわ」

「よろしい。では付いてきなさい。じゃが、鹿嶋田教授の自宅にはわし一人で行く」

「どうしてよ?」

「彼の自宅には昔の同僚ということで線香を上げに行く予定なんじゃよ。だから、お嬢ちゃんが一緒についてくると、話しがややこしくなるじゃろう」

「どうしてよ。あの幽霊は、鹿嶋田教授を助けてって言っていたのに……」

「だがね。もう死んでいる。死んでいる人間を救えないだろう、仮に彼が生きていたとしてもわしらには何もできないんじゃよ」

「え? じゃあ、もうその教授を助けることはできないの?」

「お嬢ちゃん、世の中そう上手くできていなんじゃよ。死んだ人間は二度と蘇らないじゃろう」

「そ、そんな! じゃああの幽霊は? あの女の人の幽霊はどうなるのよ?」

「彼女は既に成仏した。怨念を抱き続けたが、お嬢ちゃんのおかげで成仏したんじゃよ。だから何も心配することはない」

「そ、それでも彼女はあたしに言ったのよ。あの人を助けてって……、お願いって……。それなのに何もできないなんて」

「お嬢ちゃん、人生はそう言うものじゃ。全て上手くいくようにはできておらんし、悪いことをしても生き延びている輩はたくさんおる。それでもわしと一緒に行くかい? 行くというのなら連れて行く。その理不尽と闘う勇気があるのなら、おじいさんに付いてきなさい」

 矢向はそう言うと家を出て、玄関のドアの鍵を閉め、足を引きずりながら車へ向かう。

 楓はしばらく玄関に立ち尽くしていたが、意を決し彼の後に付いてきた。

「あたし行くわ。一緒に連れて行って頂戴」

 二人を乗せた車は混雑する道を越え、午後三時前には目的地周辺に到着した。

 この辺りは住宅街のため道が狭い。そのため道路脇に路上駐車はできない。矢向は仕方なく近場にあるコインパーキングに車を停めた。

 車を降りた後、楓が尋ねる。

「ねぇ、矢向さん。この辺りなの?」

 矢向は持っていたメモを見ながら、

「ああ。聞いた住所だとこの辺りなんじゃが……」

 矢向は電柱に貼られている住所と、メモ帳に記された住所を照らし合わせながら、先へ進んで行く。

 しばらく進んで行くと、異様な気配を感じ始めた。これには楓も感づいたようであった。どうやら楓も少しずつ魔術師としての力が研磨され始めたのだ。

 なんと、異様な気配の正体は、二人が探していた住所の家そのもの。つまり、鹿嶋田 久の自宅から放たれていたのであった。鹿嶋田邸から放たれている空気は地域全体を包み込んでいる。

 堪らず楓が言う。

「矢向さん。この気配って。もしかして」

「ああ。間違いない。お嬢ちゃんの家や、先日行った松濤の家と同じじゃ。この異様な空気は恐らく魔術によって引き寄せられているんじゃろうよ」

「魔術?」

「そうじゃ。目的は分からんがな……。お嬢ちゃんここから先は危険じゃ。とりあえず、わし一人で家に行ってみる。お嬢ちゃんはこの付近にいなさい」

「嫌よ。あたしも行くわ。前回の事件だって、前々回だって、あたしは足手まといにはならなかったでしょ?」

「そ、そうかもしれんが、今回も上手くいくとは限らんじゃろう。良いかい、とにかくここにいなさい」

 楓と矢向が口論していると、家の中から一人の老婆が出てくるのが見えた。

 遠目から見てもひどく痩せ細り、生気が感じられないのが分かる。老婆はよろよろと何処かへ歩いて行く。買い物袋を提げている、スーパーにでも行くのだろうか。

 こりゃ出直しだな、と矢向が一旦車に戻ろうとすると、楓が叫んだ。

「あ、矢向さん、あのお婆さんが!」

 視線の先には、倒れた老婆の姿があった。

「こりゃいかん!」

 慌てて矢向は痛む足を引きずり、老婆に近寄った。楓も同じように老婆に近づき、老婆のを起き上がらせようと、老婆の体に触れた。すると、老婆の体から煙のように何かが出たような気がしたのだ。それは一瞬で、直ぐに掻き消えたため、老婆が倒れた際の土埃かもしれないと、楓は錯覚した。

 矢向は足の痛みも忘れ、老婆を抱き起し、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、救急車を手配した――。


          *


 老婆が運ばれたのは、奇しくも楓の兄や矢向がお世話になった病院であった。

 二人は老婆を運ぶため救急車を呼んだ後、一緒に病院まで付いて行ったのである。

 院内は既に午前中の診療時間を終え、しんと静まり返っており、楓が一人緊急外来用の待合室で矢向の帰りを待っていた。

 矢向はというと、病院関係者に老婆についての説明をしているようであった。

 時刻は午後四時を回っている。ここからだと外の様子は分からないが、もう少し経てば日が落ち、暗くなり始めるだろう。

 そんな中、矢向が診療室から出て来た。それを見て楓は尋ねる。

「矢向さん。あのお婆ちゃんどうだった?」

 矢向は答える。

「ああ。病状は貧血。今のところはかなり体温が低いだけで問題はないとのことじゃが。あの体じゃ、きっと慢性的に低血圧なのじゃろうよ。念のため血液検査をして結果が一週間後に出るから、それまでは通院になるようだがね」

「今日直ぐに家に帰れるの?」

「いや、今日一日は入院するようじゃ。今は眠っておるからそれが良いだろう」

「そう、じゃあ明日また来れば良いのね?」

「ああ。そうじゃね。今に警察の人がお婆さんの身元を確認し、身内に連絡を取ってくれるだろうよ」

「警察に連絡したの?」

「いいや。救急車を呼ぶ一一九番と警察の一一〇番っていうのは、お互いを傍受しあい、二次災害を予防するために情報を共有しているんじゃよ。つまり、一一九番すると一一〇番にも繋がるというわけなんじゃ」

