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第十四話 『報復のイロハ』

 翌日、彩華ちゃんの様子を報告するために、僕は夕暮れ時の芳香を訪れた。

 内心では、音葉さんも心配だったのだろう。昨日の出来事を伝えると、彼女は緊張がほどけたようにホッと息を吐いた。


「そっか……ありがとう。芳澄君」

 そんなふうに言う音葉さんの表情には、どことなく弱々しさみたいなものが感じられた。


 とはいえ、報告を済ませた後は、何時も通りの明るい彼女へと戻っていた。

 珈琲を一杯注文し、お転婆カフェ店主と取り留めのない話に花を咲かせる。この日常が、一体何時まで続くのだろうか――なんて考えてしまった瞬間、僕の胸中には、苦いような、酸っぱいような寂しさがじんわりと滲み出るのだった。


「やっぱり凄いね。芳澄君は」

 帰り際、レジに立つ音葉さんがボソリと呟いた。

 

「え――どこがですか?」

 代金を払い終え、彼女から受け取った釣り銭とレシートを財布へしまいつつ僕は訊ねた。


「理解が深いというか、デリカシーがちゃんと備わってるっていうか……」

 言いながら、次に思考を巡らせるふうに小首を傾げた彼女は、「良い意味で、普通じゃない――みたいな?」と続けて、なぜだかフフフッと笑う。


 僕も彼女の真似をして首を傾けると、音葉さんは再びクスクス笑ってから続きを付け加えた。

 

「他人と向き合うのって、ただでさえ難しいことなのに、彩華みたく色々抱えてる子を前にすれば、誰だって腰が引けちゃうよ。私なんて、家族なのに、それらしい事何もしてあげられてないし……。だから、芳澄君は凄いなーって。ちょっぴり反省」


 眉尻を下げつつ言う彼女の気持ちが、僕には少し分かる気がした。

 近すぎるが故に、上手くいかないことだってある。知人だったり、友人だったり、家族だったり、恋人だったりする他人との繋がりは、強固であればあるほどに、その縁が失われることに怯えてしまう。だから無責任なことはもちろん言えないし、リスクのある選択を迫られても、おいそれと決断することなんて出来ない。

 

 僕が両親から逃げてばかりいるのも――音葉さんが彩華ちゃんと一定の距離感を保つのも、偏に相手の事を大切に思うからこそだ。それが正しいことなのかは、今の僕にも分からない。けれど、ここ数ヶ月、綾瀬彩華という少女と同じ時間を過ごしてきて、一つ気づいたことがある。それは――。


「多分なんですけど」

 僕がそう切り出すと、俯き加減だった彼女の双眸が此方を向いた。

 

 僕は頭へ浮かんだいくつかのセリフを丁寧に咀嚼してから、一度脳裏で文字へ起こした文章をそっと読み上げた。

 

「どことなく上手くいかないなーくらいが、ちょうどいいんだと思います。歩み寄ること自体が大切なんであって、その結果が、必ずしも正解である必要は、ないんじゃないかな――なんて」


 少し照れ臭くなった僕が、頭をかきながら笑って誤魔化そうとすると、ハッと表情を明るくした音葉さんは、「ふ~ん」と悪戯な笑みを作る。


「なぁに? 突然そんなに優しくされても、私、そう簡単には落ちないよ?」

「ち――違います! ……昨日ご馳走になったグアテマラのお礼です」


 僕が唇を尖らせて言うと、何時もの調子を取り戻した音葉さんはケラケラと笑うのだった。

 

 本当は、珈琲と一緒に貰った素敵な言葉に対してのお礼のつもりだったけれど、それをあえて口には出さなかった。

 多分、これくらいがちょうどいいのだと、店を出た後で僕は改めて思った。相手の事を思いやりながら、どういうふうに伝えるべきかを模索する。その過程で上手くいかなかったり、思うように伝えられなかったとしても、足りない部分は相手がちゃんと埋めてくれる。

 

 会話は、たびたびキャッチボールに例えられがちだが、片方の投げた球があらぬ方向へ飛んで行ったとしても、もう片方が上手く受け止めてくれればそれでいい。一番重要なのは、”この人が投げた球なら、少々頑張ってでも取りに行ってやろう”と、相手に思って貰うことである。

