第五譚
夕餉。
季節を感じさせる食膳が用意され、銀朱はよっぽど嬉しいのか酒まであおっている。
そもそもここでのんびりと食事を楽しむために来たわけではない。
『あぶらあげ』が生きていることが分かったのだから、俺をもとの人の世界に返せと言ったが当然のように銀朱は却下した。
借り物競走を始めたのなら、きちんとゴールまで借り物を持って来いということらしい。
俺は一度だけ繋がった『あぶらあげ』との交信で得た言葉の意味を、胃の中でぐるぐるさせたまま黙々と食事を続けていた。
もう一度『あぶらあげ』を探してみたが、今度は全く声は聞こえてこなかった。
銀朱はにこにこ上機嫌で、茂野から注がれた酒をくぴくぴと飲んでは開け、飲んでは開けで忙しい。
無邪気に喜んでいるその裏に──本当は何かあるんじゃないかと、怪訝な表情を向けると銀朱は真っ赤な顔をして漆の器を俺に差し出した。
「うぅい! 注げ! 屑!」
どうやら俺は、愚図から滓に格下げされ、最終的に屑まで落ちたようだ。
「どうでもいいけど、神様のくせに悪酔いとかするなよ、人間臭いなおい……」
「ばぁか、そなたらが我らを模倣したのだろうが」
身を乗り出すと、銀朱は空っぽの盃で俺の頭を軽く叩いた。
うっとおしいな、と思ったところで茂野がさりげなく銀朱を上座に戻した。
おお、さすがばあちゃんにも助け船と言われていただけあって、扱いがうまいぞ。
「ここ数日食事も喉を通らなかったのですから、あまり無理をなさいませんように」
「こいつ、そんなに兄貴を心配してたっていうのか?」
茂野は視線だけ寄越し、それから俺へ居直った。
考えてみれば茂野が俺と正面を向かって話をしようとするのは初めてのことだった。
「どれだけ心配しておられたかは、お前が身をもって知っているだろう。ひとの子をこの場に持ち込むことなど、長い大江山の歴史でもなかったこと──そして、推奨されたことでもない」
茂野は上座の銀朱に急かされて盃に酒を注いだ。
俺はこの年だから酒の味なんて知らないけど、色は透き通りゆらゆらと金箔が浮いている。
「銀朱って……『あぶらあげ』に嫌われてるってことは、ねぇよな?」
俺の質問に、茂野は朱塗りの銚子を持つ手を止めた。
銀朱は酔っ払っていて俺の言葉など耳に入っていないようだ。
陽気に盃を傾けている。
「『大紅葉山』のお心内を私が計ることはできないが、銀朱様は『大紅葉山』の寵愛深い妹君。お前の危惧はあり得ない」
「じゃあ、さ……なぁ、本当にお前たちは『あぶらあげ』が望むことをしてるのか? 」
俺が言葉に迷う姿を見かねたのか、それとも俺との会話に意味がないと思ったのか背を向けて銀朱の方へ居直ってしまう。
銀朱は顔を真っ赤にさせて一気すると、笑顔全開でもう一杯、と盃を茂野に差し出した。
その盃を茂野はひょいと高く持ち上げ、銀朱は盃を追いかけ視線を上へ上げる。
突然顔を上げてしまったからか、目眩を起こしたかのように銀朱の青い目が瞼に覆われた。立ちくらみを起こした銀朱は茂野に支えられて上座で横になった。
酔いが回ったのか眠ってしまったかのように見えるが、俺には茂野が銀朱を眠らせたように見えた。
どこか掴めないところがあるけど、茂野は銀朱のやっていることに従っているし、銀朱を大事に思っているようにみえる。
どうやら銀朱にこの話は聞かせたくないようだった。
「先ほどお前に、『大紅葉山』は何と囁かれたのだ」
茂野の言葉に、俺は銀朱が眠っているのを確かめてからありのままを伝えた。
「……銀朱様に力を貸してはいけない──?」
正直に告げたのは、銀朱が『あぶらあげ』の妹で、本当に『あぶらあげ』を大切に思っているということが俺みたいな奴にも分かったからだ。
だからこそ、その言葉が引っかかっているわけだけど。
茂野は俺の言葉に、一瞬だけ思考を内側に投げすぐに俺を見た。
「間違いなく『大紅葉山』がそう仰ったのか」
「いや、声だけだから──俺は、『あぶらあげ』の声なんて知らないし。『あぶらあげ』は山に戻りたくなかったり、消えたがっているってことはねぇよな?」
「『大紅葉山』は愛するものへの眼差しを絶やす方ではない」
茂野の言葉には、重みがあった。
「どんな苦境に置かれても、身を落としても、守るべきものを守り通す御方だ」
