足元を見た
また人員の削減にも成功している。
全補助ロケットが切り離されたと船長が言った。ベテランらしく落ち着き払った声だった。これ以降往復船は慣性と重力に従い航行する事になる。機体は背面飛行を行っている。頭上に天窓の一つでもあれば押しつぶさんばかりに広がる地球が見えただろうと残念に思った。
背後の地球は暗闇に覆われているのだろうと思った。つまり僕らが当時見ていた地球はたったの半分。昼の地球のみだという事だ。
「ようこそ宇宙へ」
船長が言った。
前方のキャノピーから見える地球は素晴らしかった。確かに美しい物ではあったけどもなんだか中途半端な気がした。地平線が見えていたためだ。遠く見える太陽と青く輝く大気。まさしく絶景だったのにも拘わらず、どうせならば視界を覆いつくし、圧倒的な質量で押しつぶし人生観を一変させるような地球の姿が見たいと、そんな贅沢である意味お気楽な事を考えていた。
実はその時の写真がある。機外のカメラで撮影されたものだ。どの様な景色だかもう少し詳しく解説しよう。
まずは地平線だ。地平線をお目にかかった人はいるだろうか。どこまでも広がる平野。大地と空の境目がきっちりと別れている絶景を。宇宙においてははっきりとした境目は無い。
緩やかにカーブを描く地球。地上付近では太陽に照らされたと思われる雲が、白く輝いている。その上には大気が青く光り、上に上がるにつれて薄くなっていく。どこまでが大気で、どこからが宇宙かなんてぼんやりとしていて肉眼でははっきりと線引き出来ない。
これが僕らの故郷である地球だ。
そして遠く輝く太陽。遠くと表現したものの、実は遠くには感じられない。白い光が太陽を大きく見せているからだ。
初めて宇宙へ旅立った日の写真。そして僕が初めて宇宙で見た景色だ。
その景色は今でもはっきりと思いだせる。毎日デスクで目にしているというのもあると思うけど。
宇宙をぼんやりと眺めていた僕はふと我に返る。船内が静寂に包まれている事を奇妙に感じた。ここは宇宙空間だ。人類がまだ開拓しきれていない二つ目のフロンティア。一つ目は当然深海だ。外に一歩出れば生身の人間は死んでしまう。生存が許されない空間だった。
その様な空間に僅かな生存域であるちっぽけな船で航行している。ある種の恐怖と緊張、高揚。そして畏怖。それらがない交ぜになった感情を理性で押し包んでいなければおかしいと思ったからだ。
当時の僕は日記にこう書いていた。
『船内は静かだったが、緊張感がある様な非日常の沈黙ではないと感じられる。強いて言うなら日常生活における沈黙だ』
今思い返しても当時の所感に同意する。地上、そしてステーションの両方と通信しあう会話。予定コースに合わせ機体のコンピューターが軌道修正すべく、自動で各種スラスターを噴射したと知らせるブザー音。電子音ながらも耳に突き刺さらない音だ。
それ以外全くの無音だった。船員たちはある意味気楽に肩の力を抜いて、されど適度な緊張感を持って日々の業務をするように、実際彼らにとっては日々の業務だけども、宇宙船の運航と言う大仕事を行っている。
軽い身体。少し床を蹴ってやれば慣性に従い地球へと落ちようと浮き上がる尻さえなければ、ここは地上だと錯覚するほどだった。僕らにとって非日常であっても、彼らにとっては日常のワンシーンなのだと今なら分かる。
当時のあの現場は、全く日常と陸続きの空間だった。
航行する事ざっと五時間。理想的なコース。予定通りの進行。スムーズな接近。クルーの一人が上機嫌に呟く。話を聞いてみればいつもならば多少の、修正可能なわずかな遅延があるが、ここまで全て理想通りに事が進むのは珍しいらしかった。
AIがここまで進化したとしても、偶発的なトラブルに見舞われるのは回避しようがない。人間の限界を感じた。
目指すは太陽の見える方角。夜の象徴である月から逃れる様に、僕らは航行していた。さしずめ夜からの逃避行だ。
遠く豆粒のように見えていた二番基地はやがて大きくなっていった。各モジュールを増設していく事を前提に設計されたために肥大化した実験施設。電力を確保する為に広げられた、大型の太陽光パネルが翼の様だった。
施設の端には区画丸ごとを使った砲塔がある。大口径の電磁投射砲。これが航宙軍の象徴とも呼べる兵器だ。これで飛来する敵砲弾を迎撃。または月面への砲撃を敢行する。
