幕間-その壱 『七瀬音葉のイロハ』
「へぇ~、なるほどなぁ……」
一頻り原稿用紙へ目を通し終えた黒髪の彼女は、茶色いボストン淵のメガネを外しながら、物腰柔らかな声でそう言った。
僕と彼女の二人しか居ない芳香の店内は、定休日にも関わらず、柔らかいバターの匂いと、珈琲豆の香ばしくも膨よかな香りで満ちていた。
店は酷く長閑で、営業日のような活気は全く感じられないのだけれど、反ってそれが心地良かった。午前の日差しに照らされた木目調の内装や、所々にあしらわれた観葉植物も相まって、まるでこの空間ごと別の世界へ飛ばされたんじゃないか――なんて、そんな気さえした。
「……で、これから彩華の物書き修行の日々が順番に綴られていく――って訳だ」
カッターシャツに黒のエプロンを身につけ、肩までの黒髪を揺らす彼女――七瀬音葉さんは、次にカウンターテーブルへ頬杖を突きながら、隣に座る僕へ向けて水色の瞳を向ける。
「一概にも順番に――って訳じゃないですけどね。まぁ、そのつもりです」
言って、僕は先程彼女が淹れ直してくれた珈琲のおかわりへと口を付けた。しかし次に走った予想外の刺激に驚き、「――ん、え?」と、思わず声を漏らす。
すぐに彼女へ目をやると、悪戯な笑みを浮かべた音葉さんは「にっしっし……」と笑ってから、したり顔のままに同じく珈琲を啜った。
「今日はお休みなので、ちょっとだけ特別なのを淹れてみました」
自慢げにそう言った音葉さんは、続けて僕へ「芳澄君、何の豆だか分かる?」と訊ねた。
僕は少しの間思考した後、すぐには答えず、彼女へ一応の確認をとった。
「珈琲を淹れてから、追加でレモンを絞った――とかは?」
「もちろんしてないよ? あ――でもレモンか……。いい線行ってるかも」
いい線行ってる……? え、これ珈琲だよな……?
謎は深まるばかりだった。試しにカウンター席へ置かれた芳香のメニュー表を手に取った僕は、前半のフードメニューへは見向きもせず、珈琲の銘柄が並ぶページをまじまじと眺めた。
「酸味系だから……グアテマラ? え――グアテマラってこんなに酸っぱかったっけ? いやいや、でも特別なんですよね?」
彼女はそれに一つ頷いてから、「そう、特別だよ」と答えた。
その後もブツブツと呟きながら一向に答えられない僕を横目に、楽しそうにクスクス笑った音葉さんは、傍らからひょいと手を伸ばして「正解は――」と、ある銘柄を指さした。
「ハワイコナ――って、知ってる?」
してやられた……と、僕はそう思った。
あまりの特別さに、僕は無意識にそれを候補から外してしまっていた。それは珈琲豆の一覧の中でも、別格の値段設定がされた――文字通り”特別な豆”だった。レギュラーのブレンドコーヒーと比べれば、一杯でなんとその四倍はする。
「た――高!」
「ね? 特別でしょ?」
そんなふうにクスクスと笑った彼女は、再び珈琲を一口啜ってから続けて僕へ説明した。
「アメリカはハワイ島の、”コナ地区”ってところで栽培されてる豆なんだけど、世界三大コーヒーにも数えられるくらいで、”コーヒーの王様”なんて言われてるの。すごいでしょ?」
「へぇー。……ただ、それにしてもすごい酸味ですね」
僕が感嘆の声を上げながら言うと、「でしょ? 私も初めて飲んだ時はびっくりしたなぁ……。口に含んだ瞬間”弾ける”というか、目がチカチカするというか――」と、昔を懐かしむように彼女は呟きながら、今一度コーヒーカップへ口を付ける。
「高いし、仕入れでも普段はそんなに頼まないんだけど、この前発注した時にロット数間違っちゃって……。だから、今日は特別なの。芳澄君、珈琲好きでしょ? 飲むの手伝って?」
