第二話 『始まりのイロハ』
その電話がかかってきたのは、あの夜からちょうど一年が経った頃のことだった。
相変わらず、安定した仕事には就けていない。いくつかのパートやアルバイトを転々としたけれど、それも結局長くは続かなかった。
他人と関わりを持つこと自体が苦手というわけではない。むしろ、他人と取り留めのない会話に花を咲かせているときこそが、僕にとっては一番気持ちが安らぐ瞬間だ。目の前にいる人と自分は本当に同じ生き物で、同じ言葉を持ち合わせていて、同じようにコミュニケーションを取ることができるんだ――許されるんだという、漠然とした薄っぺらい安心感が心地よいのだ。
僕が、”文字の連なりによって繊細な物事の成り立ちを創造する”、という表現技法の美学に魅了されたのも、偏にそういった正常な人間が行う巧みなソレが、自分にだってやって出来ないことはないのだと証明したかった――という、それだけの事である。
しかし切っ掛けはどうであれ、定職へありつけずに居る今の僕にとっては、物書きであり続けるということが生きていくうえでの生命線となっている。
「よし、終わっ――たぁ……」
キーボードのエンターキーを中指で幾分丁寧に叩きながら、自室の天井を見上げて一人呟いた僕は、そのままデスクチェアのクッションへと身体を埋めた。
目を細め、頭の奥深くへ突き刺さるモニターライトの刺激から身を守る。
ふとデスク脇に置いてある時計へ視線をやると、先刻時間を確認したときよりも時針が六つほど先へ進んでいた。驚いて上体をクッションから引き剥がし、時計を手に取って近くでまじまじと確認すると、案の定、時針と分針を見間違えていただけだった。
ホッと短く息を吐き、後からそれを追いかけてくる安心感を噛みしめた。
時刻は夜の七時を過ぎたところだった。六千字弱の記事を仕上げるのにかかった時間は四時間と少しだ。途中何度か休憩を挟んだが、それでもこの速度で書けたのは我ながら上出来といったところである。
調子が良いときであれば、今日と同じくらいのペースで執筆が進むのだけど、日によっては半日頭を悩ませるだけで一文字も進まない――なんて事もザラだ。
学生時代は、僕も小説みたいなものを書いていたりもしたが、その頃から別段筆が早いというわけではなかった。一日に一万字進む日もあれば、本当にどうしようもなく書けない日だってあった。平均で言えば、一時間に千五百字進めば僕の中では合格点である。最もそれは”生きた文字”の数であって、後々行う推敲作業――書いた文章や記事を見返しながら、綺麗な形へ整えていく工程――に時間がかかっていては本末転倒だ。
それら全てを含めたとして……全体の作業時間が、一時間に対し千文字のラインを超えていれば、概ね調子が良い日である。
つまるところ、今日はよく頑張ったということだ。
記事の納期まではまだ余裕があるし、明日改めてダメ押しの推敲をかけておくことにしよう。
クライアントから指定された内容が、あの夜――昨年一月十六日に起きた出来事についてだったことも幸運だった。やはり現地に居合わせただけあって、特につまずくこともなく、文章もすらすらと頭に浮かんだ。
「たまには――贅沢でもしますか……」
再び小さな声でそう漏らしてから、ポケットからスマートフォンを取り出し、近くの飲食店をいくつかピックアップしてメニュー表へ目を通す。
カレー屋に天ぷら屋……お、寿司か。それも有りかもしれない。
画面上で右往左往する人差し指が寿司屋のページを開いたあたりで、しかし思い直してブラウザのタブを閉じ、僕はスマホをデスクの上へそっと置いた。
再び背もたれへ身を預け、天井のシーリングライトをぼんやりと見上げた後、おもむろに下がった視界に映るスマートフォンの状態がどうにも気に入らなかった僕は、腕だけを伸ばして上を向いた液晶画面をパタリと裏返しにした。
こんなところで無駄遣いをしている場合じゃない。何ならもっと切り詰めるべきである。この仕事が終われば、また次の仕事が貰える保証なんてどこにもないのだ。
記事の単価だって、そこまで高いわけではない。一般人のAI利用が当たり前となった現代社会において、フリーのライターへ支払う報酬なんてのは高が知れている。
ただ……それにしたって、今回の案件はかなり美味しい部類だ。毛色の違う記事を三本ほど書いてほしいという内容だったが、全てひっくるめても三万字もいかない程度で、一文字の単価は五円ほどである。著名なライターへの依頼ならまだしも、僕のような界隈の隅で細々と食いつないでいる底辺物書きに対しての待遇としては、他に類を見ない程の破格だ。
