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六甲の風が呼ぶ  作者:
3/7

夢か 現か

石段の下には、もう見慣れた現代の景色が広がっていた。

コンクリートの歩道、停まっている軽自動車、遠くから聞こえる救急車のサイレン。

先ほどまで耳にしていた路面電車の音も、港の潮の匂いも消えている。


祐真は胸の鼓動を抑えながら、ポケットの中を探った。

指先に触れるのは、あの黒地に金色の帆船が描かれた小さなマッチ箱。

《南蛮堂》の文字は、確かにそこにあった。


——夢じゃない。


六甲台キャンパスの正門を抜け、図書館へ向かった。

閲覧室の隅の席に腰を下ろすと、机にマッチ箱を置いてまじまじと見つめた。

紙の手触りも、角の小さな傷も、あまりに生々しい。


もしこれが本物なら、どうして自分は過去へ行けたのか。

そして——あの女学生は何者なのか。


夜、下宿の机にマッチ箱を置き、ノートを開いた。

日付、時刻、場所、天候、そして過去にいた時間の長さを思い出せる限り書き出す。

唯一の手掛かりは「六甲台の裏手の石段」と「六甲おろし」。


翌日、講義が終わるとすぐに石段へ向かった。

同じ時間、同じ順路で降りる。

しかし、景色は変わらない。


一度や二度ではなかった。

午後の授業を休んでまで試し、曇りの日も、夕方も、夜も、何度も石段を往復した。

結果は、いつも同じ——現代のまま。


ある日、諦めきれずに坂道を降りていると、後ろから声をかけられた。

「祐真、なにやってんの?」


白石遥だった。

カメラバッグを肩から提げ、訝しげな顔でこちらを見ている。


「ちょっと……試してることがあって」

「試す?」

「いや、その……言っても信じないだろうけど」


それでも彼女は引き下がらなかった。

しばらく押し問答の末、祐真はつい口を滑らせた。


「過去に行ったんだ。昭和の神戸に」


遥は数秒黙り、次の瞬間吹き出した。

「……またそういう冗談? 小説のネタにしてるだけでしょ」


「違う、本当に——」

言い切る前に、彼女は肩をすくめて歩き出した。

「まあ、あんたらしいけどね。で、その昭和で何したの? カフェでも行った?」

「……行った。南蛮堂っていう喫茶店」


遥は振り返り、少しだけ興味を示したようだった。

「聞いたことない名前だな」


「ほら、証拠」

祐真はポケットからマッチ箱を取り出して見せた。

だが、彼女は手に取ってもすぐに机の上へ戻した。

「古道具市で買ったって言われても信じるよ。結局、証拠にならない」


その言葉が胸に刺さった。

自分でも、確信はあっても証明はできない。


日が経つにつれ、試みは空回りし、苛立ちだけが募っていった。

あの日の風は、二度と吹かないのではないか——そう思い始めたころだった。


九月の半ば、朝から分厚い雲が垂れ込めた日。

講義が終わるころには、雨脚は強くなり、山の上は霧に包まれていた。


祐真は傘も差さず、石段の上に立った。

雨粒が頬を打ち、制服のような黒いジャケットに滲みていく。

「……頼む」

誰に向けたのか分からない呟きを漏らし、一段ずつ降りていく。


そのときだった。

谷間を抜ける風が、いきなり横から吹きつけた。

耳元で笛のような音が鳴り、全身の感覚がふっと浮く。


視界がかすみ、雨の匂いが潮の香りに変わった。

濡れた石段の感触も、いつの間にか乾いた石畳に変わっている。


——戻ってきた。


祐真は息を呑み、目の前に広がる港町の景色を見つめた。

昭和の神戸が、再び彼を迎えていた。

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