正義と平等から見る主観性と客観性についてのレポート
前 説:先日、ほぼ自分が知らない人と集まり、お話をいたしました。その際、「金」特に「税金」ついて討論しました。その際、出てきた一つに累進課税制度というのが出てきました。まあ、どんな制度であるかの説明を書けば、いろいろと面倒なことになるので、あえて抽象的に、かつ私のこれから文章に都合よく紹介するなら。現代の社会に倫理的「平等」を構築するために、不「平等」な「正義」の制度。と言えます。では、ここで出てきた「正義」とか「平等」とは誰が定義したものなのでしょうか? そこで出てくるのが、主観的事実と客観的事実です。
本文①:前説からなんとなくわかるように、現在の税制というものは国民が平等になるための制度です。裕福な者から税金として金を集め、貧困者にその分を社会保証として金を渡す。とても倫理的ですね。しかし、ここで重要となるのは平等のためにと銘打っているのに本当は平等ではないという社会的ジレンマがここで発生していることです。単純な平等を考えるのなら全員から同じ量の税金を徴収し、そして全員に同量ずつ配布する。でも、現実は不平等であります。裕福な者は沢山取られて、貧困者は沢山貰える。待遇差がある以上、これは平等とは言えません。つまり、さっき書いたとおり、これらの税制は「正義」の制度なのです。
では、前説の疑問に戻りましょう。「正義」を振りかざすにはどんな定義が必要なのか? それが問題ついて考える者の視点の設定です。例えば、貧困者から見れば、先ほどの例の税制は「正義」と言えます。また、裕福な者から見れば、「正義」とは言えません。戦争なんかはとてもわかりやすい例です。A国は他国の土地を奪うことで、自国の経済を改善させたいという「正義」を持って戦い、B国は他国に自国の土地を荒らされることを防ぐためという「正義」を持って戦います。これは自然なことで、当たり前のことです。
話がズレましたが、私が述べたいことは「正義」には主観性が付きまとうということです。なぜなら、自分の「正義」を定義する際に、自分の視点「主観的視点」で決定するのですから。
本文②:次に近代から叫ばれ始めた「平等」についてです。ここでわかりやすく有名な例を出して、「正義」と「平等」の違いをはっきりさせておきましょう。
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ある三人兄弟(C君D君E君)がいます。C君は長男で身長が180cmです。次男のD君の身長は150cm。末弟のE君の身長は120cmです。彼らは三人で、スポーツ観戦に行きました。しかし、前の客たちが150cmの壁を作ってしまい、D君とE君には見えませんでした。そこに30cmの台を三つ持つ人が現れて三人に貸してくれました。
この時、C君は台を使わず、D君は台を1つ使い、E君は台を2つ積み重ねて使い、全員の身長を180cmに揃える。これが「正義」にあたります。
対して、三人に1台ずつ使わせ、E君は見えないまま。これが「平等」にあたります。
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これはとてもわかりやすい例で、「正義と平等の違い」を明示できます。でも、中にはここでの「正義」の行為は「正義」ではなく、結果的な「平等」を追求した行為なのでは? という意見をするものがいます。その通りであり、これは全員が180cmの目線になるという結果的平等を引き起こしています。でも、そもそもC君の身長が高くて、E君の身長が低いに優劣がつけられるのでしょうか? この時は確かにC君が有利なのは事実ですが、それ以外の状況ではC君が必ずしも有利とは言えません。私がこれに対しての反対として言いたいのは『ここでの「正義」は「主観的」に身長が高い方が有利と決めつけ、その「正義」を元に行動したのでは結果的な「平等」を生んでいても正義の行為』つまり、どんなことを言われても、前者の行動は「正義」の元の行動なのです。
話がまたズレてしまいましたが、本文①とはことなり、「平等」とはなんなのか「正義」と対比しながら考えていきましょう。ここで、出てくるのは「客観性」です。多くの宗教の教典には大体こういうことが書いてあります。「人々はみな「平等」なのである」と。つまり、神目線「客観的視点」で「平等」というものが決定されるということです。