「へぇ。そうなんだ。矢向さんって元警察官なんだもんね」

「まぁ。そういうことじゃよ。よし、じゃあお嬢ちゃんは帰りなさい。後はわし一人で大丈夫だから。今ならバスもあるし帰れるじゃろう」

「嫌よ。なんであたしだけ帰れなくちゃならないのよ?」

「まぁ落ち着きなさい。わしだってずっといるわけじゃない。お婆さんの身内の方が現れたら直ぐに事情を説明して帰るさ。ただ、身内の方が現れるまで待っているのは、辛いだろうし、遅くなればお家の人が心配するじゃろう」

「大丈夫よ。あたしはもう中学生だもん。中学生なら部活に入って夜遅くまで活動する人だっているし、塾で毎晩遅くまで勉強する人だっているのよ」

「だがね、それとこれでは話が違うじゃろう。ここは部活動でもないし、塾でもない。それに病院にいるなんて親御さんが知ったら、余計に心配するじゃろう」

「そ、そうかもしれないけど。あたしはお婆さんのことが心配なのよ」

 矢向は困っていた。楓の性格を理解しつつあったためだ。楓はなかなか折れない。そこで妥協案を取ることにした。

「よろしい。ではこうしよう。今、午後四時過ぎ。六時まで待つことにしようじゃないか。六時を過ぎても身内の方が現れなかったら、そこで帰りなさい。わしはここまで歩み寄った。今度はお嬢ちゃんが歩み寄り納得する番じゃよ」

 楓は憮然としていたが、矢向の真剣さを感じ取り納得し答えた。

「分かったわ。じゃあ六時までは一緒にいるわ。その後はちゃんと帰る。これで良い?」

「ああ。それでは、しばらくここにいようか。喉が渇いたね。何か買って来よう。お嬢ちゃんも好きなものを買いなさい」

 院内にある休憩室の自動販売機で、飲み物を買い飲んだ後、再び待合室へ戻ると、看護師が矢向のもとへ駆け寄ってきた。

 矢向は話しを聞き、看護師と共に病室へ歩いていく。しばらく楓が一人で待っていると、矢向が現れた。

「矢向さんどうしたの?」

 と楓が尋ねると、矢向が答える。顔は笑っていない。

「お婆さんが、気が付いたようじゃ。一緒に来るかね?」

「もちろん」

 楓はお婆さんが気が付いたのに、矢向が笑っていないことに不信を抱いたが、尋ねずに一緒に病室へ進んだ。

 病室は四人部屋であり、それぞれがカーテンで仕切られている。その右奥の窓側がお婆さんの部屋であった。辺りは静まり返り、薄暗い部屋の中、カーテン越しに光るライトの灯りがぼんやりと見えた。

 二人がカーテンを開け、中へ入ると、老婆は点滴を受けながら虚ろな目で窓の外を眺めていた。その姿に矢向の笑わなかった答えがあった。それに楓も気が付いたようだった。

 矢向は老婆に向かって、

「お婆さん。大丈夫ですか?」

 老婆はゆっくりと矢向の方を向き、どんよりとした口調で答える。

「ええ」

「今、身内の方と連絡を取ってもらっていますから」

「み、うち?」

「ええ。一日とはいえ、入院するわけですから身内の方に連絡を取らないといけないでしょう」

「……。私に身内と呼べる人は一人もいません」

 声が小さく聞き取り辛く、どこか機械的である。そのため矢向は聞き返した。

「すいません、もう一度言ってもらえますかな? 歳なもので耳が遠くなっておりましてな」

「みんなしんだんです」

「はい?」

「みんな死んだんです」

 矢向は言葉に詰まった。それを気にすることなく老婆は続けて言った。

「あの家には私以外誰もいませんし、身内なんて全国どこを探してもいないんです。だから……」

「そ、そうですか。ですが、これも何かの縁ですし、良かったら退院までお手伝いさせていただけると……」

「どうして私を助けたんです。どうしてあのままにしておいてくれなかったんです。もう気が付きたくはなかったです。気を失ったまま、死んでいけたらどれだけ幸せだったか」

 突然、楓が遮るように答えた。楓は数日前に兄を失いそうになっていたため、そんなに簡単に命を捨ててほしくなかったのだ。

「死ぬなんてダメよ! 絶対にダメ!」

 楓はそう叫び、老婆に触れた。すると、触れた箇所からフッと煙が湧いた。楓が驚くよりも、老婆の方が驚き、楓を振り払った。そして、楓がまだ子供であることを知るや否や、ぶつぶつと念仏のようなものを唱え始めた。煙はみるみる内に消えていった。

 ちょうどその時、窓の外を眺めていた矢向が振り返り老婆のことを見つめた。不運であったのは、彼には先程の一連の流れが見えていなかったことだろう。楓は老婆が病人であるということもあり、特に何も言わなかったが、訝しそうに老婆を見つめた。 

 矢向と楓は病室を出て、待合室の椅子へ座っていた。時刻はあと十分で六時を迎えるところであった。

 重苦しい空気の中、楓が尋ねる。

「矢向さん。あのお婆さんって、やっぱり……」

 矢向は痛む足を擦りながら答える。

「ああ。お嬢ちゃんの察しているとおり、悪霊がらみじゃ。だが、如何せん情報が少ない。わしはもう少しここにいる。お嬢ちゃんは予定どおり六時になったら帰りなさい。今度はちゃんと連絡するし、明日学校が終わり次第来るのも構わん」

