第一譚
「雨降ってきたな」
紅葉山の朱の鳥居に阻まれる空を見上げる。
曇り空は立ち並ぶ朱の鳥居に区切られ、長方形に切り分けられている。
この不安定な天候の中でも石段を登り続けるのは、麓にあるうちの豆腐屋で揚げたあぶらあげを奉納するためだ。
この習慣を初めて千年余り。
秋津家のこの苦行──いや習慣は、古くから女の役割なのだが、こうして俺が石段を登っているのは、今我が家に役目をこなす女が存在しないからだ。
となると、残された俺が代理をこなすしかない。
婿養子である父さんより無信心な俺が、この伝統を守るというのは矛盾すら感じる。
信じている奴が代わってくれるなら俺はそれで充分だと思うんだけど、父さんは仕事もあるし学生の俺が代わりをするというのは理にかなっていた。
この紅葉山は九尾の狐伝説が存在し、同時に稲荷大社が建立されている。
巨大な鳥居が山中を余すところなく杭を打つ稲荷大社は九尾の狐信仰と稲荷信仰が掻き混ざり、信仰のない俺でもそれでいいのか? と思うくらいに一緒くたになった「お狐様信仰」というものが確立していた。
朱秦稲荷大社、九尾雅親伝承跡をはじめ巨大な山は朱の鳥居で赤く染まり、その壮観さがこのド田舎を観光地として生かしている。
この山のおかげで、集落は生きていた。
駅前から続くまっすぐの石畳は観光客が迷わないように整備され、表参道を通り山頂までの八八八段を登るまでが、地元産業の腕の見せ所だった。
土産屋、団子屋、蕎麦屋。
学校病院公民館などは表通りから隠居させられ、裏手にひっそりと佇んでいる。
この町はこの紅葉山によって、全ての生活を支配されていると言ってもいい。
町の人口の半分は老人ということから、信心深い層はまだ残っているだろうが、果たして若いやつらはどう見ているだろう。
俺のようにただ商業活動のネタとしか思っていないだろう。
最も、俺の不信心さを揺るがないものにしているのは、神様を信じ毎日供物を届けに山を往復していた母さんが、事故で帰らぬ人になってしまったということなのだが。
信じていても、結局は生きていたいという願いすら叶えてはくれない。
得られるものは何なのか、俺には分からない。
ただ母さんは、この山のヌシである稲荷神の姿を視ることができた──らしい。
秋津家が千年に渡ってこの山に供物を運び続けるのは、代々の女たちが母さんと同じような目を持っていたからだ。
たしかにこの山の稲荷神を視ることができれば、この毎日の苦行も楽しいのかもしれないが、信心深くないせいかそういう類のものは、産まれて十四年一度も目にした覚えがない。
が、実際のところ、会って何を話すんだ?
学校面倒くさいとか、世間はお先真っ暗な様子だとか、毎日つまんないとか、そんな話するのか?
一日で話のネタが尽きるよなぁ。
そりゃ着物とか着てた時代は娯楽もないだろうから、話してるだけで楽しかったかもしれないけどね。
手の中の揚げたてあぶらあげに、雨粒がぽつりぽつりと落ちてくる。
分厚く重なる木々の下を行けば傘などいらないので、だらだらと石段を上がっていく。
怠い続きでもこうして続けているのは、偶然を装って会いたい人物がいるからだ。
腕時計を見ると、時刻は十八時五分過ぎ。
平日のこの時間大体参道に下りれば会える。
「祐喜~!」
声をかけられて怠そうに下げていた視線を上げると、ポニーテールが視界に入った。声をかけてきた少女の名前は秋津柚香。
俺の二つ上で十六歳。
うちの遠縁で、十数年前にここへ引っ越してきた。
今は都会の私立高校に進学してテニス部に入ったとかで、日々トレーニングのためにジョギングしている。
黒いスニーカーで石段を蹴るのを止めて、声をかけてきた。
「お疲れ様、お供物の奉納は終わったのかな?」
「そーだよ。ばあちゃんは今日も足が痛くて石段が辛いんだってよ」
「そんな憎々しげに言わないんだよ……祐喜はこの仕事、嫌なの?」
柚香が首を傾げるとポニーテールがひょんと揺れてみせる。
「嫌っていうか、そもそも……ウチの女の仕事だし」
ここ数年なんか山も鬱蒼として怖いなんて言うと、怖がりだと笑われそうなので言わない。
「神様は待ってると思うよ祐喜のこと。あ、そうそう帰りに届けに行こうと思ってた山芋の磯辺揚げ、はい」
柚香はぎゅうぎゅう詰めの総菜を手渡してきた。
「おっ、ありがとな。なんかいつも悪いな……」
「お母さんがいなくて色々大変でしょ。じゃあ、また明日会えたら」
柚香は軽く手を振って山頂一ノ宮へ向けて走り出す。
こうして柚香と会えるから俺は山に登ってる。
