高商の学生たち
祐真が呆然と立ち尽くしていると、背後から声がした。
「君、見ない顔だな」
振り向くと、さっきアルバムで見た青年がそこに立っていた。
詰襟の学生服に肩掛けカバン、瞳の奥に確かな光を宿した顔。
間違いない——相馬誠一だ。
祐真は言葉を失った。
写真の中の人物が、息をして、自分を見ている。
「……あ、えっと」
「転校生か? それとも見学?」
快活な笑みを浮かべ、相馬は距離を詰めてくる。
その歩き方も、どこか古風で整っていた。
言い訳も思いつかずにいると、相馬は勝手に納得したように頷いた。
「まあいいさ、どうせ暇してたんだ。案内してやる」
彼に連れられ、祐真は校舎を巡った。
廊下は木の香りが濃く、床板は歩くたびに小さく軋む。
教室の窓からは港のクレーンが小さく見え、帆船のマストが夕陽に浮かんでいた。
「ここから見る港が好きなんだ」
相馬が指差す先には、橙色の海が広がっていた。
「いずれはあの向こうへ行くことになるだろうな」
どこか寂しげな口調に、祐真は首を傾げたが、聞くことはできなかった。
やがて校門を抜け、二人は坂道を下った。
石畳が夕陽を反射し、路面電車がカタンコトンと走っていく。
道端の花屋からは甘い香りが漂い、行き交う人々の服装や話し声が、すべて昭和の匂いを纏っている。
「ここだ。よく来る店なんだ」
港近くの裏通りに、小さなカフェがあった。
木製の看板には金色の文字で《南蛮堂》と書かれている。
ガラス戸を開けると、ベルが澄んだ音を立てた。
中は薄暗く、磨き込まれたカウンターと丸テーブルがいくつか並ぶ。
壁には外国船の写真や航路図が飾られ、異国の香辛料の匂いが漂っていた。
「誠一さん、いつもの?」とマスターが声を掛ける。
相馬は笑って頷き、「それと、こっちは友人だ」と祐真を紹介した。
テーブルに腰を下ろすと、窓際にひとりの女学生が座っているのが目に入った。
白いブラウスに紺のプリーツスカート、胸元に赤いリボン。
髪は耳の下で切り揃えられ、視線は海の方へ向けられている。
彼女はふとこちらを見て、微笑んだ。
その笑みは、何かを知っている者だけが浮かべるような、静かな確信に満ちていた。
やがて彼女は立ち上がり、祐真の横を通り過ぎるとき、小さく囁いた。
「この街は、時々、夢を見るの」
その声は、海風のように淡く消えていった。
「誰?」と相馬に聞くと、首を振る。
「さあ、名前は聞いたことがないな。いつもあの席にいるけど」
マスターが運んできたのは、濃い琥珀色のコーヒーと、小さなミルクピッチャー。
香りは豊かで、口に含むと深い苦味が広がった。
勘定を済ませようとすると、マスターがマッチ箱を差し出した。
「これ、新しく作ったんだ。持っていきな」
黒地に金色の帆船が描かれた、洒落た意匠。
《南蛮堂》の文字が小さく刻まれている。
祐真は思わずそれをポケットにしまった。
この時代のものだとは信じられないほど鮮やかで、妙に手になじむ感触だった。
外に出ると、港から鐘の音が響いてきた。
日が暮れかけ、街の輪郭が少しずつ影に溶けていく。
その瞬間、再び六甲おろしが吹き抜けた。
視界が揺らぎ、音が遠のく。
気づけば、祐真は六甲台の裏手の石段の途中に立っていた。
ポケットを探ると、そこには確かに南蛮堂のマッチ箱があった。