第三譚
青い宝石のような目が潤んで、目頭から大粒の涙が落ちてきた。
俺が信じないことで泣くものがいるなんて思いもよらなかった。
息を詰まらせて泣く銀朱を見つめることしかできない。
泣く銀朱に呼応するように、部屋の外から雨音を感じた。
さぁさぁと雨が社殿の蛤葺き屋根にかかる音が泣き声と合唱する。
さすがに罪悪感が生まれて、おそるおそる銀朱の肩に手をとん、と乗せる。
触れると艶やかな絹の心地と、そこに『存在』していると錯覚する質感が返ってきた。
「いや、なんつか……町の中では本気で信じてる奴いっぱいいるから、俺が全否定したから消えちまうってことはさすがにないだろ」
顔を押さえて泣く銀朱に俺の言葉が届いているかは分からない。
やばいな。女の子を泣かせたのはこれが初めてだから、どうしていいか分からん。
いやまて、こいつ神様なんだから女の子とかいうのとは違うか。
つか、泣かれたって……困るし。
「泣くなよ、泣いたって──……俺には関係ないんだからな」
その言葉に銀朱は吹っ切れたように顔を上げた。
「お前が殺した……! 相違ない。貴様がお兄様を殺した。ひとの世で千年にも余る寵愛を、貴様一代が無残に踏みにじって、残酷にもお兄様を殺したのだ!」
顔を覆っていた手をわななかせて、小刻みに震えている。
「お兄様はお前などを相手にされるべきではなかった。情理に欠けた愚図めが」
「そういうのを一般的に片思いの逆ギレっつーの! 好きになるのは勝手だ、でも受け入れるのだって勝手だろ。俺には選択肢のひとつもないっていうのかよ!」
何か銀朱は俺の考えを見透かしたような呟きを漏らすと、きっと鬼の形相で俺を見た。
「ない」
これまた、思い切りある断言だった。
「貴様のような愚図に、与える選択肢などあるか!」
地獄の底から響く咆吼に凄みが加わる。
思わずのけぞり逃げ出したくなるが頭をがっちりと両手が押さえて離さない。
「貴様には、ひとの子として存在する上でもっとも残酷な祟りを与えてやる」
「全般的に俺にはどうしようもないことだろ!? 逆恨みされても困るんだよっ!」
俺は銀朱に負けないように声を張り上げた。
「それになぁ!千年にも余る寵愛がどうとかお兄様を殺したとか、それを言うならこっちだって言いたいことはあるんだぞ。神様は『柚子』だった俺の母さんを助けてはくれなかった。 俺はともかく母さんは信心深かった。父さんと結婚するまでずっとお前の兄貴を信じてたし愛してたよ。それなのに無残に事故死したんだぞ!」
俺はチャンスとばかりに畳みかけてやる。
「事故から助けてやることもできないのが神様かよ! 特別だったとか何とか言うなら、母さんを助けて、母さんの願いを叶えてみせろよ!」
銀朱は俺の勢いなど屁とも思っていないようだ。
瞬き一つせずに俺を睨んでいる。
「ひとは死ぬものだ。必ずだ」
「だとしても……! それをどうにかできるのがお前らじゃないのかよ!」
「信じていない存在に奇跡を望み、恨みを押しつけてきたのだとしたらそれも逆恨みと同じだ。お兄様にも私にもどうしようもないこと、逆恨みされても困るのだ」
銀朱は口角を上げて笑みの形を作る。
「お前は神を信じていないと言った。だがそれは撤回すべきだ。そなたは我らから恩恵を受ける前提の心構えで、勝手に裏切られたと喚き否定しているに過ぎない。その否定は信じた上で起きるものだ。つまりお前は──負の方向性で、偶像妄想の類ではあれ、神を信じているのだ」
「違う! 信じてない!」
銀朱の屁理屈だ。
言葉巧みに俺が悪いと誘導しているだけだ。
「神などいないと言い切るなら、母の死を運命だったと受け入れるべきだ」
俺は下唇を噛んで言い返すための言葉を探した。
だが、見つからない。
見つからなくて悔しくて奥歯を鳴らした。
「愚図が」
振ってきたのは侮蔑の一言だけではない。
白い足袋が肩に乗り、板間にひれ伏した。
屈辱的な圧力を跳ね返す力がないのもまた、俺が反論できる力がないからに違いない。
逆らおうとして力を込めて視線を見上げると、白い足の間から飴色の襦袢が覗く。
それ以上視線を上げようとしても踏みつけられて顔を見ることもできない。
『あぶらあげ』と『柚子』の関係なんて本当にイレギュラーなもので、本来神様とひとの距離というものは、こういうものなのかもしれない。
銀朱は俺を踏みつけたまま黙って控えていた茂野の名前を呼び命令した。
「茂野、絶対にこの愚図をひとの世には戻すな」
「承知仕りました」
「えっ……おい!」
「のぅ愚図、よい事を教えてやろう。お前がここで一晩を明かせばひとの世では軽く三年は過ぎる」
鈴のような泣き声を可哀想だとか思った俺がばかだったのか、陰湿ささえ帯びた声色で銀朱は俺を見下しせせら笑った。
「ひとの子の世は一代およそ八十歳。一ヶ月ここに捕らわれているだけでお前を知るものは死に朽ちる」
腕時計は今も尋常ではない速度で短針を長針が追い越している。
秒針は昆虫が羽音を立てるかのような速度で巡り、すでに目で捉えることができない。
「最高の苦痛は忘れさられる事。己を知るものが完全に途絶えることだ」
ばあちゃんも、父さんも、柚香も、学校の友達たちもいなくなる。
途中で俺の存在は諦められて消えるだろう。戸籍も消えて俺というものが白紙となる。
もし俺が元に戻れたとしても、誰も俺を認識しない。
人も、法律も、俺は頭がおかしくなった人間としか見てもらえずに終わるのだ。
己の存在死を思い、さっと額に掻いていた汗が冷えた。
信じる信じないではない、銀朱の目は真に迫っていた。
「怯えておるなぁ、嫌か? 嫌かの?」
「そんなの、嫌に決まってるだろうが!!」
「それが貴様がお兄様に打った仕打ちだ。お前も愛するものに忘れ去られる苦しみを味わうといい」
力なく板間に頬を擦りつけひれ伏す俺に銀朱は淡々と言葉を紡いでいく。
「それが嫌なら、すぐさま悔い改め信奉しお兄様を呼び戻すのだ」
冗談じゃ──ない。
逃げようと立ち上がったところで、茂野の左手が伸びて膝の裏を打った。
「逃がさないと言った傍から、学習能力がないな」
銀朱に踏まれた後は、今度は茂野に踏まれた。
銀朱の青い瞳を下から見上げると禍々しく輝いている。
神様というものがいるとしたら、それはとても無慈悲で、残酷で気ままなものだと思っていた。
その通りすぎて──信じる他にないのに、それでもどこかで俺は自分の考えを否定して欲しかったのだと気づいた。
そうじゃないんだ、神様は本当は優しいものなのだと。
そう言って欲しかった。
「貴様のような愚図の役目はただ一つ。神を信じお兄様をお戻しすること、たったそれだけだ」
扇で口元を隠しているせいで表情の全容は分からないが、笑っているとしたら心臓を捕まれるかのような、恐ろしく──神々しく美しい笑みだったに違いない。
多くのひとが、畏怖の象徴としての側面で描いた神が俺に微笑みかけている。
「さぁ……喉が切れ朽ちるまで、お兄様を呼ぶために鳴け」