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夜鶯の足跡

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/22

喫茶店「風鈴」は、午後三時を過ぎると客が途絶える。


私——鈴木奈々——は、カウンターで食器を拭いていた。


白い皿。冷たい陶器の感触。指先が、水滴を拭き取る。


窓の外では、初夏の風が木々を揺らしていた。


店の入口に吊るされた風鈴が、チリンと鳴った。


客だ。


顔を上げると——男性が立っていた。


六十代。白髪。痩せた体。でも、背筋は伸びている。


「いらっしゃいませ」


私は、声を出した。


かすれた声。十年前の事故で、声帯を損傷してから、ずっとこうだ。


男性は、カウンター席に座った。


「コーヒーを」


私は、頷いた。


コーヒーを淹れる。豆を挽く音。湯を注ぐ音。


香りが、店内に広がった。


カップを、男性の前に置いた。


「ありがとう」


男性は、私を見た。


その目が——何かを探っているようだった。


「君は……美波じゃないか?」


私の手が、止まった。


心臓が、激しく打ち始めた。


「人違いです」


「いや、間違いない」


男性は、コーヒーを一口飲んだ。


「声は変わった。でも、仕草が同じだ。水野美波。かつての、夜鶯」


私の喉が、締め付けられた。


夜鶯。


それは、私のかつての二つ名だった。


オペラ歌手として、ヨーロッパの舞台に立っていた頃。


「あなたは……」


私は、男性の顔をよく見た。


そして、気づいた。


「柳沢先生……」


「ああ。覚えていてくれたか」


柳沢。私の、音楽院時代の恩師だった。


「先生……なぜ、ここに……」


「君を探していた。十年間」


柳沢は、カバンから一枚の写真を取り出した。


それは、舞台に立つ私の写真だった。


若い頃。二十五歳。


白いドレス。スポットライトを浴びて、歌う私。


「あの事故の後、君は消えた。誰にも連絡せず」


柳沢の声が、低くなった。


「なぜだ?」


私は、答えられなかった。


どう説明すればいい?


