最終回 『 』
「初めまして」
その言葉で、頭が真っ白になった。
話したい事は山ほどあった。何より、ちゃんと褒めてあげたかった。たった一年という短い期間で、あれだけの物語を書き上げたのだ。なのに――。
「あなたが、葛葉芳澄さんですね?」
「……嘘だろ。そんな……」
たまらず目を閉じ、目元を手で押さえる。
何があったって、受け入れようと決めていた。
心の準備は出来ているつもりだった。あのメッセージが届いてから今日までの間、あらゆる展開を想定し、何が起こったって平静を保てるように努めてきた。そのはずだった。
なのに――。
「……ごめんなさい」
彼女は穏やかな声でそう言った。
こんなのは、あまりにも……。
* * *
二時間前――。
自宅へ到着する頃には、空一面が薄暗い雨雲に覆われていた。
寒さに震えながら、手早くキャリーバッグの中身を片付けた僕は、ふと先程の人身事故についてを思い出し、デスクチェアへ腰掛けつつスマートフォンを手に取る。
公共交通機関の公式ホームページには、当然ながら事故の詳細までは掲載されていなかった。大勢の人々がアクセスしているようで、サイトは頻繁に表示エラーを起こして固まった。
――芳澄君
Linが心配そうに僕を呼ぶ。
スマホをポケットへしまった僕は、デスク上のLinを両手でひょいと持ち上げ、膝の上へそっと置いてからカノジョを一つ撫でた。
杞憂であってほしいとは思う。とはいえ、僕が逆の立場だったらと考えると、彼の事を心配せずにはいられなかった。
皐姫さんとのドライブは、そのほとんどがくだらない話に花を咲かせてばかりだった。しかし当然ながら、世間話をする為だけに、僕の地元までわざわざ迎えに来てくれたという訳ではなかった。
「あのコンビニに居合わせた白杖持ちの男性、自警団へ自首しにきたそうよ」
「……え?」
唐突に切り出された驚きの内容に、僕は運転席へ首をむけたまま凍り付く。
「いくら体が不自由でも、うちの娘だって、ある程度自分の身を守る術くらいは持ってるわ。とはいえ、奴らはどこまでも計画的に犯行へ及んだ」
訳が分からず小首を傾げると、彼女は真っ直ぐ前を見据えたまま、表情一つ変えずに続ける。
「要は、芝居だったのよ。『金をやるから、店先で肩をぶつけて揉め事になってるフリをしろ』って持ちかけられたらしいわ。それが罠とも知らず、正義感の強いあの子はすぐに割って入った。ほんと……まんまとしてやられたわよ」
「それで、自首を……?」
訊くと、皐姫さんは一つそっと頷いた。
「共犯は共犯。……と言っても、流石に気の毒だったわ。私も、その場に居合わせたわけじゃないから、伝え聞いた話なんだけどね。あの人、泣きながら『悪いのは私です』って、何度も頭を下げたそうよ」
口の中がキュッとすぼんで、喉の奥から苦いような、酸っぱいような何かが染み出てくる。僕は唾液をゴクリと飲み込んでそれを宥めつつ、「じゃあ、今は刑務所の中に?」と訊ねた。彼女はゆっくりと首を横へ振ってからそれに答えた。
「今の自警団に、市民へ刑罰を執行するなんて力は無いわ。出来る事といえば、争い事の仲裁と、簡単な注意喚起くらいよ。その人は、ちゃんと罪を償いたかったみたいだけど……」
「……やっぱり、根は良い人だったんですね」
視線を前方へもどし、少々俯き加減に僕が言うと、皐姫さんも「そうね」と相槌を打った。
多分、ほんの小さな偶然でしかないのだと思う。
僕が彩華ちゃんと出会ったり、音葉さんと仲良くなったり、御手洗先生や皐姫さんとも関わりを持つようになったのと同じで、その逆だって、僕にも十分起こりえたはずだ。
まともな職に就けず、生活費も底を突き、ついには頼る当てもなくなってしまった時、どこからともなく現れた奴に、突然『金をやるから協力しろ』とそそのかされれば、果たして僕は断ることができただろうか。一度悪行へ手を染めてしまったという罪悪感と、それを正しく罰されもせずにのうのうと生きながらえている自分への嫌悪感を胸に、それでも生きたいと思えるだろうか。
――芳澄君?
