近づく影
再び過去に来られたという高揚感で、祐真は自然と足が速くなった。
石段を降りきると、港へ向かう路面電車の停留所が見える。
相馬誠一はそこに立っており、いつものように帽子を軽く持ち上げて笑った。
「やあ、また会えたな。今日は港まで行こう」
木造の電車がガタンと揺れながら坂を下る。
窓から入る潮風に、祐真は胸いっぱいに昭和の匂いを吸い込んだ。
車内では制服姿の学生や、荷物を抱えた港湾労働者が無言で揺られている。
港に着くと、相馬はいつも通り《南蛮堂》へ誘った。
扉を開けると、甘い香りとジャズのレコードの音が迎えてくれる。
磨き上げられた木のカウンター、壁の古地図、真鍮のランプ。
祐真はこの空間の隅々まで覚えておきたいと思った。
カウンター席に腰を下ろすと、相馬は珈琲を頼み、少し黙ってカップを見つめた。
「……卒業したら、東京の商社に行く予定なんだ」
「すごいじゃないか」
「いや……配属先がまだ分からなくてな。もしかすると、満州かも知れない」
その言葉の奥に、微かな影が見えた。
祐真は歴史を知っている。昭和十年代の満州行きが何を意味するか。
だが、それをどう口にしていいのか分からなかった。
「ま、先のことは分からんさ」と相馬は笑ってみせたが、その笑みはどこか力がなかった。
珈琲を飲み終えたころ、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、前回と同じ女学生だった。
紺色のセーラー服に、真っ白な襟。髪は耳の下で切り揃えられ、視線は真っ直ぐだった。
彼女は祐真を見ると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「また来たのね」
「ええ……あなたは——」
「名前はいいの」
それだけ言って、彼女は相馬に軽く会釈し、窓際の席に座った。
だが、席に着く直前、祐真の耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「あなたは坂の風に呼ばれただけ。帰るときは選べない」
振り返ったときには、彼女はすでに窓の外を見ていた。
港に停泊する船のマストが、海風にきしんでいる。
その日、三人は別々に店を出た。
相馬と港の岸壁を歩く。
潮の匂いに混じって、どこか焦げたような匂いがする。
「何だか……街の空気が少し重いな」
相馬が呟くと、祐真も同じことを感じていた。
夕方、港の倉庫街に鐘の音が響き始めた。
低く、湿った音。
その瞬間、祐真は背中に冷たい風を感じた。
——また戻される。
気づけば、石段の途中に立っていた。
雨上がりの現代。足元には、濡れたアスファルトと自動販売機の灯りがあるだけだった。
ポケットの中のマッチ箱は、なぜかほんのりと温かかった。