 

 そこまで思考が行き着いたあたりで、もうすっかり暗くなった阿倍野の空を見上げながら、僕はふと、『深界の止揚』のプロットの内容を思い出してみる。そして『なるほどな』と胸裏で得心した。

 一人では立ち向かえなくとも、誰かと力を合わせればきっと乗り越えることができる。そういったメッセージが、止揚(しよう)――アウフヘーベンというキーワードには込められている。

 

 量子コンピューターという複雑な媒体が作り上げる、”(ゼロ)”と”(イチ)”の重ね合わせが生んだ”深界”と呼ばれる世界。主人公と、それを助けるべく奮闘する”イロハ”という女性の師弟関係。幼馴染みの二人が手を取り合いながら、お互いが抱える困難へと立ち向かう姿。そして、愛らしいヒロインと”読者本人”とを結ぶ二人称的な文章表現。

 

 止揚を象徴として描かれるそれらの事柄は、どれをとっても単体では成り立たず、二つの事象が呼応し、一つの共同体となることによって成立する。ともすれば、彼女――綾瀬彩華が原稿を書き上げ、それを僕が推敲するという今の僕等もまた、立派な止揚の形と言えるだろう。

 

 もし、僕と彩華ちゃんが出会っていなければ――僕がLinを頼ることをしなかったなら、このプロットは完成しなかったかもしれない。そう考えれば、恐らくはあの日――芳香で僕と彼女が出会ったあの日から、深界の止揚という物語は始まっていたのだ。

 

 歩きながら考えを巡らせているうちに、体の奥から手足へ力が湧いてきた。何とも懐かしい感覚だ。今の気持ちをすぐにでも文字にしなければという、激しい執筆意欲に駆られるような、もう何年も忘れてしまっていたこの感覚。

 

 僕等に残された時間は、そう長くはないかもしれない。それでも――だからこそ、限りある時間を使って、全力でぶつかっていくしかないのだ。

 そんなふうに奮起した刹那、両脇を囲む背の高い建物の隙間から、冬の訪れを思わせる冷ややかな風がふわりと吹いた。連鎖して、何時かあの男の口にした言葉が脳裏へと蘇る。

 

――君は、目がこれ以上良くはならないからと言って、何かを成し遂げることを諦めたりしたかね?


「全くもって、その通りだよ」

 僕は小さく言って、帰路とは逆方向の道を急いだ。



「辞めてください!!」


 進行方向から剣呑な声が響いてきた。聞き覚えのある女性の声だ。

 ……いや、しかしそんなはずはない。今日はこれから、彼女の部屋でプロットについての打ち合わせをする予定だ。まだ遅い時間ではないにしろ、こんな所に彩華ちゃんが居るはずは――。

 

 小走りで声の聞こえたほうへ向かう。なぜだか胸騒ぎがした。どうにも嫌な感覚だ。

 僕の思考が、自然と最悪の場面を想像し始める。そしてイメージが鮮明に描けたのと同時に、声のした現場に到着し――僕は絶句した。

 

「辞めてください! この方は、わざとぶつかったりなんかしません!!」


 コンビニの入り口付近で、数人の男性がたむろしていた。その中心で声を荒らげるのは、間違いなく綾瀬彩華本人だった。

 咄嗟に駆け寄ろうとしたが、思い直して僕は一度足を止めた。何やら様子が変だ。車椅子に座る彼女の背後に、もう一人男性が立っている。会話の内容から察するに、どうやら彩華ちゃんは後ろの男性を庇っているらしかった。


「お嬢ちゃん、もう大丈夫やから……。あの、えらいすんませんでした。このとおりです」

 彼女の背後に立つ男性が深々と頭を下げて言う。

 

 声や仕草に覚えがあった。しかし、一体どこで――。

 恐る恐る近づくと、庇われた男性の手に持つ白い杖が目に付き――瞬間、彼女を取り囲む男の一人が此方へ首を向けた。そして汚らしい無精ひげの奥に笑みを湛え、耳障りな野太い声を放つ。

 