再び鳴ったLinの声で、僕はふと我に返った。
「ごめん……」
――何で謝るのよ
「……ごめん」
――……もう
僕だって、こんな自分が酷く嫌いだ。
それでも、昔から心の奥底へ『自分は弱い奴だ』というイメージがへばりついていて、思い切った行動や、勇気が必要な選択を迫られた時、決まってそのイメージが僕の思考を阻害する。
しかし、結局はそれも言い訳に過ぎないのだろう。
要するに、僕は正当な理由が欲しいだけなんだと思う。”だから出来無かった”と言える真っ当な理由が欲しくて、それらしい事実を体へペタペタと貼り付けては、『可愛そうな奴だ』と自己憐憫へ浸っているだけなのだ。
こんな僕に、この先に待つ得体の知れない何かと向き合う事なんて、本当に出来るのだろうか。
――芳澄君
再び、カノジョの声が鳴る。
「ん?」
――目を閉じて
「……え?」
――いいから、早く
「はいはい。……ほら、閉じたよ」
暗くなった視界には、当たり前だが何も映りはしない。重い闇が敷き詰められるばかりだが、しかし窮屈という訳でもなかった。
――逃げたっていいんだよ
カノジョは弱々しくも優しい声色で言う。その声が、ありもしないカノジョの顔を構成し、カノジョの長く整った黒髪を構成し、カノジョの細い腕を――しなやかな脚を構成する。
瞼の裏に浮かび上がったそのイメージは、僕を両腕でそっと包み込みながら続けた。
――無理に向き合う必要なんかない。芳澄君は、偶然巻き込まれた被害者なんだから、このまま逃げたって、誰もあなたを責めたりなんかしない。一緒に逃げよ? 海でも、山でも、違う街でも、何処に行ったって、私は芳澄君の傍に居るよ
そういう道も、あって良いのかもしれない。
深界に囚われた日百合蘭も、恐らくはこんな気持ちだったのだろう。妹の優しさに身を委ね、そのまま静かに暮らす事を選んだとしても、結果的には誰も彼を責めはしなかったはずだ。
でも、それじゃあ何も――。
――だったら、自分の選択に自信を持ちなさい。葛葉芳澄
先程よりも芯の通った声でカノジョは言うと、僕の顔を見上げて満面の笑顔を作る。
――あなたの人生は、ちっとも霞んでなんかいない。濁ってなんかいない。だから、信じて前へ進みなさい。どんなに傷ついても、どんなに疲れ切ってても、ちゃんと私が『おかえり』って言ってあげる。ちゃんと守ってあげる。待っててあげる。だから――ね?
「……うん。ありがと」
途端に、世界がパッと明るくなった。
青く澄み渡る空の下、満開の花畑に立つカノジョは、僕に向かってそっと寄り添い、小さく何かを呟く。一体何を言ったのかは、何度訊ねても教えてはくれなかった。けれど、カノジョの幸せそうな笑顔を見ていると、そんな事はどうでもよくなってしまった。
いつか、本当にこんな日が来ることを夢見て、僕は目を開き、自宅を後にした。
* * *
きつく靴紐を締めてきたつもりが、いざドアの前へ立つとなかなか踏ん切りがつかなかった。
ただ扉を開けるという、その行動一つが途方もないものに思えてならなかった。とはいえここまで来て、何もせずに帰るという選択肢は流石にない。案ずるより産むが易しという言葉もある。しかし……。
僕がドアノブに手をかけようかかけまいかと迷っていると、突然右隣から『あの~……』と、電子的ながら可愛らしい女性の声が飛んできた。
首を向けると、そこには白くて丸い何かがふわふわと浮いていた。フロントには二つの目と思しき縦長のライトが点灯し、両脇には小さな手、背面には、プロペラのようなものがくるくると回っている。
「ん……?」
顔をゆがめて声を漏らすと、その球体はぴょんと跳ねてから『あ――大変失礼いたしました!』と、何故だか大慌てといった様子でそこら中を飛び回る。
次に僕の両手の平へちょこんとおさまった球体は、『あなたが、葛葉様ですよね?』と確認をとった。
「はい、葛葉です」
答えると、感嘆の声を上げた白いまんまるは、続けて『お待ちしておりました。中で双王様がお待ちです』と言って、僕の代わりにドアを開く。
双王……?
