第一話 『イロハ事変』
2167年、1月16日――。
この日、僕はコンビニのバイトをクビになった。
単純な話だ。経営者と馬が合わなくなった――という、それだけのことである。
店長の言い分通り、僕のような三十過ぎのろくでなしを店へ置いておくよりも、そこらへんで暇を持て余している学生さんなんかを雇ったほうが、幾分か店のイメージも良くなるだろう。憤りなんて物も感じていなければ、僕自身納得してしまっているだけに、店長からその旨を告げられたときも、言い返す言葉の一つすら出てこなかった。
こんなふうに言うと、”馬が合わなくなった”という表現は、些かひねくれているように思われるかもしれないけれど、それでも僕は、この言い回しが概ね適切であると思っている。なぜなら、僕は決して進んで粗相を働いたわけでは――。
……もういいじゃないか。忘れてしまおう。
同じようなことは、今までにだっていくらでもあった。こんなことを一つ一つ気にしていては、心の外郭がねじれてしまって、どうにかなってしまいそうになるだけだ。
ため息交じりに思考を撫でつけながら、店に置いていた荷物を詰め込んだショルダーバッグを肩へとかけ、僕はいつもの帰路についた。
暗く狭い路地を歩きながらもう一度――深く息を吸って、再び腹に溜まった黒いモヤモヤを丁寧に吐き出す。しかしそのイメージとは裏腹に、白く霧状になった吐息は、ピンと張りつめた夜の寒空へと溶けて行った。
僕は何となしに空を見上げてみた。そこには三つの月が出ていて、よくよく目を凝らせばそれは二つになったり、時折一つになったりもした。
視線を路地へ戻すと、両脇を囲むビルの隙間から、何やら白いモジャモジャがひょろりと飛び出すのが見えた。毛虫にも見えるそのモジャモジャは、近づいてよく見ればただの野良猫だった。野良にしては珍しく品のある長毛の猫で、これまた珍しく僕が近づいても全く逃げようとしなかった。
試しに――と、首の下や背中を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら僕へ擦り寄ってくる。野良猫の体はほんのりと薄茶色に汚れていて、撫でるたびに獣臭さが僕の鼻を突いた。しかし、嫌な気は全くしなかった。それどころか、僕が心の底では酷く落ち込んでいるのを見透かすかのように、猫は目やにだらけの瞳で僕の顔をジッと見つめていた。
本当のところを言えば、ただエサが欲しかっただけなのかもしれないけれど……。
「じゃ、またね」
僕がそう声をかけると、野良猫は小さく「ニャッ」と短い鳴き声を上げながら、出てきたのと同じ隙間へと消えていった。
恐らくもう二度と会うことなんてないだろう。でもなぜ、僕は”またね”なんて言ってしまったのだろうか。
大方、心の弱さから出たその言葉に対し、僕は繰り返し嘆息しながらも――黒いダッフルコートに付いた猫の毛を簡単に手で払い、再び家路を急いだ。
少し歩くと、人通りの多い駅前の横断歩道へと差し掛かった。
此処――大阪梅田駅から僕の住んでいる阿倍野までは、時間にして電車で二十分弱といったところだ。決して近いとは言えないが、流石に五年も通っていれば、この距離感に煩わしさを感じることなんてない。
しかしながら、今日ばかりはその限りではない。果たして僕は無事に自宅まで辿り着けるのだろうか……なんて、大げさな心配が頭をよぎるくらいには、心身共に疲れ切っていた。
忘れよう。
そう何度も胸裏で呟きつつ、横断歩道を渡り、人の群れに流されながら駅構内へと足を進める。
恐らく、当分はこの地へ訪れることもないだろう。高層ビルが立ち並ぶこの駅前の光景も、人でごった返す切符売り場も、売店から漂う甘い菓子の良い香りともしばしのお別れだ。
そうだ、何も怯える必要なんてない。もう終わったことなのだ。明日から気持ちを切り替えて、次を探せば良い。それだけの事じゃないか。
「……チーズケーキでも買って帰るか」
自分自身への慰めも兼ねて、そんなふうに小さく漏らした僕は、駅構内を抜けてお気に入りのチーズケーキ屋さんへと立ち寄った。
お店の前は、お砂糖とバターが混ざったような優しい香りに包まれていた。
閉店前で少々並びはしたものの、お目当てのケーキを手に入れた僕は、続けて近くにあった駅の売店で甘めの缶珈琲を一本買い、駅構内から出てからそれを冷えた喉へと流し込んだ。
