第四譚
顔も知らない人に慣れ慣れしく呼びかけて、応えてくれる人がいると思う?
思わないよな。
だって答えたら変人だろ。普通に考えて。
あえてその状況をあり得る形にもってくとしたら、借り物競走で見知らずの「鈴木さん」を探すといったところだろうか。
それでも随分と条件が違う。本来はグラウンドっていう「舞台」で「借り物競走」をする役者だから、「客席」にいる「鈴木さん」だって名乗り上げてくれるものなのだ。
客席側は呼ばれるワクワク感だってあるし協力的だろう。
だが俺の場合は違う。
俺がこの「借り物競走」で引き当てたのは「神様」という得体の知れぬもの。
形も分からなければ、声も知らないもの。
雲を掴むような、借り物競走だ。
借り物競走主催の銀朱から与えられた役目は「神を信じ『あぶらあげ』を呼び戻すこと」。
それが出来なければ祟りをくらって存在死を食らわされる。
容易なことじゃない。どっちに転んでも俺はババを引く。
それも身から出た錆だと銀朱は言うのだが。
しかも、のんびり人捜しすることもできない。
俺がいるこの大江山稲荷大社の社殿は、ひとの世ではない。
この稲荷の世の一晩が、ひとの世の三年に相当するというのだ。
俺は今猛烈な勢いで一週間、一ヶ月を浪費していることになる。
後ろからピストル突きつけられながら、借り物競争で人捜ししているとゆーことである。
しかも俺が認められないと目を背けてきたものを、いきなり受け入れるというのは難しい。
認めようとがんばってみてるけど、そう簡単にうまくはいかないんだ。
俺は途中で当てもなく呼び続ける作業に疲れ、ポケットの中のキティ守りを取り出して、柚香を思った。
俺が行方不明だって知ったら、柚香はどう思うだろう。
スルーってことは、さすがにないよな。
だってほぼ毎日会ってたしウチのこと気遣ってくれてたし、心配してくれるよな。
もし誰も心配してくれてなかったらどうしよう。
「……『あぶらあげ』は、いいよな」
こえー女だけど、銀朱にあんな風に思って貰えて、いいよな。
戻ってきて貰いたいって思ってもらえてるんだ、『あぶらあげ』は。
ぼんやりと御守りを見つめていたところで、ふと思いついた。
俺が御守りをみて柚香を思うように、何か具体的なキーワードを頭に叩き込めばいい。
神様ってものを、俺が理解できるような足がかりを作ればいいんじゃないか。
「あのさぁ……」
銀朱に声をかける。
本殿のたっぷりとした座布団に座っている銀朱は微睡みの表情を浮かべたまま煙管を吸っていた。
妖艶という言葉をこの間エロ本で知ったけれど、銀朱はその言葉がぴったりと合う容姿だと思う。
悪いけど柚香はちょっとあと十数年はない色気だ。
最初は無視されたが、もう一度声をかけると嫌々銀朱はこちらを向いた。
「『あぶらあげ』って……どんな兄貴なの」
今更すぎる問いかけで、銀朱からすれば『柚子』らしからぬ質問に違いない。
また往復ビンタをするつもりかもしれないが、銀朱は手招きした。
広い本殿の端で縮こまっていた俺は、のそのそと銀朱へ近づいた。
近づけば近づくほど、銀朱の白銀の髪が目にまぶしい。
「愚図に口で説明しても百年かかる、もったいないが、よいものを見せてやろう」
怒鳴られるかと思いきや、想像をまた斜め向こうに外したテンションで手元の紙束を自慢げに俺に差し出した。
俺が『あぶらあげ』に興味を持つことは、銀朱にとっては喜ばしいことなのかもしれない。
かすれた古紙に描かれた絵。
所謂、錦絵というものだろう。
どれも鮮やかな紅葉が散る背景。
月と太陽、稲穂と森の緑を背にして人物が描かれている。
「やっぱお前の兄貴だけあって悪なんだな……」
説明書きに『悪狐紅葉山』って書いてある。
この流れでいけばこいつを描いた錦絵は『悪狐大江山』に違いない。
「誰のせいでそう呼ばれておるか知らずにのたまうとは、図々しい」
「また俺のせいですか……」
はいはいすみませんと、なかば投げやりになって反応する俺に、銀朱は怒気を孕まずに静かに俺に問いかけた。
