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第十五話 『深界のイロハ』

 次に意識が鮮明になった時、眼前にあったのは、何となく見覚えのある乳白色の天井だった。

 

 仄かに漂う消毒液の香りと、部屋の外を行き交う誰かしらの足音。そのどれもが馴染みのあるものだった。間違い無く、僕は少し前まで、面会人としてよくここを訪れていた。まさか、僕自身がこのベッドへ横たわる日が来るとは、夢にも思わなかったが……。

 

 唐突に胴体――主に胸部へ鋭い痛みが走った。あまりの激痛に短いうめき声を漏らした僕は、何事かと右手を胸元へやる。すると指先へ、体の一部にしては異様なまでに硬い何かが触れた。どうやらそれは、僕の胸周りをぐるりと覆っているらしかった。

 頭の天辺から寒気が下りた。続けて脳裏へ様々な不安が過る。


 骨か? それとも肺に何か異常でも――。

 

 混乱を抑えつつ、痛みの原因を探るために、僕はゆっくりと記憶を遡ってみる。しかし本懐はすぐにどうでもよくなってしまい、後に残ったのは、胸が張り裂けそうな程にまで膨張した喪失感だった。


『今まで、本当にお世話になりました』

 聞いたはずのない別れの言葉が、彼女の声を――仕草を使って、頭の中で何度も繰り返し再生された。



 彼女――綾瀬彩華の訃報を知ったのは、それから数時間後の事だった。

 

 病室を訪れたブロンド髪の女性が、僕へ向かって深々と頭を下げる。謝らなければならないのは僕のはずだが、しかし痛みのせいで上手く声を発せず、僕は首を横へ振る事しか出来なかった。

 

 綾瀬(あやせ)皐姫(さつき)と名乗ったその女性は、昨夜に起きた事の真相と、その後についてを話してくれた。

 

 どうやら僕と彩華ちゃんのスマートフォンは、昨日の時点でハッキング被害にあっていたらしく、僕に届いた『プロットについての打ち合わせがしたい』という旨のメッセージは、別の誰かが彼女になりすまして僕へ送った物なのだと皐姫さんは説明した。

 

「娘の携帯にも、『葛葉芳澄を誘拐した』っていう内容の、所謂脅迫メッセージが届いてたみたいで……。だからあの子、言われるがままに一人で指定された場所へ向かって、そこからは、葛葉さんも知っての通りです」


 それを聞いて、しかし僕はあまり驚きはしなかった。

 薊が僕らの現状についてやけに詳しかったのも、そういうことであれば納得がいく。奴は金銭的に困っているようだったし、大方、身代金目的で彼女を攫うつもりだったのだろう。

 

 旧政府の解体以後、警察という組織はもはや機能していない。類似した民間組織は幾つかあるものの、昔のように電話一本ですぐに現地へかけつけるといった瞬発力は持ち合わせていない。あくまで自己防衛を促しながら、小規模でパトロールを行っている程度だ。

 

――ありがたいよなぁ? 国家権力が機能しなくなっても、日本人ってのは真面目だからよ?


 薊は皮肉のつもりで言ったのだろうが、とはいえ全くもってその通りだ。

 現状、日本の治安は、国民各々の善意で成り立っている。当然、良い人ばかりという訳では決してない。悪行をはたらく者は年々増えていると聞くし、そんなつもりは無いにせよ、金銭的な余裕を失い、飢えに苦しんだ末に仕方なく犯罪行為へ手を染めてしまう人も居る。

 

 薊にいたっては、僕との因縁めいた過去がある以上、動機のほとんどは僕に対する嫌がらせである事は間違いないだろう。しかし、どうやって僕らの事を……。

 

「……ごめんなさい。もう行かないと」

 皐姫さんは申し訳なさそうにそう言うと、「最後に――」と何かを言いかけた後、穏やかに輝く翠眼をほんのり細めて僕へ微笑みかけた。そしてこう付け加えた。

 

「娘を、最後まで大切に思ってくれて、有り難うございました」




 * * *

 

 

 

 三日後――。

 

「退院……ですか?」

 僕がオウム返しに訊き返すと、御手洗先生はデスクの資料へ何かを走り書きしてから、診察室の椅子をくるりと回して此方へ向き直る。

 

「そう、退院だ。うちも病床に余裕がある訳ではないからね。肋骨(ろっこつ)へヒビが入ってるとはいえ、打撲の症状はだいぶ和らいだようだし、後は自宅で安静にしていたまえ」


