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第十三話 『”特別”のイロハ』

 柔らかいそよ風が頬を撫でる。

 涼やかなその感覚に促され、僕はゆっくりと目を開いた。

 

 眼前にあったのは、眩い白だった。

 思わず目を細めつつ、寝そべった体を起こして辺りを見渡す。

 一帯は濃い霧に覆われていた。光を帯びた灰白色に輝く景色には、まばらな大木の輪郭が微かに見て取れた。

 

 立ち上がって、次に足元へ目をやる。

 高原だ。地面には浅い草花が広がっている。

 僕はふと、着ている服に汚れが付いていないか――と、何となく上着の袖やズボンをポンポンと手で払いつつ、そこでようやく意識が鮮明になりはじめた。

 

 これは夢だ。

 僕はそう直感し、すぐにその思考は確信へと変わった。

 

 この場所へは何度か訪れた事がある。と言っても、何れも夢の中での話だ。特に何が起こる訳でもなく、どこまでも濃霧が続くばかりの不思議な高原だ。

 思い返してみれば、この夢を見る時は大抵、僕は人生の岐路に立っている事が多い。

 小学校への進学――中学の卒業――高校受験前夜――社会人一年目のある日――。そういったタイミングで、この高原は僕の前へ度々現れる。

 

 一体何を意味する物なのかは分からない。彷徨っているうち、すぐに目覚めがやってきてしまう。今回も、しばらくすれば夢から覚める事だろう。

 

 とはいえ、何もせずじっとしているのも何だか勿体ない気がした僕は、当てもなく辺りを歩いてみる事にした。

 時折現れる奇妙な影に怯えながらも、すぐにそれがバケモノの類ではなく、ただの樹木であることに安堵する。しかし、違うと分かっていても、その植物的で不規則なシルエットが、不意に蠢き始めるんじゃないか――などと、年甲斐もなく恐怖が湧き立つのだ。

 

 恐らく此処は、僕という人間を鏡映しにした場所なのだろう。この恐怖も、先の見えない見通しの悪さも、僕が慢性的に抱えている慣れ親しんだものだ。

 霞んだ視界に、”芳澄”とは……偶然が生んだ語呂合わせにせよ、言い得て妙である。両親の前でそんな事は言えない。それでも、思春期にありがちな一時の衝動に身を任せ、似たようなニュアンスの不満をぶつけてしまった事はあった。

 

 その時の両親の顔を――震える声を思い出す度に、僕は自分の存在をそっと世界から消したくなる。消しゴムで画用紙の表面を丁寧に擦るように、跡形も無く削り取ってやりたくなるのだ。

 考えたって仕方の無い事だ。それでも――分かっていても、考えずにはいられない。


 もし僕が生まれてこなかったなら、両親の顔があんなふうに曇る事は無かったんじゃないのか――と。

 

 刹那、後頭部へ冷たい恐怖が走った。

 咄嗟に踵を返す――が、そこには誰も居なかった。相変わらず濃密な霧が漂うばかりで、僕に危害を加える物など何一つ無い。


「そういえば……」

 僕は小さく呟いて、未だざわめく胸中を呼吸を深くしてゆっくりと宥めた。

 

 この恐怖も、間違いなく僕の一部だ。

 それは僕が娯楽に興じている時や、何もせず怠惰な時間を過ごしている瞬間に訪れる。背後に立つ何者かが、硬質な棒を両手で握りしめ、野球のバッターの如く僕の後頭部を捉える。まるで本当に強打されたかのような強烈な恐怖が頭頂部から首元へ降りてくる頃には、食べていた食事の味は酷く曖昧になって、楽しいはずの一時すら無意味な物に感じられた。

 

 気付けばこの通り、僕はひとりぼっちになっていた。

 同年代の友人が、何故そんなにも暢気に日々を謳歌できるのかが理解できなかった。普通の人と同じように過ごしていてはダメだという事に、人生の早い段階で気が付いてしまった僕は、自身の手が売り物になるような技術を早急に身につける必要があった。しかし、若くして孤高の道を模索するというのは茨の道だ。沢山挫折もしたし、後悔だって数え切れないほど味わった。


「それでも――」

 僕は目を閉じ、再び呟いて、前方へ向き直ってから一歩――二歩と踏み出す。”これで良かったんだ”と自分に言い聞かせながら、先の見えない霧中をただひたすらに前へ――。

 

「芳澄さん」

 僕が三歩目を踏み出した直後、鈴の音のような声が僕の背中へとぶつかった。

 

 咄嗟に声へ身体を向けると、そこに立つ彼女は碧の双眸を仄かに見開き、続けて柔和な笑みを作って此方へ歩み寄る。

 あまりにも自然なその所作に、彼女が自分の足で立って歩いているという異様さに気付くのに、少し時間がかかった。遅れて僕は「えっ――あの、足――」と、ブツ切りに声を漏らすと、彼女は赤い髪をユサリと揺らしながら少々照れ臭そうに科を作る。