あの日のことを。


事故ではなく——事件だったことを。


「美波、話してくれ」


柳沢の目は、優しかった。


私は、深呼吸をした。


そして——十年ぶりに、本当のことを話し始めた。


「あの日……私は、ライバルの藤崎麗華を庇いました」


「庇った?」


「ええ。彼女は、ある権力者から脅迫されていました。『自分の愛人になれ、さもなくば舞台から降ろす』と」


私の手が、震えた。


「彼女は拒否した。だから、権力者は彼女を事故に見せかけて……」


「殺そうとした?」


「はい。でも、私が気づいて、彼女の代わりに舞台装置の下敷きになりました」


柳沢の顔が、青ざめた。


「それで、声を……」


「ええ。喉を潰されました。でも、麗華は無事でした」


私は、カウンターに手をついた。


「その後、権力者——神崎財閥の会長——は、私に口止めを迫りました。『真相を話せば、家族を殺す』と」


「だから、逃げたのか」


「はい。名前を変えて、ここで……」


私の目から、涙がこぼれた。


「私は、もう歌えない。夜鶯は、死んだんです」


柳沢は、立ち上がった。


そして、私の肩に手を置いた。


「美波、君は間違っている」


「何が……」


「君は死んでいない。ただ、隠れているだけだ」


柳沢は、窓の外を見た。


「そして、今こそ出てくる時だ」


柳沢は、神崎財閥の会長が今も私を探していると告げた。


「なぜ、今になって?」


「麗華が、真相を暴露しようとしているらしい。だから、会長は君を消そうとしている」


私の血が、凍った。


「でも、証拠がなければ……」


「ある」


柳沢は、封筒を取り出した。


「これは、会長の邸宅の見取り図だ。彼の書斎に、当時の事故の録画が保管されている」


「録画?」


「ああ。舞台裏の監視カメラだ。会長が装置を細工する映像が残っているはずだ」


柳沢は、私の手に見取り図を握らせた。


「取ってきてくれ。それがあれば、会長を告発できる」


私は、躊躇した。


「でも、そこは……」


「神崎邸だ。警備が厳重だ。でも、君なら入れる」


「どうやって?」


「今夜、神崎邸で慈善パーティーがある。麗華も参加する。君も、招待状なしで入れるルートがある」


柳沢は、地図の一箇所を指差した。


「裏庭の鈴蘭畑。そこから、使用人用の通路がある」


その夜、私は神崎邸の裏庭に立っていた。


高い塀。鉄条網。


でも、柳沢の言った通り、鈴蘭畑の隅に小さな門があった。


鍵は、かかっていなかった。


私は、門を開けた。


ギィ、と音がした。


心臓が、口から飛び出しそうだった。


庭に入った。


月明かりの下、白い鈴蘭が揺れていた。


美しい。


でも、毒がある。


私は、使用人用の通路へ向かった。


廊下は、薄暗かった。


足音を殺して、進んだ。


書斎は、二階だ。


階段を上る。


一段、また一段。


古い木材が、わずかに軋んだ。


止まる。息を潜める。


誰も来ない。


また、進む。


書斎の前に着いた。


ドアに、手をかけた。


その時——


「誰だ」


背後から、声がした。


振り返ると、警備員が立っていた。


大柄な男。腕が太い。


「お前、何者だ」


私は、後ずさった。


でも、背中が壁に当たった。


逃げ場がない。


警備員が、無線機に手を伸ばした。


「本部へ——」


「待ってください」


私は、かすれた声で言った。


「私は、使用人です。神崎会長に呼ばれて……」


「嘘をつくな。使用人の顔は、全員知っている」


警備員が、近づいてきた。


私は、とっさに叫んだ。


「火事です! 一階の厨房が!」


警備員が、止まった。


「何?」


「煙が出てます! 早く!」


警備員は、迷った。


その隙に、私は書斎のドアを開けて中に飛び込んだ。


鍵をかけた。


「おい! 開けろ!」


警備員が、ドアを叩いた。


私は、書斎の中を見回した。


大きな机。本棚。そして——金庫。


金庫のダイヤルを回した。


番号は、柳沢から聞いていた。


麗華の誕生日。


カチリ。


開いた。


中に、ビデオテープがあった。


「1995年6月15日 舞台裏」


これだ。


私は、テープを掴んだ。


その時、ドアが蹴破られた。


警備員が、中に入ってきた。


そして——その後ろに、神崎会長がいた。


七十代の老人。でも、目は鋭かった。


「久しぶりだな、水野美波」


「返せ、そのテープを」


会長が、手を伸ばした。


私は、テープを胸に抱いた。


「これは、あなたの罪の証拠です」


「罪?」


会長は、笑った。


「私は、何もしていない。事故だったんだ」


「嘘です。あなたが、装置を細工した」


「証明できるのか?」


会長は、警備員に目配せした。


警備員が、私に近づいた。


その時——


「待ちなさい」


別の声がした。


振り返ると、女性が立っていた。


藤崎麗華だった。


今も、美しい。


そして、その隣に——若い女性がいた。


二十代。麗華に似ている。


「母さん……」


若い女性が、麗華を見た。


「この人が、あなたを救った人?」


「ええ」


麗華は、私を見た。


「美波さん、ありがとう。あの時、あなたは自分の声を犠牲にして、私を守ってくれた」


麗華は、会長を睨んだ。


「神崎会長、あなたの罪は、もう隠せません。警察が、外で待っています」


会長の顔が、青ざめた。


「お前……」


「私の娘です」


麗華は、若い女性の肩を抱いた。


「彼女は、弁護士になりました。そして、十年かけて、あなたの罪を立証する証拠を集めました」


若い女性——麗華の娘——は、書類を取り出した。


「神崎会長、あなたを殺人未遂、脅迫、証拠隠滅の罪で告訴します」


警察が、書斎に入ってきた。


会長は、手錠をかけられた。


そして、連行された。


私は、その場に座り込んだ。


終わった。


十年間の逃亡が。


数日後、私は麗華と娘——彩——と喫茶店で会った。


「美波さん、本当にありがとうございました」


彩は、深く頭を下げた。


「いえ……」


「あなたのおかげで、母は生きています」


彩は、微笑んだ。


「美波さん、あの時私は十五歳でした。母を守ってくれたあなたの姿を、今でも覚えています」


「覚えて……」


「はい。舞台裏で、母を庇って倒れたあなたを。だから、弁護士になりました。あなたのように、誰かを守れる人になりたくて」


私の目から、涙がこぼれた。


麗華が、私の手を握った。


「美波さん、あなたは夜鶯じゃない」


「え?」


「夜鶯は、孤独に歌う鳥。でも、あなたは違う」


麗華は、窓の外を見た。


「あなたは、羽根を持った人。自由に飛べる人。そして——誰かに勇気を与える人」


私は、自分の喉に手を当てた。


かすれた声しか出ない喉。


でも——


「声じゃなかったんですね」


私は、呟いた。


「私の価値は」


麗華は、頷いた。


「ええ。あなたの心です」


私は、風鈴の音を聞いた。


チリン、チリン。


夏の風が、店内に流れ込んできた。


私は、ようやく理解した。


十年間、私は凍土の中にいた。


心を閉ざし、過去の足跡から逃げていた。


でも、今——


灰の中から、新しい何かが生まれようとしている。


声ではなく。


歌ではなく。


人を励ます、心が。


私は、微笑んだ。


「ありがとう」


そして——


新しい人生が、始まった。


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