あはは……と、僕は苦笑いを浮かべつつも、普段絶対に飲めないであろう貴重な珈琲を口に含み――丁寧に味わってから、「あの、前々から思ってたんですけど」と、彼女へ切り出した。
「音葉さんって、やっぱりドジっ子――」
「ドジじゃない。お茶目なだけ」
ふくれっ面になりながら、前のめりに僕の言葉を遮って言う彼女の素振りがおかしくて、僕は思わず吹き出すように笑うと、それに釣られて音葉さんも同じように笑った。
珈琲はすぐ空になった。同じくカップを空けた音葉さんは、何も言わずにカウンターの上に置いてあったガラス製のコーヒーサーバーを手に取り、僕と彼女のカップへ同じ量のハワイコナを注いだ後で、話を”YOSHIKA”の原稿へと戻した。
「それにしても、意外だったなー。そりゃあ、彩華に教えてるくらいだから、芳澄君が、本が書ける人だっていうのはもちろん知ってたけどさ? まさか、その復帰作に私が出てるなんて……なんだか恥ずかしいというか、こそばゆいというか――」
「それを言ったら、僕も――自分を主人公にした小説を書く日が来るだなんて、夢にも思ってませんでしたよ。ただ……」
そこで僕が言い淀むと、彼女は「ただ……?」とオウム返しに訊く。
「それくらい、僕にとっては特別な一年間だった。だから筆を執る気になったんだと思います」
「そっかぁ……」と、彼女はしみじみ呟いてから、次にカウンター席から立ち上がり、腰へ両手をあてながら自信に満ちた表情を作った。そして言った。
「で、”取材がしたい”って事だったけど、一体何を答えればいい? 年とか? それとも趣味? あとは……」
そこまで言ってから、少しの間頭上で思考を巡らせた音葉さんは、突然ほんのり顔を赤らめると、困ったふうに眉をハの字にした。
「あの、一体何聞かれると思ったんですか……?」
「い――いやぁその、私には旦那が居るし、そういうのは……」
間違い無く何かを勘違いされている。それだけは確かなようだった。
「普通なのでいいんですよ。普通なので! ……じゃあ、さっき出ましたし、趣味から聞いてもいいですか?」
僕は少し適当なふうを装ってそう言ってから、「あ――でも、まずは一応お名前から伺っても?」と付け加えた。
「七瀬音葉っていいます。年は二十歳で、身長は百六十二センチ。体重は……」と、彼女は少し俯いてから、次に上目遣いで僕へ視線を送る。
「答えなくていいです。はい、次――」
「えへへ……。えっと、趣味はヘアカットかな? 昔から髪型を弄るのが好きで、あ――実はね? 彩華のポニーテールも、皐姫姉のウルフカットも、私が何時も斬ってるんだよ?」
「え――そうだったんですか!? すご……」
思わず僕はそう漏らしながら、ジーンズのポケットから取り出したメモ帳を開き、同じく挟んでおいたボールペンで”ヘアカット”と走り書きをした。
音葉さんは褒められたのが嬉しかったのか、ニンマリと笑顔になりながら科を作って続けた。
「昔は兄ちゃんのも斬ってたんだけど、最近は皐姫姉が『私が斬る』って言い出して……。何なんだろ、ジェラシー?」
言いながら目を細め、悪戯な笑みを浮かべる彼女は、何時になく楽しそうに見えた。そしてそれはすこぶる悪い笑顔だった。
しかし、いちいち音葉さんの悪戯心にリアクションを返していては、一向に先へ進まない。僕は軽く愛想笑いでそれに答えた後、すかさず次の話題を振った。
「そういえば気になってたんですけど、苗字の”七瀬”って、確か皐姫さんの旧姓ですよね? でも、音葉さんって、確か祐杜さんの――」
僕がそんなふうに訊ねると、彼女は初め、頭の上へ疑問符を浮かべながら少しの間考え込んだが、すぐに合点がいったように「あぁー……」と漏らしてから、「そう、その七瀬だよ」と答えてくれた。
