おはようからおやすみまで
ロンディニウムでは今、夜にもキャンドル等で光を絶やさない無休の商店が人気を博している。
彼、ハインツが働くのもそんな店の一つであった。
今日も早朝から昼までの勤務時間、店を訪れる紳士淑女たちに接客をしていた。
「お疲れ様でした~」
誰も聞いてはいないが、一応の礼をすまし裏の勝手口から店を後にする。
右手に持つ紙袋をプラプラとさせながら通行人とぶつからないよう気をつけながら彼は街を歩いていく。
彼の目的地は自らのアパルトメントではない。
その前に寄っていく場所があるのだ。
彼が商店を出て20分ほど歩いたところで目的の場所に着く。
アパルトメントの一室。
懐から鍵を出そうと内ポケットに手を入れようとしたとき何かに気付いたかのように動きが止まる。
そして動きを中断したかと思うと、目の前のドアノブを回した。
音もなくスムーズに扉は開いてしまった。
そうして部屋の中に勝手知ったるように入り奥の寝台までいく。
「おい、起きろ。ジャスティーヌ」
「んん~~……」
「おい、俺だ、ハインツだ」
「ぅるさぃ、わかってるよ…………グ~」
「寝 る な ! 起 き ろ !」
その後ハインツが何度も起こしなおすことになった。
ベットから起き上がる女性。ジャスティーヌ、薄い亜麻色の髪を腰近くまで伸ばし魔的なほどに白い肌の女性。
「ほら、今日のメシ」
「ん、ありがとう」
ハインツはベットの上のジャスティーヌに紙袋を渡す、中には三種類ほどのパンが入っていた。ハインツが仕事先でもらってきたものだ。
「さて、じゃあ今日はこれにしようかな」
ハインツが台所にある蛇口からコップに水を注ぐ。
袋の中をしっかりと確認することなく彼女は一つのパンを手に取り、紙袋をハインツに返す。
その代わりにハインツは水を入れたコップを彼女に差し出す。
そうしていつもの食事が始まる。ハインツにとっては遅い昼食、ジャスティーヌにとってはいつもの朝食だ。
「そう言えば、お前、今日も鍵かかってなかったぞこの家」
「ここら辺の治安は良い大丈夫だ」
「いや大丈夫ではないだろ」
実際にジャスティーヌの住む地域周辺の治安はかなり良い部類と言って過言ではない。
「私には何も起きていない。ほら大丈夫だろ」
「……はいはい。次からは気をつけろよ」
「ふっ」
なぜか勝利した顔でハインツをみる彼女。
「それに、お前が部屋の前でゴソゴソしていたら怪しいだろう」
「鍵はあるから、すぐに入れる」
「おっとそれはそうだなぁ、痛いところをつかれた。ただこれでは共同生活を営む夫婦のようではないかね」
彼女がわかりにくい冗談を言い出したと思いハインツは他の話題を切り出す。
「昨日、使ったから補充を頼む」
「……無視か。で、何割くらい?」
「二割使った」
「なら待ってる? そんなに時間かかんないと思うけど」
「いや、また明日でいい。食べたら帰る」
パンを咀嚼しながらハインツは答える。彼女はもう食べ終わっている、小食の割には食べるのが早い様だ。
「腕の調子は?」
「問題なく動くよ、誰かさんの整備のいいおかげだ」
「なんだお世辞か。目的はなんだ。私の体か?」
「い る か !」
身体をくねくねしながらおどけるジャスティーヌにハインツは即答する、少し顔が赤くなっているが。
「そういえば、最近は学院に行っているのか?」
話題を変えるためそして仕返しにならないかと思ったのだろうか、彼女の話題に変える。
「行くと思うの?」
「まあ、そうだよな。でも三年目、今年で最後だろ少しぐらいは顔を出しておいたらどうだ。ってかそもそも卒業できるのか?」
「卒業は出来るさ、試験は満点だからね。顔を出さなくても月一で担任に手紙を書いている。それで出席扱いだよ」
この少女はハインツと同年齢ではあるが学生である。そしてロンディニウム高等機関学院の中でいやこの都市の中で随一の天才と言われている。そのせいか彼女は入学後少し学園に通ったと思ったら引きこもり生活をしだしてしまったのだ。だが学院も卒業生の名前に彼女が欲しさに黙認してしまっているのだ。
