或る処世(三十と一夜の短篇第5回)
『続日本紀』の天平宝子3年7月5日の記事に、「夫人正二位廣岡朝臣古那可智薨ず。正四位橘宿祢佐為之女也。天平勝宝9歳閏8月18日勅有りて廣岡朝臣を賜ふ。」とある。この女性は聖武天皇の夫人の一人であった。父の橘佐為は県犬養橘宿祢三千代の二男で、聖武天皇の信任篤かった井手左大臣橘朝臣諸兄の弟であった。聖武天皇も、父も伯父も夫人に先立ち、この世の人ではなかった。
この時の当代は淳仁天皇であり、同じく聖武天皇の皇后であった光明子、聖武天皇の娘の孝謙上皇は存命であった。二人は県犬養橘三千代の娘、孫であり、古那可智の叔母、従姉妹にもあたる。しかし、この二人が古那可智の訃報にどのような感慨を抱いたか、記録が残っていない。また、古那可智に子がいなかった所為か、享年や人柄を偲ばせるような記事もない。寧楽朝の数多くの政争の中、どのような想いで生きてきたかは、想像の中にしかない。
帝に入内せよと父より話を受け、古那可智は戸惑った。帝の後宮には既に年齢の離れた父の異父妹の藤原家の安宿媛や祖母方の親戚の県犬養広刀自が、帝の皇太子時代から側に侍っていた。
安宿媛――いや、帝の皇后となっているのだから光明皇后と呼ぶべきか――、叔母は阿倍内親王を出産した後に男子を儲けたが、その子は赤子のうちに亡くなった。県犬養夫人は、井上内親王、不破内親王、安積親王の三人の子を儲けている。
帝の後嗣として注目されているのは安積親王であるが、この子も病弱で、成長に不安があった。後嗣に心配があり、今や光明皇后も県犬養夫人も三十路を迎え、懐妊の希望を持てなくなってきたがゆえに、若い女性を入内させようと考えられたのだろう。
その考え方自体は男系の世襲制を守る為に間違っていない。しかし、何故入内するのが自分なのかと古那可智は思う。おまけにもう一人の叔母の牟漏女王と藤原北家の房前の娘や、藤原南家の武智麻呂の娘も入内の準備をしていると聞く。
誰が親王を儲けても、帝のミウチでありたいと願っている祖母たちの思惑が透けて見えてくる。
――親戚や縁戚の女性同士で帝寵を争うなんて、変じゃないのかしら!
赤の他人ばかりなら、遠慮なく相手を出し抜こうと野心を持ったり、帝に媚を売ったり、実家の者を取り立ててくれと、我が儘を言ってみようとの気も起きる。
帝だって困るだろう。いくら若い女性が新たに侍るといっても、全員、自分か皇后の姪なのだ。(帝の母は藤原不比等の娘で、光明皇后の異母姉の宮子だ)知っている者同士で不毛な争いをするのか。
――できれば祖母や牟漏の叔母のように宮廷女官として働きたかった。
しかし、父も伯父も、帝に入内する道が古那可智にとって仕合せだと信じており、古那可智はそこから逃れる術を思い付かなかった。
やがて、古那可智は入内し、橘夫人と呼ばれ、父を超える位階を授かった。競うように入内した従姉妹は皇后と区別する為に藤原北夫人、藤原南家の娘は藤原南夫人と呼ばれた。叔母の皇后は少なくとも嫉妬の情を見せなかった。ただ、自分を押しのけるような寵を受けられるのかとの威圧と、自分に代わり男皇子を儲けよとの強い期待を感じさせた。
寿命には逆らえず、県犬養橘三千代の祖母は亡くなり、天然痘の流行で、藤原不比等の四人の息子たちと、父・佐為が亡くなった。
入内した頃、帝は三十路の男盛りであったが、特定の誰かを寵愛するでもなかった。そして、誰も懐妊しなかった。
藤原四子の死後、伯父の諸兄が廟堂を取り仕切る重鎮となり、古那可智に期待の視線が向けられたが、こればかりは念じてどうにかなるものではない。
帝は誇り高いだけでなく、非常に生真面目な性格をしており、何事も自らの徳が至らない所為かと悩み、統治者としてあるべき姿を模索し、仏教への信仰が篤かった。この帝をお支えできる妻はやはり叔母のみであり、若さを失いつつある古那可智は無力であった。夫婦としての情愛があるのかと問われれば、無いと答えるほかない。有るのは苦悩する帝への深いかなしみの情。
安積親王が病で亡くなり、皇后所生の阿倍内親王が初の女性皇太子として立太子した。諸兄の嫡男である奈良麻呂は、阿倍内親王が即位したとして、その次の皇太子や皇統はどうなるのかと、これもまた生真面目に論じていた。