「お婆さん大丈夫かしら」

「心配するでない。大丈夫じゃよ」

「ねぇ、矢向さん。あたし、鹿嶋田教授の死っていうのと、松濤の女の人の幽霊と、今回の事件、すべて関連があるように思えるんだけど」

「関連?」

「うまく言えないんだけど、すべて一つの原因が生み出した結果というか……。良く分かんないけど」

「今のところ何とも言えんな。取り急ぎはお婆さんをしっかりと助けてやろう。そして、元気を取り戻したら話を聞くとしよう」

 時刻は六時を迎えた。楓は渋々帰ることになり、待合室には矢向一人になった。

 どうやら老婆の言っていることは正しかったようだ。医師が聞いた話では老婆の名前は鹿嶋田 千代。詳しい家族構成まで把握できなかったが、親族はおらず、孤独に暮らしているようであった。

 矢向が煙草を吸い、院内へ帰ってくると、ちょうど廊下を歩いている千代の姿が見えた。

 痛む足を引きづりながら矢向は尋ねた。

「鹿嶋田さん。寝てなくて大丈夫なんですか?」

 千代は矢向の方を向き答えた。

「ええ。もう大丈夫です。色々、申し訳ありませんでした」

 話しの受け答えは目を覚ました時に比べると落ち着いている。恐らく、先程の取り乱し方は倒れ起き上がった時に全く知らない場所で目覚めたために生じたのだろう。と、矢向は考えた。

「それでどこへ行かれるんですかな?」

「ええ、ちょっとお手洗いに行っていたんですよ」

「鹿嶋田さん。私は病院の決まりで、もう少ししたら帰らなければならんのですよ。その前に話を聞かせてくれませんかな?」

「話し……ですか?」

 千代が入院することになった病棟の一番端には、入院患者と見舞いに来た人間が談話できるスペースがある。病室は四人で一部屋なので談話室を使った方が落ち着いて話ができるため二人はそこへ移動した。

 既に外は日も落ち、すっかり暗くなり、それに伴い院内は薄暗い。しかし、夕食時であるためなのか配膳の係りの者が、食器を運ぶ音だけが僅かに聞こえている。

 二人は談話室へ向かった。幸い談話室には誰もいない。壁に設置してある電気のスイッチを入れると室内はぼんやりと明るくなった。

 談話室は十五畳程のスペースで東西南北にテーブルが四台設置されている。その他にもテレビがあり、湯沸かしポットや電子レンジなども設置されており、壁には今週の院内ニュースや食事の献立表が張り巡らされている。

 矢向は入り口から一番奥の席を選びそこへ千代を案内し座った。

「鹿嶋田さん。夕食はどうされました? まだ食べていないんでしょう?」

「ええ。でも大丈夫です。食欲が無いものですから」

「そうですか。ですが、何か少しでも食べておいた方が良いでしょう。貧血には鉄分やたんぱく質を摂取するのが良いようですぞ」

「はぁ。あの、それで話というのは一体なんなのでしょうか?」

「いえ、私が今日あなたの家の前に行ったのは偶然ではないんです。あなたの家へ伺おうとした時に、倒れているあなたの姿を発見したのです」

 千代は驚き答えた。

「私の家に何か御用があったんですか?」

「ええ。実はあなたのご主人である、鹿嶋田 久さんに会いに来たんですよ」

 久の名前が出た瞬間、千代の顔色が変わる。

「し、主人にですか……」

「もちろん事情は知っております。ただ、私は帝大時代の彼の同期でしてな、随分と連絡を取ってはいなかったのですが。既に亡くなられたことを聞きましてね、それで足を運ばさせていただいたわけなんですよ」

「そ、そうですか。なら、運が良かったですわ」

「運が良い?」

「ええ。あの家には入らない方が良いということです。入ればあなたにも呪いがかかるでしょう」

「呪いですか?」

「おかしなことを言いだしたと御思いでしょう? ですが本当なんです。私たち家族は主人の……、いえ、久のかけた呪いの所為で破滅してしまったんです」

「まぁ落ち着いてください。いや、すみません。あなたはまだ目覚めたばかりで状況を把握することで精いっぱいのはずであるのに、いきなりこんな風な質問をした私に非があります」

「いいえ、もう良いんです。私の家はもうおしまいです。それに、今更変わったところで、仕方ないんですよ」

「そうですか。分かりました。話はまた落ち着いた時に致しましょう。とりあえず私はここに泊まれるわけではないので明日また来ましょう」

「いえ、でもそんな、これ以上ご迷惑をおかけするのは」

「大丈夫ですよ。何かの縁ですから。それでは明日また来ます」

 別れ際、千代は矢向の姿が見えなくなるまでペコペコと頭を下げ続けていた。なんと言えばよいのか、千代には不思議と矢向を引き寄せる力があるかのようだ。見えない力に引きずられるように、矢向は彼女のことを救うことを決意したのであった。

 車に乗り込み、エンジンをかけ、家へと向かう。時間帯が最も混雑する時間であったため、道路は恐ろしく渋滞しており、のろのろとほとんど動かなかった。

 矢向の頭の中では意外な駒が現れ、彼を苦しめていた。

 千代との対話の中に「呪」という言葉が出てきたためである。

 あの時、千代は確かにあの家は呪われていると言った。それも原因は久にあるようだ。ということは、日中に彼女の家を訪れた時に感じた、あの違和感を作り出しているのは久ということになる。

 矢向の中で、繋がりたくない線が繋がり始める。女子大生の自殺が実は他殺であり、その犯人が大学の教授であった久。仮に久が家を破滅に追い込むほどの呪いを使い、女子大生を殺したのだとすれば……。

 古今東西、人を呪い殺すという行為には、大きな代償が発生する。

 西洋では悪魔契約といって悪魔に魂を売り渡し、その対価として力を得る。

 日本でも「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり、人を呪い殺す場合は、呪い殺した人間を埋める穴と、呪をかけた自らを埋める穴が必要だとされる。つまり、呪をかける以上、自らにも同じくらいの代償がくるのだということを覚悟しなければならないということだ。

 魔術、呪術にもこのような傾向は如実に表れており、人を呪い殺す場合には大きな代償を支払う必要があるのだ。仮に、久が何らかの呪術を用いて女子大生を殺害したのであれば、彼はその代償として死に至り、今もなお家族を苦しめているということになる。

(一体、鹿嶋田 久という人物は何者なのであろうか?)