「そうかい。本当に頭のいいことで……」
「ええ、買い物も君がしてくれるからね」
幸運か不幸か彼女の家は旧貴族家で彼女はそのご令嬢であるのでお金はあるし、両親も放任主義なので特に文句を言われないらしい。
「昔っから結構こうやってパシられてた気がする」
「君の頭の悪さも昔から変わらないね」
彼女に比べたら人類の九割九分九厘が頭の悪い人間になるだろう。
「うるせえ、余計なお世話だ」
この二人の関係は一言でいうなら幼馴染である。それこそ二人がこの都市に訪れる前からの。
「でもさ最近、俺は思うんだよ。卒業とかさそういった節目って大事だって」
急に少し真面目になりハインツは言う。
「そういった物があるからさあと一歩、もう一歩と頑張っていけるんじゃないかってそう思うんだよ」
ジャスティーヌは何も言わない。彼の言葉を真剣ではないがしっかりと聞いている。
「そしてその節目まで来たら今までのことも悪くはなったのかなって思えるんじゃないかと思う。だから――」
「お前は卒業しろよって? それ昔も同じことを言ってたよ」
「……そうか。本当に俺は頭悪いのかな、覚えてないわ」
「女性との話を覚えていないのは紳士失格というやつだよ」
「大丈夫。俺は紳士なんてガラじゃないから」
すぐに二人の会話は軽口へと変わる。この距離感も二人の長い関係のたまものだろうか。
「さて、もう俺は行く」
「そっ、私も研究でもしますかね」
ハインツが立ち上がると、ジャスティーヌももぞもぞとベッドから這い出てくる。
「何を作ってるんだっけ……歩数計?」
「違うわよ。計算機」
「1+1?」
「喧嘩売ってるの?」
「でも、計算ってそういうことだろ?」
「まあ、そうだけど君の言うような初歩的な計算をするためのものではないわ」
「……よくわからん」
実際に彼女の作ろうとしているものを前にしたらほとんどの人間が有用性と将来性を理解できないだろうが、ここでは関係のない話だ。
「それでいいのよ。君は、それで」
彼女が微笑む。彼にはなぜ微笑んだか理解できなかったがよくあることなので気にはしなかった。
「へいへい、俺はバカですよ」
「そういう、意味ではないんだけどな」
この二人の関係は一言でいえば幼馴染であるがそれ以外にもある。それは碩学たる少女とそして――
「じゃあ、そういう意味だよ」
「黒い影である君には、正義の味方である君には理解する必要ないということさ」
ハインツ、彼こそこの都市を騒がす。噂の正体、黒い影その人である。
彼は何かの政治思想があるわけでは無い。ただ議会派の人間の幅は広く下層の犯罪に走りやすい人間が多くそういった者を見すごすわけにはいかない。結果見事に勘違いされてしまった、それだけだ。
「――」
二人の間に一瞬の沈黙が流れる。
「そうか、お前がそういうなら信じよう」
「それがいい」
ハインツはコップなどを下膳し、紙袋をゴミ箱に突っ込むと帰り自宅をする。
「じゃあ帰る。蒸気圧を上げるの忘れないでくれよ」
「わかってる、わかってる」
「次は一発で起きてくれよ」
「……」
「せめてなんか言え」
「また明日」
「はぁ……また明日」
それが二人の挨拶だった。
二人の関係は正義の味方とその頭脳といったところであろうか。
ハインツがジャスティーヌの部屋を訪れていたのと同時間。
ロンディニウムのとある倉庫。
「これが、これが僕の! 僕だけの《機能》!」
「ああ、そうだとも。それは君のものだ。君だけのものだ」
一人の少年に一人の青年。
何本ものナイフの刺さった木でできた人形を見つめながら興奮する少年、その後ろで青年はただにこやかに微笑む。
「本当に支払いはいらないんだな」
「ああ、こちらから君に要求することはただ一つだ」
ごくりと少年が唾をのむ音が聞こえる。
「遠慮なく、偽りなく、自分の意志の赴くままに行動せよ」