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第八譚

 借り物競走のラストスパートに入ろうとしている。

「頼むから銀朱『あぶらあげ』と話くらいはさせろよ。そうしないと絶対にお前兄貴に嫌われるぞ」

 石段に座っていた銀朱は、俺の言葉にピンと耳を立てて不快を示す。文句を言おうとしたようだが、何も言わずに飲み込んでみせた。

 了解ということなのだと、勝手に判断した。

 こいつはただ、本当に兄貴が心配で愛おしくてしょうがないだけだ。

 柚香の気持ちを優先してやりたいけど、兄貴を思う姿を見せられたら無碍にもできない。

 とんでも無く一方的で、正直迷惑だと思ってはいたけど、俺は銀朱が行動してくれなければ神様を信じることも、価値を理解することもできなかったのだ。

 そこのとこは、感謝しておくべきところだと思うのだ。

「しかしどうする気だ。お前ができることなどそこの小娘の垢ほどないのだぞ」

「そりゃ、俺は正真正銘……ただの人間だからなぁ。神様を宿して日本刀振り回して俺を迎えにきたり、問答無用でひとを神隠しに合わせて踏んだり蹴ったり酔って襲ってきたりはできないよ」

 俺の言葉に銀朱と柚香は同時にむくれてみせた。

 どこかこの二人似てるなぁ。

「それでもやっぱり『柚子』だから、『あぶらあげ』を呼ぶことができる、唯一のひとの子のはずだから」

「お兄様に──願うのか」

 銀朱はすぐに俺のやろうとしている事を理解したようだ。

「銀朱が帰りを待ってて、柚香は一緒にいたくて、俺も……お前を視てみたいってそう言って相談してみる。全部叶えてくれるかは分からないけど、『あぶらあげ』じゃなきゃできないし、できる気がするよ」

「お兄様を信じているのか……お前が」

「俺はどこかのドS稲荷さんに、神様を信じるよーに教育されたもんでね」

 銀朱がさらに頬を膨らませたので、その頬へ指をやって空気を抜いてやった。

 柚香へ視線を投げる。

 「大丈夫、やってみようよ」と肩をポンと叩くと、するりと力が抜けてしまったかのように柚香も石段に座り込んでしまった。

「……『あぶらあげ』、私が中学に入る頃からほとんど出てくることはなくなっちゃったの」

 っていうと、俺が小学四年とかからだろうか。

 あの頃から俺はいっぱしに家業を否定しはじめていた。

 銀朱にも告げたように俺は心の中だけでなく口にして『あぶらあげ』を否定していた。

「祐喜がいなくなって、『あぶらあげ』が死んじゃうんじゃないかって怖かった。でも銀朱に神隠しに合って、その目的が『あぶらあげ』を連れ戻すことだって知って私、邪魔することしか思いつかなくて……」

 柚香は俺の手をぎゅっと握りしめた。

「分かってる。大丈夫だよ」

 柚香の目から涙が落ちる。

 石段が涙を受け止めた。

「『あぶらあげ』は柚香の願いはもう叶えてくれないかもしれない。でも、俺の願いはまだ叶えてないはずだし。だから柚香が『あぶらあげ』と一緒にいたいって思いを叶えてくれるよ。じゃあ、ちょっと呼んでみる。拒絶するなよ?」

 うん、と柚香はただ首を振った。

 俺より年上であれから二年も経ってもっと大人になったはずだけど、こうやって我慢する仕草は本当に変わらないんだな。

 柚香は俺の宝物だ。

「『あぶらあげ』」

 柚香の肩に手を置いて、目を閉じる。

 心には名前が、瞼の裏には錦絵の姿が浮かぶ。

 『あぶらあげ』を見つける全ての条件は揃ったのだ。

 脳裏に描いた姿を掘り下げていく。

『あぶらあげ』

 名前を呼ぶ。

 小さな光が見えてきて、その光の点に向けて俺は意識をぐっと潜らせた。

 光をへ到達しようとするのを遮ろうとする闇を、一閃が薙ぎ払った。

 柚香自身が俺を助けてくれたのだと分かる。

 暗闇の先は、明るい世界だった。

 柚香の心の中なのか、どこか別の空間なのか、少なくとも現世でも常世でもない。

 地に足をつけている感覚がするが、地面は見えない。

 光に負けないように細めていた目を開くと、小さな点が見える。

 平泳ぎをするように、今度は光の中の小さな闇に向けてより深い処へと下りようと進んだ。

『……ねぇ、ねぇ……あぶらあげ……』

 知らない女の声がする。

 でも温もりのある優しい声だ。

『私……今すごい、たくさん、血が出て、もう駄目だってそんな気がするの……』

 声がかすれている。

 おぼろげな記録が再生されて、乳白色の空間に反響していた。

『お願いがあるの、祐喜の、私の、子供のこと……。私が死んでしまったら不憫な子になってしまうからお願い、どうか守ってあげて……あなたがいれば、いつだって柚子は幸せになれるから』