俺にはさっぱり分からないが、ジジィが言うのだから経験から来ているものだろうと思わされる。
「だからこそ、こうして『大紅葉山』への敬意を失ったお前を銀朱様もここへ呼ばれたのだ。全くお前に望みがないと思っていたら、ここへ呼ぶこともない」
「俺は『あぶらあげ』に愛されてる──ってヤツだな」
そんな感じは全くないけどな。
だったら呼んだら喜んで飛び出してきてもいいはずだしさ。
「じゃあ、『あぶらあげ』が山に戻ると不都合なヤツとか、いる?」
俺はすやすやと気持ちよさそうに眠る銀朱へ視線を投げた。
こいつは『あぶらあげ』が消えたことを、『柚子』である俺のせいだと決めつけ、実際それ以外考えつかなかったのかもしれないけど、もしかしたら銀朱も知らない組織が『あぶらあげ』を拉致ったって可能性だってある──と思う。
茂野は否定したけど、まぁ銀朱が嫌われてて探されたくないっていう可能性もな。
「俺はこっちの事情は知らないけど、居なくなったままならその方が好都合ってヤツが、『あぶらあげ』のフリして邪魔してきてる可能性だってあるだろ」
茂野の無言は、いるという返事に等しかった。
「俺が神様を信じないままだった方が、好都合な奴らがいるわけだな」
茂野はどう対処すべきか考えているのか、俺の言葉に返答せずにじっと虚空を睨んでいる。
「一刻も早く『大紅葉山』のご無事を確かめねば、お前自身の命の保証もできなくなる」
「ばかいうな。ここにいるだけでも充分死刑宣告中だよ」
俺としては早く『あぶらあげ』を銀朱の元に返して、俺は家族の元に帰りたい。
「銀朱様にこの件をお伝えするな。繊細な御方ゆえ、万が一『大紅葉山』のお言葉であった時にどれほど苦しまれるか想像に難くない」
必死の思いで探している相手を見つけた時、探して欲しくなかった、放っておいてくれなんて言われたら。
そりゃショックだろう。俺だってそのくらいは想像つく。
「私は心辺りを確認する。お前もひとの里に戻りたければ『大紅葉山』に呼びかけ真偽を確認するのだ」
茂野はすっと立ち上がると、食膳を下げて戸を閉めそれから姿を見せなかった。
俺も色々考えようとしたがこっちの事情は分からない。
とにかくもう一度『あぶらあげ』へ呼びかけようとぎゅっと目を閉じた。
銀朱に見せてもらった錦絵をもう一度思い浮かべる。
いくら呼びかけても駄目だ。やはり全く反応がなかった。
「なんか、もうちょっと『あぶらあげ』に繋がるもんないか……お供えなんて持ってきてねーし。御守りは銀朱のだし、あーくそ!地元だからって御守り買わないでいた俺の馬鹿……!」
頭を抱えて大声を上げると、その声で銀朱が目を覚ましたのか耳をピンと張って顔を上げた。
「お、起きたかよ……悪いけど錦絵以外にもっと『あぶらあげ』と繋がりそうなもんを持って──」
「その『あぶらあげ』という呼び方ッ」
銀朱が話途中の俺の言葉を遮り、ビシッと指差してくる。
呂律が回っていない。
まだこいつ酔ってる。
「お兄様を供物の名で呼ぶなと、何度も何度も何度も言っておるだろぉーが! お兄様には立派なお名前があるのだ、そのような名前で呼ぶなッ!」
よれよれと銀朱は説教しながら俺の肩を掴んで立ち上がる。
二歩後退し、軌道を修正しようと俺に寄りかかる。
容赦なく寄りかかり銀朱は俺に覆い被さって本殿に倒れた。
「こ、こら──おいッ! どけ!どけって!」
被さった銀朱を押しのけようとすると、銀朱は青い目を開いて「私に命令するな屑!」と大声を上げて俺を見下ろした。
白銀の髪が垂れて俺の頬を擦る。
滝のように降り注ぐ美しいストレートはもとより、急接近した青い目は体の毒だ。
吐息に負けて目を閉じたら次の瞬間には何もかも持っていかれてしまいそうだ。
「俺には柚香が柚香が……って、あ?」
頬に冷たい感触があった。
また雨が降ってきたのだと思ったが、この雨は銀朱の青い目から落ちてきていた。
長い睫に雫をつくり、震える唇に合わせてゆるゆると揺れている。
「お兄様が、私を嫌っているというのは、どういう了見なのだ?」
げっ
何……酔っ払った振りして聞いてたのかよ。
「いや、だってほら、お前……えっと」
『あぶらあげ』が銀朱を拒否したことまでは聞いていなかったのだろうか。どう話せばいいか分からなかったが銀朱には話すなと茂野に言われたばかりなので口籠もった。