しかし、すぐに「でも――」と付け加えた後で、先程よりも幾分控えめに悪戯っぽく笑ってから、「芳澄君には、まだ詳しくは話せないかな……」と、もったいぶったふうに答えた。
「まだ……?」と僕が訊ね返すと、音葉さんは「ふっふっふ……」と、口元を両手で押さえながら笑って見せた。
「仕方ないよね。あの本の中には、私って、まだそんなに出てきてないし……」
「あー……、なるほど。確かに」
そういう事か……と、納得しつつ同意した僕は、ネタバレを回避する為にも違う話題へと話を進める事にした。
「じゃぁ次。僕が初めて芳香を訪れたあの日、僕の事は、どんなふうに見えましたか? 漠然としたイメージだけでもいいので」
「芳澄君の事? んー、イメージかぁ……」
音葉さんは少しだけ首を傾げつつ、頭を捻った後、当時を思い出すようにしながらゆっくりと口を開いた。
「これは、あの時も言ったかもしれないんだけど、思ってたよりも全然普通な人でびっくりだったなぁ。生まれつき”視覚障がい”を持ってる人だって聞いてただけに、一体どんな人が来るんだろ……って、私自身ちょっと身構えちゃってて……。あ――それとね? ちょっとだけ、昔の兄ちゃんと似た雰囲気の人だなーって」
「それ、前に同じ事を皐姫さんにも言われたな……。でも、祐杜さんって、何方かというと穏やかで喜作なイメージなんですけど、昔は違ったんですか?」
「昔は――ね? 今思えば、そりゃあ塞ぎ込んで当然だと思う。私に対してだって、だいぶと気を遣ってくれてたみたいだし」
再びしみじみと言った彼女へ、僕は少しだけ悪戯っぽく「お兄ちゃん大好きっ子でしたもんね? 昔から」と言ってやると、音葉さんは顔を真っ赤に染めながら僕から顔を逸らした。
「あー……えっと、あの頃は――その……兄にガチ恋してたヤバい奴だったから、だから……一旦距離を置こうと思って、高校からは、王都の魔術学園へ下宿に――」
「ま――待った待った! 僕、その話まだ知らないかも……」と、僕が慌てて彼女の話を遮ると、「あっ――」と表情を凍らせた音葉さんは、次に「えへへ……」と誤魔化すように笑って見せた。
「……あ――でも、次にうちの店へ芳澄君が来た時は、全然そんな感じじゃなかったよ? ちゃんと”先生”って雰囲気出てたし、ちょっぴり格好良かったかも?」
「あはは……。お世辞でも嬉しいです」
彼女のそれは、あからさまにその場しのぎのリップサービス――といった感じだったけれど、とりあえず素直に受け取っておく事にした僕は、少し冷めてしまった珈琲を喉へと流し込んだ。
香ばしい珈琲の余韻を濃密に包み込む特徴的な酸味からは、さながら柑橘系のフルーツを思わせるような爽やかさと共に、苦みはマイルドながらも深いコクが感じられた。こんな味はちょっと他では味わえない。そんな、味にもちゃんと特別感が滲み出た珈琲だ。王様と呼ばれているのも納得だ――と、僕はカップを空にしながらそう思った。
「おかわり、淹れましょうか?」と、同じく空になったコーヒーサーバーを片手に彼女は僕へ訊ねた。
「お願いします」と僕が答えると、ニッコリと笑った音葉さんは、僕からコーヒーカップを受け取って、そのままカンターの裏へと向かった。
今となっては、こんなのんびりとした日常が当たり前になってしまっているけれど、この一年間、本当に色んな事があった。その度に僕は驚かされたし、刺激を受けた。
それもこれも、あの日が全ての始まりだったのだ。
僕が彼女――綾瀬彩華から、深界の止揚という作品の全容を聞かされた、あの日、この店で。