求人紹介サイトからのメールが届いたときは、流石にヤバい案件なんじゃないかとも疑ったくらいだが、メールのやり取りも今のところは至って誠実で非の打ち所がない。
「だから、浮かれるのも無理はない――ってか……?」
喉から出した声で、愚かな自身を諭すように僕は言った。そしてこれ以上余計な思考が働かないように――と、椅子から立ち上がって一つ伸びをし、キッチンへ行ってインスタントラーメンでも作ろうと一歩踏み出した。
その瞬間、デスク上でスマートフォンが小刻みに震え始めた。
すぐに手は伸ばさず、僕はそのまま少し様子を見た。
バイブレーションの感じからして、メッセージアプリの通知というわけではなさそうだ。普段電話なんてめったにかかってこないものだから、妙に胸中がざわめき、脇腹を冷たい汗が伝う。
おまけに相手さんは諦めが悪いようで、もう一分ほど経つというのに、着信が止む気配はまるでない。
「分かった分かった、誰だよまったく……」
ボソボソと悪態を吐きながら観念した僕は、意を決してスマホを手に取り、ろくに宛名も見ずに通話開始ボタンへ指をかけた。
「もしもし?」
矢継ぎ早にマイクへ声を放ったが、そこから数秒経っても返答はなかった。
もう一度「もしもーし」と、幾分うんざりしたふうに声色を作って言ってやる。するとスピーカーの向こう側から何やら微かに物音が聞こえ、それと同時に聞き覚えのある胡散臭い男の声が飛び出した。
「ハロー! 元気にしてたかね?」
僕は思わず、無言で顔を顰めた。
「おやおや? 久しぶりに私の声が聞けて、感動のあまり声すら出ないかね? まぁいい、言わずとも分かるさ。君は今、なぜ私がこの番号を知っているのかという疑問について考えている。そうだろう?」
引き続き沈黙のままに、僕はデスクチェアへ座り直す。
「この天才かつジーニアスな私にかかれば、君の電話番号を手に入れることなど造作もない――が、今回はあえて言わせてもらおう。ただの偶然だよ」
「……偶然?」
眉を歪めながら問い返すと、声の主は続けてペラペラと説明を始めた。
「私が出した求人を引き受けたのが、たまたま君だった――という、何とも信じがたい偶然さ。君が文字を書くことに精通しているというのは知っていたが……辞めたんじゃなかったのかね?」
僕は再び押し黙る。
「なるほど。背に腹は代えられない――といったところか。加えて余計な質問かもしれないが、今は職に就けているのかね?」
「……いや」
短くそう返すと、電話の向こう側から同情の籠もったため息が漏れるのが聞こえた。
ピカニア・ピレネー。それが彼の名前だ。
十年ほど前にひょんな事からネット上で知り合い、一時期は一緒にゲームをしたり、何時間も雑談に興じたりする仲だったが、ここ数年は一切連絡を取っていなかった。
一風変わった性格の持ち主で、万人受けするような人柄では決してないものの、特殊ゆえかは分からないが、僕の境遇に少しばかり理解を示してくれている数少ない友人だ。
「……そうか。いやしかしそれもまた僥倖。全てがパーフェクトだよ。喜びたまえ。”ひずめ”――いや、葛葉芳澄君」
「パ――パーフェクト……? まさか、冗談じゃない。一体コレのどこが――」
そう言いかけた僕の言葉を、スピーカーの向こう側から放たれた「おめでとう」という声が鋭く遮った。そして声はこんなふうに続いた。
「君は選ばれたのだよ。合格だ」
* * *
履歴書を書くのには、いつも苦労させられる。
何せ、普通の人よりも書くことが少しばかり多いものだから、書き方なんかをネットで逐一調べなくてはならない。
それに、僕のように普段からキーボードでしか文字を打たない人間は、突然ペンで紙に字を書けと言われても、そう簡単にはいかないのだ。
とはいえ、書類をそろえるのにそこまで時間はかからなかった。ピカニアから面接の日程を聞かされたときは、一ヶ月後というのは少々先のことのように感じられたが、過ぎてみればあっという間だった。
彼の話では、待ち合わせ場所の”芳香”という喫茶店は、僕が住んでいる場所から徒歩で行けるほど近くにあるということだったが、歩いてみれば本当に五分とかからず着いてしまったことに驚いた。
しかし――。
「ク――クローズ……」
店のドアにかけられたおしゃれな看板の文字を読み上げながら、スマートフォンを取り出して日付を間違えていないか今一度確認したが、何度メールを見返しても今日で合っているようだった。
時刻は午前十一時。指定された時間ピッタリである。時間的にもこれからがかき入れ時だというのに、ましてや”本日の営業は終了しました”――というのも考えにくい。
ピカニアの奴、連絡する日付間違えたんじゃないだろうな……?