半分ほど飲んだあたりで一度ホッと息を吐くと、同時に缶珈琲特有の酸味に連れられて、ミルクや砂糖の甘みと、少しチープな豆の香りが喉と鼻をやんわりと撫でた。
僕は仕事終わりのこの一時が地味に好きだった。
これが味わえなくなるのは少し寂しい気もするが、珈琲なんてどこでだって飲める。別段喪失感に苛まれる程の事でもないだろう。
終わったことを何時までも引きずっていても仕方がない。世の中にはどうしようもないことだってたくさんある。今回はその”どうしようもないこと”の代表例のようなものだ。僕はできるだけの事はやったのだから、まずはそんな自分自身を褒めてやることにしようじゃないか。
僕はそんなふうに思いながら、無言のままに一つ――二つと頷いた後で、左手に持ったチーズケーキの紙袋を優しく揺すった。すると、袋の中で紙箱がわずかに動く感覚が手を伝い、それがゆっくりと幸福感へと変わっていった。
何歳になっても、こういうお土産というのは嬉しいものである。それが例え、哀れな自分を慰めるための細やかなご褒美であっても――。
「……帰るか」
また一つ小さく呟いて、缶珈琲の残りを飲み干そうと……右手に持った缶を口元へ運んだ――その時だった。
「おい、アレって一体――」
「ん? 何だ何だ?」
「何かのイベント?」
周囲に居た人だかりから、次々にそんな声が上がった。
次第に人々は、横断歩道とは駅を挟んで逆側にある歩道橋へと足を向け、引き続き物珍しそうに上空を指さしながら声を上げる。
流石に僕も気になって、同じように駅構内を抜けてエスカレーターに乗り、歩道橋の上へと上がってみる。
すると――。
「映画の予告か何かじゃね?」
「どうせゲームの宣伝とかっしょ」
「ちょ――見て見て、写真アップしたら通知止まんないんだけど……。もしかして私、有名人?」
人集りが熱い視線を注ぐ先には、ビルの壁面に設けられた大きな液晶画面があった。そこには、ただ真っ暗な闇が映るばかりで、確かに異様な光景ではあるものの、一見機材トラブルか何かのようにしか見えない。しかし、今一度注意深く耳を澄ませてみると、波の音らしきものもディスプレイから発せられているようだった。続いて、何を言っているかまでは聞き取れないが、画面の向こうからも人の声らしきものがチラホラ漏れている。
「本当なんだって! さっきビカビカーッてヤバい光が――」
「ホンマかー? 一向に何も映らんやん」
「ただの故障か何かでしょ? 寒いしはよ帰ろ?」
最後に声を発したカップルらしき二人組が帰路についたと同時に、その近辺にいた人達も歩道橋を降り始めた――その刹那、近くに雷でも落ちたのかという程の光量を伴ってディスプレイが明滅し、それを追いかけるようにドンッという重低音が胃袋の底を揺らした。
続けてもう一発――二発――三発。
鳥肌が止まらなかった。明らかに作り物のそれではない――と、音を聞いただけで分かる程には生々しい爆発音だ。
音が止む頃には、梅田の街は凍り付いていた。電光掲示板やイルミネーションが発する微かな電子ノイズまでもが耳に入り、道路を走行していた車も動きを止め、乗車者達も車外へ出て、僕たちと同じように画面へと視線を送る。
直後、カコンッという音で我に返った僕は、右手から滑り落ちた珈琲の缶へ視線を落とした。中から床へとこぼれ出る珈琲を意味もなく眺めていると、再び例の爆発音が鳴り始め、表面張力でぷっくりと膨れた薄茶色の液体を小刻みに震わせた。
――おい、お前……それ、もしかして繋がってんじゃねぇか?
途端にディスプレイの奥から飛び込んだのは、男性の声だった。
――え……!?
今度は女性の声だ。続けて画面の画角がガクンとズレ、女性の足らしきものが映り込む。
――ホントだ。繋がってる……! ほらマッさん、私カメラ持ってるから、何でもいいから喋って!
ディスプレイの奥で女性が誰かにそう促すと、再び画面が暗闇へと向けられた刹那、最初に響いた男性の声が何度か聞こえた――が、少し音が安定しないようで、一体何を話しているのかまでは上手く聞き取れなかった。
しかし、次に飛び込んだ声は、ハッキリと僕らの鼓膜を震わせた。
――お姉ちゃん
それは、幼い少女の声に聞こえた。
――お姉ちゃん……!