「あれれぇ? 偶然偶然」

 芝居がかった声で言いながら僕のほうへ近づいてくる大柄な男は、しかし一度立ち止まって背後へ振り向くと、「そのおっさん、もういいから。さっさと逃がしてやれ」と、残りの男性へ指示を出す。しかし続けて、「あっ」と大げさな声を漏らした彼は、僕に向かって向き直ると無表情になって言った。

 

「お前、余計なことすんじゃねぇよ」


 全身を何かが這いずり回るような、不快な寒気が駆け抜けた。

 男は僕の隣までやってくると、僕の首へ腕を回し、耳元で声を落として続けた。

 

「お陰様で、警察モドキに散々事情聴取された挙げ句、うちの屋敷にまで面倒な客が押しかけてきやがったんだ。ありがたいよなぁ? 国家権力が機能しなくなっても、日本人ってのは真面目だからよ?」


粗末に着崩したスウェットからはメンソール系のたばこ臭を漂わせ、荒い息づかいから漏れ出るアルコール臭さが鼻を突く。 僕が唇をきつく結んで取り合わないでいると、男は僕の耳元で酷く穏やかな声で言った。

 

「何とか言えよ。チクるしか能のねぇクズ」


「……僕は、何も――」

 目も合わさずに言って、僕は小刻みに首を横へ振った。

 

 ダハハッと大げさな笑い声を上げた巨漢は、「そうかそうか。何もしてないんじゃあ仕方ねぇ」と、僕の肩をバチバチと叩いた。

 

 視界の先では、コンビニから出てきた店員と思しき女性が、白杖をつく男性と彩華ちゃんを店内へ避難させようとしていた。しかし彼女を囲んだ三人の男に阻まれ、白杖をつく男性と共に店の中へと押し戻されていく。

 隙を見て電動車椅子を操作し、彼女は何とか男連中の間から逃げようと試みる――が、次に男の一人がガッチリとハンドルを捕まえてそれを許さなかった。


「辞めて――ください……! 離して……!!」

 更に声を荒げ、ハンドルから男の手を引き剥がそうと押し問答を繰り返す彩華ちゃんを前に、僕は隣の巨漢に絡まれたまま一歩も動けず、ただ見ていることしか出来なかった。


「嫌……!! 離してください!!芳澄さん、助けて――嫌ぁ!!」


 不愉快にこだまする男達の奇声――。

 悲痛な叫びを上げ、懇願するように助けを求める少女――。

 地鳴りの如く嘲笑う最悪――。

 

 繰り広げられるは、まさに地獄のごとき光景だった。

 

 「……一体、何のつもりだ。(あざみ)

 震える喉から声を振り絞り、隣の大男――薊へ問い質す。


「金」

 にやけ顔のままに、彼はキッパリとそう言った。


「いい加減にしろ。この前やっただろ! あれっきりって約束だったはず――」

「はいはいはいはい!」

 響く野太い声で乱暴に言葉を遮った薊は、しかしそっと僕の肩を一回――二回と叩いて続けた。

 

「だ~か~ら? だから何だってんだよ。え? お前、自分の置かれた立場がまだ分かんねぇのか? 察し悪すぎて逆に引くわ。ほ~ら、さっさと出さねぇと――可愛い生徒さんがどうなっちまうか、分-かーんーね~ぞ? ……あ、でもお前、(めくら)だからどの道見えねぇか! ダハハハハッ! おいお前ら、コイツ目ぇ悪くて見えねぇからドウデモいいってよ! ダハハハッ!」


 怒りと恐怖が腹の奥で混濁し、頬の筋肉がギュッと引き攣る。手先や足の末端へ不快な痺れが纏わり付き、心臓の鼓動がうるさいくらい耳奥で響く。次第に視界がチカチカと明滅し始め、自分が今何を考えているのかさえハッキリしなかった。

 

 それでも体は震え、手も出なければ、口答え一つ出せなかった。

 

「……もっぺん聞くけど、お前だよな? 奴等にチクったの」

 まるで犯人を取り調べる警察官のように、穏やかながら鋭い口調で薊は言う。

 

 もはや余裕の一切なくなってしまった僕は、言われるがままにゆっくりと頷いた。

 

