濡れ衣で毛選り場を追われたので、十二年ぶんの梳き分けの札を全部お出しします。冬、あの家の反物は起きません
毛束の先を、もう一度撫でた。背中で聞いてしまったので、私の指は、こういう時にも仕事をやめない。
「明日から、あれを毛選り場へ入れるな」
アシュビー・クロフトの声だった。私の名を使わずに済ませたのは、選り棚の間に女が私一人しかいなかったからだろう。
「でも差配役は、奥さんでしょう」
若い衆の一人が言うと、机を指で叩く音がした。
「役は外す。家の毛を守るためだ。余計なことを本人へ言う必要はない」
何から守るのかは、私の背中には教えられなかった。
手元にあるのは、二年寝かせた上等の一束だった。白く見えても、内側の縮れが細く揃っているところと、寝かせの間に重みを食ったところとでは、同じ扱いにはできない。私は束の腹へ指を差し入れ、軽い側だけを手前へ返した。
「札も要らん。束数と手順が揃えば済む」
机の上で紙が鳴った。私が十二年、毛ごとに書いてきた札の一枚だった。
「羊毛は、買えば手に入ります」
その通りなら、たいそう簡単だ。羊も牧も、刈った日の風も、ひとまとめに束数へ入ってくれる。
私は振り向かず、二年寝かせた一束へ札を結んだ。紙紐を締める指が一度滑ったので、結び目だけやり直した。
「聞こえているのでは」
フェントン・ダーシーが声を落とした。
「なら、手が止まるだろう」
止めるほど暇ではなかった。今日の毛は、今日のうちに選らねばならない。
昼の鐘が鳴っても、棚の端に置いたパンには手を伸ばせなかった。ようやく齧った時には脂が白く固まり、歯の跡だけが残った。
その日の終わりまでに、私は二十七束を分けた。札には毛の縮れ、傷み、刈り時、寝かせを書いた。明日から入るなと言われた場所のために、最後の一字まで読める形にした。
* * *
翌朝、柱に大きな紙が貼られた。フェントンが釘を打ち、若い衆がその下へ集まった。
「細い毛は左、太い毛は右。傷んだ毛は別籠。十束ごとに札一枚。これで誰でも選れる」
フェントンは貼り紙の端を叩いた。若い衆の一人が笑い、もう一人もアシュビーの顔を見て口を開けた。
「奥さんの札は細かすぎたんですよ。去年の北の牧だの、雨の前に刈っただの」
「字まで小さい」
「読まなければ大きさは関係ありません」
私が言うと、フェントンは札を一枚掲げた。上下が逆だった。
「要するに、上等か並かだろう」
「そちらには、刈るのを六日待っていただくとあります」
「ほら、そういうのだ。毛選りに要らない話まで書く」
札を机へ放ったのはアシュビーだった。若い衆には短く言い切る人である。
「今後は私の手順に従え。勝手な見立てで家の品を動かした者は、盗みと同じに扱う」
同じ、という便利な言葉が出た。何を盗んだのか尋ねる相手には、何も告げないまま使える。
「奥さん、聞いたな」
「明日から入るな、とは昨日うかがいました」
「話を取り違えるな。疑いが晴れるまでは、ということだ」
「どの疑いでしょう」
アシュビーの指が机をもう一度叩いた。
「口答えをする立場か」
疑いの中身は、やはり机より小さな音になった。
私は残っていた札を揃えた。今日の分を終えるまでは私の役だと、誰も否定しなかった。役は外しても、都合のよい手だけは夕刻まで置いておけるらしい。
牧三軒へも使いを出した。東寄りの牧には刈りを四日待つように、川沿いには朝露の乾いた後に、丘の牧には腹の毛を混ぜぬようにと、それぞれ別の言伝を持たせた。
「もう奥さんの役じゃないでしょう」
フェントンが通路へ半歩出て、私の持つ札束を覗き込んだ。
「今日までは、差配人殿のお手元の毛です」
「律儀なことだ」
「刈られた毛には、明日からという都合が通じませんので」
彼は笑いかけ、アシュビーも口の端を動かした。二人の目が合ったところで、私は札束を胸から下ろした。通路を塞ぐほどの用事ではなかったらしく、フェントンの靴が脇へ退いた。
夕刻、選り棚には明日から使う籠が並べられた。札の代わりに、左、右、別籠、と大きく書かれていた。
私は冷えたパンの残りを布へ包んだ。食べる時間まで、家の手順に含めてはもらえなかった。