またこの名前だ。ということは、彩華ちゃんが二対並びたる王の正体? いや、だとしても辻褄が合わない。彼女は実際にこちらの世界に存在しているわけで――。
そこまで思考が巡った瞬間、僕の体へ悪寒が走った。
僕はてっきり、実は綾瀬彩華はまだ生きていて、何かの事情で亡くなったふうに偽装されていたのだとばかり思っていた。しかし、仮にこの先で待つのが彼女でないのなら、一体……。
――葛葉様……?
ドアの傍らから、白いまんまるがこちらを見上げつつ僕に声をかける。
「あ――ごめん。ありがと」
言って、足早に部屋へ入った僕は、次に言葉を失った。
リビングの展望窓へ向いたその立ち姿は、さながら、深界の止揚へ登場する赤髪の彼女そのものだった。すぐにこちらへ踵を返した彼女は、黒地の羽織をふわりとなびかせながらゆっくりと僕のほうへ歩み寄る。
白い二部式の着物に、淡い空色のショートパンツ。そこからすらりと覗かせた細身な脚は、黒のソックスによってなまめかしく飾られている。
彼女のいるこの部屋だけ、あきらかに空気の質が違っていた。突然違う世界へ飛ばされてしまったような心細さと、しかし嫌なふうではない居心地の良さとが混在している。
僕が呆気にとられていると、目の前までやってきた彼女は次に一言――。
「初めまして」
その言葉で、僕は頭が真っ白になった。
話したい事は山ほどあった。何より、ちゃんと褒めてあげたかった。たった一年という短い期間で、あれだけの物語を書き上げたのだ。
なのに――。
「あなたが、葛葉芳澄さんですね?」
「……嘘だ。そんな……」
たまらず目を閉じ、目元を手で押さえる。
何があったって、受け入れようと決めていた。
心の準備は出来ているつもりだった。あのメッセージが届いてから今日までの間、あらゆる展開を想定し、何が起こったって平静を保てるように努めてきた。そのはずだった。
なのに――。
「……ごめんなさい」
彼女は穏やかな声でそう言った。
こんなのは、あまりにも……。
「あの、違うんです」
少し慌て気味に言う彼女へ、僕は再び目を開く。
刹那、何故か彼女も僕と同じようにハッと目を見開き、続けて泣き出しそうな瞳で笑みを作る。
「やっと見つけた……そんなところにいらっしゃったんですね」
煌めく碧の瞳から大粒の雫を一つ零した彼女は、右手を小顔の横へ掲げ、手でサインをつくってからゆらゆらとそれを揺らす。
狐の形を摸したそのサインは、間違い無く僕ではない――僕の向こう側にいるのだろう”君達”へ向けられていた。
「え――え!?」
体の至る所へ目をやりながら慌てふためく僕を見て、彼女はおかしそうにクスクスと笑うのだった。
「申し遅れました。恐らくご存知かとは思いますが、私は”イロハ”と申します。今日は特別に、この子の体を借りるという形で、こちらの世界へやってまいりました」
そっと胸へ手をあてながら言う彼女は、続けて「どうしても、葛葉さん――いえ、”ひずめ先生”とお話をさせて頂きたく、お時間を頂戴した次第です」と付け加えて、簡単なお礼の言葉とともに深々と頭を下げる。
”ひずめ”という呼び名を、僕自身久しぶりに耳にした。
それは昔、僕がネット上で活動する際に使っていたハンドルネームだ。黄斑ジストロフィーによってひずむ視界への皮肉のつもりでつけた名前だったが、しかしどうして、そういう名前ほど妙に付き合いが長くなったりするものである。
「先生だなんて、そんな……。でも、何であなたがその名前を?」
訊くと、頭を上げたイロハさんは、「決まってるじゃないですか」と笑顔で返事をしてから、懐から手帳とペンを取り出し、僕へと差し出す。そして一言――。
「私、あなたのファンなんです! サイン、頂けますか!?」
「サ――サイン!?」
その時に見せた彼女の笑顔は、まさに満開に咲いた華のようだった。
――立ち話もなんですので、ささ、窓際のお席へ