「結局認めんのかよ。ホント、最っ低だな。お前」


 薊はクククッと噛み殺したふうに笑うと、視線を彩華ちゃんへと戻しつつ淡々と言葉を並べて見せた。暫くの間、彼がいったい何を言っているのかが理解出来なかった。思考よりも先に、脳天から貫かれるような衝撃が僕の体を襲った。景色が歪み、音は頭の中で反響し、喉の奥がギュッと縮んで熱く燃える。

 

「昔みたく、せっかく丁寧にコメント欄まで燃やしてやったってのに、懲りずにまだ臭ぇ小説なんて書いてんのか? 俺はなぁ? 誰でもない君の為を思って――心を痛めながらやったんだ。お前みたいな陰キャで――クズで――カスな――どうしようもねぇゴミが、ちゃ~んと真人間になれるようにってな?」


 繰り返し、薊の声が耳奥で鳴る。

 

――丁寧にコメント欄まで燃やしてやった


――臭ぇ小説


――昔みたく


「ほら、あん時みたいに言ってみろよ」


 再び僕の耳元まで口を近づけ、声を潜めて彼は続けた。

 

「”お前らみたいなクズと一緒にするな”って、言ってみろよ」


 薊の言葉に含まれる単語が、記憶の中でゆっくりと線で結びついていく。最後に行き着いた先は、昨日耳にした彩華ちゃんの啜り泣く声だった。


「まさか……アレをやったのは――」

 

 憶測が確信へ変わると共に、全身の肌が波打つように震え、頭へ血が上り、頬やこめかみが激しく痙攣を起こす。

 

 薊は再び笑いを爆発させ、「だ~いせいか~い」と言って豪快に拍手をして見せた。

 

 ブチッと、眼球の奥で何かが鈍い音を立てて弾け飛んだ。


 次に意識が戻ってきた時には、僕は薊の胸ぐらを両手で掴み、何かを必死に叫んでいた。何を叫んでいたのかは、自分でも全く分からなかった。なぜだか涙が吹き出て、喉奥が焼けるように火照り、腹の底を抉られるような鈍痛が込み上げてくる。

 

 ガシャンッ――という大きな物音が鳴ったのは、その直後の事だった。



 視線が、物音のした方向――コンビニの入り口付近へとゆっくり吸い寄せられる。

 束ねていたはずの髪は散り散りにほどけ、横たわる彼女の体はビクともしない。横転した車椅子からは、異常を知らせる警報ブザーが鳴る。その甲高い音が断続的に鼓膜を打つたびに、目の前の霞んだ景色が遠くなっていくようだった。

 

「あ~あ、言わんこっちゃない」


 ぶっきらぼうに言う薊を突き飛ばし、僕はすぐに彼女の元へ駆け寄ろうとした――が、背後から伸びてきた巨大な手に肩を掴まれ、その場へ引き倒される。

 一発目はみぞおちへ――二発目は腹――そこから三発――四発と、強烈な痛みが僕の体を襲った。

 

「何すんだよ。あ!?」

 言いながら、薊は繰り返し僕の体へ蹴りを見舞う。

 

「うぜぇ……うぜぇうぜぇウゼぇうぜぇ!! 生意気なんだよ。クズのくせに……カスなくせに……!! 一人じゃろくに働けもしねぇ(めくら)の分際で――臭ぇ小説なんざ書いてるキモオタ陰キャの分際で、誰がクズだって!? え!? もっぺん言ってみろって言ってんだよ。ほら、言ってみろ!!」


 酷く咳き込み、息が上手く出来なかった。酸欠のせいか、景色がよく見えない。辛うじて薊の声は聞こえるが、耳鳴りのせいで何を言っているのかほとんど分からなかった。次第に痛覚すらあやふやになっていき、全身を猛烈な倦怠感が襲う。

 

 ……ダメだ……落ちる……。


 僕が気を失えば、その後、彼女はどうなってしまうのだろう。あるいは、さっきの転倒で、彩華ちゃんはもう――。

 僕のせいだ。僕が余計なことをしたから――僕が出過ぎた真似をしたから、反感を買って彼女を危険なめにあわせてしまった。

 

 薊の言うとおり、僕は最低な人間だ。両親に――Linに酷い罵声を浴びせ、満足に職にも就けず、目指す道すらも投げ出した挙げ句、何一つ成し遂げられないままでいる。そんな奴に、生きる価値なんてありはしない。

