序章 運命の扉と鍵
隣町に住んでいる両親へ報告の手紙を書き終えた少女は、夜も更けた頃、己の家の屋根に登った。
満月の光で、青葉がきらめく。ざあっと一陣の風が吹き、梢を揺らす。しばらくして、すすり泣く声が聞こえてきた。
寂しいなんて言ってはいけない。それは彼女も分かっている。しかし……。
両親とは、もう半年以上会っていなかった。両親の仕事が忙しかったというのは、言い訳にもならない。合間を見つけて何度も会いに来ようとする両親を、断ってきたのは少女だった。
どんなに会いたくても、会ってはいけない。少女は、自分にそう言い聞かせていた。
母の生家の誇りと歴史をめちゃめちゃにしたのは、自分なのだ。自分がいなければ、違う未来が――もっとみんなが幸せな道が、拓けたかもしれないのに。
母の未来を潰したのは自分なのだ。己の腕におぼれて、感情で突っ走った自分なのだ。
――このまま消えてしまいたい……。
お願い……。誰か、私を殺して。
苦しいの。ここには、もう居たくない。
助けて……――。
――少女の切ない願いは、望まない運命への鍵を手に入れるきっかけとなった。
細く高い建物がいくつも連なる西洋風の城は、この世界――国とも呼べる小規模なものだが――のシンボルになっている。しかし、この城には奇妙なものがあった。
白い塗装の城に、一つだけ真っ黒な窓の部屋があるのだ。
真実としてこれは、黒いカーテンがかけられているだけなのだが、カーテンが窓を覆っているのは市場も静まっている早朝だけであり、これも奇妙さの一因となっている。
朝の光も受けつけない暗闇の中、中央の机に唯一の光である掌大の水晶が、羽毛の入った小さな座布団の上に置かれている。それの上に手が翳され、影が出来る。僅かな光に照らされたのは中年の男性だった。水晶を覗き込み、会話をしていた。
「はい。彼女をこちらに呼べばいいのですね。わかりました。……これぐらいのことはわたくしにまかせてあなた様は回復に専念なさいませ……は。かしこまりました」
男の口元が歪み、笑みが刻まれた。
――そして、扉の準備は整った。
運命の扉。
それは、見ることができない。
鍵をいつ手に入れるのかすらわからず、手に入れたことにも気づかない。しかし、いつの間にか選択している。
それが、人生だから。
――少女は、選んでしまった。鍵を回すことを……。
運命の扉が開き、止まっていた時間は流れ出す。
過去は、“運命“に従い、現在を振り回すーー。
・・・
……雨が、降っていた。
何かに呼ばれて、湖の近くまでやって来た。すぐに雨は本降りとなり、冷たい雨粒が体に当たる。
「あなたは何を探しているの?…誰を、探しているの?」
水面を覗きこむと、どこからともなく、聞き覚えのない声が聞こえた。女の人の声だった。優しさを含んでいたが、哀しげでもあった。
相手の質問に特に思い当たるところがなかったので、いいえ、と答えようとした。しかし、奇妙な違和感を感じ言葉に詰まる。理由は分からないが、違うと思った。そのため、ふと浮かんだ思いのままに、こう答えた。
「――大切な人が、心から逃げてしまいました。私は、それが誰だったか、記憶していません。見つかるでしょうか?この心の穴は、埋めることができるでしょうか?」
声は、答えない。顔を手で覆ったが、雫は水面に落ちる。雫が、湖面に波紋をつくった。