正義の味方
蒸気と排煙に覆われた都市がある。
数多の蒸気機関により飛躍し、栄光を掴んだ都市。
煉瓦やモルタルによって作られた美しい建造物。
綿密に練られた都市計画により整った外観を持つ街並み。
だが、その姿はけぶってしまっていて本来の美しさを大きく損なっている。
その都市の名は――
――ロンディニウム
今、多くの人々が集うこの都市に一つの噂があった。
――黒い影
この都市で争う、二つの政治思想集団。
議会派と王政派。
名前の通り議会制と王政のどちらを支持するかによって分かれている。
その王政派にして闇に紛れ多くの議会派を言葉の通り葬ると噂される人物。
それが黒い影。
顔は黒いフードに隠れ仮面をかぶっているとされる。
だが、この人物には付随するもう一つの噂がある。
それは、この影はこのロンディニウムの悪を討ち、弱きものを救い、正道を為す。
――正義の味方であると
ロンディニウムの路地裏、そこに三人の人影があった。
一人は猫背になり乾燥した手をこすり、へこへことして他二人の様子を窺っている年若い男。
そしてその二人はというと夜なのにサングラスをかけ、黒いステンカラーコートを見にまとった、明らかに堅気には見えない長身の男達。
「おい、今月の売上は?」
「は、はあ、あの……その……」
「なんだ! はっきりと答えろ!」
猫背の男のうだうだとした反応にいらだったのか長身の男は声を荒げる。すかさず隣の男が肩を押さえいさめる。この三人の集まりが邪なものであるために静かにしろと言わんばかりに。
「その……需要と供給と申しましょうか……うちの顧客が、みんな卒業と同時にこの街を去っていったものが多くて……」
「で」
怒気をはらんだ声、先ほどのように荒げてはいない、ただ静かに嵐の前の静けさという言葉がピタリと合いそうな声。
「今月の支払分は……ない……です」
その瞬間、二人の男の瞳が細くなり猫背の男を睨みつける。幸運なことに男たちはサングラスをかけていたためその鋭い眼光を猫背の男はしっかりと見ることはできなかった。もし、見ていたら男はその場で失禁して倒れていたかもしれない。
「今月で半年だ。半年間も払えないようではお前は使えない。残念ながらお前との関係もここまでだな」
「ま……まってください。今月、今月こそはなんとしても!」
去ろうとする男二人に泣きそうな顔になりながらなんとか追いすがる猫背。
「今月は新入生が至る所からこのロンディニウムに集まってきます。そうすれば、絶対に」
「ウゼェ」
「今月、いや今までの全部まとめて――えっ――」
「ウゼェって、言ったんだよ!」
「ひぃぎゃ!」
男の拳が猫背の顔面に向けて放たれる。
一撃で猫背は背中から地面に倒れ伏してしまう。
鼻は折れてしまったのか、血が出てしまっている。
「おい」
「大丈夫、殺さない程度にする。おまえもいいかげんコレうざいだろ」
「……それもそうだな」
それから二人の男による暴行が始まった。
いや、もはや相手は人ではなく物として扱われた。
ならばこれは暴行ではなく破壊と呼ぶべきそういった有様であった。
何回目、いや何十回目かの蹴りを入れた時、風向きが変わった。
「やめたまえ、力あるものよ」
声。
そう声だ。
男たちの頭上から声がする、何者かがいる。
男たちも猫背も一様に視線を向ける。
「弱きものに、その力を振るうべきではない」
建物の上、排煙により阻まれるものの微かな月光がさす中、一人の男がいた。
黒いフードを被り、そのままその布地は彼の背後ではためくマントとなっている。
そしてフードの下には奇術師のような仮面をかぶっている。
「そして、その力をもって他者を蹴落とすべきではない」
男たちは皆、口を開けなかった。
何故なら一つの噂を思い出したから。
「く、黒い影……」
誰かがその言葉をつぶやく。
すると黒い影はその場から、四階相当の建物の上から飛び降りた。
「なっ……!」
蒸気が路地に充満する。
噴射されたのだ圧倒的な蒸気が、黒い影の脚に着いた謎の機械から。