 矢向はそう考えていた。人には見かけによらない。ジョルジュ・バタイユはエリート街道を進み、パリの国立図書館に勤務しながら、『眼球譚』や『マダム・エドワルダ』を執筆したのだ。

 人には秘密があり、多くの人間はその秘密に引き寄せられる。しかし、それは覚悟がなければ触れてはならない。秘密を知れば、責任が発生するからだ。これはどこか呪とよく似ていると、矢向は思っていた。


          *


 翌日――。

 矢向は午前中から病院へ向かった。彼は千代を病院まで運んだ人間であるが直接的に血のつながりがあるわけではないので、詳しい病状などは一切知らされていない。しかし、どうやら今日の午後一番には退院することができるようだと千代は言った。

 午後一番に退院することもあって、矢向は楓にこちらに来るのであるならば、病院ではなく太子堂の鹿嶋田さんの家に着なさいと連絡を取った。万が一、入れ違いになると厄介だからである。楓にそう連絡をすると、直ぐに「分かった」というメールが来た。

 千代には荷物がほとんど無かったので、手ぶら状態で退院することができた。バスで帰ろうとする千代をなんとか説得し、矢向は彼女を乗せて太子堂にある自宅へ向かった。道は空いており、すいすいと進み、午後二時前には千代の自宅へ到着した。

「この御礼は後日、必ず致しますので……」

「いえいえ、そんなことは気にせんで下さい。ただ、線香を一本あげてもよろしいですかな?」

「いえ、それはありがたいんですが……」

「大丈夫ですよ。私は呪なんて信じておりませんゆえ」

「ええ、しかし……」

 千代は躊躇している。矢向がこれをどう崩そうかと考えていると、横やりが入った。

「大丈夫よ。お婆さん。おじいちゃんは優秀な魔術師なの。だから、たちどころに問題を解決してくれるわよ」

 横から現れたのは楓である。どうやら先周りしてここで待ち伏せしていたようだ。しかも、矢向のことを堂々と魔術師と公言してしまったではないか。これには矢向も心の中で天を仰いだ。魔術師と聞いて訝しそうな顔つきにならない人間は少なくないのだ。

 例に洩れず、千代も怪訝そうな顔つきに変わり、矢向の方を見つめた。

「あ、あの、一体どういう?」

 これ以上、隠すのはむしろ逆効果……。であると矢向は考え自身を探偵として話を進めることにしたのだ。

「……実は、私は探偵なんです」

 そうは言ったものの、恐らくここで捜査は打ち切りになるだろうと心に決めていた。

 突然現れた人間が、魔術師などと言えば、常人はこれ以上関係を築き上げることに抵抗するだろう。それだけ魔術師は社会的な信頼がないし、怪しいこと極まりない。

 しかし千代は予想外の反応を見せ、

「そうだったんですか。何か主人と同じような感じがしました」

 矢向の目がキョトンと宙を泳いだ。

「は?」

「いえ、主人はその、趣味が変わっていたものですから、友人と呼べる人は一人もいないと思っていたのです。ですが、あなたが探偵というのなら良いでしょう。見て行ってください。呪いの正体を……」

 矢向と楓は客間である和室に通された。出入り口は引き戸でやや古臭い。そして、目の前には仏壇があり、天井近くの壁には遺影が飾られている。恐らく、鹿嶋田 久本人であろう。矢向は室内をなんとなく眺めている反面、楓だけは眉間にしわを寄せ室内を怪しげな視線で眺めている。

 二人が座ると千代は立ち上がり部屋の外へと消えて行った。お茶でも淹れに行ったのだろう。室内は矢向と楓の二人だけになった。老婆が消えると楓の視線は一層鋭さを増した。

「お嬢ちゃん、早かったね」

 と、言う矢向の問いに、楓はフッと表情を変えた。

「うん。だって学校が終わったら直ぐに来たもの。あのお婆さんってここで一人で暮らしているのかしら」

「ああ。そのようじゃね。しかも、この家はかなり厄介な魔術で覆われている」

「やっぱり、それがこの家の不幸の原因ってことね?」

「恐らくはそうじゃろうな。だが、気になるのは……」

 鹿嶋田教授が何者なのか? ということだったが、ちょうどそう考えた時、千代がお茶とお茶請けの菓子を持って現れた。

「本当に何もないんですが、召し上がってください。お嬢ちゃんはお茶で良かったかしら?」

「はい、大丈夫です」

 楓はそう言い、お茶を一口すすった。

 それを見た千代は、興味深そうに尋ねた。

「お孫さんですか?」

 お茶をすすろうとした矢向は吹き出しそうになったが、ぎりぎりのところでそれを抑え、楓の方を向いた。

 楓も矢向の方を向いており、こくりと黙って頷いた。

「ええ。まぁ……。お邪魔でしたかな。付いてくるなと言っても付いてくるんですわ」

「いえいえ。私には孫がいないもので……。それよりも、あなたは探偵と仰りましたわよね? 一体探偵がなぜこのような場所へ?」

 千代の言葉に矢向は真実を話すことにした。

「探偵ではあるのですが、少し違うのですよ。もちろん一般的な人探し、浮気調査などの仕事も引き受けますが、霊的な現象を多く引き受けて仕事を行っております。実は、現在引き受けている仕事を進めていくうちに、あなたのご主人、つまり久さんが浮かび上がりました」

「そうだったんですか。その事件は恐らく私の考えているものと同じでしょう。矢向さん、二階へいらしてください」

 そう言うと、千代は立ち上がる。それに倣い矢向も立ち上がると、服の裾を楓に掴まれた。

「あたしも一緒に行く」

 結局三人で二階にある一室へ向かうことになった。その部屋は間違いなくこの家の邪悪な雰囲気の根源となっている部屋であり、久の書斎でもあった。

 矢向が尋ねる。

「この部屋はもしかして……」

「ええ。主人の部屋です。この部屋に矢向さんの知りたい答えがあるでしょう」

 千代はそう言った後、静かにドアを開けた。ほとんど開閉されていないのか、ドアは錆びた音を上げ開いた。

 部屋の中はカビ臭い異臭が漂っており、書物で溢れかえっている。その大半が魔術や呪術を研究した書物であった。中には羊皮紙でできたものあり、かなり古い書物から収集していたことが窺える。

 部屋の窓際には書斎机があり、その上には古びた本が置かれてあった。矢向がそれに近づき本を手に取ると、何度も読み返し癖がついているのか最後のページが勝手にめくられた。

 そのページに書かれている文字を見て、矢向は驚愕した。ラテン語で書かれているその文字は、こう書かれている。

『おお偉大なるリュシフュジュ (悪魔の名) よ!

