第三話 『挑戦者のイロハ』
その電話をかけたのは、僕が芳香での面接を終え、喫茶店を出て帰路へ着いてからすぐの事だった。
既に空は茜色に染まっていた。少しして道端の街灯へ明かりが点り、歩道を歩く人々の足下へ、この時間特有の淋しげな影がふわりと顔を出す。
久々に長い時間他人と言葉を交わしたせいか、その影はいつもより一層目立って見えた。同時にそれは酷く余所余所しくも思えた。もしかすると彼等彼女等も、今の僕と同じような気持ちをその影みたいに引きずりながら、家路を急いでいるのかもしれない――と、僕は何となしに想像を膨らませた。
普段ならこういう光景は、遠い異国に伝わる物語のようにフィクションみを帯びて僕の目に映るのだけれど、今日ばかりはその距離が幾分か縮まって感じられた。それだけ今日一日に起こった出来事が、僕の精神へ及ぼした影響が大きかったという事なのだろう。
しかし、だからといって距離が少しばかり縮まったに過ぎず、僕等みたいな人間は、世に言う”健常者”よりもずっと知恵と工夫を凝らしながら生きていく必要がある。それはどうひっくり返ったって変わる事の無い事実であり、現実なのだ。
僕にとっても。そして、彼女にとっても――。
ピカニアへ電話をかけたのは、彼女――綾瀬彩華の現在について、二三確認したい事があったからだ。加えて、ここ数年の間に起きた”ある出来事”についても、この機会にハッキリさせておく必要があった。
ワンコール目で通話は繋がった。まるで、僕から電話がかかってくる事を予め予知していたかのようなその速度に、僕は驚いて思わずスマートフォンを耳から遠ざけ、ちゃんと通話が繋がっている事を画面で確認した後、再び耳元へ添え直した。
「そろそろだと思っていたよ」
彼はいつも通り、声へ自尊心を纏わせて言った。そして僕が第一声を発するよりも先に、「丁度、今近くまで来ていてね。今から会えるかね?」と訊ねた。
僕は二つ返事でそれを了承した。
此方としても、面と向かって話が出来るならそれに超した事は無い。それくらい、これから議論される話題は慎重に――且つ丁寧に扱われるべき内容だ。だからこそ、僕はあの場で結論を出す事はせず、返事を先延ばしにさせて貰えるよう頼んだ上で喫茶店を後にした。
綾瀬さんはそれを快く了承してくれたが、僕としては、変に期待を持たせた状態であまり待たせたくはない。決断は早ければ早いほうがいい。何なら今日中にでも答えを出すくらいのほうが、きっとお互いの為である。
待ち合わせ場所に指定された”おでん屋”は、阿倍野の駅外れにぽつんと建っていた。横開き式のドアを開けて店へ入ると、醤油やみりんと出汁が混ざったようないい匂いと同時に、濃密なアルコールの香りが熱気と共に冷えた鼻の奥を突いた。
カウンター席へ座っていた、金髪にサングラスをかけた男が、すぐに僕へ向かって軽く手を振った。僕も同じように手のひらで返し、ダッフルコートを脱いでから隣の席へと腰を下ろした。
「久しぶりだね。最後に会ったのは何時だったか――」
そんなふうに思考する彼へ向けて、僕は「五年くらい前だよ」と適当に答えた。
「そんなに前だったかね? まぁ何にせよ、息災のようで何よりだ」
「お陰様でね」と、僕は少々含みを持たせて言った後、彼へ目配せをした。対してピカニアも唇の片側を持ち上げながらフフッと笑みを零す。そのやり取りだけで、”ある出来事”についての確認は取れたも同然だった。
「いらっしゃい。何にしやしょ?」
すぐにやってきた初老の店員が、水の入ったコップを差し出しながら僕へ訊ねた。僕は軽く会釈をしながらそれを受け取ってから、カウンター席の上――ちょうど頭上辺りに並んだ小さなメニュー表に向かって目を細める。
「えーっと……」
ほんの数秒の冷たい沈黙が僕と店員さんとの間に流れたが、すぐにピカニアが僕の代わりに「彼にも、私と同じ盛り合わせを一つ。それと……餃子天と、だし巻き玉子を単品で」と答え、続けて「飲み物はどうするかね?」と僕へ向かって訊ねた。