「この悪の文字を、貶めることは許さない」
怒鳴ってくれた方が俺としてはリアクションしやすかったが、銀朱の深沈たる様子に俺は黙った。
指の腹で銀朱はそっと、錦絵の隅に描かれた金色の髪の人物を撫でる。
その仕草は、深い愛情を感じた。
「お前、本当に──兄貴が大事なんだな」
「そう思い同情の視線を投げてくるのであれば、さっさとお兄様を信じ敬いお戻りになるように念じろ」
ギリギリと銀朱の目線が痛い。
そのために聞いてるんだろ、と言うと銀朱はやっと射殺すような視線を止めて次の錦絵を差し出した。
これが私のお兄様だ、とどこか自慢げだ。
これは肉筆画で、刷ったものではないようで悪の文字はない。
恐らく紅葉山だと思われる山を背景に、横顔が描かれた一枚は他の錦絵に比べてずっと穏やかな表情をしていた。横顔が見据える先はどこだか分からない。
空の青は錦絵らしい深い群青で、風に吹かれて散る紅葉と同じ赤い眼をしている。
滲みのない真っ黄色の髪は、秋の稲穂の金色に似ていた。
紅葉山の史跡に誰かが残した歌が残っている。
ひとの財で求めること叶わず。ひとの願いで彩ること叶わず。ただ神の嗜好のためだけに彩る。
意味するところは、「この景色はあんたら人のもんじゃないよ、神様に捧げるのがベストじゃねーか!?」ってとこで、もっと要約すると、「紅葉山の景色パネェ!」ってところだろう。
その歌を思い出す絵だった。
何も言わずに絵を見る俺を、銀朱はじっと観察していた。
「その顔──お前は本当に、お兄様を知らないし、視た覚えがないのだな」
黙って頷くと、銀朱は俺の手から錦絵を引き抜く。
埃を払うようにして俺が触ったところに息を吹きかけ続けた。
くそ、ばい菌扱い、ホントやめろよな。
「愚図のお前のことだ、自らお兄様を感じることができずどうせ視覚に頼るだろう。恐らくお兄様を捉えた時はこの錦絵の通りのご容姿で見ることになる。よーく覚えておいて、視たらすぐに私を呼ぶのだぞ」
「この絵の通り……? どういうこと?」
「私達はひとの子のように、特定の『形』というものが定められてはいない。お前達ひとりひとりが想像する姿がそのまま具現しているに過ぎない。見る者が見れば姿は違ってみえようものだ」
「えー、じゃあ例えば俺がお前のことキティちゃんだと思えばキティに見えるっていうのか」
「きてぃが何だか知らんが、全く属するものが違うものには重ねることはできん。我々にも象徴というものがある。それもまた、ひとの子が思い描き重ねてきたものだ」
そうか、大江山の狐伝説は白狐だった。
だから銀朱は白いのか。
鬼を食い破った狐伝説なんかも残ってる。
小動物のくせに強いな、おい。
なんて思ったことがあったがそれも反映されているに違いない。
俺を踏んだり蹴ったりしているあたりとかな。
なんとなく理解する。
それが、こいつらの『個性』なのだ。
「……そっか、じゃあお前の象徴って、何なの」
「私は退魔だ。鬼・疫病の類を寄せ付けること許さぬ」
うん、あぁ、そうだな、そーゆー感じするわ。
問答無用だし、変にまっすぐな感じあるしなぁ。
「お兄様が持つものは豊穣だ。黄金の髪は豊作を意図し、赤い目は恵みの根源血潮を意味する」
「なるほど、まぁ紅葉山はたしかに、他の田舎と比べて山のおかげで恵まれちゃいるな……」
俺はこの絵で『あぶらあげ』の先入観がついた。
借り物競走をするとしても、借りるものが何だか分かるのと、分からないのでは随分違う。
俺はやっと、どういうものかを掴みかけてきた。
ぼんやりしていたものが、随分とはっきりした。
だけど俺の持ったイメージも偶像の一つでしかないということだろう。
神は風にも在る。山にも在る。紅葉にも在る。細部に宿る。
思えば、神はどこにでも在る。
なるほど。
「だからお前──」
目の前にいる『存在』をじっと見つめる。
思わず手を伸ばして銀朱の顔に触れた。
「お前、神様なんだ」
その純粋な感想こそが、証拠抜きの確信というのかもしれない。
俺は、まっすぐに神様というものを信じた。