「……分かりました」

 言って軽く頭を下げた刹那――胸部へ走った鋭い痛みに、思わず「うっ――」と声を漏らす。そんな僕を見てクスッと短く笑った先生は、再びデスクに向かってボールペンをスラスラと滑らせた。

 

「君、タバコは?」

「いえ、吸いません」

「じゃあ、晩酌は?」

「一人では全然」


 再びボールペンで何かを書き加えつつ、先生は「結構結構」と何度か頷きながら言う。しかし少しして、視線を明後日へと向けながら思考を巡らせるふうに首を傾げた彼女は、次に「君、家では一人かね?」と、首だけを此方へ向けながら僕へ訊ねた。

 

「はい、一人暮らしです」

 僕が答えると、先生は「ふむ……」と短く唸ってから、少し間を置いてから口を開いた。

 

「子供でもあるまいし、余計なお節介かとは思う――が、しかし君には”目”の事もある。もしご両親が息災であるならばの話だが、たまには実家へお世話になってみてはどうかね?」


「あー……えっと……考えてみます」

 少々俯き加減で僕が曖昧な返事をすると、彼女は再びクスクス笑ってから、「いや、すまん。余計な事を言った」と軽く頭を下げた後、続けて今後の注意事項についてを話し始めた。

 

「仮に会食する機会があっても、アルコールは当分控えたほうがいい。血行が良くなると痛みが酷くなるからね。風呂はシャワー程度なら浴びても構わないが、湯船へ浸かるのは避けるように。最初は色々と不便だろうが、一ヶ月もすれば痛みも忘れて、いつも通り過ごせるようになるだろう」


 言いながらサラサラと書き物を済ませた彼女は、「診察は以上だ。痛み止めを出しておくから、受付で忘れず受け取ってくれたまえ」と念を押すと、体を此方へ戻しつつニコリと笑顔を作る。

 

「……はい。お世話になりました」


 椅子から立ち上がり、僕は再び小さく会釈をしてから、彼女へ背を向けて診察室のドアへ手をかける。すると背後から「君――」と声が飛んできた。

 向き直ると、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら一言、呟くように言葉を放つ。

 

「信じて待つのも、立派な戦いだ」


 彼女が言わんとするところも分からないままに、僕は小首を傾げつつも、それ以上は何も言うつもりはないらしい先生へ向けてそっと頭を下げる。


「お大事に」


 最後に先生が口にしたその響きが酷く優しくて、痛む体を庇いつつも、僕は逃げるように病院を後にした。

 

 

 二日が過ぎ、三日が過ぎ、四日、五日、六日と経っても、それらしい実感は全く湧いて来なかった。悲しいという感情は一切なかった。辛くもなかったし、生活に支障をきたすといったこともなかった。

 

 こんなのは初めてだ。

 今までにも、死というものを目の当たりにした経験はあったが、思い返せば、そのどれもがありふれた日常の延長線上に連なる”円満な死”だった。

 

 小さい頃に飼っていたペットの死――祖母や祖父の死――病弱だったクラスメイトの死――中学時代の担任だった先生の死――。いずれも、失うというよりは、生き物としての状態があるべき姿になって、心の一か所へ綺麗におさまったといった感覚だった。涙も出たし、落ち込みもした。しかし今のように、無色透明の茫漠とした何かに押し潰されそうになるような、途方もない無気力感に苛まれるといった事は無かった。

 

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、心の濁りは晴れる気配すら無かった。しかし十二月に入ったある日、生活費を下ろすためにコンビニATMを訪れた僕は、その異様な残高を目にして思わず固まった。

 

 いつの間にか振り込まれていた大金は、暗に一つの終わりを告げに来たように、僕には思えた。


 彼女の葬儀は、身内だけの家族葬で行われた。

 あの事件以来、芳香へは一度も訪れていない。真相がどうであれ、結局は僕が守ってあげられなかったという事実に変わりはない。罪悪感を感じるなというほうが無理な話である。


 入院中、一度だけ音葉さんがお見舞いに来てくれた事があった。その時はいつもと変わらず明るく振る舞っていた彼女だったが、とはいえ会話の中に冗談の一つすら出てこなかったし、帰り際には「お大事にね」とは言ってくれたものの、『またね』とは一言も口にしなかった。

 

 だから翌週に勇気を振り絞って芳香へ足を運んだ時も、その張り紙の内容に動揺することなく落ち着いて飲み込むことが出来た。

 

――当分の間、営業をお休みします

 何度か胸裏でその文言を反芻した僕は、そこでようやく一つの決心をした。

 

 ……実家に帰ろう。

 