「あー……お冷やだけでいいかな」と僕が答えると、店員はニッコリと笑顔になりながら「あいよっ」と返事をし、手際良く皿へおでんを盛り付けてから僕の目の前へと並べた。
「サンキューな」
僕が金髪の彼へ向かって呟くように言うと、ピカニアは再びニヤリと笑いながら「なぁに、気にする事は無い」と定型的な返事を返す。
続けざまに、彼は箸で大根を三等分に割ってから口へ放り込むと、膨らんだ頬の中でそれを転がしながらフーフーと湯気を吹いた。
「君のソレは確か……黄斑変性症といったかね? その後はどうかね。酷くなったりは?」
口の中身が落ち着いた辺りで、彼は僕に向かってそう訊ねた。
「特に変わってない――と思う」
僕が曖昧な返事をすると、ピカニアは「ほぉ?」と言葉の後ろへ疑問符をつけて此方へ視線を向ける。
「正直、分かんないんだ。人によっては、欠けた部分が黒い点になって視界に映るらしいんだけど、僕の場合、欠けた視野が見えないタイプだから、知らない間にそれが広がってても気付かないと思う。それこそ、定期的に眼科でちゃんと検査を受けたりしないと――」
そこまで僕が言い終えると、ピカニアは思考混じりな吐息を漏らして唸った。
「なるほど。視野の中心が存在せず、視界の約五十パーセントが実際は見えていない。加えて、それが不可視というのは……やはり、私達には想像する事すら難しい状態だ――が、私は結構気に入っているのだよ。君が昔言っていた、『見えない所から突然人や物が出てくるような、一見すると非現実的な事が茶飯事だからこそ、僕にはフィクションにおけるアンリアルな表現が、誰よりもリアルに書けるんだ』っていう、あの理論がね」
「そんな事言ったっけか……? 何時の話だよ。それ」
矢継ぎ早におでんを頬張りながら笑い混じりに僕が言うと、彼も「いやぁ思い出せん。全く、年は取りたくないものだよ」と吐き捨てながら、同じように笑った。
それから一時間近くの間、僕達は取り留めの無いどうでもいい話題について語り合った。一度寝て起きれば、一体何がそんなに楽しかったのかさえ理解に苦しむような、それくらい要領を得ない内容だった。
宇宙全体の二十七パーセントを占める”暗黒物質”は本当のところ何なのか――とか、俗に言う”異世界”というのは実際に存在するのか――とか、僕達が生きるこの世界は箱庭のようなもので、それを外から”観測”する第三者が存在するんじゃないか――だとか。
「考えてもみたまえ? 地球の衛星軌道上を巡回する月が、仮に私達から見えない位置にあったとしよう。君の妄想が正しいとするならば、その時、月は存在しない事になってしまう。そんな事は、物理的に有り得ないのだよ。万に一つもね」
「それ、大昔に同じ事言ってたぞ? いよいよおっさん臭くなってきたな」
最後の練り物を口の中へ放り込みながら言ってやると、彼は突然少しだけ上の空になった後、何故か嬉しそうにやんわりと笑みを浮かべた。
僕が首を傾げながら顔を顰めると、ピカニアは「いや――」とだけ漏らし、テーブルの上で指組みをしてから続けて口を開いた。
「それほど大昔――という訳でもないさ。少なくとも、私にとってはね」
僕にはその言葉が意図するところが全く分からなかったが、何となく過去の古い記憶を懐かしむような、そういう重みみたいな物を彼の口調から感じた。
丁度その頃だった。店内の隅に置かれた小さなラジオから流れるニュースの内容が、妙に耳に付いて聞こえた。
――次です。六年前に起こった”東京大空襲”に伴い、旧政府が進めていた”シェルター移住計画”で収容された、市民一千五百万人の安否が未だ確認出来ていない問題について、現政府は本日二十日、近日中にでも公式な声明を発表するとの考えを示しました。大阪の新国会議事堂前では、今日も大勢の人々による抗議デモが行われており、非常に緊迫した状況が続いています。現地の七瀬さんと中継が繋がってます。七瀬さん?
