幕間-その弐 『綾瀬皐姫のイロハ』
「『僕もあの人も、みんなと同じように暮らしたいんだ。迷惑かけたくないんだ。お荷物だって、思われたくないんだよ。そんな事思わないよって言われたって、人間は気にするし、気を遣う生き物だから……』」
外へ跳ねたブロンドの髪を揺らす彼女は、しっとりと濡れた声で原稿を読み上げた。着崩した白のカッターシャツに、淡い水色のスキニージーンズ。如何にもラフな風貌に反して、その声は艶やかで……しかし色気というよりも、可愛らしいといったふうな魅力を備えている。
そんな、甲高くも落ち着きのある声を包み込むように、店の外から聞こえる微かな雨音が小刻みに響く。まるで、古いレコードに収録された朗読を聴いているようだ。雨空の藍碧が淡く染みこんだ芳香の店内には、物語が連れてきた優しい静寂がふわりと漂っていて、僕達の精神だけを丁寧に現実から遠ざけていく。
隣の彼女が最後の一行を読み終え、原稿用紙をカウンターテーブルへそっと置いてからも、僕を含め、三人揃って一言も言葉を発しなかった。
定休日の恒例となった”YOSHIKA”の原稿朗読会。何時もであれば、珈琲を片手に和気藹々と談笑しながら進むのだが、今日ばかりは内容が内容なだけに……。
「わざとやってるんだろうけど、それにしても……落差が酷いわね」
カップに残った珈琲を飲み干してから、隣の彼女が独り言のようにそっと言う。
申し訳無さに苛まれながら、僕は小さく苦笑いを浮かべた。直後、ティッシュで盛大に鼻をかむ音がカウンターの内側から聞こえた。
涙なのか、鼻水なのかもはや分からないくらいにボトボトになった音葉さんは、追加でティッシュを二枚ほど手に取ると、涙を拭った後で再び鼻をかむ。
「――ったく、何時まで泣いてんのよ。Linちゃんの話はともかく、さっきのは感動というよりは、考えさせられるっていうか、何というか……」
翡翠色の瞳をパタリと閉じて、溜め息交じりに隣の彼女が言った。
「だ――だってぇ……うっ……うぅ……」
「あんたは昔っから、感情移入が過ぎるのよ。こういうのは、適切な心の距離感ってのがあるの。一言一句、全部を自分の事みたいに受け取ってたら、それこそ、この本が書き上がる前に干からびちゃうわよ? ねぇ? 芳澄君?」
声に合わせて、途端に開いた翠眼が僕のほうへと向けられた。
「書いた身としては、その……何て答えたらいいか――」
困り果てながら再びやんわり笑顔を作ると、隣の彼女はちょっぴり悪戯っぽく笑って見せる。
「心の距離感は人それぞれなの……! 皐姫姉みたいにドライな立ち位置よりも、私みたくウェットな受け取り方のほうが、心に染み入るっていうか? 記憶に残るっていうか……?」
音葉さんが溜まったティッシュを背後のゴミ箱へ突っ込みながらボヤくと、ブロンドを揺らす彼女は「あーあー重たい重たい」と、うんざりしたふうに眼前で手のひらをパタパタと払うように振った。
それを聞いてムスッとふくれっ面になった音葉さんは、しかし怒るでもなく、カウンターの内側で頬杖を突きながら、「珈琲、おかわりは?」と僕等へ訊ねた。
「「頂きます」」
二人して返事をし、カップとソーサーを差し出す。
食器を受け取った音葉さんは、次に少しだけ思考するように視線を上の空へ向けた後、今度は何かを思い付いたように口角を上げ、キッチンへそそくさと引っ込んでいった。
「それにしても、こういうのってどうやって書くの? 『深界の止揚』の時も思ってたけど、貴方達が書く文章って、読者の”導線”というか、感情の揺れみたいなのを掴むのが上手いというか……そういうのって、難しいんじゃない?」
「難しい……。んー……難しい、か……」
繰り返し言いながら、僕はその言葉を心の中でも反芻し、少し考え込んでからポツポツと口を開いた。
「皐姫さんって、”他人の目”とか、気になった経験ってありますか?」
「目? 目って、視線の事?」
訊き返す彼女へ、僕は頷きながら「はい、視線とか、評価……? だとか、印象みたいな」と、曖昧な表現を幾つか並べてみる。
「まぁ、女なら誰だってあるんじゃないかな。外へ出る事が多いなら、自然と化粧だって上手くなるし、人と話す機会が増えれば、勝手に世渡り上手にもなってく――って、なるほど……? つまり――」