* * *
次の朝、十二年ぶんの札を机へ積んだ。年ごとに紐を替えてあるので、古い順に読めば、どの牧の毛がどの冬に軽く起きたかまで辿れる。
アシュビーは一番上の札をつまみ上げた。
「これだけあると、かえって扱いにくい」
「全部、お出しします」
「必要なところだけ抜けばよい」
「どこが必要かは、札を読んでお決めください」
若い衆の視線が束の間を行き来した。フェントンは柱の貼り紙を見たまま、何も言わなかった。
「北の牧、三年前、二番刈り。『外は乾き、芯は重い。春まで寝かす』。春まで置いたら上等になる、という意味か」
アシュビーが読んだ。
「三年前の毛でしたら」
「そう聞いている」
「その札は、雨の翌日に刈った毛を春まで上等の棚へ入れない、という意味です」
「では、そう書けばいい」
「書いてございます」
札の下段を指すと、彼は紙を机へ落とした。細かな字は要らないと言った人のために、大きく書き直す役までは請けていない。
私は梳き板を布で拭いた。歯の間に残った毛を一本ずつ抜き、鋏の合わせ目から脂を取り、どちらもいつもの位置へ戻した。持って出るものは布包みと、昨夜のパンだけだった。
「道具は置いていくのか」
「家のものでございます」
「札もな」
「そのために積みました」
アシュビーは返事をしなかった。札の束は机の半分を占めていたが、その場の誰からも一枚を開く音はしなかった。
最後に、二年寝かせた一束が残った。昨日までなら、見ただけで指が伸びた。今日は束の手前で止まった。
白い毛の奥には、まだ光を抱かない縮れがある。冬の乾きに当てれば、布にした時、軽く起きる。十二年前、初めてこの家の札を書いた日から、こういう一束を待っていた。
私は声を一段落とした。
「わたくしはこの一束を、十二年、わたくしの毛だと思うて寝かせておりました」
フェントンの靴が床を擦った。アシュビーは札を揃えるふりをして、端をかえって崩した。
「家の毛だ」
「はい」
私は束へ触れず、梳き板の横へ置いた。
「札の読み方を、誰かに引き継いでから出ろ」
「どなたへでしょう」
アシュビーが若い衆を見た。若い衆は柱の手順を見た。フェントンは札の束から手を離した。
「札は机に積みました。読める方がいらっしゃるなら、それでよろしゅうございます」
「今日中に決める」
「私は昨日、明日から入るなとうかがいました」
布包みを腕へ掛けると、アシュビーは私の前ではなく、若い衆の前で机を叩いた。
「行かせろ。手順は残っている」
通路が開いた。私は選り場を出た。
戸口を閉める前に、一束だけ見た。指は布包みの端をつまんだまま、動かなかった。
* * *
半年、何も変わらなかった。
棚には私が選り分けた毛が残っていた。それを使う間は、同じほどの反物が出て、荷車も同じ日に門を通った。選り棚の上段がひとつ空き、次にその下が空いたが、遠目には整頓されたように見えた。
アシュビーは仲買の前で、柱の紙を指した。
「長く人に頼っていた仕事を、手順へ改めましてね。束数も前より明瞭です」
フェントンが紙の端を押さえ、若い衆は教わったとおりに笑った。仲買は札より大きな字だけを眺めて帰った。
(羊毛なんぞ、買えば手に入る——)
私はその場にいなかったが、後になって彼が何度も同じ調子で牧を回ったと聞いた。聞かせた人は、最後に空の荷車の話だけを足した。
私の方では、講の女衆が長机の端を空けてくれた。縫い物と繕い物の間に毛束を置くと、一人が椀を中央へ押し出した。
「奥さん、先に食べな。毛は逃げないよ」
「冷めますので、こちらを済ませてから」
「だから、先に食べなって言ってるんだよ」
豆のスープから湯気が上がっていた。私は椀を両手で包んだ。指の腹についた毛の脂が、温かさで少し緩んだ。
別の家から持ち込まれた毛にも触れた。灰色の束は見かけより芯が乾き、茶の束は先だけが傷んでいた。頼まれた分だけ札を書き、頼まれていない家の棚まで背負うことはしなかった。
「これ、うちの毛じゃ駄目かい」
「駄目ではありません。今は混ぜない方がよろしいです」
「じゃあ、いつならいい」
「次の刈りを見てから」
「食べながらでいいよ」
