二章 偽りに歪んだ世界
空からゆるりと降ってくる白い結晶。肌に触れると冷たく、すぐに溶けてしまう純白は、夢よりも幻よりも儚い。
雪がちらほらと降り積もる寒空の下、赤々と燃える暖炉の前でそれは突然知らされた。
「え、祭典?」
公務が終わった『夜』。リーフェルは最近、寝るまでの数時間で刺繍を進めている。今はその手を止め、カルレーテの話を聞いていた。
雪が消えた頃のとある麗らかな日に、民の幸せと豊作を祈願するために毎年催されるのがこの時期の祭典だ。しかし、この度はリーフェルの存在を民に公表する披露宴が主な目的らしい。
「主催者の娘はそこでダンスを踊るのがしきたりなのです。ですから、祭典ではリル様が踊らなければなりませんね。今までの練習が発揮できる良い機会ですわ」
カルレーテは微笑さえ浮かべて、まるで世間話でもするかのように話す。その意味を理解した直後、リーフェルは思わず目を剥いた。
「練習って、私…一人でもろくに踊れないのに…」
リーフェルは姫の教養として、ダンスを城の舞姫に教わっていた。しかし、運動神経に問題があるわけでもないのに、不思議なほどリーフェルはダンスが踊れなかった。そもそも、最初はカルレーテに教わっていたのだが、あまりのできなさに匙を投げられ、踊りの専門家である舞姫に教わることになったのだ。
城での披露宴といえば、当然二人でのダンスだろう。一人のステップだけでその有様なのに、誰かと組んで踊るなど言語道断だ。
「大丈夫ですよ。まだ時間は余るほどあります。準備も忙しくなるでしょうが、できるだけダンスの時間も作りましょう」
「………それがしきたりなら、仕方ないわね…」
苦虫を噛み潰したような顔で押し黙っていたリーフェルだが、やがてあまり気乗りしないというように溜息を吐き出した。刺繍の布と針を置き、窓から雪景色を眺める。本当ならばベランダに出て直接雪に触れたいのだが、カルレーテが怒るのでこの場は自粛する。
(そういえば、天界には木が生えていないわ。土がないから、考えてみれば当然ね)
リーフェルが天界に来て、早くも数ヶ月が経過する。ここでの生活にも慣れ、現界では木々の色が変わる季節だったのが、その葉が落ちて雪が枝に積もる季節になってしまった。
現界が懐かしくないと言えば嘘になるが、日頃忙しい姫の身では公務中に思い出す事はない。
それでも『夜』は別だった。こうして窓から外の景色を覗くとき、最も心が揺れる。
(ああ、草木のおしゃべりや鳥のさえずりが懐かしい…。お父さんやお母さんも、みんなどうしてるかな……)
寝る前の読書や刺繍は、そんな気持ちを奥に隠し、弱い自分が出てこないため__『姫』として存在し続けるためのものなのだ。
「ねぇ、カルレーテ。陛下のご容態はどんな感じなの?」
虚ろな表情で下を向く。途中窓硝子に映り込んだ情けない顔が気に入らない。
「大分ご回復なさっておいでだと聞いております。これもリル様が陛下の責務を肩代わりしてくださり、治療に専念できるからだと、我々医院一同心から感謝しておりますわ」
彼女に見られたくない顔を映した窓を隠すべく、リーフェルは席を立った。極力無表情を装う。
「ねぇ………。私は、あなたたちの役に立ててる?あなたたちの望んだ姿に近づけているの?」
「はい、とても…」
カルレーテは微笑を浮かべた。心からの感謝を込めて。
それを遮るかのように、勢いよくリーフェルはカーテンを引く。景色も見えないそこに、泣きそうな笑いを向けた。
それに気づかない侍女はそのままの微笑で尋ねた。
「もうお休みになりますか?」
リーフェルは微かな笑顔を作って彼女を振り向いた。
「いえ。少し、散歩を…」
