②
そして、休む暇もなく鏡の前に連れて行かれ、漆黒の髪が結われていくのを眺める。最後に、“姫”の象徴とでもいうようにティアラを載せられた。
「いかがでしょう?」
等身大の鏡の前に立ち、リーフェルは自分の姿を見つめる。満足気な専属侍女が仕立てた、『姫』の姿を。
(もし、この『姫』が『リーフェル』であることを示す物があるとすれば、この首飾りだけね……)
きらきらと光る頭上の宝石を見て、リーフェルは寂しく思った。それが、顔に出ていたのだろうか、沈黙したせいだろうか、心配そうにカルレーテが訊いてきた。
「どうですか?お気に召しませんでしたか?」
「ううん。とっても綺麗よ、ありがとう」
カルレーテは喜びに頬を紅潮させて笑った。その素直な笑顔が可愛くて、まぶしくて……。リーフェルはつられたように笑顔になった。けれど、その笑みはカルレーテより大人びており、陰りを含んでいた。
「では姫様、食堂に参りましょう」
「あっ」
やっと分かった。今まで会話をしている度に感じていた違和感の正体が。
「カルレーテさん」
「姫様、私のことは呼び捨てで呼んでください。そのほうが楽ですわ」
『呼び方』である。今日初めて呼ばれた“姫様”では自分を呼ばれた気がしないのだ。
「でしたら、あなたも私のことは名前で呼んでください」
「え、な、名前?」
カルレーテは、先の喜びよりも大きく困惑した。
「そんな、恐れ多いこと……」
身分の違いから戸惑うカルレーテに、リーフェルは寂しさを募らせる。掴まないと掌からすり抜けてしまうと感じるのに、掴ませてくれない。まるで水のように、空気のように掴むことが出来ない。
(――っ。どうしてっ)
恐怖が、心を締め付ける。
「恐れ多くなんかないわ。私はリーフェルだもの。昨日までただの平民だったのよ。だから…お願い、『私』を呼んで……」
主の懇願にカルレーテはつい、頷いた。その途端、リーフェルの顔がほっと緩んだのを、カルレーテは見逃さなかった。
「ありがとう、カルレーテ」
そして、笑顔で名を呼ぶ。こんな笑顔が見られるなら……とカルレーテは姉になった気分で苦笑し、負けを認めた。
「では参りましょうか、リル様」
「はいっ」
リーフェルは元気良く返事をし、今までで最高の笑みを浮かべた。
カルレーテに付いて廊下に出た瞬間、リーフェルは幅広く長い廊下に圧倒された。所々開いている窓から差し込む光と、陽の明るさにしては冷たい風が、露出している部分を撫でていく。かかとの低い靴と膝までの短いドレスのおかげで歩きにくくない。そんなカルレーテの気遣いが嬉しかった。
一人では迷いそうな程、幾度も角を曲がって食堂に着いた。そこには多めの料理が机に並んでおり、椅子に座ってしばらく食事をしていると、使いの者が現れた。
「お食事中に失礼します。ティオロ様から、時間が空きましたらいらしてくださいとの伝言を預かりました」
リーフェルはすぐに手にしていた物を置き、
「わかりました。あ、少し待っていて。このままティオロさんのところにつれていいってくださいな。」
侍女に椅子を引いてもらうことすら忘れて、慌てて立ち上がった。扉のほうに足を向けかけて、傍らにたたずむ料理長に気付く。
「料理長さん、残してしまってすみません。でも、おいしかったですわ。また作ってくださいね。…カルレーテ参りましょう」
リーフェルが急くように足早に去っていったので、食堂には、しばらくの沈黙が下りた。
「リル様!」
食堂から十歩程度の廊下で、カルレーテはリーフェルを呼び止めた。リーフェルが振り返り、その漆黒の瞳がカルレーテを捉える。
「そんなに急がれなくても、ティオロ様は待っていてくださいますよ」
「え、私早足だった?」
「はい。なんだか急いでおられるようでしたけど」
カルレーテはリーフェルに追いつき、一緒に歩き出す。それを見て使いにきた男も五歩先を再び歩き出した。
「どうかなさいましたか?」
隣から覗き込むようにカルレーテが訊いてくる。リーフェルは顔を俯けた。
「いえ。ごめんなさい。――ただ、待たせるのは嫌…だから」
最後は独り言のようで聞き取れず、聞き返しても彼女は首を振り、教えてくれなかった。拒否を示したその顔は、寂しそうに辛そうに歪んでいた。カルレーテは何を言ったら良いのか分からず、黙り込んでしまう。
二人の声がなくなり、静まり返った廊下は、ただ、孤独感を強めるだけ。重い沈黙を破ることなく進み続けた三人は、そのうち、一つの部屋にたどり着いた。大きな扉は開け放たれており、正面の机には人が座っていた。
「ティオロ様!お連れ致しました」
躊躇なく部屋に入り込んだ男は、扉近くのリーフェル達にさえ聞こえる声量でティオロの耳元に声を掛ける。一度目を上げ、リーフェルの姿を認めたティオロは彼女の前に歩み出る。
「ああ、これは失礼を。初めまして姫様、私がティオロです。以後、姫様の側近としてお仕え致します。なんなりとお申し付けください」
ティオロは丁寧に頭を下げた。しかし、腰を折る正式な礼ではなかった。まだここでの礼儀を知らないリーフェルはそのことに気がつかなかった。
「あ、こちらこそ……」
いつものように言いかけて、自分の身分を思い出す。リーフェルは出来るだけ優雅に笑ってみせた。
「初めまして、ティオロさん。私はリル。リルと呼んでくださると嬉しいわ」
「は……」
突拍子もないことを言われ、ティオロは一瞬言葉を失う。説明を求めカルレーテを見やれば、彼女はただ微笑みたたずんでいた。詳しいことは何も分からなかったが、わかりました、と言うとリーフェルはますます笑みを深めた。
思わぬ事態に調子を崩したティオロは、咳払いを一つする。
「まあ、それより、あなたには話さなければならないことがあるのです。どうぞ、お入りください」
ティオロは部屋の右側にある休憩用のテーブルを勧めた。ティオロとリーフェルは向かい合って座り、カルレーテがリーフェルの傍に控える。使いに現れた男は部屋を辞した。
「あ…何もお出ししてなくてすみません。今出しますね」
かまいません、と言おうとしたリーフェルより早くティオロは立ち上がる。
ティオロがお茶の準備をしている間、リーフェルは彼を観察していた。
髪は茶で、短く切ってあるため清潔そうな印象を与え、瞳の黄色は明るく、活発そうだった。官服は隙なく着こなされ、熟練の手練れという印象を与えた。彼の実年齢は二十二なのだが、その無愛想な態度に、リーフェルはその十歳以上年かさに感じた。
彼が準備を終えて振り返ったとき、リーフェルはふと、その瞳に既視感を覚えた。
「あ、れ?私…あなたと前にお会いしたかしら?」
ティオロは席に着き、カップをそれぞれの前に置く。
「いえ。僕も現界には行ったことがありますが、お会いしていないと思いますよ」
「そうですよね。すみません、私ったら…。気を悪くなさらないでね」
ティオロは想像していたよりも優しく微笑んだ。