その蒸気で男たちは目をくらまされ降りてくる黒い影に何もできなかった。
だが蒸気を噴出した目的はそこにはない。たんに落下にかかる力を軽減させるために放ったに過ぎない。
ストンと小さな音だけをたて、黒い影が路地裏に着地する。
「う、うわぁぁぁぁっぁぁっぁぁぁ」
男が叫びながら懐に忍ばせたナイフを引き抜き着地した黒い影に襲いかかる。
彼は議会派の人間であった。そんな彼には黒い影の噂は耳にタコが出来るくらい聞いていた。そんな彼には空から降りてきた黒い影は自分の魂を刈り取りに来た死神のように見えていたのだろう。
「遅いな、俺を捕らえるには」
黒い影がしゃべったかと思うと、再度噴出音とともに蒸気が放たれその勢いで振るわれたナイフを避けた。
「――!」
男は自分のナイフが外れたことを悟る。
だが、戦闘において初手の重要性は群を抜いているがそれだけで勝敗が決するのではないことも重々理解している。
ここから二手目、三手目の切り返しでまだ勝機はあると考えていた。
――残念なことに二手目を放つ機会はなかったのだが
もう一人の男は目を見開く。
振るわれたナイフを避ける黒い影の動作もだがそれ以上に、影がまとわりつくかのようにナイフを振るう手をつかみ取りそのまま男を投げ飛ばしたその動作に驚嘆したのだ。
そう黒い影は男の力をそのまま利用し投げ飛ばしたのだ。この場では黒い影以外は誰も知らないがこの少々特殊な武術をバリツという。
その時、男はもう一つのことに気付く。
黒い影の右腕それが、
(金属――鋼鉄の腕?)
鋼鉄でできた義手であるということに。
ゆらりと投げるために崩した姿勢を正しながら黒い影が男を見る。
そして男も気付く、次の獲物は自分であると。
逃げるか倒すかどちらにしてもこのままでは埒があかないと判断したのだろうか、男は自らの武器を構える。
ただ右腕を掲げただけだった。
だがそれで充分、それだけで男の臨戦態勢は整う。
男の右腕の中には特殊な機関が埋め込まれている。
――《機能》
この都市の住人が、機関を埋め込んだ住人が使える特殊能力がある。
根本的に《機能》が使える人間とそうでないものの差はあるがこの世の新世代の魔術師と称する者もいるほどだ。
(なんとか……逃げ出す、方法を……)
男の《機能》は発火能力だった。
そしてその力でどうやってこの場を切り抜けようかと考えている。
だが瞬間、黒い影が自らの義手その肘の部分に埋め込まれていたレバーを左手で二度引いた。
「し、しねぇぇぇぇぇ――――――! ! !」
男が叫ぶ、先ほどの黒い影の行動を何かの攻撃だと思い男も自らの《機能》を全力で発動させた。
この路地一帯を炎が包み込み、黒い影どころか仲間の男ごと燃やし尽くす、はずだった。
「えっ?」
だが、何も起こらなかった。
あたりを焼き尽くす炎舞も、黒焦げになった焼死体も。
あるのは黒い影の義手からなる小さな駆動音だけ。
「なにが……」
男は自分の力で黒い影が倒せない可能性は考えていた、だがそもそも《機能》が起こらないなど創造の埒外であった。
「この義手は俺の天才が魔改造したものでな。内蔵機関を駆動させると《機能》の発動を妨害出来るんだ」
そうして黒い影が男に近づいてくる。
やはり姿は死神のようでさえあった。
呆然とする男に手刀を叩き込み昏倒させる。
そして地面に這いつくばっている、猫背の男に声をかけると。
「おまえ、この男たちの商品を売りさばいていた鼠だな」
猫背の男にとっては自分の命の危機なのだ。
コクリコクリと全力でうなずくしかない、今の蹂躙を見て嘘を言う胆力は彼にはないようだ。
「金のためか。脅されてか。たとえお前にどんな理由があろうとも、お前は、してはいけないことに加担した――」
黒い影は猫背の男に近づく。
猫背の男は這う這うの体で逃げようとする。
だが、
「――反省せよ! ! !」
黒い影の一発の左拳で男の意識は刈り取られた。
十分後、警察のかけつけた路地裏には三人の男が気絶していた。