理屈を越えて真相を理解した。
神様はひとが長い時間をかけて作り上げてきた意志の蓄積。
本質は先人が築き上げてきた願いそのもの。
相互依存の関係、表裏一体なのだ。
「お前、神様なんだな銀朱」
何万もの祈りが作り上げた銀朱という『存在』を視た。
ひとの意志という彫刻家が生み出した存在。
はじめて視たときから、綺麗だと思ったんだ。
俺以外の誰が視ても、銀朱を綺麗だと思うんだろうな。
俺は大江山のことは詳しくないから分からないけど、大江山には、物いう花の伝承が残っているのかもしれない。
大江山に蓄積されてきた数百、数千、数万のひとの祈りの形。
『柚子』はたった一つの『ひと』でありながら、代を重ねることで数万の祈りと等しい存在になった。
俺が下らないと思い、価値がないと思っていたものの真相なのだ。
「分かったか」
銀朱は俺の目の中に輝いている光を覗き、頬へ当てた俺の手に自分の手を添えた。
あんだけ乱暴されたというのに、体は警戒を示さずに体温の感じない手を受け入れた。
「分かったのなら想え」
銀朱の言葉に時が止まったかのように、世界はシンと静まりかえった。
「お兄様を想え。お前は『柚子』なのだから」
銀朱の要請に頷く。
そうするしか俺の人生に先はないのだ。
目を閉じて、脳裏に『あぶらあげ』の形を思い浮かべる。
見せてもらった錦絵の横顔が脳内の暗闇を消すかのように、浮かび上がった。
声は知らない。
『あぶらあげ』、聞こえるか──
──俺からの呼びかけに答えるように、底の底からかすかに声が聞こえる。
『──祐喜』
反応に、いける、と思った。
何かがぐんと俺に近づいて、紐付いたような感覚がする。
手を伸ばせば届く気がした。
思い描いた錦絵を破るように、光が満ちる。
言葉が響いてくる。
これが所謂、神託というものなのだろうか。
俺が認識できるほどに声が大きくなるのを心静かに待ち、たぐり寄せようと必死になる。
『祐喜、……、……、』
名前の後に、まだ何か続いている。
俺は必死にその声をたぐる。
『銀朱に力を貸してはいけない!』
静電気が走るような衝撃を感じ、俺はバッと目を開く。
銀朱の頬に添えていた手を、勢いよく引いた。
「どうした? お兄様のお姿を見つけたか? 何かお応えになったか?」
俺を怪訝な目で見つめ問い正してくる。
「え──……、あ、いや、何か掠ったけど、まだ、何も……」
俺の呆けた返事に、銀朱は思い切り頬を膨らませ不満を露わにしてみせる。
膨らんだままの頬に指をさして空気を抜いてやると、赤面した銀朱がポコポコと俺を叩いてきた。
いや、それ痛くないんだけどね銀朱さん──
──そんなことより、なんだ今の。
今の声は『あぶらあげ』なのか?
銀朱に力を貸すなって、言ったよな?
俺が怪訝な表情で銀朱を見つめるので、銀朱も俺の胸をどかどかと叩く手を止めた。
「しかし、全く手応えがなかったわけでもないのだな?」
「あ、あぁ……」
「よかった、やはりお兄様は消えてしまったわけではないのだ。『柚子』の呼びかけに応じられる。よかった。あぁ、よかった。よし、よくやったぞ愚図。褒めてやろう」
銀朱は初めて俺に笑顔を見せた。
それから『あぶらあげ』の錦絵を差し出した時と同じような陽気さで、茂野を呼んで食事と酒を運ぶようにと声高に命じると、俺の手を引いた。
「褒美に愚図改め、阿呆と呼んでやろう。どうしてもと言うなら名前を呼んでやっても……」
「銀朱、お前さ……本当に『あぶらあげ』の妹なのか……?」
「今更何を言うのか! 無礼な!『大江山』銀朱といえば、『紅葉山』のお兄様の最も寵愛深き…ッ」
俺の呆然とした呟きに、銀朱は水を差されたとばかりに不機嫌そうに背を向ける。
「やはりお前は阿呆ではなく愚図で十分だ、いや、滓が相応しい」
ここまで来ると、何て呼ばれてもいい。
本気で安堵した表情の銀朱を疑う気にはなれないが、俺の頭の中に響いた声は明かに銀朱を拒んだ。
銀朱が初めて笑顔を見せたというのに、俺はそれに驚いたり毒を投げる気持ちになれなかった。