 

 そもそも、分不相応だという事は自覚していた。彼女達がもたらす日常の何気ない暖かさに触れる度に、僕は何かを見落としてるんじゃないかという不安に駆られ、ありもしない苦痛を無意識に探してしまう。そんな根暗な僕に――何の能力も持たない僕に、彼女達と日々を共にする資格なんて無かったのだ。

 

 ……もういいじゃないか。忘れてしまおう。

 今までにだって、愚かな選択と分かりつつ――幾度となく同じ事は考えた。未遂に終わっただけで、それらしい行動に出た事だってある。

 

 このまま嬲り殺されるのなら、いっそ楽に――。

 

 

「……訂正、してください」


 紛れもない、彩華ちゃんの声だった。

 酷く耳鳴りがする中、その声だけがやけにハッキリと聞こえた。いつしか蹴りがおさまり、朦朧とする視界に光が戻ってくる。


「えっ――」

 ぼやけた景色の向こう側で、恐らくは彼女を取り囲んでいた男の一人が発したのだろう声が鳴った。やがて他の男達も同じように動揺の声を漏らす。

 

「……は?」

 今度は薊の声だった。彼がそんなふうに声を漏らしたあたりで、ようやく視覚へ鮮明さが戻り――僕も同じく「えっ――」と声を漏らし、目を疑った。

 

「……今の言葉、訂正してください」


 彼女は、立っていた。

 自らの足で何とかバランスをとりつつ、体を小刻みに震わせながら、ヨタヨタと一歩ずつ此方へ歩いてくる。

 

「……芳澄さんは、そんな――そんな人じゃ、ありません」

 乱れた髪をぶら下げ、俯く顔をぐいと上げた彼女は、歯を食いしばりながら険しい表情で続ける。

 

「芳澄さんは……ずっと――ずっと私に寄り添ってくれたんです。何をするにしてもノロマな私に合わせて…・・丁寧に……優しく教えてくれたんです。私が無理をして倒れても――私がへこんで泣いてばかりいても、芳澄さんは、ずっと――ずっと傍にいてくれたんです。『大丈夫だよ』って、頭を撫でてくれたんです。クズで――カスで――キモオタ陰キャなのは、あなたのほうです。産みの苦しみすら分からないような人が、偉そうなこと言って……私の――芳澄さんの、大切な作品を……汚さないでください!!」


 張り上げた彼女の声に続けて、重い静寂が僕たちを包み込む。

 しかし薊は、それでもなお気圧されること無く高らかに笑いを上げ、今にも倒れてしまいそうな彩華ちゃんの眼前へと立ちはだかった。

 

「何だよ、ちゃんと立てんじゃねぇか。大げさに車椅子なんざ座りやがって。”体が不自由だ”って聞いてたから、はなから期待はしてなかったが……そんだけ威勢が良けりゃ、男に跨がって腰振りながら、いい声で鳴くくらいは出来るよなぁ?」


 声へ欲望を滲ませる薊は、彼女の顔へゆっくりと手を伸ばす。

 何でもいいから声をあげようとしたが、しかし出たのは咳と掠れた吐息だけだった。体に力が入らず、立ち上がるどころか、身動き一つ取れない。

 

 お願いだ。誰でもいい。誰か――誰か彼女を助けて……。

 

 情けなくも願って、見るに堪えず目を閉じた刹那――バチンッと、乾いた物が激しくぶつかり合う音がした。

 

 何事かと目を開くと、薊が一歩後退した場所で固まっている。振り上げられた彩華ちゃんの右手から見るに、彼女が薊の手をはたき飛ばしたふうに見える。しかし、それにしては異様だった。薊はかなり本気で痛がっているように見える。第一、この巨漢の手を、あの華奢な腕でどうやって……。


「イっ――!! このクソガキ……ちょっと顔がいいからって調子乗ってんじゃ――」


『口を慎め、無礼者』

 彼女の放ったそれは、妙に太く威厳を纏った声だった。

 

 突如崩れた口調のままに、彩華ちゃんは振り上げた腕を体から水平へと掲げつつ、再び力強く言い放つ。

 

