坂の向こうの教室
冬が近づき、六甲山から吹き降ろす風は一層冷たくなっていた。
授業を終えた祐真は、夕暮れのキャンパスをゆっくりと歩いていた。
木々はほとんど葉を落とし、地面には落ち葉がカサカサと寄り添っている。
西の空は淡い橙から群青へと滲み、神戸の街の灯がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
図書館で見たあの写真のことは、今も胸から離れない。
相馬と女学生、そして自分だけが知っているはずの石段——。
だが、それ以来、どれほど裏手の坂を歩き、風を待っても、過去への扉は開かなかった。
坂の上まで来ると、祐真は立ち止まった。
そこからは港町が遠くに見え、鉄道の線路が街を縫うように走っている。
ふいに、耳に届くはずのない音がした。
——笑い声。
若い男たちの朗らかな声と、女学生たちの小さな囁き。
六甲の風に混じって、それはかすかに聞こえてきた。
一歩進むごとに、それは少し近づく。
祐真は振り向いた。
しかし、そこには誰もいない。
ただ、空気の密度がほんの一瞬だけ変わり、夕闇の色が少し濃くなったように思えた。
ポケットに手を入れると、あの日の南蛮堂のマッチ箱がまだそこにあった。
角は少し擦り切れ、色は褪せてきている。
それでも、掌に置くとわずかに温もりを感じる。
——まるで、まだあの世界と細い糸でつながっているかのように。
「……また、会えるのかな」
誰にともなく呟いた言葉は、冷たい空気に吸い込まれた。
街の灯りが一段と増え、六甲山の稜線が闇に沈みはじめる。
祐真は坂をゆっくりと下り始めた。
背中に風を感じるたび、ふと振り返りたくなる衝動に駆られるが、今日は振り返らない。
まだ終わっていないという確信だけが、胸の奥で静かに灯っていた。
坂の向こう——
そこには、時の流れから外れた小さな教室が、今もきっと息づいている。
笑い声と足音、そしてまだ見ぬ物語が、風に揺れながら祐真を待っている。