 いつまでもここへ甘えていてはいけない。次の仕事を見つけて、新たに住む場所を探し、新しい日々を始めなくてはならない。そうしなければ、いつか彼に罵られた通り、何も出来ないクズになりさがってしまう。それは、恐らくは天国に向かったであろう彼女に対して申し訳が立たない。

 

 その前に、まずは今までのツケを精算しておく必要がある。

 いつまでも逃げてばかりいるようでは、この先に待っているであろう厳しい現実と向き合うことなど到底出来るわけがないのだ。

 

 僕等は弱者だ。だから食い物にされるし、されたとしても抵抗する事すらままならない。

 強くなるしかないのだ。ただひたすらに強く、ただひたすらに前へ――。

 

 ……それでも、死んでちゃ意味ないじゃないか。

 

 どんなに努力したって、僕の目が治る事は決して無い。彼女の体が健常者と同等の運動能力を取り戻すことはない。だから仕方ないのか? その末に社会の闇に呑まれ、食い物にされ、貶されたって仕方がないのか?

 

 こんな不条理が存在していいわけがない。

 まかり通っていいはずがないのだ。そんなのは、あんまりじゃないか。

 

 恐らく最後になるだろう芳香からの帰路をたどりながら、空を見上げるフリをしつつ、僕は懸命に涙を堪えた。

 滲んだ空は酷く晴れ渡っていた。その突き抜けるような青も、街の喧騒も、いつもと変わりなく――滞りなく阿倍野へ広がっていく。何もおかしな事はない。何も不思議な事ではない。しかしそのいつも通りが、今の僕にはひどく不自然でならなかった。

 

 世界が壊れたっておかしくはない。そのまま全てが終わってしまったって不思議ではない事が起こっているのに、どうして世界はこんなにも正常なのだろうか。

 同じような不安を抱えた事は幾度となくある。だがその度に、頭へ浮かぶそれらしい答えへ落胆し、僕は重ね重ね自己嫌悪を募らせるのだ。

 

 何も難しい事はない。僕等があぶれ者だというだけである。

 そもそも世界はそんなに綺麗なものではないし、誰もが正当に扱われるように成り立ってはいない。

 僕が思うに、人間という生き物は、その成り立ちからして幸せで居られるようには出来ていないのだ。誰もがそれを理解していて、だからこそ自分の身を守ることに躍起になって、他をすくい上げる――手を差し伸べる余裕などないのである。

 

 それでも――そうであったとしても……。

 

 僕は繰り返し、同じ事を心の中で呟きながら、再び思う。

 

 命を奪うまでしなくてよかったじゃないか。

 それはあまりにも――あんまりじゃないか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 十二月も中旬へ差し掛かった頃、僕は旅行用のキャリーバッグを片手に自宅を後にした。目指すはもちろん、懐かしの故郷――阿倍野から更に南へ下った先にある小さな住宅密集地だ。

 

 数年ぶりに電話をかけた僕に、両親は最初こそ驚きを声に滲ませていたが、事情を説明すると、二つ返事で僕の帰省を快く了承してくれた。

 初めは、思い切って阿倍野を離れて実家近くで暮らそうかとも考えた。しかしどうにもいい物件が見つからず、当面の間は引き続き阿倍野に居を構えながら、電車で通える新しい働き口を探すことにした。

 

 とはいえ、その前に――。

 

 どうしても”ここ”へ再び立ち寄っておきたかったのだ。

 大阪梅田駅から一歩外へ出た先にある、巨大な連絡橋だ。この日は体調が良く、運動もかねて階段で上ろうかとも考えたが、一段目に足をかけて体重を乗せた刹那、胸部へ走った鈍い痛みに顔をしかめた僕は、渋々エスカレーターを使って上階を目指す。

 

『ほぉら、だから言ったでしょ? 無理は禁物よ。き・ん・も・つ! 大人しくしてないと、いつまで経っても治らないんだから。……ねぇ、ちょっと? ねぇってば。聞いてる?』


 耳の中でLinの説教が鳴る。

 最近では、ワイヤレスのイヤホンやヘッドホンで通話をしながら歩くなんてのも、別段珍しい光景でもなくなった。とはいえ、こうも人の多い場所では何となく遠慮してしまう。Linには悪いが、少しの間は無視を決め込む他ない。

 

『芳澄君のバーカ! アーホ! 間抜け面!』


 いっそのこと電源を切ってやろうかとも考えたが、しかし上階に広がる景色を前にすれば、そんなカノジョの声もほとんど気にならなくなってしまった。

 