太陽の熱を吸収しない様にする為だろうか。宇宙船や基地と同じく白く塗装された砲身が印象的だった。
SRTSはコンピュータの制御にしたがい自動で基地に接近する。少しばかりの振動。基地外壁の作業用マニュピレーターに掴まれたためだ。そのまま寄せられ、接続する。
移乗しても良いとの許可が船長から下りる。
「アイハラ、ヤマノ。幸運を」
山野女史と共にクルー各員へ丁重に礼を述べる。照れたのだろうか。一人が半笑いで、早く行けと僕らを追い払うようなジェスチャーをする。
コックピットの奥。天井にあるハッチを操作し開ける。内部の狭く白い空間に身を滑り込ませる。気密扉は二重構造だった。この向こうは基地だ。
ゆっくりと、ある種厳かな気持ちで開ける。向こうには二人の男と女が浮かんでいた。
片方の男の名前はバリー=ブラウン。もう一人は僕と同じ日本人で、斎藤健吾一等空尉。女はオリガ=ウラノワ。日米露三か国とが並んでいた。バリーは僕と同じくらいの年齢だろうか。気安い笑みを浮かべていた。
全員事前の資料で顔を知っていた。バリーは砲撃担当。ウラノワ女史はこの二番基地の船長を務めている。そして斎藤健吾だが、彼は主に整備担当だった。つまり僕と同じ技術畑という事になる。
バリー、山野君、ウラノワ女史、そして斎藤さん。この四人と僕を含めた計五名が主な登場人物だ。
挨拶もそこそこに居住区へと案内された。慣れない無重力下における移動というのは中々に難儀する。手で壁を押して進むわけであるけど、強すぎれば前を行く真面目そうな斎藤さんに衝突する事になる。最悪そのまま壁に当たり、かなり痛い思いをする。そんな醜態は誰だって晒したくはないだろう。
四苦八苦する僕らを見たバリーが、やはりにやにや笑いながら何事かを言っていた。良くは聞き取れなかった。ただ笑われているという事は分かった。
後日、と言うよりは今この文章を書いている時だけども、あの時何を言ったか教えて欲しいと電話した。
「ああ、インスタントって言ったんだ。促成教育の賜物だなって」
一つ言い訳をしたい。僕らは確かに訓練を受けた。宇宙における各種活動の訓練を。だけどそこまでかっちりした物じゃなかった。NASAの訓練カリキュラムを引用し、アレンジした代物。簡略化されていたんだ。
宇宙ステーションはオートメーション化が進んでいた。かつて存在したISS程度ならば一人で運営出来る程に。そこら辺の話は航宙軍の公式サイトを見て欲しい。自慢げに書いてある。
だけども規模と量が問題だった。純然たる実験施設だったISSと比べ、こちらは軍事施設。砲塔もある射撃管制用レーダーもある。基地の図体は大きく電力もドカ食いする。
そんな代物が月と地球の間に当時は二十は浮かんでいた。
当然手は足りない。深刻な宇宙飛行士不足に悩まされたんだ。
よって宇宙開発に心血注いでる連中は航宙軍上層部と一緒に考えた。そして出した結論は、簡略化できるところは簡略化して促成の宇宙飛行士作りましょう。
実に単純明快で分かりやすいだろう。やられるこっちとしてはたまったものではないけど。
そのテストケースとして白羽の矢が立ったのが僕らだ。訓練された軍人でもなく、宇宙開発で現場に出たことも無い貧弱な技術屋。こいつらを使えるラインに持っていけたら合格だ。そんな会議が為されたのだろう。見事僕らはモルモットに選ばれたという訳だ。
ウラノワ女史が微かにロシア訛りが混じった英語で、後は任せたと言った。なんでも往復船の積み荷を降ろす作業を指揮しなければならないらしい。バリーも軽く手を振って女史についていく。
二人が分かれ道で反対方向に行ったのを確認するや、斎藤さんは身体を止めた。そして窓から外を見る様に促してくる。
「絶景ですね」
山野君が平坦な声で呟く。その意見には全く同意だった。
望んだ地球の風景がそこにあったからだ。昼の明るい部分が徐々に暗くなっていくグラデーション。永遠の黄昏時に浮かぶ白い箱舟、そんな小恥ずかしい文章が頭をよぎったのを覚えている。
そんな地球を背に、往復船の周囲には作業用ドローンが浮かぶ。作業開始を今か今かと待ちわびているドローン達を焦らす様に、ゆっくりと船のカーゴベイ扉は開かれていった。