21
痛みに気を失ったリーフェルは、真っ暗な闇に投げ出された。前も横も上下さえ定かでない空間で、リーフェルは周囲を見渡す。しかし、何度繰り返しても、視界は自分の指も見えないほどに闇に覆われている。
不意に上下が回転するような感覚に襲われ、ふと気がつくと、そこは暗かったがさっきのような闇ではなかった。陽が沈んだためにできあがった、自然なそれ。
その部屋の雰囲気からすると、ここは現界のリーフェルの自室であるようだ。リーフェルが自分の指を見てみると、それは今よりも小柄で拙い動作をする。彼女はあの日の夜に遡ったことを理解し、顔が上げられなくなった。
あの夜。丸く小さくなって考えた多くのこと。そして、その後…。
……リーフェルの部屋に彼女の両親が入ってきた__。
『リル』
そっと声をかけてくれた鈴の音のような声。顔を上げなくとも微笑んでいることを予想させる、優しさの篭った声音。
『気にしないで。あなたが気に病むことではないわ』
傍に寄っても顔を上げない娘の頭を愛おしそうに撫でる母の手が、温かかった。
『それよりも、ありがとう。助けてくれて本当に嬉しかったわ。あなたは優しい子ね』
母の顔が寂しそうに歪んでいることを、リーフェルは知っていた。やがて、それは寂しさから後悔に変化する。母の声が胸が痛くなるような後悔の念を含んでいた。
『ごめんね、リル。私が出来なくなってしまった代わりに、あなたに……』
膝を抱えたままのリーフェルを、母はそのまま強く、優しく、抱き締める。リーフェルは唇を噛みしめた。
『あなたが私を守るために言ってくれたって、ちゃんと分かってる。あなたのことだから、私が悪く言われたことに責任を感じてるかもしれないけれど、そんなことないわ。あなたの行動が、私は嬉しかった。胸を張りなさい。どんな責任も私が受ける。あなたは、私の大事な一人娘だもの』
母は睦言のように甘く、耳元に囁く。ちらりと覗くと、母は宝物を胸に抱えているように、柔らかい笑みを浮かべていた。
『気負いしないで。あなたのできる範囲で、精一杯頑張りなさい。あなたのことを私はちゃんと見てる』
それは、何よりも甘い囁き。とろけそうなそれに惑わされ、リーフェルは熱くなった心をぐっと抑え込んだ。指が痛いほど二の腕に食い込む。滲む瞳を瞼の奥に隠した。母よりも大きくて皮膚の硬い手が頭を撫でる。傍にいた父の掌。
『父さんと母さんはお前のことが大好きだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないし、思ったことすらない。…思えないだろ、お前はいつも何でも独りでしようとするんだから。もっと甘えて良いんだよ。さもなさいと、父さんと母さんは寂しくて泣いちゃうぞ』
リーフェルを包み込むような声音。父の冗談に彼女は笑えなかった。顔を上げることも、声を発することも、何一つできない。
声が、遠のく。まるで夢から覚めるように、意識が現に引き上げられる。完全に目が覚める前に、それはリーフェルに届いた。
『お前には感謝してる。父さんと母さんが離れないで良いようにしてくれたんだもんな。ありがとう』
気休めだと思った。それは本音ではないと。…そう思わなければ生きていけなかった。優しくなんてしていらなかった。母ではなく、私を罵ってほしかった。
甘い言葉を思い出す度、心が抉られるように痛くなり、苦しくなった。胸を抑えてもそれは消えない。だから、ずっと思い出さないようにしていた。ずっと記憶の奥に封印して、見ないように努めてきた。
『お母さんの本当の意味』なんて考えたことなどなかった。気休めの言葉は慰めるだけを目的とし、意味など持たない。そう決めつけて、ずっと逃げていたのだ。
__でも、本音だったとしたら?母の心からの言葉ならば、一体どんな意味を持つのだろう…?
ゆっくりと、リーフェルは震わせた瞼を押し開く。痛みの残る頭を押さえ、顔を上げる。側近の二人が変わらずこちらを見つめていた。戸惑いに揺れる彼女の瞳の中で、二人は揃って微笑んだ。
それは、強い信頼の証。
十四では体験できない経験と闇を抱え、それを独りで乗り越えようとする哀しいほどに健気な少女を、彼らは主たるに相応しいと認めた。それが現れた笑みだった。
そしてそれは、彼女を残して隣町の家に帰る前の、別れ際の両親の笑顔にとても似ていると感じた。
「……あ…__」
解ったと思った瞬間、涙がリーフェルの頬を滑り落ちた。慌てて俯き、影と髪で表情を隠す。いつのまにか頭痛は消え、頭を押さえていた手は膝の上で握り締められていた。
(気づいてみれば、なんて簡単なことなの…)
未だ学生の十四歳が、家業を独りで守れるはずはない。母は、最初から何もかも予想していたのだ。そして、全てを受け入れた上で、リーフェルに気にしないでと声を掛けていたのだ。
周囲の冷たい目も心ない言葉も、母が何と蔑まれようとも、ましてやこれから『長月』がどうなろうとも、リーフェル(あなた)は気にしなくて良いのだと教えてくれていたのだ。
周囲がどう噂しようがそれは個人の勝手だと、母が蔑まれるのはリーフェル(あなた)の責任ではないと、もし…『長月』が一度衰えたならもう一度初めからやり直せば良いのだと、あなたは独りではないと__伝えようとしてくれていたのだ。
(恥ずかしい…)
両親の気遣いを無にして己を責め、『長月』の現状からも両親の言葉からも目を背け、あまつさえ死を選び逃げ出そうとしたことが、恥ずかしい。しかし、何よりもずっと支えてくれていた人がいたことが、ひどく嬉しかった。
昔、母が抱き締めてくれたぬくもりと、父の手の感触、そして幼なじみの楽の音を思い出し、涙がいっそう溢れ出す。リーフェルは顔を両手で覆った。肩が震えて嗚咽が漏れる。まるで幼なじみに甘えるように、その姿には強がりは一切含まれていなかった。
ありのままのリーフェルに、ティオロとユシャセは顔を見合わせて微笑んだ。
ずっと心を縛っていたわだかまりが少しずつ解けていく。涙と一緒に流れ出す。
あとには、ほんのりとしたぬくもりが思い出と共に残された…。
少女の重い枷 終 ∥