 時刻は午前十時。あの時は闇が降りていた梅田の街並みも、今は太陽に照らされながら活気付いている。そのギャップもあってか、同じ場所に立ってもなお、あの夜の出来事が夢か幻だったかに思えてならなかった。

 

 それでも、彼女は間違い無く存在していて、僕の目の前で笑顔を絶やさなかった。それは紛うことなき事実であり、僕はそれを片時も忘れてはならない。

 

 何時まで経っても悲しんでばかりいるわけにもいかない。しかし何もしない時間が多ければ多いほどに、後からやってきた彼女の死への実感は、僕の精神を容赦なく抉っていった。そんな中、気晴らしにでもなればと始めたのが、”深界の止揚”という物語へ改めて考察を立てる事だった。

 

 当時は単なるフィクション作品とばかり思っていたが、今の僕には少しばかり特殊な手札が幾つか存在する。

 

 三年の眠りから奇跡的に目覚めた少女――。

 ”シェルター移住計画”との関連性を仄めかす発言の数々――。

 音葉さんが口にした、”魔法”というキーワード――。

 そして何よりも、綾瀬彩華が僕を守る為に使った”奇妙な力”――。

 

 以上の事を踏まえ、考えを巡らせた結果、そもそもの出発点を改めるべきだと僕は判断した。

 深界の止揚というストーリーが、もし仮に現実に起こった出来事であるとするならば、あの作品へ登場する数々の人物は、実際に僕が接してきた彼ら彼女ら本人であるということになる。

 

 身近な人達の名前を使い、そのまま自身の作品へ登場させるなんてのはよくある話だ。接する機会が多い分、その人物像をリアルに描けるといった強みもある。だからその可能性へ目を向けなかったというのは確かにある。しかしもう一つ、ノンフィクションであるという可能性を真っ向から否定する部分――というよりは、”人物”が身近にいたせいというのが一番の要因だった。

 

 誰でもない、”七瀬音葉”の存在だ。

 

 音葉さんの兄――綾瀬祐杜さんとは、今年の初めに一度しか顔を合わせていない。そんな関わりの浅い僕の目から見ても、音葉さんと祐杜さんが血の繋がった兄妹であることは明白だ。顔のパーツから、その碧眼や髪の色まで、どこをとってもそっくりである。

 

 加えて、祐杜さんの娘が、彩華ちゃんであるというのも実に説得力がある。


――目がそっくりだからすぐ分かったよ。ちびっ子は大抵、顔は母親に似て、目には父親の面影が出るもんなのさ


 深界の止揚へ登場するキャラクターの一人がこんなふうに言うように、彩華ちゃんの目と、祐杜さん――ひいては音葉さんの目からは、どう見たって血の繋がりを感じずにはいられない。だとすれば、綾瀬祐杜――深界に生きる日百合(ひゆり)(らん)の妹である日百合彩音(あやね)こそが、僕のよく知るお転婆カフェ店主と同一人物と考えるべきなのだ。

 

 だが、彩音という少女はあの作品の中では義理の妹という立ち位置に居る。そこだけは脚色されたフィクション要素なのではないかとも考えたが、そんな事をする意味が果たしてあるのだろうか?

 もし、あの作品へ登場する”イロハ”という量子世界でのみ生きる女性が実在するとして、ならば尚更史実通りに描くべきではないだろうか。もし僕が彩華ちゃんなら、間違い無く嘘偽り無くあの世界での出来事を文章化するだろうし、仮にも綾瀬彩華と数ヶ月の間――それもほとんどの時間を共に過ごした経験から、恐らくは彼女も僕と同じ道を選ぶだろうという確信を持てる。

 

 かと言って、日百合彩音と七瀬音葉を別人であると仮定しても、それらしい筋書きは全く見えては来なかった。

 

――だから、『何もかも全部投げ出して、私と駆け落ちしよ?』って、兄ちゃんに言い寄った事があるの。直接そう言った訳ではないんだけど……まぁ、そんな感じの事を――ね?