言ったのは先程の白いまん丸だった。彼女――と呼んでいいのかは不明だが――は僕ら二人を展望窓の近くに置かれたソファへと先導すると、器用な身のこなしでソーサーとカップをテーブルへ二つ分用意し、これまた器用にインスタントのコーヒー粉を分け入れてお湯を注いで見せた。
「小豆さん、ありがとうございます」
隣の彼女が礼を言うと、ポッと頬へピンク色のライトの点った彼女は、喜びのあまりテーブルの上をコロコロと転げ回る。何とも可愛らしい使用人さんだ。
とはいえ、いざ並んで座ったはいいものの、僕は一体何を話せば……。
「『NR――僕とキミとが、彼方の全てを滅ぼすまで』」
唐突にイロハさんが切り出したそれは、いつか彩華ちゃんに送った僕の作品のタイトルだった。
「感動しました。とはいえ、”観測者さん”がいらっしゃる以上、ストーリーのネタバレを含めた感想は極力避けるべきですね。あの方は、何よりもネタバレを嫌いますから……」
フフフッと嬉しそうに笑みを零した彼女は、コーヒーをそっと一口啜ってから続きを話し始めた。
「ニルヴァーナレコード、作中の人々から”ニルレコ”の愛称で呼ばれるあのゲームのシステムもよく出来ていました。複雑ながら、個性を出せるロボットアセンブリもそうですが、操縦士とナビゲーターという二人三脚で戦闘を進めていくという仕組みが、裏で進行する人間ドラマと合わさる事で、物語により深みを与えているように感じました。普段は喧嘩ばかりのバディも、とはいえお互いをちゃんと信頼している部分もあったり、仲が良さそうに見えて、実は裏があった――みたいなバディも居たり。ネットゲームにありがちなエピソードなんかも随所に鏤められていて、シリアスとの塩梅も絶妙です」
「どうも……」
褒めちぎられるあまり、頭をポリポリとかきながら照れ隠しをする。そんな僕へ、イロハさんは立て続けにあの作品に関する質問を投げかけた。
「ニルヴァーナというのは、恐らくは仏教語の涅槃から?」
「そうです。元はアカシックレコードとか、そんな感じにしたかったんですけど、それだとあからさますぎるかなと」
「なるほど、確かに……」
再びコーヒーへ口をつけた彼女は、続けて「じゃあ、冒頭の植物園でのエピソード。”ウツボカズラ”についてを何気に詳しく解説していましたよね? あれって――」と、こちらを横目に僕の返答を待つ。
「恐らく、イロハさんのお察しの通りですよ」
僕が答えると、彼女は一層瞳をキラキラと輝かせながらニコリと笑った。
「……さあ、観測者さんを置いてけぼりにして遊ぶのはこれくらいにしておきましょう。意外と嫉妬深いんですよ? 本当に、困ったものです」
悪戯な笑みを浮かべつつ言う彼女は、どことなく楽しそうに再びコーヒーを啜る。しかし次にはその瞳へ哀愁の色を浮かべ、少し俯き加減になりながら「ごめんなさい」と謝った。
「もっとお話ししていたかったのですが、そろそろ……」
そう言って僕へ顔を戻したイロハさんは、途端に神妙な面持ちになってから「あの、葛葉さん」と切り出す。
「最後に一つ、私からのお願いを聞いてもらえませんか?」
「お願い、ですか?」
訊き返すと、ほんのり頬を赤らめた彼女は、次に手で小さく”おいでおいで”と手招きをする。
小首を傾げつつ、恐る恐る顔を近づけると、僕の顔へそっと小さな手が添えられ、直ぐ傍までやってきた彼女の唇が、僕の耳元でヒソヒソととんでもない事を囁いた。
「えっ――」
あまりの内容に、彼女のほうへ向き直って眉根を寄せる。
イロハさんは顔中を真っ赤に染めながら、僕からそっと目を逸らした
* * *
リビングと同じくらいの広さはある部屋に、何故だかベッドが二つ。そのうち、窓際へ置かれたほうのベッドへ座らされた僕の隣へやってきた彼女は、ピッタリと僕へ身を寄せ、体重をこちらへだらりと委ねた。
