⑦
セフミナミヤの涙が止まった頃、すぐに部屋を出ようとする彼女を制して、リーフェルは鏡台に向かった。頭上のティアラを外し、まとめていた髪紐を解く。
「リル様?何をなさっているのです?」
怪訝そうなセフミナミヤを鏡ごしに眺めて、リーフェルは微笑した。
「着替えを、しようかと思いまして。天姫様にお会いするのに相応しい格好をしなければ、ね」
手伝うという申し出を断って、リーフェルは来ていたドレスさえ脱ぎ落とした。それの左右に結んであるリボンを抜き取る。
身に付けるのは、手持ちの中で最も仰々しくない薄い黄色の膝丈ドレス。飾りは腰にリボンが一つきり。靴も踵の低いものを選び、他に身に付けている装飾品といえば天界に来てから一度も外したことのない、現界から持ち込んだ首飾りだけ。そして、下ろした髪は抜き取ったリボンで二つに結んだ。
姿見で自らの姿を確認し、最後に笑いかける。
「さて、参りましょう」
その一言でリーフェルの準備が整ったことを確認し、セフミナミヤは驚きを露わにした。
「えっ、どうしてそんな質素な……。天姫様の御前ならば、さっきまでのドレスの方が良いのでは__」
「いいえ。これで良いのです。これから天姫と話すのは、着飾った『姫』じゃない。リーフェル・アクレーネという名の私自身です」
その凛とした物言いに、セフミナミヤは瞠目する。
カルレーテから面白い姫だとは聞いていた。せっかく得た権力を傘に着ることもなく、侍女に友達という立場を求めたという。現界では高貴な出ではなかったのか、庶民的な感性の少女だと。
(ああ、リル様が現界にお帰りになるのは本当なのね……)
だからこそ彼女はここまで線を引きたがるのだ。天界の『姫』はサイラだと、身を以て語ろうとするのだ。
振り返ったリーフェルの瞳は静かだった。ひどく落ち着いた漆黒の瞳。彼女は、哀しいほどに大人だった。
セフミナミヤは少しだけ寂しさを滲ませた笑みを浮かべた。
「分かりました。それではご案内いたします」
道案内も兼ねているのでセフミナミヤが先を歩く。行き慣れた廊下の先に佇む書庫から、三つ目の角を曲がった。そこは、あの夜サイラが消えた角だった。
「姫様とはリル様のことが度々話題になります。カルレーテがリル様の侍女を承ったときから、姫様はあなた様のことをご存知でした。口にはされませんでしたが、一度はリル様とお話ししたいと思われていたのではないかと……勝手な推察ですが」
「とても、大事に思われてるのね、天姫のこと」
柔らかい声音にたくさんの愛情が含まれているように聞こえた。セフミナミヤがリーフェルに直訴したことも含め、母のいないサイラにとって彼女は母のような姉のような存在だと傍目でも分かる。
「もう十年もお世話をさせていただいておりますので。姫様には失礼ではありますが、妹のようにお慕いしておりますわ。__さて、着きました」
セフミナミヤが足を止めた先に聳えるのは扉ではなく、壁。廊下と同じ材質の石で、ペタペタと壁に触れてみてもひんやりとした感触が伝わるだけ。
「行き、止まり……?」
呟くリーフェルの手を握り、セフミナミヤは反対の手で魔方陣を描く。
「アルテ・リオ」
抑揚のない呪文を合図に魔方陣から一瞬にして光が生まれ、それが壁全体に広がる。次の瞬間、目の前の壁は消えてなくなり、リーフェルの前には相変わらず廊下が続いていた。振り返ると、消えたと思っていた壁が後ろにあった。
「……壁を、抜けたの?」
感嘆の声を漏らすリーフェルに、セフミナミヤは歩き始めながら説明した。
「瞬間移動の『ちから』を応用して壁をすり抜けました。あの壁は陛下による『ちから』の壁です。あれは『ちから』の波動を見極めます。ここを通れるのは私と姫様だけです。カルレーテでさえ、自力で通ることはできません」
王が以前に言っていたように、『ちから』の波動は親族は似る。それは近しいものがより似るものらしく、リーフェルが天界で慣れ、ティオロとユシャセの波動の違いは見極めれるようになっても、カルレーテとセフミナミヤの違いははっきりしないほどだ。『ちから』を使用したときに、わずかな違和感を直感で感じられるか怪しいところだ。それを、あの壁は見極められるという。
「すごく厳重なのね。天姫はずっとここで暮らしていらっしゃるの?」
リーフェルは辺りを見渡す。今や歩いているところはただの廊下ではなかった。窓は一つもなかったが、頭上にはいろいろな色のステンドグラスが一面に広がっており、陽光で色を廊下に落としていた。それは神秘的な美しさで、おそらく城内で最も豪華なのではないかと思われた。
「寂しくないようにとの陛下のご配慮です。色や柄は毎日変わるので、飽きることはありません」
(でも、飽きないから良いって問題じゃないわっ)
リーフェルは顔を歪めた。たとえいくら綺麗でも、柄や色が毎日変わっても、寂しさが消えることなんてきっとない。どれだけ気遣ってもらっても幽閉されているという事実は変わらない。それはどんなに哀しいだろう。
(もし、天姫がその哀しさにさえ気づいていなければ……)
そこまで考えて、リーフェルは首を横に振った。
「リル様……」
セフミナミヤの切なげな声に気づけば、いつしか一つの扉の前に来ていた。藤色の瞳は何かをひたすらに語っている。リーフェルは強く頷いて見せた。セフミナミヤが唇を噛み締めて、眼前の扉を開いた。