「お前はいい、いつだって、お兄様から愛されている」
銀朱が唇を噛む。噛みしめて血でも出てしまいそうだと思うと、手が勝手に動いてその唇を押さえた。
噛むなよ、と言いたい俺の主旨を銀朱は理解したのか、柔らかな唇を震わせるに留めた。
「お兄様に嫌われていたとしても、私はこうするしかないのだ」
銀朱がぽこ、と俺の胸を叩いた。
「私だって、お前達と同じくらい……、同じ、くらい、お兄様が……、『紅葉山』の、雅親朱秦お兄様が……」
痛くない一撃は、ぽこ、ぽこ、と三度続いて止まった。
静かになる。
銀朱は動かなくなった。
「銀朱……さーん……?」
また泣いているのかとおそるおそる声をかける。
俺の胸にうずくまっている銀朱をちょんちょんとつつく。
銀朱は安らかな寝息を立てはじめていた。
人間を敷き布団代わりにする神様。
どこか俺の信じる心が、変な方向に固定されそうだ。
「おい……期待するイベントなしなら、どいてくれよマジで……」
でもちょうどいいくらいの重みだったので、無理矢理どけるのは止めた。
『あぶらあげ』にもし嫌われていても、それでもいいという銀朱の気持ちは、なんだかとても人間臭い気がする。変な──へんてこなドS稲荷神だと、思う。
『あぶらあげ』を、銀朱の処へ返してやりたいと思った。
いや、望まずともそうしないと俺の人生消滅なんだけどさ。
触れるのに躊躇いのあった白銀の髪に手を伸ばす。硝子細工のような髪が清水の流れのように纏まっている。 そっと撫でると、艶っとした質感が指に残る。
同じくらい白い頬は酒を飲んで紅色に染まり、涙で濡れた目頭はしっとりと濡れていた。
『あぶらあげ』、お前の妹が、泣いてるぞ……。
心の中で問いかけても、返事は帰ってこない。
もう一度錦絵を借りてイメージを固めてみるかとも思ったが、ずっしりと乗っている銀朱が邪魔で動けないし、どこにしまってあるかも謎。
どうしたもんか──
「ぐす……お兄様……」
もぞもぞと寝言を口にした銀朱に刺激されて、先ほど銀朱が口走った名前を思い出す。
『あぶらあげ』の──本当の、名前。
まさ──まさ──?
「雅親……」
まさちか……紅葉山に残る九尾の狐伝説史跡の名前。
九尾雅親伝承跡。
「しゅ……しん」
紅葉山のてっぺんにある本殿の名前は、朱秦稲荷と言う。
山に点在する大小の社をまとめて、紅葉山稲荷大社とそう呼ぶのだ。
「『あぶらあげ』は、雅親朱秦って名前──なのか」
俺の本当に小さな呟きは、俺が知覚できない世界に大きな波紋を広げた。
ビクン、と大きな痙攣をしたのは眠りについたはずの銀朱だった。
大きな青い目を開いて瞼を開ける。
酔っていたのが嘘のように半身を起こし外を睨んだ。
「お兄様の気配──……! 間違いない、お兄様。お兄様……お兄様ッ!」
銀朱は勢いよく俺を踏み起き上がると、本殿を飛び出た。
履き物も履かずに境内に下りると、目にも止まらぬ早さで漆黒の山中へ飛び出して行った。
茂野も何かを悟ったのだろう、本殿へ駆け戻ってきた。
銀朱が山の中へ消えたことを告げる。
茂野は(わざわざ銀朱の履き物を抱えて)銀朱が消えた山中へ向けて走りだす。
俺には全く変化が分からないが、ここにいても確認できないので暗闇に消えた二人の後を追いかけようと慌てて縁側から下りた。
コンバースの靴がないけど、今はそれどころじゃない。
常夜燈が灯っていても暗い山の中を走れるか分からないが、銀朱や茂野の名前を呼びながら行けば誘導してくれるだろう。獣道は分からないので俺は境内正面の石段から下りようと足を踏み出した。
俺は、やっと借り物競走に終わりを告げることができそうだった。
形を知り、名前を知り、手の中にある探し人の形は明確になった。
あとは、俺が手を引いてゴールまで連れていくだけだ。
「よし、よしよし、やったこれで、帰れる……!」
踏み出した足は、すぐに止まった。
静かな境内。
主である銀朱も侍従の茂野の姿もない。
完全なる無人──無神のこの境内で、常夜燈に灯されて影が伸びていた。
「え……」
宵闇にも負けずに伸びる影は、俺がよく知るひとの子だった。
「柚……香……?」
柚香は月を背負い、稲荷の世に降り立ち黒い目で俺を捕らえ立ち尽くしていた。