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第四話 『人称のイロハ』

 綾瀬さんとの師弟関係が結ばれた翌日、僕は再び芳香の裏庭へと招かれた。


 天気も良く、お昼時というのもあってか、店の表には出入り口から更に外へと続く程の行列が出来ていた。

 大きく開かれた両開きドアの奥からは、焼けたパンの香ばしい香りが店外にまで流れてきていた。並んでいる人達は皆、この芳醇な香りに誘われて店へ立ち寄ったのだろう。


 仮に僕がこの近辺でオフィス勤務をしていたとして、たまたま此処を通りかかりでもした日には、恐らく同じように列へ並ぶ他無かったに違いない。それくらい、”芳香(よしか)”という店名にふさわしい魅惑的――というよりは、悪魔的と表現したほうがしっくり来るような、食の本能へ訴える香りだ。


 そんな行列を尻目に、僕は昨日と同じく建物の脇から狭い小道を抜け、裏庭へと出た。すると、庭の中央付近へ置かれた四人掛けの白いガーデンテーブルで、電動車椅子へ座った綾瀬さんがノートパソコンとにらめっこをしているのが見えた。


 外で作業をするには少し肌寒いくらいの気温だが、彼女が身につけている黒基調のノルディック模様があしらわれたニットと、赤いチェック柄の膝掛けのおかげもあってか、その風貌からは、寒い季節特有の心細さみたいな物はまるで感じなかった。


「こんにちは」

 言って、彼女とは対面の席へ腰掛けた僕は、肩から掛けたショルダーバッグを空いた椅子へと下ろした。すると綾瀬さんは、ハッと顔を上げながら僕に向かって大きな目を丸々と見開いてから、すぐに柔和な表情になって、「こんにちは」と同じく挨拶を返した。そして、続けざまに彼女は言った。


「今、丁度プロットの調整をしていた所なんです。良ければ、見て貰えませんか?」


 教師を雇うだけあって、流石に積極的だな……と、僕は素直に感心した。


 綾瀬さんは「こういうの初めてで、拙い文章で申し訳無いんですけど――」なんて言いながら、此方へとノートパソコンを差し出す。僕はそれを受け取って、画面が良く見えるようにディスプレイの角度を微調整してから、コントロールキーとマウスホイールを使って文字の拡大倍率を上げ、そして――。


 そして、次に思わず「――え?」と声を漏らした。


「な――何か不味かったですか……?」

 後頭部で結った長い髪を揺らしながら、すかさず身を乗り出して訊ねる彼女だったが、僕は構わず、プロットを読み進める事に集中した。


 プロット自体はよく出来ていた。恐らく何かしらの教則本や、解説動画などを見て勉強したのだろう。登場人物の事柄が時系列で細かく纏められていて、プロット――というよりは、もはや仕様書に近いレベルにまで整理されている。


 ただ……。


 この際、正直に言ってしまおう。彼女――綾瀬彩華が想い描く“書きたい物語”という物を、僕は完全に舐めていた。物書きとしても初心者であるこの子が、最初から手の込んだお話を構築出来るとは到底思えなかったからだ。


 ましてやこれは……手が込んでいるどころか、もはや”ギミック”と言ってもいい。文字という、一見平面上へ単調に並ぶ羅列を駆使して、立体的で複雑な人の思考――意識の矛先を操るような、巧みな執筆技術が無ければ、この仕掛けはいともたやすく破綻してしまうだろう。


 二十分程かけて、一旦最後までプロットへ目を通し終えた僕は、「これ、全部綾瀬さんが一人で……?」と、顔を上げながら恐る恐る訊ねた。


「い――いえ、原案は私が考えた訳じゃなくて、その……元々”ある方”から頂いた物を、私がプロットとして纏めました」


 成る程、そういう事なら納得がいく。

 それを聞いて、僕は何度か頷いた後、再びプロットへ視線を戻した。それと同時に、昨日のおでん屋で金髪の彼が放った言葉が、僕の脳内へと繰り返し響いた。


――時に君は、ミステリー小説は好きかね?