胸中にふつふつと湧いて出る不安と焦りを宥めながら、とりあえず店の前で突っ立っているのも怪しまれるだろう――と、踵を返そうとしたその時、店のドアが突然開いて、そこから一人の男性が姿を現した。
「そんじゃ、行ってきます」
店内へ向けてそう言いながら出てきた男性は、次に僕の存在に気が付くと、慌てて「あ――ごめんなさい、今日は定休日で……」と、困り眉になって笑みを浮かべる。しかしその直後、何かに気づいたように僕の顔を凝視した後で、今度は何度か軽く頷いて見せた。
「あれ? お客さん?」
次に聞こえたのは女性の声だった。すぐ後に男性の背後からひょっこりと黒髪の女性が顔を覗かせた。
「となると――」と、男性は言ってから、透き通った碧眼を細めながら柔らかい笑顔を作る。そして僕へ訊ねた。
「あなたが、葛葉芳澄さんですか?」
「あ――えっと、はい。葛葉です」
やっぱり――といったふうに再び頷いた男性は、続けて背後の女性へ「後の事、頼んでもいいか?」と確認をとる。
「はいはーい。任せといて」
女性が軽やかにそう答えたのとほぼ同時に、僕の背後から車のクラクションが短く二回ほど鳴った。
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか白いセダンが停まっていた。
こちらの視線に気づいた運転手が、僕に向かって小さく会釈をした。外へ跳ねた明るい色のショートヘアーを揺らすその女性は、次に運転席の窓を半分ほど下げてから「ほら、早く行くわよ」と男性へ声をかける。
「ごめんなさい。今ちょっと急いでて……。挨拶はまた今度ゆっくり」
そう言って男性は僕に向かって同じように会釈をすると、足早に車の助手席へと乗り込んだ。
「行ってらっしゃーい!」
店外へと出てきた黒髪の女性が声をかけながら手を振ると、再び短いクラクションで返事をした後で、車は少々荒っぽいエンジン音をたてながら街の喧騒へと消えていった。
「さてと――」
小さく呟いた女性は、先ほどの男性とよく似た水色の瞳をこちらへ向けると、そのまま僕の周囲をぐるりと一周し、一人得心したふうにニッコリと微笑んだ。
「ピカニアさんからお話は伺ってます。なんか、思ってたよりもずっとずっと普通な方で、ちょっとだけびっくりしました」
僕は「あはは……」と愛想笑いを返す。しかしすぐに女性はハッと表情を強ばらせ、少し俯きながら「あ――ちょっと失礼だったかな……。ごめんなさい」と頭を下げた。
「いえいえ、お気になさらないでください」と僕が慌てて返事をすると、女性は困り眉のままに頬にえくぼを作った。
「すぐに案内しますね。今日は良い天気だから、あの子、多分庭へ出てると思います」
言って店のドアに鍵をかけた女性は、僕を連れて建物の脇にある細い獣道の奥へと向かった。
たどり着いた先は、ちょっとした秘密基地のようになっていた。学校の教室ほどの空間には緑が溢れていて、綺麗に手入れされた花壇や畑、果物の実った木々が日光に照らされて輝いて見えた。
僕がその景色に見入っていると、横目に映った黒髪の女性はクスクスと小さく笑った後で、次に庭の奥へ向けて手を大きく振りながら、「イロハー、葛葉さん来たよー」と声をかけた。
イロハ……?
僕は頭の中で、その名前をゆっくりと反芻した。その後に思い出されたのは、あの夜に聞いた幼い少女の声だった。
――負けないで。負けないで……! イロハお姉ちゃん!!
「初めまして」
その声で、僕は現実へと引き戻された。
電動車椅子に座った声の主は僕の眼前までやってくると、発色の良い赤髪をそよ風にふわりと靡かせながら、宝石のように煌めく碧の瞳で柔和な笑みを作る。そして再びゆっくりと口を開いた。
「綾瀬彩華と申します」
なぜだか、僕は声が出せなかった。
その美しさはどこか人間味を欠いていて、例えるなら、精巧に作られたお人形のような――あるいは、平面世界から飛び出してきたホログラムのような、そういう類いの物のように思えた。同時に危うさも感じた。誰かが不用意に触れてしまったら、そこからヒビが入って粉々に砕けてしまいそうな、そんな気さえした。
「あの、もし宜しければ」
赤髪の少女は僕に向かってそう声をかけると、続けて「目を、見せてもらえませんか? もっと近くで――」と言って手招きをする。
言われるがままに、僕は彼女のすぐ傍まで歩み寄って、片膝をついて彼女と顔の高さを合わせた。すると少女は僕へ向かって右手を差し出して、「手を――」と小さく囁く。
同じく僕も右手を差し出して彼女の手の上へ乗せると、赤髪の少女は僕の手を両手でそっと握りしめた。
「……揺れてる」
鈴の音のような、透き通った落ち着きのある声で彼女はそう呟いた。
大したお嬢さんだ――と、僕は心からそう思った。
人間は元来、保守的で殻に籠もりがちな生き物だ。どんなに外向的な人であっても、そういう側面が心のどこかに必ず存在する。それが分かっているものだから、他人のパーソナルスペースへ踏み入ることに躊躇を覚えるのが自然な反応だ。しかし、この子は僕の目を見ながら、臆することなく「揺れてる」と言った。それは常人がおいそれとできることではない。
だからちゃんと話す気になった。多分、そういうことなんだと思う。
「指定難病301番、黄斑ジストロフィー。ピカニアから話は聞いてるかもしれませんが、僕は――視覚障がい五級取得者です」
聞いた彼女は、僕の手を一層優しく握りしめた。