 余と語るために、余の許へ来たれ!

 然らざれば余は、神と、神の子と、聖霊のとの力を借りて御身を束縛し、

 神聖なるクラビキュール・ド・ソロモンの呪文によって、御身を永久に苦しましめん!』

 この呪文を矢向は知っている。これは悪魔を呼ぶ際の呪文である。

 中世を始め、まだ魔術が盛んに研究されてい頃は、このような悪魔を交霊させる呪文が多く発見された。しかし、悪魔を呼ぶ魔術と呼ぶものはもろ刃の剣である。呼び出し、願いを叶え、はい終わりというわけにはいかない。ごまかしや条件はない。すべてを悪魔に委ね将来も神の慈悲も、希望も全てを捨て去らなければならない。

 ここから先は矢向の推測である。久は何かしらの原因があり、悪魔を呼び出し、その償いのため、家も家庭も自身の将来等、全てを捨てたのだ。なぜ、こんなことが起きるのか? 悪魔は人を陥れる天才なのだ。如何に強情な人間であってもありとあらゆる恐怖や絶望を見せ、人間を陥れるのである。

「なるほど……」

 矢向は静かに呟いた。

 そして――、

「鹿嶋田さん、私にはすべてわかりましたよ。大変だったでしょう。しかし、ここで逢ったのも何かの縁です。私に除霊をさせていただけますかな」

 千代の視線が僅かに揺らいだ。しかしその仕草はあまりに短く矢向も楓も気が付かなかった。

「除霊ですか? 私自身、これまで有名な方に依頼してきました。でも、全然効果はなく、お金だけ取られてきたんです。ですから……」

「大丈夫です。任せてください」

 矢向は床にペンタグランマ(魔よけのマークである「五角星」)を描き、呪文を唱え始める。

 すると、本の中からみるみると煙が立ち登り雲のように固まりを作ったと思うと、それが後に人形になり、矢向の目の前に完全に顕現化された。それはとても悪魔に思えない中世的な男性であった。ほぼ裸で腰の部分だけが布で隠されている。

 その姿に楓は驚き背筋をビクッと震わせた。目の前に座っている千代だけは特に驚きもせず、ただ黙ったまま一連の流れを見つめている。

 悪魔は矢向、楓の二人を見渡すと、鋭く口を開き、

「我に何の用だ?」

 矢向は答える。

「貴様には消えてもらいたい」

「我を偉大なる悪魔、ルシファーであることを知っての言動であるか」

「貴様の化けの皮など直ぐにはがしてくれるわ」

 矢向は再び呪文を唱える。

「三重に燃え立つ火」で「お前を焼いてやる」と威嚇する。「三重の火」とは三位一体の印であり、父(神)とイエスと聖霊の三位が一体になることをいう、キリスト教の教義である。数秒の間の後、ルシファーの仮面を被っていた悪魔の正体がみるみる現れていく。

 通常、何の背景も持たない人間のもとに偉大な悪魔など現れない。それに見合う力もないし、相対すればたちまち殺されてしまうだろう。故に久のもとに現れた悪魔はまがい物である。

 化けの皮をはがされた悪魔は、醜く太った猿のような醜悪な化け物であった。

 久と契約を果たし、久のすべてを奪い、ぬくぬく今まで暮らしてきたのだ。はらわたが煮えくり返りそうになった矢向は、すぐさま除霊の呪文を唱え、醜悪な化け物を抹殺しようと試みた。

 突然、化け物は気味の悪いガスが噴き出すような声を上げ消えていった……かのように見えた。

 辺りが静かになった。そして、化け物がいた位置に、魂のような人間が座り込んでいるではないか。この人間こそ久であることに相違なかった。

矢向はそれを見て再び呪文を唱えようとした。魔力をコントロールできない楓や千代には目の前に現れた魂が見えていないのではないかと察したからである。しかし、楓は呪文を唱えようとする矢向を制し、その代わり千代の方を指差した。

どういう訳か、千代には霊が見えているようであった。恐らく長い間魔術現象の中で生きていたために自然に魔術に対する力が芽生えてのではないか? と、矢向は考えた。

 久はぼんやりとこちらを見つめた後、千代の姿に気が付き、声を出した。

「すまなかったね……」

「お父さんなんですか」

「ああ。迷惑をかけたよ。それと……」

 久の霊は矢向の方を向き、にっこりと微笑み、

「本当にありがとうございます。あなたのおかげで助かりました」

 矢向は答える。

「ええ。ではすべて最初から説明していただけますかな」

「分かりました。では……」

 久はゆっくりと目を閉じた後、再び目を開け、話しを始めた。

「実は、先程の悪魔を呼び出したのは私では無いのです。では誰があんなものを呼び出したのかというと、津田山 麗子という学生でした」

 矢向が答える。

「それはもしかして、あなたの研究室に在籍していたという……」

「そうです。彼女です」

「なぜ彼女は悪魔契約なんて恐ろしいことを?」

「その原因は私にあります。お察しのとおり私は数学者でしたが、超常現象に非常に興味がありました。科学の世界では解を導き出す公式が既に存在していても、突然、全く予期しない場所へ答えが出る時があるのですよ。そういったことも関係し、私は家で魔術や呪術などを研究し始めました。でもそれがいけなかったんです」