 ”謎は自分で解き明かせ”という意図だったのだろうが、それにしたって、これは難題が過ぎる。

 僕は途方に暮れながら、ディスプレイへ向かって今一度顔を顰めた。


 僕の知る限りでは、”二人称”で描かれた小説というのは、往々にして表現やお話の仕組みに無理がある作品――或いは、中途半端に三人称崩れだったり、途中から二人称である事を諦めてしまっている物が多い。


 そもそも二人称というのは、文字である空想上の人物と読者とをやり取りさせるという表現法であり、文字という静的な情報と、動的な思考を持ち合わせる人間とのコミュニケーションを違和感無く成立させる事自体、土台無理な話なのだ。


 その点、日本文学にて散見される”一人称”という書き方は、読み手が文字で描かれた主人公へ感情移入しやすい形態で、キャラクターと自分とが”同化”するような、ある種現実からの逃避感を味わえる優れた表現法だ。それ故、物書きを志す者なら大抵一度は挑戦する技法だが、単純に書くのがとてつもなく難しく、挫折する者も多い。


 例えば一人称である以上、主人公の目の前に居るであろう人物の心の声が聞こえてしまう――というのは不自然だ。背中に目が付いているでもない限り、背後の状態がどうなっているかすら分からないはずだし、憑依しているキャラクターが知る由も無い遠く離れた場所の事柄については、当然ながら一切触れられない。


 要するに、”人の目”と同じ量の情報しか扱う事が出来ないのが一人称だ。従って、多くの世界観や人物設定を詰め込もうとした際に苦労する――といった難点もある。


 難易度別に言えば、海外の書籍などに多く見られる”三人称全知全能視点”という物が恐らく一番初心者向けで、次いで三人称一元視点――目線は特定の誰かに縛られないものの、登場人物の一人に焦点を当てた心理描写などを主体とする表現法――が比較的書きやすく、物書きとしての経験が浅くとも、自身の思い描く物語を形にしやすい。


 対して、前者は読んで字の如く、出てくるキャラクターの全てを知る事が出来るという、作者としてはこれ以上無いくらい都合の良い表現法だ。しかしデメリットもあって、全てが見通せてしまう分、本を読む上で最も大切な要素と言える”謎を追う”楽しみを、読者から奪ってしまう事も少なくない。


 謎というのは、物語における極上のスパイスだ。元来人という生き物は、自分の知らない世界へ興味を持つように出来ていて、分からない事へ恐怖し――同時に魅力を感じるのである。


 そういった観点で言えば、彼女が提示する『深界の止揚(アウフヘーベン)』という物語の構想は、とても魅力の詰まった物に見える。

 二人称である以上、あくまで主人公は読者自身であり、読み手が文字として認識する事――作中では、この行為を”観測”と呼ぶらしい――によって、物語として描かれるキャラクターとの掛け合いが成立する、といった物だ。


 流石にプロット時点では、読者を引きつけるようなお話としての起伏――つまり、起承転結みたいな物はあまり感じられないのだけれど、今のままでも十分ポテンシャルを秘めた物語である事は確かだ。少なくとも、僕にはそう見える。


「――いや、でも、二人称て……」

 僕は小さな声で、溜め息交じりにそう言った。


「やっぱり、難しい……ですよね」

 綾瀬さんも僕と同じく、俯き加減に呟く。


 結局はそこだ。この物語は二人称である事に意味があり、その要素を取り除いてしまっては、プロットに記された”ラストシーン”のインパクトが著しく損なわれてしまう。

 どう考えたって、僕では力不足だった。何せ、僕が小説を書いていた当時に得意としていたのは”三人称一元視点”であり、一人称小説も書けなくはないが、やはり技術的に未熟な部分は否めない。


