氷雪の魔女姫といっぴきのねこ
昔々、雪の降る静かな夜に、一人のお姫様が生まれました。
髪は星々を抱きしめる夜のように黒く艶やかで。
瞳は凍りついた湖を思わせるアイスブルーに澄み切っていて。
肌は静けさを降らせながら姫を祝福する雪から与えられたように、白くなめらかでした。
姫様は愛らしい幼さと純粋さをそのままに、すくすくと育ち、辺りで評判になっていきます。
けれど、姫様はどうしようもなく、あまえんぼでした。
例えば、姫様はいつでも母である女王様に抱きつきたがっていたのです。
女王様は、王族である姫様も立派に育ってほしいと、厳しくしたつもりです。テーブルマナーに社交ダンス、お化粧にお勉強も、本当に幼い頃から、優秀な教育係を付けて学ばせていました。
自分のことは、自分でやりなさい。
他人のことを考えて行動しなさい。
女王様はその二つの言葉を繰り返し姫様に言い付け、甘えることを許しません。
あまえんぼな姫様は、女王様に嫌われるのがいやだったので、言い付けを守ろうとがんばります。
でも、言い付け通りに甘えるのをがまんすればするほど、心の締めつけられるように苦しくなってしまい、余計に甘えたくなってしまうのです。
いつからか、姫様から愛らしい笑顔がなくなっていきました。それに加えて、いつでもうわの空で、例えば女王様が声を掛けても返事をしなくて叱られることが多くなりました。
そんな姫様を不憫に思ったのか、世話役の一人が、こっそりと仕事のない時に姫様を抱きしめたり、撫でてあげたりするようになります。
姫様は、世話役の彼女といる時間に幸せを感じていました。
けれど姫様はあまえんぼなので、もっと撫でてほしい、もっと抱きしめてほしいと思うようになります。初めは女王様に見つからないように、世話役の彼女が一人でいる時まで我慢していましたが、次第に、人目をはばからないようになっていきました。
そしてそのことがお城の使用人たちの間で噂になり、女王様の耳にも届くようになると、世話役の彼女は姫様を重荷に感じるようになりました。
さらに、女王様が世話役の彼女に、姫様を甘やかすのをやめるように言いました。世話役の彼女は、それから一切姫様を撫でたり抱きしめたりしなくなります。
急に付け離された姫様は、泣きながら世話役の彼女に懇願しますが、世話役の彼女は女王様の言い付けを守り、けして手を出そうとしません。
それからというもの、姫様は毎晩毎朝、涙を流して枕を濡らします。それまでは使用人が起こしに来るまで起きなかった姫様が、枕の冷たさで起きるようになりました。
女王様はこのことを聞いていましたが、いずれ姫様も強くなると信じて、何も手を下すことはありません。
姫様の胸には、さみしさばかりが降り積もります。それは姫様が生まれた日のようにしんしんと心を覆い、閉ざしていきます。そして自らの重さで溶けだして、時折涙としてこぼれるようになりました。
何もなくともなく姫様を見ても、誰も態度を変えません。
それどころか、その涙を宝石のように綺麗だという使用人までいました。そう思うほどに、姫様の涙は穢れなく見えたのです。
姫様は思います。
どうして誰もわたしを見てくれないのだろう。
どうして誰もこの哀しさを理解してくれないのだろう。
どうして誰もわたしに触れてくれないんだろう。
こんななら、わたしはここにいらない。
こんななら、わたしはだれもいらない。
その日から冬はまだ遠いのに、粉雪がちらつくようになりました。
三日後にはそれが綿雪になり、三週間後には吹雪になりました。
やがて、姫様の部屋が凍り付きました。
それから、姫様が触れたところ、歩いたところから、氷が広がっていきます。
じわじわと広がる氷に触れた人は、みんな凍り付いて氷像になってしまいました。
お城の使用人も城下町の人々も、凍ってしまうのを恐れて逃げていきます。
そうして、お城と城下町には、姫様と氷像になってしまった人々、そして女王様だけが残ります。
女王様は姫様に対して、屹然といいました。
世界を凍らせるのをやめなさい、と。
けれど、姫様にもどうして自分の周りが凍るのか、わかりません。わからないので、やめるもやめないも、どうしようもありませんでした。
でも女王様はこの現象の原因が姫様にあると見抜いていました。それでもお城に残ったのは、母の愛というものでしょう。
女王様は繰り返し言います。
甘えるのもいい加減にしなさい。もう婚約も出来る歳なのだから、しっかりと自分を律しなさい、と。
それでも、姫様にはみんなが凍り付いていくのが自分のせいだとわからないので、女王様の物言いがとても理不尽に思えました。
そしてついに、姫様は泣き出してしまいます。
姫様の涙が、アイスブルーの瞳に溜まれば吹雪がお城を叩き付け。
姫様の涙が、長いまつげに触れてこぼれれば、お城を覆う氷が樹木のように枝を広げて。