『――我、魂の罪を量りし者なり』


 聞き覚えのあるそのフレーズに、僕は自分の耳を疑った――が、少し経ったところで、何が起こるわけでもないようだった。


「……は?」


 薊が間の抜けた声を漏らすと、それを引き金に男達は吹き出して笑い始め、口々に罵声を浴びせる。

 

「……え、なに? アニメかなんかのセリフ?」

「ダッサ」

「リアルでそういうの言っちゃう系? うわぁ引くー……」


 彼等に同調し、薊も同じように嘲り笑った頃――その異変は唐突に訪れた。

 途端に、コンビニ内の照明が落ちる。暗くなった店内からはいくつかの悲鳴があがり、続けて街灯の明かりが激しく明滅し始め、その後すぐに阿倍野の街中から人々のどよめき声が上がる。

 

 遠くのほうで連鎖する悲鳴に合わせ、ついには街中から光が失われた。遠い街から空を伝って漏れる微かな灯りと、残りの大半を塗りつぶす濃紺に支配された世界にて、ただの一つ、彼女が見開く碧の双眸だけが、ぼんやりと不気味に輝きを放つ。

 

「謝るなら、今のうちです」


 彼女が冷淡な声でそう告げた瞬間、僕の眩んだ視界へ、雷にも似た青白い電光が迸る。驚いて咄嗟にめをつむると、瞼の裏側に軌跡状のぼやけた跡が残った。

 

 悲鳴を上げたのは薊だった。

 すぐに目を開くと、暗闇に濡れた景色の先で、微かにだが薊が地面へうずくまっているのが見て取れた。その取り乱し方は尋常では無かった。時たま両腕を頭の上で激しく振り回し、先程まで邪知暴虐の末を尽くしていた巨漢が見る影もなく小さく縮こまり、発狂し続ける。

 

 彼の様子が酷くなるに連れ、彩華ちゃんの瞳に宿る輝きが一層増していくように見えた。

 直後――視界へ激烈な火花が散り、一瞬遅れて音が消し飛んだと同時、薊の傍らをかすめて稲妻が落ちた。

 轟音は後になって鼓膜を襲った。彼の体は信じられない速度でコンビニの壁へ激突し、痛みにもだえながらそこらじゅうを転げ回る。

 

 やがて、全てが静寂と闇に飲まれた。

 いつの間にか、ありとあらゆる光が元通りになっていた。薊を残して、他の男連中は姿を消していた。


 体の痛みに震えながらも、僕はコンクリートへ髪を散らして横たわる彼女へ駆け寄った。抱き起こそうとしたが、腕へ力が入らずに上手くいかなかった。

 まず息を整える事に集中した。そうして彼女の首から後頭部へ手を回し、半分寝そべる態勢で腕を滑り込ませる――が、やはり持ち上がらず、横倒れのままにそっと彼女を抱き寄せた。

 

「バ――バケモノ……」

 その上ずった声の主は薊だった。仰向けになり、彼女を抱き寄せたまま彼へ首を向けると、薊は青白い顔でコンビニの壁面へ身を寄せ、遠目に僕の視力でも分かる程にガクガクと震えていた。

 

「バケ――バケモノ……バケ――モノ……」

 ぶつぶつと同じように繰り返し言う彼は、次には「……見るな……見るな」と更に表情を凍り付かせ、ついには――。



「ひぁぁあああああああああ!!!」



 飛ぶように走り去った薊の悲鳴は、彼が遠く離れても尚、阿倍野のビル間を抜けて街中へ轟いた。

 

「か――すみ――さん」

「彩華ちゃん……? 大丈夫?」


 微かに声を漏らした彼女は、僕の胸へ顔をうずめたままに「よかった……無事で……よかった……」と、熱っぽい雫で僕の服を濡らす。

 

「ごめんね……ごめんんね……」

 僕は繰り返し謝った。謝ることしか出来なかった。そんな自分を、恐らくは人生で最大級の憎悪をもってして呪った。

 

 いつの間にか、彼女は冷たくなっていた。

 何度も彼女を呼んだが、返事は返ってこなかった。

 その日、僕の景色を照らすたった一つの”光”が失われた。

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