⑧
その向こうにあったのは新たな扉だった。セフミナミヤは一つ目の扉には入ってこなかったから、自分で開ける。中は光で溢れていた。
「おかえり、セフミナミヤ。早速で悪いんだけど、お茶を淹れてちょうだい」
サイラはベッドにうつ伏せに寝転んで読書をしていた。顔を上げずに言ったため、リーフェルをセフミナミヤと勘違いしたのだ。リーフェルは気を悪くすることもなく、部屋の隅に置かれている急須でお茶を淹れる。自分のことはほとんど自分でするリーフェルには慣れた手作業だった。
「何を読んでいらっしゃるのですか?」
「んー、童話よ童話。昔読んだお話__」
サイラはカップを受け取ると一口飲み、顔を上げた瞬間カップを取り落とすほど仰天した。
「姫様!?」
叫び声と共に指から落ちたカップを、リーフェルはシーツに跳ねる前に拾い上げた。自然の理に従っていくらかはカップから零れ、茶色い染みを作る。カップを手に顔を上げたリーフェルは案の定、サイラの顔に見惚れる。一言で言うならば、自分とは比にならないほど美しい。
緩やかなウエーブの掛かった銀髪に囲まれた顔は、陽の下に出たことのないように雪のように白かった。ぱっちりと見開かれている瞳は晴れ渡った空のような色をしており、高い鼻の下ではふっくらとした唇が半開きになっている。
彼女のような人を美人だというのだろうか。整っているという言葉では足りない。リーフェルは自分の頬が染まるのを自覚した。夢見心地でサイラを見ていたリーフェルは、彼女が戸惑ったように視線を外してやっと我に返った。そして、ベッドを降りて拝礼しようとする彼女を慌てて止める。
「頭なんか下げないでください。私はただの人間です」
リーフェルはサイラをベッドに座るように促し、自分は傍の椅子に腰を落ち着けた。
「いいえ!姉様は……っ__ぁっ」
勢いで口を滑らせたことに気づいたサイラは小さく声を上げて自らの口を両手で押さえる。リーフェルはその様子に相好を崩し、それを苦笑に変えた。
「あなたはご存知だったのですね、私のこと」
彼女は『姫』が彼女だけでないことも、リーフェルと姉妹であることも予め知っていたのだ。誰が話したのかは知らないが、天界に三十年余りも住んでいながら何も出来ず城の一室で日々を過ごすしかない彼女にとって、リーフェルの存在はどれほど疎ましかっただろう。そう考え、恨み言でも貰うだろうというリーフェルの予想を裏切り、サイラは恥ずかしさち嬉しさが混ざったように微笑んだ。
「……はい。ずっと、会ってお話がしたかったのです」
リーフェルは言葉を失って瞬きを繰り返す。しかし、やがてその意味を理解した彼女は小さく顔を歪めた。その言葉は人聞きは良いが、裏を返せば王への恨み言に聞こえなくもない。
「王を、恨んでいらっしゃいますか?」
唐突なリーフェルの質問にサイラは戸惑う。深読みしすぎたかもしれないと思いながらも、リーフェルは言葉を続けた。
「元気な私だけを逃がして、あなたをここに閉じ込めた__この状況を作ったのは王でしょう。あなたは未だ体調が優れず幽閉されている……。そのことをどう思っていらっしゃいますか」
リーフェルが見つめるサイラの瞳が哀しそうに細められた。何かを求めるように、天井を仰ぐ。彼女の声はとても静かだった。
「この世界はね、『ちから』がないと辛いの。空気と同じように『ちから』が世界中に漂っているから。強いものはそれを糧にするけれど、弱いものは蝕まれる」
それはおそらく、人間に『ちから』自体が悪く働くことと同じ原理だ。
サイラは顔を正面に向けると、微笑した。
「特にこの天宮は『ちから』が自然に集まってしまうから、私が今こうしていられることはほとんど奇跡に近いものなの。全て王の配慮と医院の協力のおかげだわ。私は、感謝してる」
百点満点の答えだった。付け入る隙さえない。しかし、どうしても残る違和感。
「それが、あなたの本音ですか?」
少し低くなったリーフェルの声に、サイラはぴくりと笑顔を硬くした。一瞬遅れた答えを彼女に語らせることなく、リーフェルは畳み掛ける。
「生まれたときから姫であることを強いられたあなたであれば、本音は隠せと教育されておられるのかもしれませんが、『姫』という肩書きがあなたにしてくれたことは何ですか?自分の想いは押し殺して人々の上に立たなければならない…そんな重荷を背負わされておきながら、良いことなんて一つもないでしょう。近づいてくる人たちはご機嫌をとって利用するだけ。第一、あなたが『ちから』を失うきっかけになったのだって、王家が狙われたからにすぎない。あなたをこんな状況下に縛っている全ての根源は、『姫』であるという肩書きなのです。それでも__」
「やめてっっ!!!」
悲鳴が、部屋に響いた。詰っていたリーフェルは思わず言葉を止める。俯いたサイラの拳は膝上できつく握られ、その甲を涙がドレスに染み込む。
「やめてよ…。どうしてそんなこと言うのよ。どうして良い子でさえも居させてくれないのっ!!」
サイラの肩が震える。リーフェルはそれにそっと手を置いた。
「私の前で、良い子でいる必要がありますか?ただの人間の前で、『姫』なんて肩書きで見栄を張る必要はないでしょう?」
諭す口調に、サイラはゆるゆると顔を上げた。
「話してください、あなたの本音を。一人で抱え込まないで」
それは他人に話を聞いてもらったことでトラウマを乗り越えられた彼女なりの言葉だった。