ユシャセが忙しくて護衛についていないことを感覚で確認した上で、外には出ないからとカルレーテのお供を断わった。
寝着の上に厚手のコートを着込んでショールを羽織った。陽の当たらない夜の廊下はとても寒く、リーフェルは手の中の本を思わずぎゅっと抱え込んだ。
そして次の瞬間、人の気配を察知して、顔を跳ね上げた。城といえども、こんな夜中に残っている者は少ない。そもそも『夜』の警護担当はこのように人に気づかれるほど派手には動かず、城に寝泊まりしていても『夜』は一段と冷えるので部屋を出ることは珍しい。
(誰だろう…)
リーフェルは廊下の先に視線を向けたが、警戒心を押し隠してひたすら歩き続けた。無防備なほどあっさりと、人影は姿を表す。
…そして、二人は出会った。
雪が降り始める少し前に、王は天界中にリーフェル(ひめ)の存在を公布した。王の代わりに会議にも時々参加したこともあり、リーフェルは城の者たちにも顔を覚えられ、自由に動けるようになっていた。
現れた人影は姫がこんな時間に歩き回っているとは思っていなかったようで、しばしの間固まっていた。リーフェルも相手が女官であることにほっとしつつも、驚きに目を見開き瞬きを繰り返していた。
やがて我に返った女官がリーフェルに、主に対する正式な礼で廊下の端に寄る。『姫』はどこか寂しげな笑みを浮かべてその前を通り過ぎた。女官はその表情には気づかない。
それを分かっていても、リーフェルの鈍い胸の痛みはなくならなかった。そして、その胸に微かな違和感が去来した。何に引っかかるのかは定かではないが、直感が首を傾げる。
数歩進んだ先でリーフェルは立ち止まり、去っていく女官の後ろ姿を見つめた。官服は乱れることなく着こなされ、銀髪は仕事を邪魔しない程度に結ってある。彼女からは殺気を感じることもなく、歩く姿には隙がありすぎる。
(殺し屋の類ではないようだけれど……。ただの女官とも思えないわ。…何者かしら………)
不意に、彼女が廊下の角を折れようとする直前、ふと視線が交わった。遠目にもはっきりと快晴のときの空の青色をした瞳が見えた。しかしそれは一瞬で、すぐに彼女はリーフェルの視界から消えてしまった。その先が行き止まりであることに、リーフェルは気づかなかった。
リーフェルが自室に戻ったときにはもう時刻も遅かったので、その日は腕の本は読むことなくそのままベッドに横になった。しかし、あのときの違和感と視線が気にかかり、なかなか寝付けなかった。
「……彼女が、『姫』なの…」
「え?_様何か仰いました?」
自らの部屋に帰った彼女は、おかえりなさいと出迎えた侍女にぽつりと感想を漏らした。
「いいえ、なんでもありませんわ。おやすみなさい、セフミナミヤ」
彼女は欠伸を零しながら準備のされたベッドに潜り込んだ。セフミナミヤと呼ばれた侍女はカーテンを閉め、天幕の紐を解いた。小さな布ずれの音を立てて、天幕が彼女を隠した。
「おやすみなさいませ。良い夢を…」
そう言い残して部屋を辞そうとしたセフミナミヤは、主の囁き声に扉から手を離した。天幕の向こうから、うつらうつらとした彼女の声が途切れ途切れに聞こえる。
「ねえ、セフミナミヤ…。カルレーテ、は…元気……?」
「はい。新しい主と医院を両立しながら、懸命に仕事をこなしていると聞いております」
「…そ……。姫は…本を好いていらっしゃるのかしら…?」
「おそらくそうなのでございましょう。カルレーテからも、熱心な方だと伺っております」
そのうち、天幕の向こうからは気持ち良さそうな寝息だけが届くようになった。セフミナミヤは微笑すると隣室に移った。
『夜』は、静かに更けていく__。