「なぜです?」

「ええ。実は津田山という女子学生は少し風変わりな学生でした。なんといっても数学科は彼女以外女子生徒がいませんでしたし、帝大の理学部は毎年九割程度が男子生徒ですから、何もしなくても彼女は浮いておりました。ですが、彼女にはもう一つ自身を浮き立たせる要因がありました」

「それは一体?」

「彼女も私と同じように得体の知れない超常現象について研究を重ねていたのですよ。もちろん如何わしい関係はありません。但し、私は自分以外にもそのような分野に興味を持つ人間が現れたことが嬉しくてたまりませんでした。ですから、沢山の本を貸したり、知識を教えたりしました」

「それで、後に彼女が悪魔契約を」

「ええ。彼女の場合どちらかというとオカルティストだったんですね。故にサバトやカバラ、魔女狩りなんかに信念に近い何かを感じていたようです。但し、彼女が呼び出すことのできる悪魔のレベルなんてものは高が知れていますし、私もそれ程気にはしておりませんでした。しかし……」

「しかし?」

「あの日のことは良く覚えております。理学部の会議があり、それが終わった後のことでした。私の研究室に連絡が来たのです」

「それは津田山さんの……」

「はい。津田山さんのお母様からでした。研究室に学生の親御さんから連絡がくるということは非常に珍しい話なので、私は慌てて連絡に出ました。すると、お母様から恐るべき連絡を聞いたのです」

 久は一息ついた。室内はまだ昼間だというのに、薄暗ひんやりとしたくうきがただよっている。そして、再び久が話し始めた。

「連絡は津田山君が亡くなったという話でした。既に時刻は午後九時になろうかといったところでしたが、私は彼女の家へ向かしました。そこで恐るべき状況を見たのでした」

「彼女が悪魔を呼び出していたと……」

「そうです。彼は狡猾であり、巧妙に人を騙します。願いなんて叶わないんです。大抵は命を奪われてお終いです。私が駆け付けた時、既に家中が只ならぬ気配に包まれておりました」

「それであなたはどうされたのですかな?」

「その時の私自身は完全に冷静さを失っておりました。ただ一つ分かったことは、彼女が私の貸した書物を利用し悪魔を呼び出していたということでした。そこでもしかしたらまだ彼女を救えるのではないかと思ったのです」

「救える?」

「彼女が契約をしたとされる悪魔は、決して高名な悪魔ではありませんでしたし、その時の私自身でも追い払うことが可能でした。しかし、退治してしまったらそのまま彼女の魂も戻っては来ないでしょう。私が貸した書物がきっかけになっているということも作用して私は悪魔に対してある提案をしました」

「提案というのはもしや……」

「ええ。察しがついているかと思われますが、悪魔の契約を解除するためには、契約したに引き渡したもの、この場合は魂と等価値のある物を代わりに差し出せば良いのです。ですから」

「ご自身の命を差し出したのですか」

「ええ。時間が無かったのです。夏場ということもあり、死体はそう長く保存できないです。翌日に通夜だとすれば、明後日には埋葬されてしまうでしょう。そうなってしまったら、彼女の魂を取り戻したところで意味はありません。何としても早く、目の前にいる悪魔と決着をつける必要がありました。ですが……」

「ですが?」

「実は私は命を差し出すことができませんでした。躊躇してしまったのです。恐ろしくなってしまったのです。その躊躇している隙に、警察がやってきてしまいました。そのためその場所から出て行かなければならなくなり、私は彼女を救うことができなかったのです。

 後日、彼女は自殺と断定されました。他殺の痕跡は全くありませんでしたし、私も多少尋問を受けましたが直ぐに死体は焼かれてしまいました。私はそのことで多大なショックを受け精神的には参っておりました。そんな中、悪魔が再び私の前に現れたのです」

「……悪魔ですか?」

「そうです。彼は私の前に現れ、彼女助けたければ命を寄こせと脅迫するのです。毎晩毎晩夢に現れるので、うんざりしていました。さっさとこの悪魔を退治してしまおうと心に誓っていたのですが、悪魔が彼女の声で囁くのです。『助けてくれ』と、悪魔を退治すれば彼女の魂がどうなるか分かったものではありません。弱り切った私は魂を差し出しました。その結果、残った家族を苦しめ、彼女の方の魂も家族も苦しめるという最悪の結果に終わってしまったのです」

「それで二十年経ったというわけですか?」

「そういうわけなんです。いや、それでもあなたには救われました。ありがとうございました。そうだ、あなたにはお礼をしなければなりませんね。ささぁ、どうぞこちらにいらしてください」

 久の霊はそう言い、矢向に向かって手招きをしている。

 同時に、後ろの方から千代が矢向に向かって歩いていく。

 矢向自身、どこか腑に落ちないと感じていた。一体、何がおかしいのとかと考えを巡らせようとすると、何やら得体の知れない空気が辺りを充満していく。

すると、矢向の目が虚ろな状態になり、思考もうまく回らなくなった。何かがおかしいと矢向は感じていたが、体が徐々に硬化していった。もう矢向自身の意思ではどうにもならない。体が何者かに操られていくような感覚が広がっていく。

 そんな中、

「動かないで!」

 叫んだのは楓だった。

 その声に、矢向は目が覚め、硬直が解けた。そして楓の方を向いた。

「お嬢ちゃん。どうしたんじゃ?」

「矢向さん。しっかりしてよ。あの人は久さんなんかじゃないわ。悪魔よ!」

「なんじゃって!」

「だってあたしにはあの人の姿が見えるもの。今のあたしは気配を感じ取ることができても実際に見ることができないの。松濤の時みたいに矢向さんが交霊させて、霊を顕現化させてくれないと、今のあたしには幽霊が見えないのよ。それなのにあの人は見える。ってことは自身で魔力を高めているってことでしょ。どうしてそんなことをする必要があるの? 決まってるわ。矢向さんとあたしを襲おうとしているからでしょ? だから、魔力を高める必要があるんでしょ!」