 音葉さんが口にしたあの昔話は、深界の止揚の前半へ差し込まれる予定だったエピソードの一つと酷似している。しかし……。

 

『もしも~し、何時まで無視するつもりですか~。私、拗ねちゃいますよ~。もしも~し』


「あ――悪い……ちょっと考え事してた」

 慌てて僕が返事をすると、カノジョは頬を膨らませたふうに「むー……!」と不機嫌そうな声を放つ。

 

 この場所を訪れれば、何かそれらしい糸口が掴めるかもしれないと期待していたのだが、結局はいつもと変わらず堂々巡りを繰り返すばかりに終わってしまった。

 踵を返して連絡橋を下り、体をかばいつつ人混みを抜けて改札口を目指す。ゲートを潜ってしまえば、そこからは慣れたものだ。自宅へ帰る道筋を、阿倍野で下りずに更に南へ向かえばいい。

 

 二人がけの座席――それも窓際へ座れたのは運が良かった。

 荷物を足元へと押し入れ、背もたれに身を埋めてぼんやりと背後へ飛んでゆく景色を眺める。朝食の後で飲んだ痛み止めのせいか、もったりと絡みつくような眠気が僕の瞼を重くする。眠ってしまったって、そうすぐに到着するわけではないし、実家の最寄り駅までは乗り換えする必要もない。

 

 それでも、先程巡らせていた思考の続きがどうしても頭から離れず、結局は眠りにつくまでは至らなかった。

 

 どう見たって、似ていなかった。

 彩華ちゃんとその母親との間には、父親との間に感じるような血縁めいたものは一切見て取れなかった。ならば、実の母親となりえる存在は限られてくる。

 

 日百合彩音――。

 花園(はなぞの)花梨(かりん)――。

 花園(はなぞの)彩花(さやか)――。

 

 彩華という名前が、母親の名前からのもじりであるとするならば、三名の中では花園彩花が有力な候補と言える。アウフヘーベンと呼ばれる量子コンピューターの核である彼女と、祐杜さんとの間に生まれた存在ならば、同じ筋道で生を受けたのだろう”イロハ”という女性に実体が無いというのにも納得がいく。

 

 だとすれば、この世界に実体を持ち、その生を全うした”綾瀬彩華”というあの少女は一体――。

 

 どんなに憶測を膨らませたとしても、そもそも僕の持っている手札では説明がつかない部分がどうしても出てきてしまう。こんなのは、ピースの足りていないジグソーパズルを組み上げるようなものだ。そんな事は分かっている。それでも――だからこそ、考えずにはいられない。

 

 彼女の綴った深界の止揚が読めないことが、本当に残念でならなかった。

 

 

 ”セラピロイド――身体障がい者のメンタルケアを目的としたコミュニケーションAI”。



 全てが動き始めたのは、その文言を久々に耳にした夜の事だった。

 除夜の鐘が響く大晦日、年末恒例のテレビ特番の合間に流れたニュースの内容に、僕は思わず耳を疑った。

 

――新政府は昨日声明を発表し、”セラピロイド”の自主回収を進めていく考えを改めて示しました。セラピロイドとは、旧政府から発行された”身体障がい者手帳”を取得済みの身障者向けにのみ支給された、メンタルケアを目的とする特殊なコミュニケーションAIモデルであり……


「芳澄、これって――」

 言ったのは父親だった。こたつの対面へ座る彼は、眉根を寄せながら卓上に置かれたLinの筐体へ視線を移す。


 ニュースキャスターは、続けて淡々とその内容を読み上げていく。

 

――セラピロイドのコアには、生後数ヶ月以内に亡くなった乳児から採取した”脳”の一部が組み込まれており、旧政府が秘密裏に進めていたとされる非人道的な人体実験との関連性も……


 リビングを満たしていた温かな空気が、ゆっくりと冷めていくのを感じた。父親は先ほどと同じ表情で固まってしまい、その隣では、母親が口元を両手で押さえながら「信じられない」といったふうに何度も首を横へ振る。

 

――あの……


 カノジョがそう声を漏らすと、三人の視線は一斉にカノジョへと向いた。

 

――あの……その……私、実は……

 

 カノジョがそこまで言いかけた刹那、突然部屋の照明が落ちた。僕は思わず声を上げ、その拍子に痛んだ胸部をそっと手で撫でながら「うっ――」と呻き声を漏らす。

 真っ暗闇の中、母親は軽いパニックを起こし、父親も初めこそ驚いてはいたものの、すぐに冷静さを取り戻して玄関口のブレーカーを上げるために立ち上がったようだった。

 

 異様な速度で照明が明滅し始めたのは、まさにそんな時だった。

 肌が波打つようなざわめきを感じた瞬間、僕は恐怖を覚えるよりも先にある思考へといきついた。

 

 あの時――薊が発狂し始めた、あの時の阿倍野と同じだ。

 

 直後、明滅がおさまると共に、僕のスマートフォンが何度か連続で通知音を発した。すぐさま手を伸ばし、スリープモードを解除する。

 

 そこにあった『綾瀬彩華より、2件の新着メッセージ』という表記に、背後から穏やかな風が吹いたような感覚を覚え、僕は目を見開き、そっと息を飲んだ。

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