 俺はその声が母さんの声だと気づいた。

 こんな声をしていたのだと思うと、肉体などない精神世界だというのに涙の味がした。

 母さんの願いの返答は聞こえない。

 その代わりに近づいてくる闇一点が、おぼろげな輪郭を見せてきた。

『お母さんにもお父さんにも、もう心配をかけさせたくないの……』

 今度は小さな女の子の声がした。

『もう熱で苦しまなくても、注射も点滴も手術もないの? 本当?』

 そのしゃべり方は、柚香に似ていた。

『私の願いを叶えてくれるの? 狐さん……』

 柚香の願いの返答は聞こえない。

 柔らかな世界がただ、いくつもの声を反響させているだけだ。

 黒い点が近づいた。横に長い。輪郭は緩やかに丸い。

 さらに近づくと色づいた。

 収穫期を迎えた紅葉山の麓の田畑が実らせる、金色の稲穂の髪。

 紅葉に彩られた山の色彩を閉じ込めたような被布の衣。

 白い肌に填め込まれているはずの目は恐らく血の色。

 手の届くところにいるその存在は、目を閉じて眠っていた。

 手を伸ばして髪に触れるとふんわりと焼きたてのパンのような質感が返ってくる。

『あぶらあげ』

 名前を呼ぶと、小さな体を少しだけ動かして『あぶらあげ』は反応した。

 細く開いた瞼の中から、赤い目が見える。

 ルビーの様に美しいキラキラとした大きな目だった。

『長い間ごめんな。もう俺はお前を視ることができるよ』

 むくりと起き上がった『あぶらあげ』はまだどこか覚醒に足りない表情をしてこちらを見て居た。

『そうか』

 想像以上に、シンプルな返答だった。

 大喜びとかそういうリアクションはない。

 まるで何もかも分かっているような口ぶりにも思えた。

『お願いが、あるんだ。俺の願いをお前は……叶えてくれるかな』

 俺は願いを口にしようとしたが、『あぶらあげ』はそれを制した。

『きっかけと』

 『あぶらあげ』の声が少しづつはっきりしてくるのが分かる。

 ぼんやりと雲に包まれた世界が、崩壊していく。

 色や音が戻ってくる。

 中へ中へと意識を潜らせていた場所から、引き上げられて風を感じる。

「きっかけと──それを貫こうとする思いがあれば、我らの力なくとも成就する」

 風が頬を打ち、虫の音が取り巻く。草木が揺れて宵闇が広がっている。

 一寸遅れて俺の感覚は──現実に帰ってきていた。

 誰かに頬を叩かれて、目が覚めるのと似た感触。

 少し湿った土の臭いも、森の緑も生命力に充ち、俺はここが銀朱達の領域ではなく現世、ひとの世界であると悟った。

 ぽつりと、露草の葉にのっていた雨粒が地面に落ちる。

 においで分かる。ここは大江山じゃない。

 霧を纏う朝の紅葉山だ。

 俯いていた俺の視界には、放り投げたままの両手を握り締める──体温の感じない白い手があった。

 俺の手と同じくらいかそれより少し小さい。貝殻のような小さな爪が光っている。

 おそるおそる手の甲から腕へと視線を滑らせる。

「しかし、たまには私達が存在する理由を、示さねばならないな」

 腕から胸元にかけて視界を占領したのは、紅葉山を秋に真っ赤に染める紅葉と同じ色の被布の道行。

 きっちりと着付けした襟元は橙色で、少し長い金色の髪が掛かっていた。

 風に揺れる髪は自由奔放で、赤い目が優しい笑顔を浮かべている。

 昇ってきた陽光を受けて、金色の髪は光の矢のように透き通ってみえた。

「愛し子に振り返ってもらえないというのは、やはり寂しいからな」

「あ……『あぶら……あげ』……」

 無意識に俺は手を握りしめ、手の上に俺の涙が落ちた。

 夢の中で甘く響いていた声は、しっかりと俺の鼓膜を叩き心に響いてくる。

「いかにも、私がそなたの『あぶらあげ』だ」

 銀朱に見せてもらった錦絵の世界が眼前に広がっている。

 錦絵ではどこを見つめていたかは分からなかった。

 だけどこの『あぶらあげ』は俺を愛おしそうに、じっと見つめていた。

「そなたの願い、聞き届けた」

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