伯爵さまのすきなひと
伯爵さまのお家には、家が埋まってしまうのではという位の大量の薔薇の花がある。
庭に入った途端、強烈な薔薇の香りを嗅がされる羽目になる。初めての人はまず一歩後ずさりをする。確実に。
それでも、私が花粉症だと知ってからは大分減らしたらしい。
そうは見えない上に、私の敵は白樺のみなのだが。
以前、何故こんなにも薔薇の花を植えるのかと尋ねたことがある。
伯爵さまは独り身であるから、花の世話も大変だろうと思ったのだ。
「心配ないよ、アサガオくん。この愛らしい花々は、全て君に愛の言葉をささやく為に用意したんだ。求婚の時は後ろに花も添えたいだろう?」
・・・この言葉でご理解頂けるように、伯爵さまはこういうお方だ。はっきり言うと変人である。そしてこの類の言葉を、色々な女性に安易にばら撒くお方だと言えばより一層理解して頂けるであろうか。
勿論、途中からは全て聞き流しておいた。
そして花の世話はなんと、お金で専門の人を雇っているというのだから、飽きれる他ない。
◇◇◇
伯爵さまに出会ったのは11歳の時だった。
父の古い友人の息子、ということで親同士が話をする間子供は放っておかれた。
遊んでおいで、と言われても、伯爵さまは私より8つ年上である。何をして遊べと言うのか。
お気に入りの簪を意識しながら、私は上機嫌で、しかし少しばかり困って伯爵さまの方を振り向いた。
話題がなく困っていた私は、実に淑女らしい会話を思いついた。
「あの、好きなお花は何ですの?」
すると伯爵さまは強烈な笑みで言い放ったのである。
「大量の薔薇の花と、
君みたいなアサガオかな、東雲お嬢さん。」
どうやら私の苗字になぞってアサガオ、などと思いついたようであった。
当時は初心な11歳である。
そして初心だけあって、私は世渡りというものが出来ていなかった。
伯爵さまの言葉は誰が聞いても中身のないものであったので、私は「はあ、」と首を傾げながら伯爵さまの言葉にナイフを入れたのだった。
「あの、アサガオの異称は東雲ではなく、正確には『東雲草』ですわ。紳士どの。」
その時の伯爵さまの凍りついたような笑顔は一生忘れられないだろう。
今思い出しても笑えてしまうのだから。
細かいことは気にするなと言うように、伯爵さまはそれ以降私のことを頑なにアサガオくんと呼び続けた。
一方の私は、ナイフを入れておきながら伯爵さまのことを完全に気に入ってしまった。
当時父に興奮しながら話したのを覚えている。
「お父様、お父様。今日来ていらしたあの方、とっても素敵ですわ!」
「ああ、息子君を気に入ったのかい?」
「ええ、だって私、あんなにうそ臭い上にぽんぽん嘘を言える節操のない方を見たことありませんわ! 大変格好をつけたがるのですね! それも、美男子ならまだ許されるものの、あの方、美男子だと思えるのは一瞬ではありませんか! ああ、この前読み込んだ恋愛小説に出てくる、菖蒲(主人公)にこっぴどく振られる名もない脇役にそっくりですわ!」
父は顔を引き攣らせてから、そんな事を言うものでないと私を窘めた。恋愛小説は当分の間禁止された。
伯爵さまは、美男子に見えて美男子ではない方であった。
初対面や、一瞬だけだと大変輝いて見えるのだが、中身の残念さも伴って、見れば見るほど熱が下がっていくお顔なのだ。
何て残念な方なのだろうと伯爵さまは私にとって色々な意味で忘れられない人になってしまった。
それから6年は平穏に過ぎ、私は17になり、婚期真っ只中になった。
丁度家族揃って新しい屋敷に引っ越し、そしてそこは伯爵さまの住むお屋敷に大変近い事を知った。
それからは私が押しかける形で、伯爵さまのお家へ度々遊びに行くようになったのだ。
◇◇◇
「伯爵さま、伯爵さま。お茶をお飲みになりません?」
「ああ、いいね。では僕はコーヒーを・・・」
「この前お客様に大変良い緑茶を頂いたの、今淹れますわ!」
「いや、僕は緑茶ではなくコーヒーを・・・」
「少々お待ち下さいね!」
「・・・。」
淹れた緑茶を差し出せば、伯爵さまは苦笑しながら受け取っていた。
「アサガオくん、君は本当に、自由・・・」
またいつもの美辞麗句だと思った私は、伯爵さまの声を遮った。
「そういえば、聞いてください伯爵さま。私、とうとうお見合いが決まったのです!」
6年前と同じように伯爵さまのお顔が凍りついた。笑顔ではないが。私はそれを眺め、思い出して噴出しそうになりながら言葉を続けた。
「日取りはもう少しで決まるそうですわ。両親は好きな殿方が居るのならそちらを優先して下さるようでしたけれど、私にはそんな方居りませんし、お見合いが良いだろうという事で、つい先日決まったのです。」
伯爵さまは止めていた息をゆっくり吐き出しながら、下を向いた。
「そうか、そういえば君は今17だったね・・・。そういう話が来ても可笑しくはないな。」
「ええ、勿論ですわ。伯爵さま、私が既に立派なレディだということを、ご存知ないのでしょう。」
伯爵さまは苦笑してから、ふと真顔になっていつものように綺麗なお言葉を並べるのだった。
「知っているよ、君が何ヶ月か前に僕の屋敷の玄関に現れた時から。あの時は、本当に、僕の女神かと思ったんだ。それからずっと、君が僕の前に現れる時は、胸が高鳴って仕方がない。昔会った生意気なちびちゃんだとは信じられなかったよ。」
