夢か 現か
石段の下には、もう見慣れた現代の景色が広がっていた。
コンクリートの歩道、停まっている軽自動車、遠くから聞こえる救急車のサイレン。
先ほどまで耳にしていた路面電車の音も、港の潮の匂いも消えている。
祐真は胸の鼓動を抑えながら、ポケットの中を探った。
指先に触れるのは、あの黒地に金色の帆船が描かれた小さなマッチ箱。
《南蛮堂》の文字は、確かにそこにあった。
——夢じゃない。
六甲台キャンパスの正門を抜け、図書館へ向かった。
閲覧室の隅の席に腰を下ろすと、机にマッチ箱を置いてまじまじと見つめた。
紙の手触りも、角の小さな傷も、あまりに生々しい。
もしこれが本物なら、どうして自分は過去へ行けたのか。
そして——あの女学生は何者なのか。
夜、下宿の机にマッチ箱を置き、ノートを開いた。
日付、時刻、場所、天候、そして過去にいた時間の長さを思い出せる限り書き出す。
唯一の手掛かりは「六甲台の裏手の石段」と「六甲おろし」。
翌日、講義が終わるとすぐに石段へ向かった。
同じ時間、同じ順路で降りる。
しかし、景色は変わらない。
一度や二度ではなかった。
午後の授業を休んでまで試し、曇りの日も、夕方も、夜も、何度も石段を往復した。
結果は、いつも同じ——現代のまま。
ある日、諦めきれずに坂道を降りていると、後ろから声をかけられた。
「祐真、なにやってんの?」
白石遥だった。
カメラバッグを肩から提げ、訝しげな顔でこちらを見ている。
「ちょっと……試してることがあって」
「試す?」
「いや、その……言っても信じないだろうけど」
それでも彼女は引き下がらなかった。
しばらく押し問答の末、祐真はつい口を滑らせた。
「過去に行ったんだ。昭和の神戸に」
遥は数秒黙り、次の瞬間吹き出した。
「……またそういう冗談? 小説のネタにしてるだけでしょ」
「違う、本当に——」
言い切る前に、彼女は肩をすくめて歩き出した。
「まあ、あんたらしいけどね。で、その昭和で何したの? カフェでも行った?」
「……行った。南蛮堂っていう喫茶店」
遥は振り返り、少しだけ興味を示したようだった。
「聞いたことない名前だな」
「ほら、証拠」
祐真はポケットからマッチ箱を取り出して見せた。
だが、彼女は手に取ってもすぐに机の上へ戻した。
「古道具市で買ったって言われても信じるよ。結局、証拠にならない」
その言葉が胸に刺さった。
自分でも、確信はあっても証明はできない。
日が経つにつれ、試みは空回りし、苛立ちだけが募っていった。
あの日の風は、二度と吹かないのではないか——そう思い始めたころだった。
九月の半ば、朝から分厚い雲が垂れ込めた日。
講義が終わるころには、雨脚は強くなり、山の上は霧に包まれていた。
祐真は傘も差さず、石段の上に立った。
雨粒が頬を打ち、制服のような黒いジャケットに滲みていく。
「……頼む」
誰に向けたのか分からない呟きを漏らし、一段ずつ降りていく。
そのときだった。
谷間を抜ける風が、いきなり横から吹きつけた。
耳元で笛のような音が鳴り、全身の感覚がふっと浮く。
視界がかすみ、雨の匂いが潮の香りに変わった。
濡れた石段の感触も、いつの間にか乾いた石畳に変わっている。
——戻ってきた。
祐真は息を呑み、目の前に広がる港町の景色を見つめた。
昭和の神戸が、再び彼を迎えていた。