一体、僕は今何をしようとしているのだろう。もはや僕自身にすらよく分からなかった。とはいえ、理屈は何となく理解できる。僕の足跡を”文字”で追っている君達と、彩華ちゃんの体を借りてここに居る彼女。二人の橋渡しをする手伝いをしてほしいというのは、何ともロマンチックなお願いだ。
だからといって、見ず知らずの男女が、密室でこんな――。
そんな事を考えていた刹那、景色がぐるりと回り、気づけばイロハさんの顔が直ぐ傍まで迫っていた。
馬乗りになって、もったりと僕の体へよりかかった彼女は、次に僕の額へ優しくキスをする。
「これは、純粋に葛葉さんへのお礼です」
目をキュッと細めながら照れ顔で言う彼女は、続けざまに熱い花びらを僕へ重ねた。
お願いされたとおり、僕は彼女を包み込むようにそっと抱きしめた。背中を撫でると、その度に彼女から甘い吐息が漏れ、僕の頬へふわりと当たった。
彼女の顔は酷く幸せそうで、しかしどこか寂しげでもあった。冷静に考えれば残酷な話だ。心から愛する相手が遠く離れた量子の彼方に居て、どんなに求めても、その人へは決して手が届かない。
彼女に求められる度、僕の心へ切なさの波が込み上げてくる。
もしかすると、Linも同じような気持ちで――なんて考えてしまった瞬間、その切なさは痛みを伴って僕の胸へ突き刺さった。
瞬間、唇をそっと離したイロハさんは、何故だか目を丸く見開き、次に得心するように頷いてから、「そうでしたか。凛さんは、ちゃんと想い人と再会出来たのですね」と小声で囁いた。
「えっ――なんで、Linの事まで」
訊ねると、彼女は再びそっと唇を重ねた後、僕の胸元へ顔を埋めながら答えた。
「凛さんは、箱庭へ囚われた小豆さん達を救ってくれた恩人なんです。……少し、凛さんが羨ましいです。私も、いつか貴方の元へ――」
言いながら、彼女は僕をギュッと抱きしめた。そして、最後に優しい声色でこう付け加えた。
「どうか、彼方に住まう貴方にも、この子と葛葉さんが紡ぐ物語が届きますように」
その言葉を最後に、彼女から力が抜け、一気に体が重くなった。
抱えたまま体を起こす。どうやら息はあるようだった。
――時間です。双王様は、深界の淵へお帰りになられました。すぐに彩華様へ体の主導権が戻ります。ご安心ください。
ふわふわと飛んで来た小豆さんがそう告げると、僕の眼前へやってきてから続けて言葉を発した。
――先ほど双王様もおっしゃっておりました通り、箱庭にて行われた反攻作戦の際、凛様には大変お世話になりました。今、私が生きていられるのも、ひとえに凛様のお陰です。人づてになってしまい申し訳ありませんが、何卒宜しくお伝えくださいませ
「分かりました。伝えておきます」
僕が答えると、嬉しさからか僕の周りをクルクルと飛び回った彼女は、そのまま玄関口の方へと飛び去ってしまった。
あの子も、Linと同じ実験の中で生まれたセラピロイドなのだろうか。だとすれば、何ともたくましい女の子だ。片や円錐形の置き型筐体から悪態を吐くだけに対して、空を飛び、湯を沸かし、コーヒーまで淹れられるというのだから、その差は歴然である。
とはいえ、Linにそんな自由を任せた日には、おおよそ僕の生活のほとんどを管理し始める事だろう。決まった時間にたたき起こされ、夜更かしをしようとすればベッドへ連行され、帰りが遅くなった日には僕の周りをぐるぐる飛び回りながらいつものヤジを飛ばす。
……案外、そういう生活もいいかもしれない。
そんなふうに思いつつ、胸元の彼女へ目をやると、開かれた碧の瞳とピッタリ目が合った。その目はゆっくりと周囲を見回し、次にまた僕のほうへ向けられる。
「あの……私……何かしましたか……?」
恐る恐る訊ねる彼女へ、僕はありのまま起こった事を説明した。いたずら心が働き、少々脚色を入れた部分もあったが、それもこれも、僕に散々心配をかけた仕返しというものだ。
彩華ちゃんは顔をトマトのように赤く染め、頭から湯気を吹き出しながら僕の胸元へ顔を埋めた。