普段と同じように中身の無い言葉だと思ったのに、本当に想いがあるように感じて、私は戸惑って、心臓がどくどくと打ち始めてしまった。
焦って、「まあ」と咄嗟に笑顔を浮かべて、緑茶を飲み干した。
「もうすぐ、伯爵さまの戯れの言葉を聞く事も出来なくなるのね。少し寂しいわ。今度会った時、なにかお祝いでも下さいね? 伯爵さま。」
それではと私は着物の帯を整え、立ち上がった。
伯爵さまの言葉を真に受けて本気にしてはキリが無いと私は心臓に言い聞かせ、帰ろうとした。
どうしてこういう時に限って伯爵さまが輝いて見えるのかしら、おかしいわ、輝いて見える初対面の時はとっくに済んでいるというのに。
お見合い相手も輝いて見えると良いわね、などと呑気な事まで考えて歩き始めていたというのに、後ろから聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
「陽!」
アサガオくん、ではなくて。
驚いて後ろを振り向けば。
伯爵さまが手に持っていたのは、水桶で。
何故か手に勢いをつけて、投げようとしていらした。
訳が分からぬまま水桶が当たっては痛いと衝撃を覚悟していたというのに、襲ってきたのは違うものだった。
「・・・・・・へ・・・?」
ぽかんとすれば着物はぐしょぬれである。髪から水が滴っている。どうやら、水桶の中には水もきちんと入っていたらしい。
伯爵さまは悪びれもせずに笑顔で謝ってきた。
「ごめんね、陽。丁度花に水をあげる時間だから、水をあげようとしたら、丁度その方向に陽も居たんだよ。」
「な、・・・」
私が歩いている僅かな時間にどうやったらその行程を行う事が出来るのだろうか。
花の世話は庭師にやらせているのではなかったのか。
そうだ、この人はこんなにも堂々と嘘を吐くひとだったと何度も思ったことをもう一度思い直す。
「ははは伯爵さま・・・?」
残念な伯爵さまは相変わらずの笑顔で喋った。
「陽は前に聞いたよね。僕の好きな人は誰かって。」
水のせいで少しばかり身震いしながら、そんなことも聞いたなと思い出した。
私が遊びに来ると、お屋敷の玄関先で堂々と伯爵さまが女性に美辞麗句を浴びせていたのだ。
うなじが綺麗なその女性は、最初は伯爵さまにぼうっと見とれていたけれど、段々と普通の表情になっていき、最後は親しい友人のように別れていた。
やはり伯爵さまのお顔は見続けたら一瞬で効かなくなるのだなと頷いた。
伯爵さまの綺麗な言葉は、言い慣れているのだろうかと思っていたが、どうやら本当にそうらしい。私だけではなく、誰でも言っているのだなと考えれば、
伯爵さまはこちらに気付いて、真っ青になった。
「ア、アサガオくん。いや、陽。いつからそこに・・・」
「『君の声はまるで鈴が鳴るようだね。可愛らしい。』辺りからですわ。」
すると伯爵さまは一段と顔色を悪くして、
「あの人は友人で、別に僕の恋人とか好いている人とかではないからね陽?」
ふうんと見れば伯爵さまはますます早口になられる。面白くて、じっとりと見てみた。
「聞いてるかい陽?」
では、と試しに口を開いたのだ。
「では、伯爵さまのお好きな方は一体誰なのです? 全ての女性だよとか、薔薇の花々だよ、とかお答えになりそうですけど。」
質問に息を止め、真顔になった伯爵さまが口を開く前に私は彼の傍を通り抜け、確か笑いながらこう言い放ったと思う。
「まあ、私には関係ないですけどもね!」
・・・・・・
変わらずひどい記憶だなと苦笑いして頷いた私に、伯爵さまは近づいてきてそっと私の手を取った。
「その時君は答えを聞かずに駆けていったけど、僕は君の予想したのとは違う答えを言おうとしたんだよ。」
「まさか目の前に居る君だよとかふざけたことを言おうとしたんじゃありませんでしょうね?」
伯爵さまは少しばかり停止してから、違うよと笑って真剣な表情になった。
「東雲 陽さん、お見合いやめて、僕の奥さんになってください。」
は、と乾いた笑いが漏れた。この人は本当に薔薇の花を背後に添えて求婚したようだ。
「ええっと、伯爵さま、婚約したいと思う女性に水を浴びせるものではありません。お陰で寒いですわ。」
「ごめん。他に引き止める方法が思いつかなかったんだ。」
何て残念な人なのだろう。
「・・・今更お見合いを取り消すなんて、難しいですわ。」
「大丈夫。説得するから。」
本当に、色々な意味で忘れられない人なのだ。
色々な、意味で。
「僕が好きな人はね、陽なんだよ。ゆっくりいこうと思ったけど、お見合いなんて冗談じゃないな。」
ああ、残念。
ほんとうに残念。
どうしてこんなに強烈な人が、輝いて見えてしまうのかしら。
「・・・私、こんなに薔薇がある家は好きではありませんわ。」
「じゃ、減らそうか。何の花がいい? アサガオかな、やっぱり。」
お庭の変更に、庭師が泣いているに違いない。
◇補足◇(読まずとも特に支障はありません)
東雲 陽の伯爵さまに対する感情は、
憧憬1割、愛(犬とかに対する)5割、恋3割、執着(11歳の時から)1割。
伯爵さまの陽に対する感情は、
恋5割、愛しさ4割、
「未知の生物みたい」1割。
といったところでしょうか。
変人度合いは陽の方が上って事は、伯爵さまだけが知っている。