姫様の涙が、頬を伝って床に落ちた時、女王様は凍り付いてしまいました。
姫様は、自分を真っ直ぐに見下ろしたまま凍ってしまった女王様が怖くなり、自分の部屋に逃げ込みました。そのままベッドに潜り込み、三日三晩泣き続けます。
そうしている間に、お城はすっかり雪と氷に閉ざされ、誰も立ち入れないようになりました。
これから、この城は氷雪の城と呼ばれ、人々は姫様を氷雪の魔女姫と呼んで恐れるようになりました。
さて、三日三晩泣き続けた氷雪の魔女姫は、ついに涙も表情も心も凍りつき、何も感じなくなっていました。大好きだった雪にも、ちっとも心が躍りません。
それに加えて、三日間も何も食べていないのに、お腹も空きませんでした。
魔女姫は、きっと自分の時間も凍ってしまったんだろうと思いました。
何も感じず、何も考えられない魔女姫は、心も体も軽くなった気分です。ずっと心に染みついていた、ひんやりとしたさみしさがなくなったのは生まれて初めてのことでした。
魔女姫は、もう何もいらないと思いました。この凍り付いた静かなお城だけが、自分の世界の全てでいいと、心の底から思ったのです。
それから毎日、お日様やお月様の光で煌めく樹氷の枝や、どさりと落ちる雪の塊、吹き荒れるブリザードや朝を凍らせる氷霧を眺めるだけの日々を過ごしていきます。
どれほどの年月が経ったでしょうか。
その日、魔女姫は気紛れでお散歩をしていました。深い雪に足跡を付けながら、しかし小柄な魔女姫は柔らかな新雪にもくるぶしほどしか埋まらずに、お城の中庭を歩いてきます。
春には花を咲かせ、秋には実りに枝垂れる木々も、氷枝を伸ばし六花を散らせるばかりです。でも、魔女姫は花の美しさも果実の美味しさも、疾うの昔に忘れてしまっているので、全く気になりません。
あまりに寒くて乾ききった風に弄ばれて、魔女姫の艶やかな黒髪に隠された小さな耳が露わになった時、小さく物音がしました。
魔女姫は、一瞬だけ足を止めますが、気のせいだと思い、すぐにまた歩き始めました。だって、もう随分と長い間、ここには魔女姫しかいなくて、誰も訪ねてきたりしなかったのですもの。
けれど、またか細い音が魔女姫の耳に届きます。
魔女姫がその音を辿って振り返ると、そこには背中が黒くお腹が白いネコが一匹、しっぽを振っていました。
そのネコは魔女姫が振り返ったのを見ると、てこてこと歩み寄ってきました。
けれど、魔女姫は後ずさります。ずっと誰とも触れ合ってこなかった魔女姫には、目の前の生きているものが、とても怖く感じたのです。
それでもネコは魔女姫に近づき、ネコが近づく度に魔女姫は後ろに下がります。
ついに焦れたネコは走り出し、魔女姫も当然のように逃げ出しました。
どうしてだか、銀世界の中でのおいかけっこが始まります。
魔女姫は長年住んだ勝手知ったるお城の中を、隠し通路まで使って駆け回りますが、小さな体の白黒のネコは、ひょこんと先の曲がったしっぽで巧みに使って自在に方向転換して、僅かな隙間を縫って魔女姫を追いかけます。
一人と一匹は、食堂の食器棚を引っ繰り返し、廊下に飾られた騎士の鎧を倒し、本棚から羊皮紙の本を散乱させて、お城中を駆け抜けていきます。
そして魔女姫はお城の屋上に出たところで滑って転び、白黒のネコはその隙を逃さず魔女姫の胸にひょいと覆いかぶさり、頬を寄せました。
すりすりとネコのさらさらな毛並を堪能すると、魔女姫はどうしてか心地良くなり、涙が零れ落ちてきました。
白黒のネコは、一粒、二粒と魔女姫の目尻に浮かび、お日様の光を映しこんで煌めく涙を舐めとります。魔女姫は、ネコのざらざらとした舌の感触がくすぐったくて、思いっきり笑い出しました。
随分と久しぶりな魔女姫の笑い声は、雪の積もる樹氷を揺らして、風花が青い空に流れていきます。
一頻り笑って、涙もすっかり引いた頃、魔女姫はふと不思議に思いました。
どうして、このネコちゃんは他のみんなと違って凍らないんだろう、と。
そんな魔女姫が疑問も気にせず、白黒のネコは先がくにゃんと曲がったしっぽを振って、すりすりと魔女姫にじゃれてきます。
その可愛らしい姿を見て、魔女姫はこのネコちゃんがさみしくないように来てくれたんだと思うことにしました。
ずっと、お城が凍る前から望んでいた存在が逢いに来てくれたんだと。
だから、魔女姫はこのネコちゃんに名前を付けることにしました。
人懐こい子だから、なつ。
そう魔女姫がそう呼びかけると、なつは、にゃうん、と嬉しそうに鳴いて魔女姫の頬を舐めます。
凍れるお城に、始めて魔女姫の嬉しそうな、心からの笑い声が響きましたとさ。
めでたし、めでたし
心に降り積もった雪が溶けて流れ出すから、涙は綺麗なんでしょうか。
冬の童話祭2013に参加しています。応援してもらえたら、うれしいです。