 加えて、この物語は二人称でありつつも、”一人称で描かれる登場人物の物語を観測する”という、もはや二人称かどうかすら怪しい新たな試みを謳っている。一体、このお話の原案を考えた人はどんな発想でこれを――。


 そうだ、本人に話しが聞ければ、或いは……。


「綾瀬さん」

 僕が声をかけると、それまで上の空だった彼女は「は――はい!」と、再び髪をユサリと揺らしながら返事をした。


「これ……僕から見ても、かなり手の込んだ事をやろうとしてるもので、この物語を考えたご本人と、直接お話が出来たらなー――なんて、可能だったりしますか?」


 訊ねると、彼女は幾分気不味そうに口を開いた。


「えっと、それは……ごめんなさい。出来たら、どんなに良いだろうと私も思うんですけど、今は、もう――」


 彼女の言葉が走り去った後を追いかけて、足早に春の兆しを思わせる柔らかいそよ風が、僕達の間を優しく通り抜けた。そしてその後に残ったのは、ポッカリと大切な物が抜け落ちたような、お墓や仏壇と同じ類いの存在感を放つ”虚無”だった。


 僕にだって、そういう経験はある。

 人間の死という物を目の当たりにした瞬間、そこから人はやけにそういった匂いに敏感になる。私生活のほとんどを目ではなく、音に頼って生きている僕にとっては、その知らせは素振りや雰囲気だけではない。声や話し方の一つ一つからも、嫌という程伝わってきてしまう。


 流石にそれ以上、原案を彼女へ託した本人について訊く気にはなれなかった。

 後になって、僕もこのプロットに登場する”イロハ”という女性についての詳しくを知る事になるのだけれど、この記録を綴っている今でさえ、当時の綾瀬さんがどれほどの覚悟をもって、あのプロットを書き進めていたのかは察するに余りある。


 しかしながら、この時の僕はもちろん何も知らない訳であって、困惑と戸惑いで胸の中がいっぱいだったのをよく覚えている。だからこそ、一旦現実から目を背ける――といった形で、僕は彼女へ向けてある提案を持ちかけた。


「綾瀬さん、このプロット、一旦お預かりしてもよろしいですか? 僕なりに、少し構想を練ってみます」


「え――あ、はい! もちろんです」と綾瀬さんが答えた矢先、僕は「その代わり――」と、傍らのショルダーバッグからスケッチブックと鉛筆を取り出して、適当に開いたページの左上へ、『今月の目標』と書き加えた。


「今日から貴女には、毎日課題に取り組んでもらいます」

「課題……ですか?」


 綾瀬さんは無表情のままにそう訊き返してから、次に段々と目を輝かせ、「課題――課題……! はい! やります!」と、嬉しそうに繰り返し言った。

 プロットの出来映えからも分かる通り、この子は元から勉強するのが好きなタイプの子なんだな――と、僕は胸を撫で下ろした。


――それこそ、君の性分ではないかね? ”やるからにはとことん”――だろう?


 再び僕の脳裏へ、ピカニアの言葉が浮かび上がった。

 彼は僕の事を「適任だ」と言っていたが、強ち間違いでは無いかもしれない。僕はそんなふうに少し嬉しくなりつつも、続けて画用紙の左端へ、縦に幾つかの(パラグラフ)記号を書き加え、一番上の項目へある単語を加筆した。


「今日やるのは、これです」

 言って、僕はスケッチブックからそのページを切り取って、鉛筆と一緒に彼女へと手渡した。

 上下逆に画用紙を受け取った綾瀬さんは、くるりと正しい向きへ戻しながら一つそれを覗き込んだ後、書かれた単語をゆっくりと読み上げ、語尾に疑問符を付ける。


「ブレイン……ストーミング……?」

「そう、ブレインストーミングです」


 僕が人差し指を立てながら答えると、彼女は此方へ碧の瞳を向け、やんわりと首を傾げるのだった。

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