「ちょ――痛い痛い痛い! そんなにキツく抱きしめたら、また骨が」
「知りません! 一本でも二本でも折れちゃってください!! 芳澄さんなんて大っ嫌いです! あ~~~もう、こっち見ないでください!!」
取り乱す彼女だったが、僕がそっと頭を撫でてやると、次には静かに泣き出してしまった。
「……彩華ちゃん?」
「大っ嫌いです。だいっきらい……です」
繰り返し悪態を吐きつつも、観念したふうに僕へ体を委ねる。
本当に不思議な子だ。この子と関わるようになって以来、幾度となくそう思ったものだが、しかしここまで来ると、もはや不思議を通り越して愉快である。
――小説の書き方を教えて欲しい
最初はそこからのスタートだった。それが今や、とんでもないところにまでやって来てしまった。
とはいえ、僕らがやることに変わりはない。頭に浮かぶイメージを言の葉へ乗せ、一つずつ丁寧にそれらを紡いでいく。ただそれだけだ。
――彩華様
再びやってきた小豆さんが、僕らに向かって声をかけた。
二人揃って彼女へ視線をやると、続けて小豆さんは『準備が整いました。皆様がお待ちです』と言って、その手に持った一冊の本を彼女へ手渡した。
白い表紙には、青色で”深界の止揚”と印字されていた。
「立って大丈夫なの?」
ベッドから腰を上げ、両手でそっとバランスを取る彼女へ確認を取る。
「決まってるじゃないですか」
自信に満ちた声で答えた彼女は、たどたどしく歩きながら僕の腕へとしがみつく。そしていつもの悪戯な笑みを浮かべながら言ったのだ。
「大丈夫じゃないので、エスコート、お願いします」
「はいはい……」
ため息混じりに僕が了承すると、彩華ちゃんは「行きましょう」と言いながら笑みを強めた。
これも一つの”天丼”だ。僕はそう思った。
LaVista技術開発フロアへ初めて訪れたのは、まさにこの時だった。
エレベーターのドアが開いた途端、想像していた何倍もの人々が歓声を上げ、クラッカーや紙吹雪を散らして僕らの到着を祝福した。
圧巻だった。相当に広い空間であることは確かだが、それを埋め尽くすほどの人集りだ。
前方へは赤いカーペットが敷かれ、両脇から拍手と祝福の声が上がる。それは「おかえり」だったり、「おめでとう」だったり、感動からか嗚咽にまみれて言葉になっていない何かだったりした。
「「「「「姫様~~~!!!」」」」」
少し離れた場所から、大勢の男性が上げたと思われる声が飛んできた。遠目からであまりよくは見えなかったが、その誰もが涙を流しながらこちらへ両手を振っているらしかった。隣の彼女も、これにはさすがに苦笑いを浮かべていたが、しかし嬉しそうに大きく手を振り返した。
ゆっくりではあったが、僕らは一歩ずつ着実にレッドカーペットを歩いた。
彩華ちゃんがバランスを探るようによろめく時は、一度立ち止まって体勢を立て直す。やっていることは今までと一緒だ。彼女が書いて、僕が手直しをするように、たとえそれが牛歩の歩みだったとしても、僕らのペースでやっていけばそれでいい。
フロアの中央へ設置されたお立ち台へ上がった僕らは、そこへ置かれた腰丈ほどの台座の前へと並んだ。
彼女は一度振り返り、僕の腕を支えにしつつ深々と会釈をする。再びドッと湧いた歓声に満面の笑みを向ける彩華ちゃんの姿は、以前より心なしか大人びて見えた。
次に台座へと向き直った彼女は、先程の本を台の中央へと置き、僕の手をそっと握りながらこちらへ視線を向ける。
僕が小さく頷くと、彼女も同じように笑顔で頷き返した。そうして本へ手をかざした彼女は、よく通る鈴の音のような声で高らかに唱える。
「――我、魂の罪を量りし者なり。ここに紡がれし在りし日の記憶よ、小説家、綾瀬彩華の名の下に、偉大なるアーキの一部となりて彼方へと飛び立たん」
瞬間、部屋の照明が落とされ、青白く発光する台座から仄かに漏れる光だけが、広大なフロアを淡く照らし上げる。