 

「ごめんなさい。あっちだと、その……ぐずって、上手く言葉に出来なさそうだったので、お邪魔しちゃいました」


 言った後、控えに「えへへ……」と笑顔を作った彩華ちゃんは、しかしすぐに表情を無くし、続けて眉間へしわを寄せながら、目を細めて僕の顔を見つめる。


「どうしたの……?」

 僕が小首を傾げると、彼女は短く瞬きを何度かした後、両腕を前へと翳しながら物を探るようにしてヨロヨロと此方へやってくる。

 

 僕がその手をそっと掴むと、少し強ばっていた彼女の顔にほんのり笑顔が戻った。そして困ったふうに眉尻を下げる。


「きっつ……。芳澄さん、よくこれで文字書きなんて――」


 彼女の言っている意味が分からず、「ん……?」と短く疑問符を付けて唸ると、ハッとしたふうに彩華ちゃんは説明を始めた。


「この空間自体が芳澄さんの一部なので、全てが芳澄さん準拠なんです。だから私の視界だって霞むし、視野も欠けて――」


「え――それじゃあ……」

 言って、僕が続きを付け加える前に、彩華ちゃんはコクリと頷いてから「今は、私も芳澄さんと同じです」と、何故か少し嬉しそうに頬を緩めた。

 

 彩華ちゃんはそのまま僕の隣までヨタヨタとやってくると、霧に包まれた景色を一通り見渡した後で、僕へ顔を向けてから「少し、歩きませんか?」と持ちかけた。


「構わないけど、大丈夫?」

 問いかけると、彼女は僕の腕へそっと手を回してから、「大丈夫じゃないので、エスコート、お願いします」と弾んだ声で言う。そして何時もの悪戯な笑みを浮かべて見せた。

 

「はいはい……」

 溜め息混じりに僕が了承すると、彩華ちゃんは笑みを強めながら「あっちです」と、霧の向こうを指さした。

 

 言われたとおり、僕は幾分歩幅を小さく保ちつつ歩みを進めた。特に言葉を交わすわけでも無く、しかしやりにくさを覚えるわけでもなかった。その間、色々と疑問が脳裏へ浮かんだが、彼女へ直接質問する事はしなかった。

 

――時が来れば、お嬢ちゃんからちゃんと説明があるはずだ。それまでの間、追求はしないであげてほしい

 何時か御手洗先生にお願いされた通り、僕はその時が来るまで待つと決めたのだ。それに、今の僕等には、そんな事よりも先に解決しなければならない難題がある。

 

 そこまで思考が行き着いたあたりで、彩華ちゃんの手に、微かに力が込められるのを感じた。直後、重たい沈黙は、彼女の「芳澄さん」という言葉で破られた。


「ん?」

 僕が首を向けると、彩華ちゃんは前を見据えたままに口を開いた。


NR(ニア)、とっても素敵なお話でした。ちぐはぐなストーリー展開が、後半で一本に繋がった時は、思わず声を漏らしました。ロボットアニメのようで、恋愛小説のようで――と思っていたら、全く別の何かで、けれどちゃんとお話としてまとまっていて……。私なんかには、到底真似できません」


 少しの間を持たせて、彼女は僕の袖をギュッと握りながら続けた。


「正直、嫉妬しました。身の程知らずだったんです。ちゃんと勉強して、努力して、前向きに取り組んでいれば、何時かきっと、素敵な物語が書ける物書きになれるって――みんなに評価されるような、素敵な小説家になれるって、そう思ってました。でも、芳澄さんは、あくまで私のペースに合わせてくださってただけで――優しく手を添えてくださってただけで……」


「いや、そんなつもりじゃ――」

 僕が言葉を挟むと、彼女は首を小さく横へ振る。


「もちろん、分かってます。芳澄さんが教えてくださった通り、文章の善し悪しなんて、取るに足らない事なんだっていうのは、分かってるんです。私が下手だからとか、そういうんじゃないって、ちゃんと――ちゃんと分かってんです。でも、だったら尚更分かりません。あんなに大変な思いをして、頭を悩ませて、丁寧に綴ったつもりだったのに、それがダメなら、私は一体どうすれば……」


 同じだ。あの時と――。

 僕は胸裏で思って、薄らと涙を滲ませる彩華ちゃんへ、八年前――物書きを辞める決心をした自分の心境をそっと重ねた。

 

