16
書類を置くために、数人が仕事をしている政省が管轄の一室に足を踏み入れる。いつものように仕事に追われて暗い顔をしているだろうと思っていた室内は、何故か慌ただしかった。
「何かあったのですか?」
ユシャセがすぐ傍を駆ける青年に尋ねると、彼はその勢いのまま腰を折る。慌てて礼をしたため、手中の書類が一斉に床に落ちた。
「準将軍様!!どうしてこんなところにっ」
落とした書類には目もくれず目を驚きに見開く青年に、周囲から怒号が上がる。
「こらあっ!こんな忙しいときに落とすな!!さっさと拾えっ!!」
「は、はい!!」
青年は弾かれるように床上の書類を拾い始めた。ユシャセもそれを手伝いながら、質問を続ける。
「作業をしながらでいいから答えてくれ。何かあったのか?どうしてこんなに慌てているんだ」
「知らないのですか!?」
青年は手を止め、ユシャセを仰いだ。そして、感情のままに声を大にして叫ぶ。
「ネヴァの国からエテゲースが脱走したという連絡が入ったのですよ!!」
耳に痛いほどの音量で知らされた事実に、ユシャセは今まで拾い集めた書類を投げ捨てるようにしてその部屋を飛び出した。
姫を護衛する自分に一番に連絡が回ってこなかったことを悔やみながら、ユシャセはリーフェルを独り残した執務室に全速力で向かった。途中の廊下で同じように駆けるティオロを見つけ、名を呼ぶ。
「ティオロっ!!」
「なっ…ユシャセっ!お前がここにいるってことは、姫は__」
「とにかく急げっ!!これはまずいっっ」
思わず足を止めてしまったティオロを叱咤し、二人は並んで駆けた。執務室に向かいながら、彼らは血の気が引いていく思いでいっぱいだった。とにかく、エテゲースの所在を確認しようと意識を飛ばしたティオロは、瞬間声の限りに叫んだ。
「姫様ぁっっ!!!!」
・・・・・
お付きの二人が傍にいなくなったリーフェルは身体中の力を抜き、ペンと書類を投げ出して机に突っ伏した。荒い息を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。臣下の前では大丈夫だと繰り返していたが、身体は鉛のように重く息をするだけでも苦しい。
いっそのこと、このまま呼吸が止まってしまえばいいのにと願って、彼女は目を閉じた。
人に嫌われることに臆病になったのはいつからだろう…とリーフェルは思考を巡らせる。しかし、考えなくとも答えは決まっていた。そのときのことを思い出して、少女は涙を流した。止めようにも止まらない。
こういうとき、彼女はひたすらに自己嫌悪を続ける。
『まさか、居なくなるなんて…』
『まだ…若かったのにっ…』
多くの人が涙を流した。その目前には一つの棺が置かれ、中には老婆とも言えない、中年の女性が横たわっていた。周囲から慕われていた女性の死は、誰も予想していない突然のことだった。
彼女の葬儀に参列した人々は、口を揃えてこの突然の不幸を嘆いた。涙を呑んで語られる言葉で溢れている一室。そこに、また新しい言葉が混ざる。
『__こんなに早く逝ってしまうなんて…"跡継ぎはどうするのよ"…』
その言葉は周囲に波紋のように広がり、ついに室内はその言葉でざわつき始めた。隣の人と囁き合いながらも、視線は棺に一番近い場所で涙を流す女性に向けられていた。
向けられている視線と期待に気がついた女性は、涙を拭きつつ俯いた。彼女の肩を夫である男性が抱く。泣くことを止めそれだけを口にする参列者達が、涙の止まらない妻にそんな視線を向ける資格などない。
夫は眉間に皺を寄せ、振り返ろうとした。その目の前を、小さな影が横切る。
『いい加減にしてください!!』
彼らを背に庇うように立ち上がった独りの少女。年輩の大人たちを前にしても怯まない姿。キッと前を見つめる少女の瞳にも頬にも、涙の名残りすら欠片もなかった。
そして、少女は凛とした声で叫ぶ。
『何故そんな目で母を見るのですか!母は既に長月の人間ではありません!皐月の者でしょう!私たち長月には適当な年齢の者はいないことくらい、あなた方も分かっているでしょう!?ならば、何故っ…。
__何を望んでいるのです?そんなに…本家の者から決めなければならないのなら、私がっ』
記憶の幼きリーフェルは大きく息を吸い、宣言した。
『私が、引き受けますわっ』
大見得を切っての一言。これが後にどんな事態を招くのかを予想出来なかったほど、記憶の彼女は幼かった。
それにも関わらず、彼女は五百年以上も続く『月家』の一家、長月の家元に就任したのだった。