 楓は目をキッと見開き、千代の方を見つめ答えた。

「お婆ちゃん。あなたも同じよ!」

 千代の驚いた顔が、次第に溶けるように変わっていく。そして、

「お嬢ちゃん。いつから分かったんだい?」

「最初からよ。あたし魔術的なものに触ると、無意識にそれを消し去る魔術を発動させてしまうの。お婆ちゃんが道端で倒れた時、救急車が来るまで、あたしと矢向さんで介抱したの。もちろんあたしより矢向さんの方が力はあるから、お婆ちゃんを抱きかかえ、一旦家のまで抱えて行ったのは矢向さんだったけど、私も抱えるのを少し手伝ったの。その時、お婆ちゃんの体から何か煙のようなものが消えていくのが見えたの。病院で触った時も同じことが起きた。ずっと気のせいだと思っていたけど、この家に入ってすべてそれが気のせいでのなんでもないってことがわかったわ」

「なるほど、そうかい」

「試してみる。あたしがおばちゃんに触れると、多分……」

 楓は少しずつ、千代の方へ近づいて行く。

 千代は後ずさり、とうとう壁際まで追いつめられる。

「あなた、悪魔なんでしょ? 松濤の女子大生も、久さんを殺したのもあなたなんでしょ? いえ、お婆ちゃんを殺したのもあなたなんでしょう?」

 そして、楓は千代の右腕を触る。すると物質が蒸発するように煙を上げ、みるみる内に消えてゆくではないか。同時に、

「キィィィィヤァァァァー」

 という甲高い叫び声が轟く。

 千代は狂ったように触れられた右腕を振り払う。その顔を良く見ると、人間ではなかった。醜悪で醜い悪魔そのものであった。

「グフフフフ。よく分かったね。お嬢ちゃん。俺はこの老婆の契約に基づき現れた悪魔さ。お嬢ちゃんの推理どおり、女子大生を殺したのも、旦那を殺したのもこの俺様さ。俺が呪い殺してやったのさ」

「どうしてそんなことしたの?」

「話せば見逃してくれるかい?」

「真実を教えてくれたらね」

 悪魔は頷くと話しを始めた。

「この婆さんがそうしてくれって頼んだからさ。人間の世界では悪魔以上のことが行われているんだぜ。この婆さんの旦那は女子大生と関係を持っていたのさ。それを知っていた婆さんは復讐を決めたというわけさ」

「じゃあどうしてお婆さんも殺したの?」

「フハハハ。お嬢ちゃん聡明だね。良いかい、人を呪い殺すにはそれなりの代償ってものが必要だろうよ。だが、俺はそれを隠したりはしない。最初に説明するんだ。今回の場合、二人を呪い殺すためには、『老婆の命と、その後の魂を永遠に引き渡す』という条件が必要だ。

 二人を殺すためには一人分の命では足りない。俺はそれを死んだ後の魂を永遠に差し出すことで代替してやったのさ。そう説明すると、老婆はそれでも良いと言った。だから、俺は老婆の命と魂を引き換えに二人を呪い殺してやったというわけさ」

「あなた、最低よ」

「いや、最低なのは俺じゃねぇ。人さ。破滅を選ぶのいつも人なんだよ」

「じゃあなぜ、あたしたちをそんな演技して騙そうとしたの?」

「そうさ、察しのとおり、お前ら食うためだよ」

「喰う?」

「悪魔がこの世に残るためには、それなりの人の生気が必要なのさ」

「自分の元いた世界に帰れば良いじゃない?」

「馬鹿なことを言うもんじゃねぇよ。あんな世界、この世を知ったら、二度と御免だぜ。幸い、この世界にはたくさんの人間で溢れているからな」

「それでこのお婆ちゃんの魂を使い、操り、私たちをおびき寄せ、襲おうとしていたってことね」

「そういうことだ。だが、それもお嬢ちゃんによって暴かれてしまったがね。もう話すことはない。約束だ。見逃してくれるなら、俺はここには二度と現れねぇよ」

 と、悪魔は右腕を擦りながら答え、その場から立ち去ろうとそそくさと窓側の方へ移動していく。

 それを楓が遮るように答える。

「待って。あなたみたいな悪魔を野放しにしておくわけにはいけない。やっぱり逃がすわけにはいかないわ」

「ふふふ。お嬢ちゃん。約束は守らなきゃな」

「あなただって守ったことないでしょう」

 悪魔は問いには答えずに、矢向の方を指差す。

 矢向は痛めた左足を付き、蹲っている。

「お嬢ちゃん。そこのじいさんが惜しくないなら、俺を消滅させれば良いだろう。だが、俺も抵抗する。お嬢ちゃんに消されるよりも前にそこのじいさんを殺す」

 矢向は答える。

「それは嘘だ。お嬢ちゃん騙されてはならん。わしは大丈夫だ。さっさとその悪魔を消し去るんじゃ」

 楓は動けなかった。悪魔の言うことが恐らく本当であると察したからだ。楓は最初に悪魔に触れた時、直ぐに消滅するものだと思っていたのだが、そうではなかった。

 だとすれば、消滅するまでの時間を利用して矢向を攻撃することは可能だろう。しかも悪魔を抑えつけている時間、楓は何もできないのだ。

 そうこうと躊躇していると、悪魔はその隙をついて、窓際から空高く飛び立ち消えていった。

 ガクッと膝を着き、楓はその場に座り込む。そこに矢向が近づく。

「お嬢ちゃん。大丈夫じゃったかい?」

「ええ。でも悪魔を逃がしてしまったわ」

「気にするでない。またいつか機会があれば、やっつけられるさ」

 悪魔が消え去った後、家の中は百八十度変わって見えた。それはまるで止められた時が、一気に流れ出したように、急激に家を廃墟へと変えていったのである。天井には蜘蛛巣がはり、床は軋み、壁はひび割れ、階段は今にも朽ち果てそうであった。

