⑧
ティオロは機嫌が悪かった。今日中に読み終えようと決めた本を持っているのに、イライラしてまったく進まない。
ティオロは窓際に視線を投じた。ティオロの自室であるのに、そこにはユシャセがいる。彼はもう一時間以上も、何をするでもなくただ中庭を眺めて黄昏ていた。
いい加減、ティオロの堪忍袋の緒が切れる直前、やっとユシャセが口を開いた。
「なあ、ティオロ。昔現界に行ったときに会った、小さな女の子覚えているか?」
それがあまりにも突拍子もないことだったので、ティオロはすっかり毒気を抜かれた。
「あ?…ああ、お前の父上と武修行に行った家で出会って、父上命令で三分対戦したが勝負がつかなくて、お父上に怒られた原因の女の子のことか」
「………長い説明をありがとう。それにしても、あんな昔のことよくはっきり覚えてるなあ…。言っとくけどな、あの子見た目によらず本当に強かったんだぞ。あと二分も延びてたら間違いなく負けてたよ。お前もやれば良かったのに」
復讐とばかりにユシャセは嫌味を連ねるが、口では勝てないのは歴然としていた。ティオロは苦虫を噛み潰したような顔を上げた。
「やだよ。たとえ嘗めてかかってたとは言え、お前が勝てなかった子だぞ?俺が戦ってたら速攻で負けてたさ」
「ふはっはは。確かにお前は戦ってるといつもの冷静さを失うからな。落ち着いて対処すれば何ともない相手でも負けるもんな。そこが惜しいんだよ」
「はいはい、で?その女の子がどうしたんだよ?」
形勢不利と見てか、ティオロは無理矢理話を戻した。ユシャセは単純なので、ティオロの誘導にまんまと引っかかる。
「ああ、その子って姫様じゃねぇよな…?」
「は?」
「や。だってその子、九年前四,五歳だったろ?五歳に九年足してみろ、14だ。リル様は今14だろう?それに家がどうのって仰ってたし。ひょっとしたらひょっとするんじゃねぇ…?...ああ、髪の色さえ思い出せればなあ」
天界でも現界でも、黒髪は多くない。ましてや、リーフェルほどの見事な漆黒ならば、一度見たら忘れない、はずなのだが。
やはり違ったか、とまた答えのない迷路に入りそうになったユシャセだが、その疑惑は次のティオロの言葉で頭の隅に追いやられた。最優先事項は思い出の少女の正体を暴くことではない。
「それよりも、姫が来てから5日経ったわけだが、その間の様子は?」
「ずっと書庫で読書だ。食事以外はずっと書庫におられる。読んでる本は政治関係。ちょっとでも学ぼうと努力されてんじゃねぇの?いずれはこの国を担っていくわけだし。でも、政務に関しては本で独学するよりも実体験が物を言うんじゃねぇか?」
「本の知識があったほうが良いときもあるが…。とりあえず陛下に奏上するよ。多分講師になるのは俺だろうけど」
一応側近だからな、とティオロは苦笑し髪を掻き上げたが、ユシャセは表情を引き締めた。仕事の顔つきになる。
「リル様の左手首に刃物で傷つけたような傷跡がある。丁度動脈の上を、こう斜めに。姫、ずっと左手を垂らしててあんまり使わねぇんだ。ありゃ、多分神経…いや、腱を傷つけてる。あの痕からして、結構深く入ってると思うから、刃」
「な……!?」
軽い物言いとは裏腹の内容に、ティオロは驚愕した。
「…………な、なんだよ、それ。手首の裏とか簡単に傷つけられるような場所じゃないぞ!?」
「だから、自殺しようとしたんだよ。リル様は…」
今度こそティオロは言葉を失った。しばらくうろたえていたが、やがて嫌悪を隠そうともしない低い声でユシャセを睨みながら訊く。
「分かってるのか?リル様はこの国の姫だぞ。その言の葉を裏付ける根拠ぐらいはあるんだろうな?」
「あるさ。………泣くんだよ、あの姫は」
ユシャセはそこで、ティオロのベッドに仰向けに寝転がった。
「夕食まではずっと読書してるし、お風呂の後もカルレーテさんがいるから絶対に泣かないけど、ベッドに入ってカルレーテさんがいなくなると、泣くんだ。聞いてるこっちが辛くなるような悲痛な声で。息ができないくらいしゃくりあげて、呻きながら…泣くんだよ。
……俺は自殺未遂の動機と泣いてる理由は一緒だと思ってる」
ユシャセは寝返りを打ってティオロに背を向けた。
「カルレーテさんはゆっくり癒していく長期戦を選んだみたいだけど、それでは姫が保たない。いずれまた、彼女は自殺しようとする。意思なんて関係なく、発作的に。昨日まで笑っててまだ大丈夫だと思っていても、次の日には冷たい骸になってるかもしれねぇ。
陛下が仰っていただろう?あのまま現界で暮らしてたら姫は死んでしまっただろうから、早めに喚んだ、と。でも、天界にいたとしても、時間をいくら与えたとしても、姫の傷は癒えない。時間の経過だけで治すには、リル様の傷は深すぎて、時間が経ち過ぎた」
陽光が、部屋に影を生んでいる。まばらに落ちる、色の濃い影。
(まるで、ユシャセの心内を表してるみたいだ…)
「心の傷か……」
これ以上厄介なものは知らない。ティオロは昔を思い出して、瞳を伏せた。