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第1話 「底辺研究室」

 机に叩きつけられた紙の束は自分の書いた論文の下書きだ。目の前の中年の男……教授は眉間に皺を寄せて怒鳴り声をあげる。

「ムジカ!まだお前は研究成果を出せないのか!」

 私、ムジカはひしゃげた下書きから名残惜しそうに目を離して唸った。

「実験はしてるんですけどなかなか難しくて」


 私の卒業論文のテーマは「音の視覚化における心身への影響」。簡単に説明すると、そこかしこに溢れている音に外からエネルギーを注いで目に見える状態にしようというものだ。我ながらこの発想は悪くない……そう思っていたのだが。


「実験してても結果が残らないから困るんじゃないのか!」

 とまあこんな感じに今絶賛行き詰っている。論文発表会は一か月後。それまでにこの実験を成功させなければ留年が決定してしまう。

「もう一度実験手順を確認してやってみます」

「もう次が最後のチャンスだぞ」

 書いたのが何度目か分からない下書きを半ば投げつけられるように渡されて、教授の部屋を追い出されてしまい思わずため息を漏らしてしまった。



 私の通うこの大学は国内で有数の偏差値を持っているわけでもなく、しかもその中でもこの研究室に入ってくる者はみんな変人やら何やらと噂されることが多い。私も例に漏れず自分がまともな人間だとは思っていない。


「なんかいつもより調子悪い?」

 学生食堂でラーメンを突いていると声をかけられた。彼の名前はユーリだ。彼は私達が高校性の頃からの知り合いで何かと世話を焼きたがる面倒臭い奴だ。

「それはフォークで食べるものではないと思うよ」

 トレーを片手で持ち、空いた左手で私の食べているとんこつ醤油ラーメンを指差す。言われなくても自分が周りとずれていることくらい分かってる。奴の指摘をするりとかわしてメンマをフォークで突き刺した。

「調子が悪いだなんて一言も言っていないはずだが」

 食堂は時間帯の関係もあって空いているのだが、ユーリは勝手に私の座っている正面の椅子に相席する。どうしてわざわざ目の前に座るんだ。友達もいないのかこいつには。

「眉間に皺がいつもより深いから。もしかしてまた論文だめだって?」

 痛いところを突かれてフォークを持つ手に力がこもる。私が返事をしないでいると正解だと思ったのか、自分の皿に乗っている苺をすっと私がフォークと一緒に持ってきたレンゲの上に置いてきた。余計なお世話だ。

「……ありがとう」

「もう一か月も個室に缶詰じゃないか。お母さんもきっと心配している。久しぶりに帰ったらどうなの?」

「そんなこと出来たらとっくに実行している。私も家のベッドが恋しいし、それに買ったまま放置されているゲームに手をつけたい」

 レンゲの上に乗せられた苺をちらちらと見ながら麺をすする。もうすでに三時限目の講義が始まっている時間帯なので静かな食堂にズルズルとすする音が響いていた。


 確かに家には帰りたい。だが目の前の課題を放置するわけにはいかない。

「……もしこのあと、時間が空いていたら実験を見ていくか?」

 目の前の男は優秀な成績を修めているらしい。その上に私が手こずっている論文の課題ももうすでに完成しており、あとは卒業するだけとなっているのだ。こいつならもしかしたら解決の糸口を見つけてくれるかもしれない。

 断腸の思いで捻り出した誘いにユーリはニコニコと笑って手を叩いた。

「今日はもう受ける講義はないし、ムジカがそう言うのならお邪魔させてもらうよ」

 その屈託のない笑顔に少々イラついたことを本人には言わないでおこう。


 苺は悔しいくらいに美味かった。



 窓から差し込む陽光を浴びながら私とユーリは長い廊下を歩いていた。左側通行で床が動く道なのだが私は毎回この動きは遅すぎると思っている。何度か教授に文句を言ってやろうと思ったくらいだ。学生のほとんどが立ち止まらずに歩いているところから、魔力の無駄遣いをするくらいならその経費を学生に還元してほしいと考えている者は私以外にも存在しているはずだ。

「ここだ」

 ひとつのドアの前で立ち止まるとユーリも少し遅れて歩みを止めた。

「こんな辺鄙な場所になくってもいいのにね」

「どうせ底辺研究室ですよ」

 私の名前が書かれたプレートの上に浮かんでいる発光体に何回か規則的に指を滑らせると錠の開く音がした。ドアノブをひねって中へ招き入れる。


 狭いと感じるのは壁中に配置された実験台と薬品やサンプルが置かれた戸棚に囲まれているかもしれない。一つしかない小さな窓を隠すように手入れのされていない観葉植物が伸びているため部屋の中は薄暗く、空気も十分に入れかえられていないのかぼんやりと煙が充満していた。

「申し訳ないがそこにある椅子を自分で引っ張り出してくれ」

 私は戸棚からビーカーを取り出して実験台の上に置いてある瓶から透明の液体を注いだ。そして胸ポケットに入っていたマッチで底を温めると一瞬で液体が赤色に染まった。

「ほら飲め」

 湯気の立つビーカーをユーリに突きつけると奴は両手でそれを受け取り、匂いを嗅ぐ。

「薔薇のお茶とはムジカって意外とお洒落さんなんだね」

 たちまち広がる薔薇の香りにユーリはうっとりと目を閉じる。私は馬鹿にされたような気がしてそっぽを向いた。

「じゃあ始めるぞ。飲みながら見ていてくれ」

 私は胸ポケットから取り出したペンライトで実験台を何度か叩くとスイッチを押して宙に文字を書きはじめた。

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