⑥
廊下の途中で呼び止められたその声は、もう聞き慣れたものだった。しかし何の悪戯か、その呼称はリーフェルの眉間に皺を作るようなものだった。
「姫様」
「カルレーテ、今更どうしてそんな…__」
何ヶ月も毎日同じ声を聞いていれば、声だけで人は判別できる。背後の人の名を呼びながら振り返ると、しかしそこにいたのは予想した彼女ではなかった。リーフェルは訝しげに彼女を見つめた。
「……カルレーテ、じゃあないわよね…。名は?」
クリーム色の肩上の髪毛。耳の横の髪に陶器の飾りが踊っている。大きめの藤色の瞳が微笑み返していた。まるでカルレーテが髪を切っただけのような彼女は、にっこりと佇んでいた。
「お初にお目文字仕ります。カルレーテの双子の妹、セフミナミヤと申します。サイラ姫様の侍女を承っております」
そしてセフミナミヤは慣れたように最上礼をしてみせる。それは王家と王族の者に対してしか使わない、最上級の礼の仕方だった。
「天姫様の侍女ですって?用件をお聞きしましょうか。何故私を呼び止めたの?」
リーフェルの視線は厳しいものだった。目を眇め眉間に皺を寄せる。それは忌まわしいものでも見るかのような、嫌悪を隠そうともしないものだった。
しかし、セフミナミヤは笑顔を崩さなかった。
「カルレーテよりお聞きしました。あなた様は天姫様とお会いになったことがあるそうですね。私が天姫様の名を出しても動揺されなかった。天姫様のご事情をきちんとご存知であるとお見込みして、あなた様にお願いがあります。
サイラ姫様とお話をしてください」
口調からして、セフミナミヤのそれは提案ではなく願いだった。笑顔で見つめる瞳が口に出来ない必死さを語っている。そして、人通りは少ない廊下とはいえ、どこから漏れるとも限らないこんな場所で呼び止めることこそが、彼女の余裕のなさを垣間見せる。ユシャセは多忙のようで、最近傍にいないことが幸いした。
リーフェルは苦笑を漏らす。いつまでも逃げることができないのは初めから分かっていた。自分がやらなければならないことは、初めから一つきりだ。
「……セフミナミヤ。詳しい話は個室でしましょう。ついてきなさい」
彼女らが今いるのはリーフェルの自室の近く、となれば向かう先は当然一つだ。そのまま部屋に戻って暖炉の前の椅子を勧める。リーフェルは向かい合うようにベッドに腰掛けた。
「さて、理由を聞きましょうか。何の為に、あなたはそれを私に求めるの?」
セフミナミヤは一呼吸置いて、話し始める。その表情は既に偽の笑顔を張り付かせることもなく、必死の様子が伺える。
「あなた様は現界にお戻りになるとお聞きしました。それが間違っていないのでしたら、天姫様の権利復興にご協力願えませんか」
その意味が分からないほど馬鹿ではなかった。そもそも、リーフェルにできることもやらなければならないことも、それだけだ。確かめはしなかったが予想していた現実を、彼女はあっけなく認めた。
「天姫様は今まで公の場にお出になったことがありません。それ以前に、おそらくほとんどの民が天姫様の存在を知らないでしょう。私も、祖母から聞かされるまでは存じ上げませんでした」
カルレーテは医術に長けた一族だと聞いたことがあった。祖母が長を務めているのだと。カルレーテの祖母ならばセフミナミヤも同じだ。彼女は祖母から依頼を受けてサイラの侍女になったのだろう。侍女が医術に長けている者であることが深い意味を持つことに、今更気づく。
「私が祖母から聞いた話では、どうやら天姫様が病に罹られたことまでは噂が広まっているようです。しかし、妃殿下がお亡くなりになった陛下に、天姫様の安否を確認するのは酷だと配慮がなされたのでしょう。結局、天姫様の病がどうなったのか民は知り得ないのです」
リーフェルは思わず目を瞠った。
「じゃあ…まさか亡くなっていると思われてるとか……?」
「まさかではなく、ほとんどの民がそう思っているでしょう」
火のないところに煙は立たないとはよく言うが、リーフェルが『姫』の立場に居られたことが何を意味するのか、考えたことすらなかった。
病で亡くなっていたと思っていた唯一無二の王位継承者が、つい先日今まで現界に居たのだと急に現れられたとしたら__。何処の馬の骨とも知れず、不確かな情報過ぎて信じることなどできるはずもない。官僚たちの態度がやっと納得できた。
しかし、でもとリーフェルは首を振る。
「おかしいわ。なんで?尋ねれば答えは分かることじゃないっ」
思わず感情的になるリーフェルとは裏腹に、セフミナミヤは苦笑を浮かべた。
「残念ながら、王家に反旗を翻す事態に陥りかけた三十年前の話を口に出すのは禁忌だというのが暗黙の了解なのです」
話は分かる。どうして安易に口に出してはいけないのか、その理由もリーフェルにも分かっていた。それでも、心がついていかないのはどうしてか。リーフェルは激情のままに言葉が飛び出そうで、ずっと唇を噛んでいた。
「それに、どうやら陛下は恐れておられる。最愛の妃殿下をお亡くしになられた病ですから仕方ありませんが……」
セフミナミヤは苦虫を噛み潰したような表情で拳を握る。気持ちを落ち着けるように深呼吸をし、息を吸い込む音が聞こえた。
「天姫様は未だに『ちから』は戻らないものの、ほぼ健康状態です。まだ油断は許されませんが、あなた様が権利を放棄されるなら、次に継ぐのは天姫様です。__私では、何も変えられません。ですから、どうぞよろしくお願いします」
セフミナミヤは椅子から立ち上がったと思うと、額が床につくほど頭を下げた。それはまるで、あのときのカルレーテのように。
リーフェルの育った環境は、権力が権利に左右されない環境だった。大陸を治めるそれぞれの領主は、貧富の差なく民からの意見を聞き入れる。主が専ら独りで支配するのではなく、民たちと協力して一国を治めていた。リーフェルにとって、それが当たり前の世界だった。
しかし、天界は違う。身分が権力を伴って、それが発言権をも縛る。医術に長けた一族から出てきた彼女らは、医術と侍女だけの仕事を要求される。それ以外のことに口を出そうとすると罵られるのだ。権力で権利を押さえつけられる世界だ。
(こんなのおかしいわ。平等じゃないっ!!)
しかし、そう声高に叫んでも何も変わらない。それならば、行動に移すしかない。それが許される権利と権力を、リーフェルは持っている。
リーフェルはベッドの上から降りて立ち上がった。
「顔をお上げなさい、セフミナミヤ」
おそるおそる見上げる彼女の手を取って、立ち上がらせる。視線をできるだけ柔らかくして微笑を浮かべた。
「もともと、天姫とは一度話さなければならないと思っていました。あなたが来てくれたおかげで分からなかったことも分かりましたので、早速お会いしたいと思います。取り次ぎをお願いしてもよろしいですか?」
「はっはい!!ありがとうございます」
セフミナミヤは涙を堪えて謝辞を述べる。その肩を励ますように叩かれて、彼女は涙を零しながら笑った。