考 察:前の本文で、「正義」の定義には「主観性」が、「平等」の定義には「客観性」が必要だと述べました。ここで考察すべきは、「主観性」や「客観性」が生まれてしまう要因です。例えば、この世に生きる人間が全員「客観性」を持っているのなら、「正義」は生まれません。また、その逆も然りです。では、共存は不可能なのか? という話を考えたい。
まず、私個人の見解としては、共存は出来うるが、それは共存というより新しい見地の想像に近い。どういうことなのか、それは『とある「主観性」をあるグループ内でシェアしてそれを自分の視点することができれば、もはやその「主観性」は一般化され一種の「客観性」になりそこに「平等」が生まれるから』です。非情にわかりづらいので前説の税金の例を出して解説したい。
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裕福な者な人の集合Fと貧困層Gと中間層Hがいたとして、現在状況(現在の税制)だとFは平等ではないといい、Gは平等だといい、Hはやんややんや言っているだけの状況です。ここで、FGHの意志つまり「主観性」が「どんな金を持っていても、貧困者に渡し、全員の生活水準に差をつけないようにすべきだ!」というものに変われば、現在の状況はみなが納得しているので「正義」の制度であるのに、「平等」でもあると言えます。
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実はここで言いたいことは「平等」に必要なのは「客観性」ではなく「『全体意志』の統一」なのです。人間は神ではない以上、完全に客観的になるのは不可能です。つまり、「客観性」とは「一般性」とも言え、「一般性」の根源になるのが『全体意志』になるのが当たり前です。もう一度、書きます。「平等」に必要なのは「客観性」ではなく「『全体意志』の統一」なのです。
発展①:「正義」を「平等」とも言える状況にもするために必須である「『全体意志』の統一」に必要なことは? それは価値観が同じであることや民族性が同じであることなど、いわゆるナショナリズムに近いものに依存しやすく、民族や土地などの物理的なモノで固まったり、はたまた宗教や歴史などの感覚的なモノで固まったりすると言える。例をあげるのなら、イスラーム教がわかりやすいと思う。イスラーム教には喜捨というルールがあり、貧困者に余裕はあるものは寄付するというものであるが、これはイスラーム教内では常識であり、つまり『全体意志』が喜捨というものが常識であると統一されているのだ。だから、これが不平等であっても、彼ら教徒からすれば平等であると言える。
発展②:「『全体意志』の統一」に必要な条件とは? 発展①で述べたことは、あくまでなりやすいという傾向であり、そうはならないことも多い。私の住む日本では限られた土地にほぼ同じ日本民族が住んではいて、日本人という自覚 (ナショナリズム)があるがそのナショナリズムにいわゆる不平等を認める規則や考え(喜捨など)がないため、不平等という結果が浮き彫りになる。では、この日本にイスラーム教などの宗教を発展させればいいのか? それはほぼ不可能である。特に今例に上げている日本の民族は無宗教というのが、もはや宗教のようなモノになっていて新しく入荷したり構築したりは不可能に近い。そこで、出てくるのが「教育」である。「教育」ならば、このような不平等と言える考えを「平等」と教え込むことができる。また、話はズレるが「教育」は他に将来な的な関心、特に政治や経済へのものを教え込むことができる可能性を秘めている。
結 論:現在社会の正義と平等から主観性と客観性を比較することができる。また、平等というものは実は客観性に基づいたものではない。
感 想:今回、某企画により、気分が乗りましたので書きました。かなり意見として断定的であったり逆に曖昧であったりする部分がありましたが、あくまでも個人の意見なので、賛否は問いません。また、私は正義が大嫌いです。正しくは、現代が主観性を置いている水準が嫌いです。かなり正義というものを正当化するべきだ! という文章に見えたのかもしれませんが、本心は異なります。