第五話 僕とスプラッシュ危機
「今日から新しく仲間になった、まりちゃんだよ。皆、仲良くしてね。んじゃ、せーのっ」
「「まりちゃん、これからよろしくね」」
先生の掛け声とともに体操座りをした園児たちが、一斉に叫ぶ。
先生の横にいるのは、二つ結びの小さな女の子。
自分の服の裾をぎゅっと掴んでいる。
「まりちゃん、お返事は?」
「……よろしく、おねがいします」
先生は満足そうに頷くと、その女の子を園児たちの群れに返した。
そしておもむろにピアノの前に移動する。
「ふふ。じゃあ、皆立って。一緒に歓迎のお歌を歌おう」
あれが始まるのか。僕は若干うんざりした気持ちになった。
先生の指が鍵盤をはじく。
「「おおーきなくりのーきのしたでぇー。あーなーたーとわたーしぃ」」
園児たちは思い思いに叫ぶ。
そこに、上手いか下手かなんて関係ない。
重要なのは、魂だ。
僕はここでの二年間でそれを思い知った。
「「たーのーしーくあそびましょぉ」」
僕はチラリと、まりちゃんの様子を窺った。
まりちゃんは、ぽつんと皆から離れていた。
人見知りは健在のようだ。
まりちゃんは僕の視線に気付いたのか、振り向く。
目が合う。
丸い目が、また丸く開かれる。
「「おおーきなくりのぉきのしたでぇー」」
お隣の女の子、光坂まりが、この幼稚園にやってきた。
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夏の間、この幼稚園ではお昼ごはんの前にプールの時間が設けられていた。
水しぶきの上がる中、子供の高い歓声が響く。
「ほほぅ。その子がありまのいってた子?」
通君がふちにぶら下がるような格好で、ビニールプールの中からこちらを見ている。
にひにひと笑っている。
「ほほぅ、ほほぅ。カップル?」
「違う」
僕は即座に言い返す。どこで拾ってきたのか、最近通君は「ほほぅ」が口癖だった。
同じ組の仲間にも同じようなことを言われ、散々からかわれた。
まぁ。確かにそうとしか言えない状況にあるけど。
まりちゃんが、僕の腕にしがみついていた。
あのあと、まりちゃんは真っ先にこっちにやってきて、僕の後ろに隠れたのだ。
知り合いのいない中、唯一顔を見知っている僕に安心したらしい。
それからはずっと、この状態だ。
トイレにまでついて来ようとした。
因みに先生はそんな僕らをみて、
「……初恋は叶わない」
なんていってた。先生、それ、園児にいう科白じゃありません。
「ところでありま、泳がないの? 水着きてるのに」
「泳げないんだよ」
そう言うと僕は、傍らのまりちゃんに話しかけた。
「まりちゃん、プール入ろう?」
「やだ。水怖い」
僕の提案に物凄い勢いで、まりちゃんは首を横に振った。
「ね。僕ひとりで入るってわけにもいかないし」
「なるほどー」
通君は、口をすぼめた。
ちぇ、ちぇ、と舌打ちが出来ず、繰り返し声に出しながら、水のなかにゆっくりと沈んでいく。
一緒に遊びたかったらしい。
その時。
「どぉおおおおん!!」
叫び声と共に、一人の男の子が通君の後ろに腹から飛び込んだ。
「プールに飛び込んじゃいけませぇぇえん!」
後から先生が慌てたように叫ぶ。
豪快に水しぶきが飛ぶ。
また、それを被った彼女も叫んだ。
「み、ぎゃぁぁぁぁあああああああ」
まりちゃんは猫のように叫ぶと、後ろにびょんと飛んだ。
僕の腕を放すと、プールとは反対方向に走って逃げていく。
その先には、台車でもってお昼ごはんを運ぶセンターのおばさんがいた。
「危ない!!」
僕は慌ててまりちゃんを追いかける。
台車の上のあの鍋にぶつかれば、プールの水ほどの騒ぎじゃすまない。
スープを被って火傷するだろう。
あの日、通君が言った言葉を思い出す。
「だったら……」
また、守ればいい。
俯いて走っていた彼女は、僕の声に気付き、前を見る。
障害物に気付く。
おばさんも、走ってくる彼女に気付く。
でも、間に合わない。
僕の魔法も間に合わない。
上級者でもないし、魔法陣も持ってないから。
僕は走る。小さい足は一歩一歩が大変だ。
通君はこう続けた。
「おれのあねき、よわっちぃの。その癖、わたしはおねぇちゃんだからって言って、おれを守ろうとする」
弱くても。
「いつも失敗するんだけどね」
何度失敗しても。
「それでも、おねぇちゃんだからって、またおれを守ろうとするの」
諦めずに、守ればいい。
弱いなりに。
「まりちゃん!」
僕はそう叫ぶと、まりちゃんに飛びついた。
まりちゃんのお腹に腕を回すと、そのまま足を挙げて、全体重を後ろにかけた。
視界が反転する。空が見える。
一瞬のスローモーションの後。
背中と頭が、地面に激突した。
痛い。くらくらする。
体が動かないので視線だけで、僕の上に乗るまりちゃんを確かめる。
彼女は何が起こったか分からないようだった。
「ありまーっ」
顔を真っ青にしながら、先生と通君が走ってくる。
に、と歯を見せて僕は笑った。