女衆は仕事と食事を同じ調子で勧めた。私は二口目を、湯気が残っているうちに飲んだ。
季節が進み、元の家の選り棚から、私の選った毛がなくなった。そこまでは、本当に何も変わらなかった。
* * *
冬の朝、スチュアート・ブリスが反物を持って元の家へ来た。私は講の女衆へ頼まれた毛を見ていたが、昼前にルクレツィア・ハーコートの使いが呼びに来た。
「奥さんにも、見ていただきたいそうです」
「私はあの家の者ではありません」
「ご主家様からです」
「でしたら、拝見するだけにいたします」
選り場の前には荷車が停まり、降ろされるはずの空籠は荷台に載ったままだった。反物は長机へ広げられていた。
スチュアートは挨拶を済ませると、布の表を掌で撫でた。もう一度、逆向きに撫でた。首を振った。
「この荷は、お返しします」
アシュビーは彼が話し終えるまで口を挟まなかった。
「どこに不備がございましたでしょう、ブリス殿」
「起きません」
「織りの具合では」
「こちらで確かめました」
「梳きも、以前と同じ束数でしております。手順もこの通りです」
フェントンが柱を指した。自分で貼った紙なのに、そこから手を離すのが早かった。
スチュアートは返事の代わりに、反物をアシュビーの前へ押した。毛羽が伏せたまま、掌の跡だけが鈍く残った。
「札も残っております」
ルクレツィアが机の束から一枚を取った。彼女が札を手にするのを、私は初めて見た。表を読み、裏へ返し、下段で指を止めたが、やがて元の場所へ置いた。
「クロフト。これは何を示す札です」
「古い毛の覚え書きでございます。今の品は、私が新しい手順で管理しております」
「では、今の品が起きない理由を」
「新しい毛は多少、具合が違うものです。次は調整を」
スチュアートの視線が、柱の紙から選り棚へ移った。棚は空だった。それから、戸口に立つ私へ来た。
「フェアリード奥さん。この毛をご覧になりましたか」
「いいえ」
「札は」
「去年までの毛の分は、机に置いてまいりました」
「今年の毛の札は」
「私は選っておりませんので」
スチュアートは反物を畳んだ。布の端が重なるたび、起きない表が冬の光を平たく返した。
「では、返す理由はこれで足ります」
「ブリス殿、お待ちください。長い取引です」
アシュビーが敬称を足した。
「長い取引ですから、受け取れません」
スチュアートは荷札を裏返し、返却の印を押した。朱が乾く前に紐を結び、反物を荷車へ戻した。
ルクレツィアは止めなかった。門が開き、積んできた荷が積まれたまま出ていった。
翌月の注文は来なかった。その次の注文書も、机の場所だけを空けた。仲買は門前で馬首を返し、近隣では「あの家は選りの手が抜けた」と、声を低くする必要もなくなった。
「奥さん」
ルクレツィアが私を呼んだ。
「この札を、今から読んでもらうことはできますか」
「札にない毛は、読めません」
彼女は空の棚を見た。それから札を一枚取り、今度は机へ戻さず、両手で持った。
「分かりました」
言い訳はなかった。私は反物へも、空の棚へも手を出さず、講の長机へ戻った。
* * *
アシュビーは牧へ出向いた。私が最後に刈り時を伝えた三軒にも、同じ束数で買うと告げたらしい。
丘の牧で、ホッブ・ケイドは納屋の戸を半分だけ開けた。私が講の女衆と毛を受け取りに行った時、アシュビーの馬がまだ杭へ繋がれていた。
「四十年の付き合いでしょう、ケイド殿」
「四十年、毛を見てもらった」
「ならば今年も、ハーコート家へ」
「今年の毛を、去年と同じだと言ったな」
「束数と値は変えません。むしろ安定した取引です」
ホッブは戸の隙間から一束を出した。冬毛の先に、薄い土色が残っていた。
「こいつを去年と同じにするなら、渡さん」
「汚れは落とせます」
「汚れの話はしとらん」
アシュビーはホッブが言い終えるまで待った。若い衆へ向ける声なら、とっくに机を探して叩いている頃だった。
「では、フェアリードが何と言ったか、お聞かせ願えますか」
「奥さんは、まだ何も言っとらん」
ホッブは束を私へ差し出した。毛へ指が伸びた。先を分け、腹へ入れ、縮れを一度押して返すと、湿りが内側に残った。