柚香は何かと母親のいない俺に気を遣って、ばあちゃんの世話や夕飯の残りを持ってきてくれたりする。
分家の人間だからか俺がこうして山に登って、供物を供える習慣を笑ったり馬鹿にしたりもしない。
それに柚香は俺と違ってそこそこ信心深いようで、昔住んでいた大江にもあった稲荷神社の御守りを持っていたり、神秘的なものに興味を示したりする。
だから俺は彼女に面と向かって神様なんているわけねーじゃん、とか言えない。
黒くて大きな目が、超自然的な話に興味を持って輝く様を何度見たことか。
昔、柚香は信心深いし、秋津の女なんだからこの仕事変わってくれ! と、ばあちゃんに相談したことがあった。
この仕事を──『柚子』を柚香に代わってもらえないかと。
だが、ばあちゃんはきっぱりと「無理だね」と言った。
この時のばあちゃんの対応は、今も俺の中では忘れられない。
額を押さえて大きなため息をすると、神棚に両手を擦り頭を下げ
「あぁ、本当にごめんよ。ごめんよ。どうしてこの子はこんなに自分勝手で馬鹿なんだろうね。どうして視えないんだろうね。どうして気づけないんだろうね……」
念仏のようにそう言って俺を卑下したのだ。
ばあちゃんにとって、孫の俺より神様の方が大事なのだと知った。
神様前提で回るこの町のシステムに、正直、反吐が出る。
俺は高校に入ったら絶対にここから離れて、柚香のように都会の高校に行く。
生まれてきた意味を、ただの代理の『柚子』としてしかみてもらえないようなこんな田舎とは早々におさらばだ。
帰路についていた俺の視界の端、石畳の上に落ちたお守りがあった。
「あれ、行きには見なかったよな……」
御守りはピンク色で、根付けが千切れたのだろう。
まだ濡れてはいないので、落ちてそんな時間は経っていないように見える。
キティちゃんが刺繍されているお守り。
大江山稲荷大社と金糸で書かれているので、このあたりの土産屋の売り物が落ちているわけではない。
柚香のケータイについているストラップの一つだと気づく。
たしか大事にしていたはずだ。
届けてやらないと困るよな。
っていうか、届けるって口実で柚香の家行くってのもいいよな。
ふぅむ。別に不自然じゃない。ごくごく自然な流れで柚香の家に行けるよな。
お守りをポケットに入れて、駅前にある柚香の家へ進もうとしたところで足が止まった。
雨の為に早々に店じまいした、雨の三ノ宮参道。
暗闇に押しつぶされるように参道脇の竹林から柳のように竹の葉が垂れ、道のトンネルになっている。
ぽつりぽつりと落ちる雨粒が、景色を縫って落ちていく。
雨粒が落ちているそこは、俺の目に物体があるように見える。
──本当ならそこで、雨粒は物体の肩や腕に落ち、跳ね返らなければならない。
その自然の摂理をねじ曲げて、まるで幽霊のようにそこに影が立っていた。
時代錯誤の昔のお姫様のような丈の長い若竹色の着物。
幽霊のように長く垂れた白銀の髪は、同様に雨に濡れた様子もない。
唇をぎゅっと噛み、青い目でこちらを睨んでいる。
視線が合うと、逸らせない。
「え、と──どうかしましたか?」
周囲に人影はないので、もちろん睨んでいるのは俺だろうが、初めて見た相手に睨まれるような悪いことはしていないはずだ。
まるで投影機に映しているかのように、女は少し揺らめいて見える。
「……私が視えるのか」
俺が感じていた違和感も拭えるだろうと近づくと、同じように着物の女は俺へと歩を進めて距離を詰めた。
蜃気楼に揺れる美しい──女だった。
「やっと私を視えるようになったのか『柚子』」
距離を近づけたことで、俺は足を止め雨の檻に閉じ込められた。
視線だけが忙しく女の姿を確認する。
金色の簪、飴色の襦袢。
少しつんと上がった目を縁取る化粧と口紅。
だがやはり、雨粒は女を透過する。
この世のものであって、そうではないもの。
なにより俺を『柚子』と呼んだことで、結びつくはずのない思考ががっちりと組み合った。
「お前……って、まさか」
視線を女から、背を覆うようにして聳える紅葉山へ移してそれから女へ戻す。
女は俺をじっと見つめたままだ。
「まさか……嘘だろ。お前が……」
女は俺の言葉を無視し、衿を掴んだ。
雨粒は女の存在を無視したのに、なぜか女は俺に干渉できた。
懐から見事な扇を取り出すと、女は容赦なく俺の左頬を打ち据えた。
「……痛っ……」
幻想的な空間は、その一撃で醒めた。
いきなり叩かれれば、誰でもそうだろうが。
「お兄様をどこへ隠した」
「おにい……?」
「お兄様を──帰してもらうぞ、『柚子』」
青い瞳に吸い込まれるように、俺はそのまま体中の自由を失い強制的に意識を手放した。