 結局、僕は物語を綴る事を辞めてしまったけれど、その”答え”について考えない日は無かった。どうすれば読んで貰えるのか。どういうふうに書けば、読者に気に入って貰えるのか。考えれば考えるほどに、決まった答えなんて無いように思えてならなかった。冷静に考えれば当然である。そもそも、物語を綴るという創作は、人々が思っているほど簡単ではないのだ。

 

 だから細かい事は抜きにして、彩華ちゃんには文字を書く事をシンプルに楽しんで貰う事に重きを置いた。ダメ出しは極力せず、彼女のやりたい表現のしかたや、書きたい場面を尊重しつつ、それを実現できるような文章を提案してきた。

 

 結果的にそれは上手くいった。LINNNEは僕から見ても、物書きを始めて一年と経たない初心者が書いたとは到底思えない程の完成度だ。偶然に偶然が重なった結果、今のような状態に陥ってしまってはいるものの、所謂”アンチコメント”が付くというのは、それだけ人の感を揺さぶる力が彼女の書く文章に備わっているという証拠である。


 断言しよう。数字や評価ポイントでは、物語の善し悪しは決して量れない。なら、彼女が先へ進む為に何が必要なのか。

 

「それを知ってもらう為に、僕は君にNRを読んで貰うことにしたんだ」

 僕が言うと、彼女の双眸がぐいと此方へ向けられた。

 

「僕等が一番大事にしなきゃいけないのは、読者にとって、その物語が”特別であること”。特別じゃなかったら、わざわざコメントなんて書かないし、評価のボタンを押してさえくれない。下手に硬派な書き口で物事を綴ったって見向きもされないし、凝った比喩表現も、読者の感性にマッチしなきゃ響かない。繰り返し言うけど、文章に上手いとか下手なんて存在しない。物語の善し悪しを決めるのは、読者にとって特別であるかどうかだ」


 僕はそこで一度足を止め、僕の腕へ回った彼女の手を手のひらへ乗せてから、もう片方の手で蓋をするようそっと握った後で、ただ一言、「ありがとう」と伝えた。そして続きを付け加えた。

 

「君が、あのお話に感想をくれた初めての読者だ」


 言った刹那、ハッと何かに気付いたように目を見開いた彩華ちゃんは、握られている自身の手へ視線を落としてから、次に瞼を閉じて「此方こそ」と小さな声で言った。

 

 完結後、アンチコメントが十数件ついた後、ポイントやブックマークもろくに付かず、NRは数多あるネット小説の海へと埋もれていった。

 当時の僕は、世に出回る小説作品のような文体を模していれば、それなりに評価を得られるとばかり考えていた。ただひたすらに文章の質を向上させるべく、我武者羅に文庫本を読み漁ったりもした。読むのは自分ではなく、”読者”であるという、一番大切なことにすら気付けないままに――。

 

 僕はこの授業の締めくくりとして、その昔にLinから貰った有り難い言葉を、詩でも引用するかのように読み上げた。

 

「読者に恋をしなさい」


 再びハッと目を開いた彩華ちゃんは、「読者に……恋を……?」と繰り返した。そうしてゆっくりと瞳に輝きを取り戻しながら、「芳澄さん、もしかして、それって――」と呟く。

 

 LINNEの連載が終わり、ネット小説の投稿という経験を経て、綾瀬彩華は物語を紡ぐ上での大切な”イロハ”を学んできた。結果的には残念な形に終わってしまったが、しかし彼女――七瀬音葉の言うように、全ての経験は良いも悪いも関係なく、全てが相互に繋がっている。

 

 僕が黄斑ジストロフィーを煩っていなければ、恐らくはこの子と出会ってさえいなかっただろう。僕が挫折を味わっていなければ、こうして彼女に大切な事を教えてあげられてはいないだろう。

 涙も笑顔も力に変えて、僕等はようやくスタートラインに立つのだ。限りある命を燃やしながら、目指すべき終着点へ――。

 

 僕は彼女が放つ碧の煌めきに応えるべく、一つ頷いた後で、一言彼女へ言い放った。

 

「書くよ、深界の止揚」


 涙を纏いながら、満開に咲いた華やかな笑顔が眩しかった。

 草木が風にそよいで、微かに音を立てて揺れた気がした。景色が遠くなって、淡くほどけた笑顔が何かを囁く。よく聞き取れなくて、何て言ったのかを訊き返したけれど、その頃には眩い光の向こうへと彼女は溶けていった。

 

 景色が暗くなって、僕は目を閉じる。

 次に瞼を開くと、横向きに寝そべった視界の先で、赤い髪の彼女が此方を覗き込んでいた。僕とは逆さむきに同じく寝転ぶ彼女の瞳は、次ににしゃりと細められて笑顔を作る。

 

「もう一度、私に力を貸してください」


 か細く、掠れた声で言う彼女へ、僕は「もちろん」と二つ返事で答えた。

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