②
手を叩く音が二度、高らかに響いてリーフェルはハッとした。
「姫様。どうされたのです、曲中に止まってはいけませんと常々申し上げているでしょう」
ダンスを見てくれている舞姫が眉を吊り上げて腰に両手を当てている。リーフェルは片手で顔を半分隠しながら、そっと息を吐いた。
「………ごめんなさい……」
それを言ったきり、リーフェルは黙り込んでしまった。頭を昨日の女官のことが占めていて、他のことを考える余裕がない。どうしてこんなにも気になるのかはリーフェル自身にも分からないのだが、もう少しですっきりしそうなのに喉に物が引っかかったような感覚が彼女を乱していた。
「仕方ありませんね。少しだけ休憩にいたしましょう」
舞姫がリーフェルを支えて傍の椅子に座らせる。すぐにユシャセが足元に駆けて膝を着いた。
「リル様、いかがされたのです?体調でも……」
「違うの。大丈夫よ」
「大丈夫のようには見えませんが……」
「……体調が悪いわけではないの。ごめんなさい、心配かけて…」
リーフェルは緩く首を左右に振って俯いた。ユシャセはその頬に手を伸ばす。顔色は悪くないが、明らかに元気のない様子が気になる。
その指が彼女の頬に辿り着く前に、くすくすという笑い声が彼らの鼓膜を刺激する。確かめずとも、その正体は自ずと知れた。ユシャセは不愉快に歪めた顔で彼女を睨んだ。
「何が可笑しい」
ユシャセの視線さえ意に介さず、舞姫は口元を手で隠した。見下した視線が隠そうともしないまま、リーフェルにつき刺さる。
「ふふ。ユシャセさんは過保護過ぎますわ」
「我らが唯一無二の姫様を心配するのはいけないことか?」
あまりに喧嘩腰なユシャセに不安を覚えて、リーフェルは彼の袖を小さく引っ張った。『姫』として突然現れても簡単に受け入れて貰えるなんて思っていなかったし、今までだって嫌味を言われることは多々あった。現界での一件のときもそうだったが、リーフェルは自身に対する嫌味や嫌がらせはいくらでも耐えられた。それでも支えてくれる人たちまで傷つけられるのは我慢ならないのだ。
「何もいけないだなんて…。私はただ、甘やかすのも度が過ぎると良いことではないと忠告を…」
遠慮なく揶揄する彼女に、ユシャセも酷薄な笑みを口元に刻んで思いきり皮肉った。
「お前らがなかなか素直にならないんでな、予め王からお達しを受けていた俺らが優しくするのは当然だろう?」
あまりの言い草にリーフェルが非難の声を上げる寸前、扉が押し開いてティオロが顔を出す。
「ユシャセ。女性相手に喧嘩腰になるなよ」
「あら、お久しぶりです。ティオロさん」
急に猫撫で声になった舞姫にティオロは笑顔を貼り付けて近づく。
「 ご無沙汰しております、ミュコマ嬢。ご高名は聞き及んでおりますよ」
「あら、嬉しい。ところでティオロさん、シュア様はお元気ですか?」
先程とは打って変わり、ミュコマはころころと上品に笑った。
「はい、と言いたいところなのですが、最近里には帰っていなくて。便りもあまり返せないものですから…」
情けなく苦笑するティオロに、ミュコマは大げさにまあと驚いてみせる。
「やはり姫の側近となるとお忙しいのですね」
社交辞令を交わしながらもミュコマの視線はチラリとリーフェルに向けられ、言外に姫が役立たずだからティオロが大変なんだと語っていた。ティオロはそれに一瞬顔を歪めたが、すぐに笑顔を貼り付ける。
「いいえ、私が不精なだけです」
リーフェルはぴりぴりと張り詰めた空気の中、呑気に思考を巡らせる余裕などなく、こめかみから冷や汗を浮かべた。神経質になっているのか、ミュコマの閃きの声にひどく驚いて鼓動を跳ねさせた。
「そうだわ!もしティオロさんのお時間があれば、是非姫様のお相手を務めて差し上げてください」
「私なんかが相手でよろしいのですか?」
「ご謙遜を。丁度良い機会ですわ。姫様、試しに踊ってみましょう?」
にっこりと作り笑顔で手を取られ、リーフェルは有無を言わさずにティオロの前に立たされた。ティオロは異論がないのか、帯刀をユシャセに預けていた。
「リル様、緊張しなくても大丈夫ですからね。落ち着きましたら、手を載せてください」
二人の間には一歩の空間。そこにティオロの手が仰向けに差し出される。
「でもティオロ、私踊れな……」
「大丈夫ですわ、姫様。ティオロさんに任せていれば。ティオロさんの誘導通りに動かれませ」
目の前のティオロは悠々たる面持ちで変わらぬ姿勢で立っていた。一人だけ手を差し出させている中途半端な状態が申し訳なくなって、リーフェルはそっと自らの手を載せようとする。
「……あっ……」
しかし、触れる寸前に戸惑ったようにその手は引かれてしまった。
「リル様?どうされました?」
怪訝にティオロが顔を覗こうとする。しかし、その質問に彼女は首を横に振って答えるしかできなかった。指を胸元で握り込んで何度も拒否を示す。
まさか、言えるはずがない。節くれだった指が恥ずかしい、なんて。
リーフェルの指は深窓の姫君らしからぬものだ。現界では水仕事もしていたし、弓を弾いていたのだから当然だが、ついさっき触れたミュコマの手の方がずっとすべすべしていて綺麗だった。天界に来てからは水仕事はしていないから皹は治っているが、それでも姫君の指とは程遠い。そんな手でティオロに触れても良いのかと不意に迷いが生じた。
(やっぱり、私は姫様にはなりきれない。そうよ、所作ひとつとって見ても、昨日の女官の方が……)
そこまで考えを巡らせたとき、今までの違和感が解決する。パチンと何かが弾けたような気がした。
銀色の髪と快晴の青の瞳。
(そうよ、どこかで見たことがあると思ったら……っ__)
リーフェルは驚きに目を瞠ったまま、周囲の三人を見回した。直後、顔を歪めて扉を振り返る。突然の行動に驚く三人の声などは耳を通り抜け、リーフェルはその部屋を飛び出した。