そんなふうに、僕の言わんとするところまで辿り着いた彼女へ、また一つ頷いてから僕は補足を付け加えた。
「自意識過剰って言われれば、それまでなんですけど、昔から、どうしても他人から見て異様なふうに見られるのが怖くて、健常者の方に溶け込もう……溶け込もうって、そういうのばっかり気にしてたからか、何となく、感覚的にそういうのが分かるんです。『こんなふうに書いたら、きっと読み手はこう思うだろうな』とか、『この文体は、こういう印象を与えがちだろう』とか」
聞きながら、感心したふうに「へぇ~……」と漏らした彼女は、続けて少し目を細めてから、何処となく嬉しそうに昔話を始めた。
「私さ、学生時代に、結構長いこと”偽名”を使って街中をブラブラしてた事があったの。家はお金持ちだったけど、お小遣いなんて貰えなかったから、それでバイトしたり、友達と遊んだり……まぁ、結局最後にはほとんどの人にバレちゃってたんだけどね」
困り眉になりながらクスッと笑った彼女は、視線を明後日へと向けてから続けた。
「芳澄君のソレと同じにするのは、ちょっとおこがましいかもだけど、何となく分かるなー……。街中で”王族の紋章”を見るだけでも、心臓がバクバク鳴ったし、バレたらどうしよう――とか、常に考えてたし。ちょっぴりスリリングで楽しかったけどね」
「おこがましいなんて、そんな……」
ほとんど条件反射でそう答えた刹那、僕の脳裏に幾つかのキーワードが引っかかった。
王族……? 偽名で街中を……?
熟考するまでもなく、僕の精神が危険信号を出す。
「皐姫さん、あの、それってもしかして……」
僕が訊ねた刹那、此方へ視線を向けて小首を傾げた彼女は、小さな声で「あっ――」と漏らした後、「今の、聞かなかった事にして?」と、悪い笑顔を作りながら猫撫で声で言う。
朗読の余韻のせいか、僕も警戒を怠っていた。
この人――綾瀬皐姫さんは、僕からすれば”ネタバレの宝庫”だ。取材させてほしい――なんてお願いしておいて何だが、手早く此方からの質問を済ませてしまって、大人しく引き上げるのが得策だろう。
「――で? 取材の話に戻るけど、何から聞きたい? 原稿読ませて貰ったお礼に、大抵の事は答えるわよ? 例えば……」と、ほんの少しだけ考え込んだ皐姫さんは、僕がそれを阻止する暇すら与えずに言葉を続けた。
「城を抜け出して、こっそり旦那に会いに行った話とか? それとも、許婚に凌辱されそうになった時の話? 旦那を寝取ろうとした何処ぞの女とガチ喧嘩した話なんかもあるわよ?」
「い――いちいち内容が濃い……」
メモ帳とボールペンを取り出しつつも、楽しそうに目を細める彼女の顔へ向けて困り眉を作る。
本当に、この一家の相手をするのは疲れる。
僕は胸中だけで大きく嘆息した後、メモ帳のページをペラリとめくり、元々準備しておいた質問を投げかけようとした――その時だった。
「はいはーい、ネタバレ禁止!!」
突然、背後からそんなふうに声が鳴った。音葉さんの声だ。
「ちぇー……」
言ってつまらなさそうに唇を尖らせる皐姫さんへ、黒髪揺らす彼女は「いい加減にしないと、また彩華に怒られちゃうよ? あの子、『芳澄さんには、私の一番の読者で居てほしいんです』って、頑張ってるんだから」と、彼女へ釘を刺すように言う。
「分かった。分かったわよ」
そう呟きながら、テーブルへ片手で頬杖を突いた皐姫さんは、カウンター裏の棚へと視線を送った。
そこには幾つかの置物と、写真立てらしき物が飾られていた。
僕の目では、その写真が何を写した物なのかまでは見えなかったけれど、皐姫さんの微かに微笑んだその表情は、まるで遠い場所にある何かを懐かしむかのような、そういうノスタルジックな空気を纏っていた。
「はい、どうぞ。丁度マドレーヌも焼けたから、一緒に食べてね」
そう言って音葉さんが差し出したカップからは、柔らかい湯気と共に、鼻の奥をくすぐるような特徴的な香りがした。
同じく気になったのだろう皐姫さんも、手で湯気を手前へ向かって仰ぎながら「これ……マンデリン?」と、後ろに立つ彼女へ確認を取る。
「お、正解! よく分かったね?」
「流石に分かるわよ。……って、ははーん? だからマドレーヌね? あんた、なかなかやるじゃない」
彼女達のやりとりを聞きながら、試しに――と、僕も今一度珈琲の香りを嗅いでみる。