発せられる彼女の声は今にも泣き出しそうで、悲しげな余韻を纏っていた。
そして彼女はさらに声を張り上げ、懇願するように続ける。
――負けないで。負けないで……! イロハお姉ちゃん!!
耳から入ったその声は、何度も頭の中を反響するように繰り返された。背中の皮膚がゾワゾワと波打ち、脇腹を冷たい汗が伝うのが分かった。
恐らくは周囲の人々も同じような心境だったようで、恐怖に震えてその場から逃げ出す人や、なぜかその場で泣き崩れてしまう人まで居た。
――アンタ達にとっちゃあ、別の世界の出来事なのかもしんねぇ
最初に響いた男性の声がそう言った後、極めて落ち着いた口調で彼は続ける。
――でも……でもよ、俺達は確かに生きてんだ。ここで、深界で、確かに生きてんだ。そんな俺達に、嬢ちゃんは『生きてていいんだ』って言ってくれた。あんなちっちぇえ身体で、俺達を守るって……ちゃんと守るって言ってくれたんだ
涙声になりながらも、男性はさらに語りかける。
――ちくしょお……情けねえよなぁ。大の大人がよぉ……。ただこうやって見てるだけしか出来ねぇなんてよぉ……!! でも、俺達が見届けることが……声をかけ続けることが、今の嬢ちゃんの力になるんだ。だから……だから頼む!! アンタ達もちゃんと見ててやってくれ。声をかけてやってくれ!!
言い終わると、男性はさらに大声で叫ぶように暗闇の向こうへと声を放った。
――お嬢ちゃん!! ワールドエンドになんざ負けんじゃねぇ!! 俺達はちゃんと此処に居る!! ちゃんと此処に居るぞー!!
心臓の音がうるさかった。何か見てはいけないものを目撃しているような――何かとてつもないものを目の当たりにしているような、そんな気がしてならなかった。
画面の向こうでは男性の叫び声に釣られ、その周囲に居るのだろう大勢の声援が飛び交っていた。
そんな中――。
「負けんじゃねぇぞー!! もっと腰入れて撃ちやがれ!!」
「負けんだのは、僕から少し離れた場所で座り込んだ老人男性だった。
駅前によく居る、いわゆるホームレスというやつなのだろう風貌をした老人は、続けて大声を上げ続ける。
次第に、最初は顔を見合わせながら眉を顰めていた人達までも声を上げ始め、一人――また一人と伝染して、気付けば梅田の街中の人々が画面へ向かって声援を送るというとてつもない状態となった。
中には声を上げているフリをしながら身振りだけを真似る人や、僕みたいにただ黙って立ち尽くす人も居たが、それらを差し引いても尋常ではない数の人達が大声で声援を送っていた。
こんな状態になってもなかなか声を出せないでいる自分は、やはり社会不適合者なのだろう。そんなふうに訳の分からない自己嫌悪を募らせつつも――。
「が……――」
僕は言いかけて、それでもなかなか出ない言葉を振り絞り、次の一息で吐ききろうと喉を震わせた――その瞬間、バツンッという轟音が鳴ると共にディスプレイは光を失い、数秒の後に何時も通りの広告が映し出される。
何が起こったのかと混乱する人々は次第に再び静まりかえり、化粧品の広告から車の広告へと移り変わるあたりで、我に返ったように各々が目指すべき方面へと散っていった。
それから約一時間程、僕はその場から動くことが出来なかった。もしかすると……再び画面が切り替わるんじゃないかとも期待したが、ついにそんなことは起こらなかった。
後日、ネット上はこの事件の話題で持ちきりとなり、様々な憶測が飛び交う混沌とした状態となった。動画投稿サイトにアップされた当時の映像は一瞬にして一千万PVを達成し、各方面のメディアもこぞってこの日の出来事を記事として取り上げた。
当然ながら、僕はこれが全ての始まりであり、終わりであったことなんて知る由もなかったし、この記録を綴っている今でさえ、ちゃんと実感を持てているかと言われれば怪しい限りである。
それでも、あの事件に僕が居合わせたのは何かの偶然なんかではなく、必然的なものだったのは確かなように今は思えている。
そんな、一瞬ではあったものの現実から切り離されたような不思議な空間を生み出したあの事件の事を、人々は【1.16 incident】――イッテンイチロクインシデント、又の名を、『イロハ事変』と呼んでいる。