「今は開かず、風の通るところへ。三日後にもう一度見せてください」
「そうする」
「ケイド殿。それは、私どもへ納める毛です」
アシュビーの語尾が痩せた。
「違う」
「長年、家が買ってきた」
ホッブは納屋の戸を開ききった。奥には今年の毛が積まれていたが、一束にもハーコート家の荷札はついていなかった。
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
私は受け取った一束の端を揃えた。アシュビーは何も挟まなかった。
そこへスチュアートの荷車が来た。空籠ではなく、作業台と秤、それから最初に見るための一束を積んでいた。
「フェアリード奥さん。織元として、あなたが選った毛を買いたい」
「場所がございません」
「あるよ」
講の女衆の一人が言った。
「裏の納屋を片づけた。豆袋を半分寄せれば足りる」
「半分じゃ狭いよ。全部寄せな」
「スープの豆まで追い出さないでください」
「じゃあ、奥さんが毛と豆を選り分けな」
女衆は椀を勧める時と同じ調子で、戸板と箒を持ち上げた。ホッブは三日後に持ってくる束数を指で示し、スチュアートは最初の一束を作業台へ置いた。それ以上の言葉を、それぞれ足さなかった。
私は札を一枚取り出した。上には家名ではなく、タムシン・フェアリードと書いた。
その冬、私の選り場ができた。
* * *
ルクレツィアはアシュビーを空の選り棚の前へ呼んだ。
「本日で、差配を解きます」
フェントンには柱の紙を自分の手で剥がさせた。
「私は差配人殿に言われたとおりにしただけです」
フェントンは紙を丸めかけた。
「広げたまま置きなさい」
ルクレツィアの一言で、彼は両手を離した。誰でも選れると笑った紙は、床の上で片端だけ巻き戻った。
彼女は牧と織元を自分で回った。私のところへ来た時も、供を戸外に残し、一人で頭を下げた。
「任せきりにしました。あなたへ告げずに外したことも、札を読もうとしなかったことも、私の責任です。申し訳ありませんでした」
私は作業台の端へ布を敷いた。彼女へ椅子を勧めることはできたが、元の家へ戻る道まで敷くことはしなかった。
「お顔をお上げください」
「戻ってほしいとは申しません」
「はい」
「家の毛を救ってほしいとも」
「はい」
ルクレツィアはもう一度頭を下げ、空の手で帰った。
数日後、アシュビーが来た。新しい選り場の戸口で帽子を持ち、作業台の毛を見た。
「フェアリード。話がある」
「タムシン・フェアリードの選り場へ、どのようなご用でしょう」
「……フェアリード奥さん。以前のことは、家を守るためだった。疑いも、結局は確かなものではなかった」
確かでないもののために外したとは、ずいぶん確かな口で言った。
「今、選り場には人が足りない。札を読める者もいない。戻れば、差配役として扱う。給金も改めよう」
「家の毛は、おありでしょう」
「ある。だからこそ、あなたの見立てが要る」
私は二年寝かせた一束へ指を入れた。ルクレツィアが、結ばれた札ごと置いていった、あの家で最後に指を止めた毛だった。今は私の名で選っている。
指を開くと、細い縮れが光を含んで起きた。
「羊毛は、買えば手に入ります」
アシュビーの口が閉じた。
私は束を窓へ掲げた。白い毛は冬の朝を抱き、指の間で軽く膨らんだ。迷うところはなかった。
戸口の向こうで、講の女衆が鍋を鳴らした。
「奥さん、豆のスープだよ。今度こそ冷ますんじゃないよ」
「この一束だけ済ませます」
「それを言うと思って、椀を持ってきた」
湯気の立つ椀が作業台の中央へ押し出された。アシュビーの立つ場所には、椀も椅子もなかった。
私は札へ、自分の名を書いた。毛の半分は織元へ、残りは講の女衆の肩掛けへ回すと決めた。
「白いのは奥さんの分だよ」
「同じ毛を分けます」
「じゃあ、誰のがどれか分からなくなるね」
「札をつけますので」
女衆が笑い、椀を両手へ押しつけた。今度は先に一口飲んだ。
窓辺では、私の名で選った一束が白く起きていた。空いた指が、次の毛へ伸びた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