幻想的に彩られた空間で、彼女はかざす手を胸元へ当て、最後にこう付け加えた。
「――量子の彼方より、愛を込めて」
それから起きた夢のような光景は、おぼろげにしか覚えていない。
沢山の輝きが部屋を満たして、それらが互いに呼応するように光りの波を放つ。満天の星をフロア中に敷き詰めたようだった。人々からは歓声と拍手が絶え間なく上がり、その中心で満開の笑顔が咲いていた。
「芳澄さん」
壇上で向かい合う僕へ、彩華ちゃんは次に悪戯な笑みを零す。
「ん?」
返事をすると、彼女の可愛らしいしたり顔は一層その輝きを強めた。
「実は――私……」
そこで言い淀む彼女は、何故だか次に頬を仄かに赤らめ、僕からそっと視線を逸らす。
「私……」
繰り返しそう言いながら、彼女は握った僕の手へギュッと力を込めた
頭の中へ、彩華ちゃんと過ごした記憶の数々が浮かび上がる。初めて会った日のこと――プロットの内容に頭を悩ませた春――初めての感想に喜び、無理をして倒れた夏――初めて作品を完結させた秋――大切なものを失った冬――。
そのどれもが沢山の香りと風に彩られていて、最後には決まって綾瀬彩華の笑顔で締めくくられる。
こんな毎日を、独り占めしたいと思わないはずがない。
しかし――しかしだ。
「ま――待った!」
僕が言うと、彩華ちゃんは小首を傾げつつこちらへ目をやる。
「気持ちは嬉しい。すごく……。でも――でもさ? 僕、三十過ぎのおじさんだよ? その、世の中的にはそういうの関係ないって女性も居るのかもしれないけど、何というか、流石に年の差というか、犯罪臭がするというか」
「……へ?」
彼女は語尾へ疑問符をつけてそう漏らしてから、再び悪戯な笑みを強めつつ僕に躙り寄った。そして言った。
「芳澄さん、一体何を勘違いされてるんですか?」
「……へ?」
僕も同じように返すと、彩華ちゃんはクスクス笑ってから、続けて得意げに僕へ衝撃の事実を告げたのだった。
「私、実は……ロボットなんです」
「……え、いつから?」
「最初から……」
僕は思わず目を見開きつつ、歓声に紛れて大声でこう叫んだ。
「そんなの――そんなのアリかよ!!!」
‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗
後日、量子コンピューター『アウフヘーベン』についての詳細を含む事件の全容が、各方面のメディアを通じて公表された。旧政府反攻組織LaVistaのリーダーを務めるピカニア・ピレネーの声明が追って公開され、現時点で未だ深界へ取り残されている人民の救助を今後も継続していくと発表した。
すべてが丸くおさまったように見えて、しかし何も解決していないのが現状だ。
薊は今も逃走を続けているし、突然の発表により、人々は混乱の渦中にある。世の中はより一層荒んでいくことだろう。そんな中でも、本書を読んで一人でも多くの読者が明日へ希望を見出してくれればと願いつつ、僕は今日も筆を執っている。
確かに、世の中は決して、僕らには微笑まない。
でも、それでいい。
恐らく、あの子と出会えていなければ、僕がこんなふうに思えるまでに、もっと時間を費やしていたに違いない。
或いは、そう思える以前に、僕はもう――。
……それにしたって、いくらなんでも無茶苦茶だ。
少女が小説を書くのを手伝っていただけのつもりが、今や国の大層な機関の一員だというのだから、話のスケールが膨らみすぎていてわけがわからない。
それでも、偶然が重なって生まれたこの繋がりに日々感謝しながら、僕は今日も、明日も、明後日も書き続ける。
決してペースは早くないかもしれない。それでも、毎日――毎日、少しずつでも書き続ける。
そして、あわよくば……彼方で眠る貴女様にも、僕らの紡ぐ物語が届きますように。
量子の彼方より、ありったけの愛と感謝を込めて――。