何とも野性的な香りだ。ハーブのようにも思えるが、それよりももっと濃密で、例えるなら……湿った森の中に漂う草木の香りなんかに近い。たっぷりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出せば、涼しげな緑の冷ややかさが後から追いかけてくる。暖かいはずなのに、不思議な香りのする珈琲だ。
「あれ、芳澄君、もしかして……マンデリンは初めて?」
僕の反応を横目に見た皐姫さんが、表情を明るくしながら訊ねた。
「多分、飲んだ事無いと思います」と答えると、すかさず翠眼を煌めかせた彼女は、「じゃあ、最初はブラックで――」とコーヒーカップを持ち上げて、僕へ真似するように促す。
「あ――えっ――ちょ、芳澄君、ちょっと待って――」
背後で鳴った音葉さんの声が耳に入った頃には、僕はカップへ口を付けてしまっていた。
刹那――。
「……ん? ん――!!」
無意識にうめき声が漏れ、同時に強烈な苦みが舌を貫いた。
慌てて飲み込むと、喉の奥から森の香りがやってくる。それはもはやジャングルだ。濃密に生い茂る草木を思わせるような、清々しさとワイルドさを兼ね備えた余韻に、僕は思わず傍らのマドレーヌを摘まみ上げ、口へ放り入れる。すると一転、芳醇なバターの香りと、後からくるお砂糖の甘さが舌を優しく包み込んだ。
”マリアージュ”とはこういう事を言うのだろう。苦みと甘さという対極の要素が、素晴らしい調和を生んでいる。
「旨っ……」
自然と、僕の口から言葉が漏れた。
「インドネシアは、スマトラ島北部で栽培されてるアラビカ種の珈琲豆で、酸味はほとんど無いんだけど、その代わりにとてつもなく苦いの。後は、何と言ってもスモーキーで野性味溢れる香りが特徴的で、気に入ると癖になっちゃう人も多いんだけど……」
何時ものように解説を挟む音葉さんに続けて、皐姫さんも珈琲を一口啜ってから付け加えて言う。
「合わない人には、とことん合わないのよね。これ」
そんなピーキーな味のする珈琲を、何食わぬ顔で突然出してくる音葉さんんの悪戯っぷりに、何時もの事ながら、改めて困り果てるのだった。そして思った。
本当に、この一家の相手をするのは疲れる。
「あ、そういえば芳澄君、取材に答える前に……私からも少し質問してもいい?」
「し――質問ですか……?」
恐る恐る言って、僕は皐姫さんへ視線を向ける。
ニッコリと笑顔を作った彼女は、次に僕が持つメモ帳とボールペンをひょいと取り上げ、新しいページへすらすらと何かを書き加える。そして、ビリッとそれを千切り取ったと思えば、僕に向かってそれを差し出した。
そこにはこうあった。
――女性遍歴。
――趣味(物書き以外)。
――好きな女性のタイプ。
――端的に彩華の事、どう思う?
「あの、皐姫さん? これって……」
僕が再び彼女の顔へ視線を戻すと、笑顔はそのままに「いひひ……」と、すこぶる悪い顔を作ってみせる。
「皐姫姉!! 芳澄君を揶揄って遊ばないの! メッ!!」
僕の後ろからメモを覗き込んだ音葉さんが、すかさず声を上げた。正直、どの口が言ってるのか……と、内心思ってしまったけれど、今だけは黙っておく事にした。
「え~? あんただって気になるでしょ? ほら、娘の色恋沙汰なんて、本人に直接聞けたもんじゃないし? ……で? どうなの?」
「だから、ダ~メ!!」
言って僕等の間へと割って入った音葉さんは、続けて「芳澄君には、ちゃーんと大事な人が居るんだから」と、自信満々に言い放つ。
「「えっ?」」
僕と皐姫さんの声が、ほぼ同時に鳴った。
次に意外そうな顔を作った皐姫さんは、僕に向かって再び「えっ……? どういうこと?」と確認をとる。
分からない――と言ったふうに首を何度も横へ振った僕は、皐姫さん同様、次に音葉さんへと顔を上げた。
黒髪揺らす彼女が「ふっふっふ……」と含みを持たせて笑った刹那――。
カランカラン――。
店の入り口から、来店を知らせるベルが鳴った。
今日は定休日だ。客なんて来るはずがないのだが、ベルを聞くやいなや、音葉さんは「いらっしゃーい」と、軽やかにレジ前へと向かう。
そして、彼女が連れてきた馴染みのある顔は、僕へ向かって「やあ、芳澄君。元気にしてたかね?」と、何時もの胡散臭い笑顔で声をかけた。そして次に彼はこう言った。
「君に見せたい物がある。付いてきてくれるかね?」