 時刻は、午後五時を回っていた。

 二人は車に乗り込み、混雑した道路を走っていた。車内で矢向が尋ねる。

「お嬢ちゃんには助けられたな」

 楓は矢向の方を見ずに、窓ガラスから外を見ながら答えた。

「助けられた?」

「ああ。お嬢ちゃんがいなければ、わしはやられていただろう」

「でも逃げられてしまったわ」

「良いや。それでも立派なものじゃよ。今日のお嬢ちゃんはまるで名探偵じゃったよ」

「名探偵?」

「そう。ホームズみたいじゃった。少ない情報を読み取り、犯人にまで結びつけた。見事じゃよ」

「そんなんじゃないのよ」

「ん。どういう意味じゃい?」

「矢向さん。最初にお婆さんの家に入った時、どう思った?」

「最初? そりゃどこにでもある普通の家に見えたが……」

「じゃあ、最後、あの家はどうなった?」

「最後? 悪魔が消えてからのことかい? そりゃあ、魔法が解けたのように廃墟になったが……」

「うん。でもあたしには最初から廃墟に見えたのよ。全部最初から知っていただけなの」

「最初から?」

「ええ。全部。ほら、悪魔に向かってあたしが言ったことを覚えてる? お婆さんに触れたら煙が湧いたって話し。あの時からお婆さんがおかしいと思っていたんだけど、自分で何とかしてみたいって気持ちが上回ってずっと黙っていたの。ごめんなさい」

「そうじゃったのか……。いやいやでも謝ることはないさ。こちらこそ謝らなければならん。危険な目に合わせてしまったんだから」

「ううん。それは良いの。でもどうしてあたしにだけは最初からあの家が廃墟に見えたのかしら?」

「考えられるのは、一見綺麗に見えた家や、老婆や鹿嶋田教授たちは、悪魔によって作り出された幻影なんじゃよ。だが、お嬢ちゃんは無意識じゃが魔術を消し去るという術を扱える。これは恐らく、消し去るのではなく元の状態に戻すという魔術なのだろう」

「元に戻す?」

「ええ。多分じゃがね。そうすれば今までの出来事のすべてが説明できる。悪魔が作り出した幻影というのは、正確に言えば、複雑に作りこまれた粒子状の魔術なのじゃよ。それが家全体を覆い、廃墟を普通の家へと変えたのじゃ。だが、お嬢ちゃんには高い魔力とわしには扱えない魔術が扱える。その魔力故に粒子に触れた途端、幻影が消えてゆき、お嬢ちゃんにだけは本来の姿が見えていたのじゃろう」

「ふ~ん」

 矢向がぼそりと呟く。

「わしもまだまだじゃということじゃな……」

「え、どうして?」

「知らないことばかりじゃ。わしは魔術や霊的な書物を読み漁り、一通りの知識を得たつもりじゃった。じゃが、実践に勝る知識はないのじゃ。良い勉強になったよ」

 楓はうとうととしながら、

「今回のことで何か分かったの?」

「ああ。わしらのような人間には魔術や霊的現象を感じる力がある。今回の例で言えば、幽霊屋敷や鹿嶋田邸に入った瞬間に異様な空気を感じたじゃろう?」

「ええ。確かに感じたわ」

「どうやら魔術や霊的現象というものは、お嬢ちゃんの件のように分かりやすく原因が掴めるようなものではなく、複雑に入りくねっているようじゃ。つまり、大まかに魔術や霊的現象を感じるだけでなく、その複雑に入りくねった現象自体がどこから発生しているのか? これをしっかりと把握しなければならないんじゃな。そうしないと、今回のように鹿嶋田教授や千代さんや鹿嶋田邸を、悪魔が作り出した幻影であると見破ることができないんじゃよ。そのためには、今よりももっと精進し、自らの魔術の精度や魔力を高めていく必要がある。と、まぁそんなところじゃ」

 矢向の少し長い話は、楓には届かなかった。どうやら途中で疲れて眠ってしまったようだ。矢向は眠った楓を見つめ微笑み、車を走らせた。

 後日、松濤の家は正式に取り壊されることになった。矢向がしっかりとお祓いをし清めてきたので、解体工事にも怪異現象は起きず、スムーズに仕事は進められたようであった。もう一つ、太子堂にある悪魔に取り憑かれた鹿嶋田邸も取り壊されることになった。悪魔が消えたことにより、家の魔法が解け廃墟となり倒壊の危険性が出てきたためである。

 結局、区が乗りだし解体し取り壊されることになったのであった。矢向が最も心配していたのは、いつからこんなに廃墟になったということで、住民たちが驚き、騒ぎになるのではないかということであったが、騒ぎも何も起きなかった。

 幸い、外観は汚いが目を見張るほど汚れていたわけではないので、気が付く人の方が少なかったのだ。こちらの手続きも裁判所により順調に進められていった。季節が夏を越え、秋を迎える頃にはどちらもすっきりとした土地に変わり、怪異現象が嘘のように晴れ晴れとしていた。

 一方、楓はというと、夏休みを迎え、その休日のほとんどを、宿題や勉強をそっちのけで矢向の事務所へ通い、毎日霊能者の訓練を受けていた。楓には元から強い魔力があったので、数日間の鍛錬で直ぐに幽霊を見る力が付いた。同時に自分の強い魔力に引き寄せられてくる霊も、自分で処理できるようになったのであった。その他にも、矢向の手伝いをしていた。楓自身、心霊や怪異現象で苦しんでいる人を助けてあげたいという気持ちが芽生え、膨らんできたのである。

 そんな中、楓の魔力に引き寄せられるように、新たな事件が訪れる。それは楓等と同じ、魔術師の出現であった――。


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