――どうなるものでもあるまい。それを決めるのは汝でも我でもない。
古那可智は、藤原南家の乙麻呂と結婚し、宮廷女官として勤めている妹の麻都我と、男性とは違った形で行く末を模索していた。
――阿倍内親王が帝位を受け継ぐのは覆るまい。内親王は独身、後を誰が継ぐのかまだ何とも言えまい。
――皇后は藤原の甥の中でも南家の仲麻呂を信頼なさっておられる。
――乙麻呂の兄ですから、よしみを通じていても不都合はあるまいし、皇后の不興も買うまい。
――橘の伯父は老いた。奈良麻呂は稚く性急にすぎる。
父の佐為は亡く、伯父の期待に応えられぬ身、古那可智にとって実家への貢献よりも、我が身ときょうだいの身の処し方が大事であった。
帝は阿倍内親王に帝位を譲った。孝謙女帝である。大仏の開眼、何度かの上皇の不予。上皇は阿倍の後を道祖王に継がせるようにと遺詔して崩御した。伯父の諸兄も後を追うように世を去った。橘家の氏の長者となった奈良麻呂は不惑の年齢も踏んでおらず、古那可智よりも若かった。
阿倍が皇位にありながら、実権は母の光明皇太后の手にあった。道祖王を廃太子とし、藤原仲麻呂の息の掛かった大炊王が皇太子になった。
――奈良麻呂が不穏な企みを持っているようですよ。
――奈良麻呂が何を言ってこようとも聞かぬ。むしろ、それは皇太后にお知らせするべきです。
――ご立派な志をお持ちなのはいいのですが、巻き添えになりたくありません。
――我ら一族が滅びるのだけは免れなければなりません。
古那可智は麻都我とともに、従弟の奈良麻呂より、藤原南家に近しい感情を抱いていたと言っていい。子のない未亡人は、良縁にも子宝にも、仕事にも恵まれた妹に自分の願った人生を夢見、為政者に迎合する道を選んだ。
為政者側では、不満分子を必死になだめようとする叔母・光明皇太后と、謀反の名の下に邪魔者を一掃しようとする仲麻呂とで思惑が違っていた。
奈良麻呂とその一派の計画は仲麻呂に筒抜けだった。古那可智と麻都我の所為ばかりではなく、迂闊な行動や密告者があった。
天平勝宝9歳7月、奈良麻呂たちは謀反の罪で捕らえられた。罪の軽い者、情状酌量の余地のある者は流罪、または釈放となったが、多くの者たちは拷問の果てに命を落とした。『続日本紀』に記録されていないが、首謀者であった奈良麻呂も同様の運命を辿ったであろう。
翌々月の閏8月、古那可智、宮子、麻都我、綿裳、眞姪ら、橘佐為のきょうだいたちは、新たに廣岡朝臣の姓を賜った。橘家の諸兄、奈良麻呂の系譜から絶縁することに躊躇はなかった。
――己の節を曲げず全うしたのだから奈良麻呂に悔いはあるまい。だが、我々とて生き抜かねばならぬ。
ただ、その後の『続日本紀』には橘奈良麻呂の妻子の記録が出てくる。一時の不遇はあっても、命までは奪われなかったと解る。
2年後、古那可智は廣岡姓のまま薨去した。
光明皇太后はその翌年に亡くなり、孝謙上皇(阿倍内親王)と藤原仲麻呂の対立が明らかなものとなり、再び政争が始まった。古那可智たちが頼ろうとした藤原南家は仲麻呂の敗北により勢力を失っていった。
やがて都が寧楽から平安京に遷り、橘奈良麻呂の孫娘の橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり、仁明天皇の母となる。
綱渡りのような処世で我が身を守っても、それが子孫につながるかは誰も知らない。
参考文献
『国史大系 続日本紀 前篇』 吉川弘文館
『藤原仲麻呂』 木本好信 ミネルヴァ書房
『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』 木本好信 髙科書店
『天平の三姉妹』 遠山美都男 中公新書
天平宝子と天平勝宝と年の数え方が「年」になったり「歳」になったりしていますが、当時は唐に倣って四文字の元号にしてみたり、年数の数え方を変えたりしていました。また、橘氏ははじめは宿祢でしたが、後に朝臣に姓が変わりました。誤記ではありません。