その後も、男性キャスターが現地の状況を丁寧に伝えたが、大雑把に内容をまとめると、”結局のところ何も分かっていない”という事らしかった。
一見中身の無い退屈なニュースではあるものの、僕にとっては都合の良い内容だった。何故なら、僕がピカニアに聞きたかった”ある出来事”というのは、まさにこの事件についてだったからだ。
「トウキョウへは行くな。あれはワナだ」
僕が台本を読み上げるように声を潜めながらボソボソと呟くと、隣の彼は箸の動きをピタリと止めた。
構わず、僕は続けた。
「メッセージアプリのチャンネルへ長いこと顔を出さなかったあんたから、突然久々にダイレクトメールが飛んできたと思えば、あんたには珍しく”色恋沙汰”についての相談と来たもんだ。初めは、流石に異様に思ったさ。でも時間が経てば人だって変わる。そんな事もあるもんか……なんて考えたりもした。けれど、あの長ったらしい文章を半分くらいまで読み進めたあたりで、普通の人ならまず使わないような”あの記号”が目に付いた」
僕はピカニアへ視線を送り、沈黙を使って確認をとった。彼はそれに応じるようにゆっくりと頷いてから、皿へ箸を置いた後で答え合わせを始めた。
「その昔、君から聞かされたのを思い出してね。あれを思いついた時は、よく覚えていた物だ――と、我ながら感心したものだよ。君が長年愛用しているテキストエディタには、”アウトライン機能”が備わっている。しかもひねくれ者の君は、普通の人が絶対に使わないだろう記号をそのトリガーとして設定していた。それが、”パラグラフ記号”だ」
僕は無言のまま、それに一つ頷いた。
「¶とは、一般的には和文ではなく、洋書などの”段落”を示す際に用いる記号だ。君のテキストエディタではこの記号が入力されれば、自動的にアウトラインウィンドウへ項目が追加され、それが上から順番にリストアップされていく。私はその性質を利用し、¶の後の文字を”縦へ読む”事によって、文章が成立するようにテキストを組み上げた」
言い終えると、彼はカッターシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出し、実際にその文章を表示させてから此方へと差し出した。受け取った僕は画面を上から下へスワイプさせながら、今一度その文面へ目を通す。
「それにしたって、たった”十七文字”のメッセージを届けるために、こんなに手の込んだ三万字近くの長文を用意する必要……あったか?」
「それこそ、君の性分ではないかね? ”やるからにはとことん”――だろう?」
彼のそんなセリフに、鼻で笑いながら「確かに――それもそうだ」と納得した僕は、ピカニアへ彼のスマートフォンを手渡した。
そして、僕はついに本題を切り出した。
「にしても、何であんたが知ってたんだ? 誰にも言ってなかったんだぞ? 実は、シェルタ-への優先移住通知書が届いてた――なんて」
ピカニアは数秒の間を作ってから、先程よりも幾分声のボリュームも下げて答えた。
「私から詳しい全容は話せん――が、それほど害の無い程度で説明するならば、当時、東京の市民が真っ先にシェルターへ招かれていた……という訳でもなかったのだよ。その優先順位の比較的高い位置に、国がリストを保有する範囲――つまり、公的に”身体障がい者手帳”を発行された身障者へ通知書が送付されていた。それを知った私は、もしや……と考えた訳だ」
僕は思わず息を飲んだ。しかし怯えている場合ではない――と、続けて僕は彼へ質問を投げかけた。
「あの事件と、彼女――綾瀬彩華さんは、何か関係があるのか?」
「何故、そう思ったのかね?」と、彼は僕へ向かって声の大きさはそのままに問い返す。
「じゃなかったら、僕に”あんな記事”書かせたりしないだろ? 一本目は単純な現代の社会情勢について……みたいな内容だったけど、残りの二本――旧政府のシェルター移住計画と、1.16インシデントについては、意図してあのテーマを選んだんじゃないのか? それに、極めつけは彼女の名前だ。イロハって、もしかしてあの――」
立て続けにそこまで質問したあたりで、ピカニアは重々しい声で「芳澄君」と、僕の言葉を遮った。
「時に君は、ミステリー小説は好きかね?」
「ミステリー……? 何だよ急に」
僕が再び顔を顰めると、彼はニンマリと頬へ笑窪を作ってから一つ頷き、ただ一言だけ「君も、既に状況の一部だと、私は言いたいのだよ」と答えた。
「状況の――一部……?」
オウム返しに疑問符をつけて問い返したが、金髪の彼はフフフッと笑うばかりで、それ以上は何も話す気は無いようだった。
「駅まで送ろう」
そう言い出したのはピカニアだった。確かに夜は極端に視力が落ちるが、土地勘のある歩き慣れた道だけに、そこまで気をつかってもらわなくとも大丈夫ではあるのだけれど、ここは何も言わず、その厚意に報いる事にした。
人通りの少ない路地を、僕達は無言のままに歩いた。夜気はいつにも増して冷たく感じられたが、店の熱気やおでんで温まり過ぎた身体を冷ますには丁度良い気温だった。
駅へはあっさりと着いてしまった。「今日はありがとうな。じゃあ、また――」と、僕が軽く手を振ってその場を後にしようとすると、彼は僕の背中へ向けて「私は、適任だと考えている」と言い放った。
歩みを止めて踵を返すと、唇の両端を持ち上げたピカニアが、サングラス超しに僕をじっと見つめていた。黒いトレンチコートが彼のキャラクター性を色濃く象っていて、そのしたり顔は、先程よりも少しばかり説得力を帯びて僕の目に映った。
「”小説の書き方を教える”――というだけであれば、確かに君よりも優れた人材はこの国に五万と居るだろう。実際、君は書籍を出版した経験がある訳ではないし、言ってしまえば素人だ……が、事”彼女”に至っては、君のように、常に茫漠とした不安やストレスを抱えながら生きてきた経験のある人間こそ望ましい。逆にそうでなければ、恐らくは無意識に彼女へ与える試練に手心を加えてしまうだろう。それは、彼女の望むところではない。だからこそ彩華君は、君を師として迎える事を選んだのだよ」
僕は少し俯きながら、沈黙でそれを肯定した。
「わかってる。それに、正直――自信はある。ぶっちゃけ腕は、そんなに立つほうじゃないかもだけど、それなりにちゃんと勉強はしてきたつもりだ。ただ、その……」
言いかけて、それでも喉へつっかえた言葉を何とかまとめ上げながら、次に僕は「回復の見込みはあるのか? 彼女の身体は――」と彼へ訊ねた。
「無い」
鋭い口調で、彼はきっぱりとそう言った。しかし彼はそこへ「だが――」と付け加えた後、更に僕へ向かって質問を投げかけた。
「君は、”目がこれ以上良くはならない”からと言って、何かを成し遂げる事を諦めたりしたかね?」
その言葉は、僕の心の奥深くへ音を立てて突き刺さった。
そうだ。最初から分かっていた事なのだ。僕等はそれを何よりも良しとしない。出来ないから――不向きだからといって挑戦しない者には、最初から何一つ与えられる事は無いのだ。成し遂げる事は出来ないのだ。
その言葉が決定打となった。
ピカニアと別れた後、僕は近くの公園へ立ち寄った。自販機で缶コーヒーを買い、何時もより少し時間をかけてそれを味わった。飲み終える頃には、台本は僕の頭の中に出来上がっていた。推敲は甘めだが、口に出して言うのだから、これくらいあやふやなほうが丁度いいだろう。後はアドリブでどうにかするしかない。
空いた缶をゴミ箱へ投げ入れ、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いて彼女の名前をタップする。脇目に映る時間表記が、午後の九時を過ぎている事にそこで気が付き、夜も遅くに突然電話をかけるのは少々迷惑かとも考えたが、今の気持ちをそのまま伝えるべきだろう――という直感に従い、僕は通話開始ボタンへと指をかけた。
直後、電話はワンコールと経たずに繋がった。
――も……もしもし、綾瀬です
その衝撃で、全てが狂った。頭が真っ白になって、推敲をかけたはずの台本はものの見事に役に立たなくなってしまった。
「あ――えっと……」
しかしそこで僕は思い至った。最初からガチガチに固めようとするからいけないのだ――と。
物語を書いている時と同じだ。綿密にプロットは練り上げるが、それ以降は自身で綴るというよりも、登場人物のやりたいようにさせてあげる――くらいの距離感が大切である。僕はそれを俯瞰し、文字へ起こす。それだけだ。
ならば、今の僕を物語の主人公として据えたとしよう。そして思い浮かんだ言葉を文字ではなく、言葉にすればいい。焦る必要は無い。何時もやっている事じゃないか。
一度辞めてしまっている手前、”何時もやっていた事”――の間違いではあるのだが……。
「最後に一つだけ、質問させてください」
言ってから、僕は返事を待つ事無く、続けて言い放った。
「何故、文字でなくちゃダメなんですか?」
――約束、なんです。大事な……大切な人との
一拍の間を置いて、彼女の言葉は続いた。
――お願いされたんです。だから私は、それに応えたい。叶えてあげたいんです。だから……
彼女の言葉はブツ切りだったけれど、今はそれで十分だった。
こうして、僕と彼女の師弟関係が始まった。
彼女との出会いが、本当は気が遠くなる程の偶然や奇跡の連なりによってもたらされたものだと僕が知るのは、まだもう少し後の事なのだけれど、今は順を追って綴っていくとしよう。
これより語るのは、後に『深界の止揚』という壮大な物語を書き上げる小説家――綾瀬彩華の成長物語である。