第十二話 『涙のイロハ』
前略、このメッセージへの返信は不要です。
僕なりに、今の君に対して何をしてあげられるかを考えてみたんだ。その結果を、テキストファイルにして添付しておきます。気が向いたら、目を通してもらえると嬉しい。
僕は、この作品を書き上げてすぐに物書きを辞めてしまった。理由については、今の君には説明しなくとも分かって貰えると思う。
この小説は、所謂”公募落ち”作品だ。賞へ応募したものの、結果的には落選。その後、小説投稿サイトへ掲載もしたけれど……。
そこからは、LINNEの現状とほぼ同じだ。
本来であれば、僕は君を鼓舞するべきなのかもしれない。或いは、慰めるべきなのかもしれない。けれど、僕には君の気持ちを分かってあげられても、『それでも頑張れ』とは、口が裂けたって言えない。言える訳が無い。だから、君が自分で道を選ぶのを、僕は待ちます。
もし君が、このまま物書きを辞める道を選んだとしても、僕はその選択を尊重します。
添付ファイル:nr.txt
2168年 11月10日
既読
閉店時間を過ぎた芳香のカウンター席へ座り、僕は今一度、三日前に彩華ちゃんへ送ったメッセージをぼんやりと眺めていた。
淡い暖色の間接照明だけに照らされた店内には、ほんのりと甘いお砂糖の香りと共に、夜更けが連れてきた心細さの滲む暗がりが漂っていた。
僕はスマートフォンの画面を下へスワイプし、もう一度メッセージの最初へと戻ってから、一文字ずつ丁寧に心の中で読み上げる。
もう少し、何か言ってあげられたんじゃないか――などと、余計なお節介を拗らせもしたが、そんな事をしたって、反って逆効果にしかならないだろう。心根の優しい彼女の事だ。僕へ気を遣って、余計に今の自身の状態へ焦りや嫌悪を募らせるだけだ。
彼女にだって分かってるんだ。分かってるからこそ、それがどうして、上手く出来ない――上手く立ち上がれない自分に嫌気が差す。自己嫌悪とは、そういう物だ。
今日はもう帰ろうか……。
そんなふうにポツリと胸中で呟いた僕は、スマホをポケットへしまい、傍らで開いていたノートパソコンをパタンと閉じた。そして根っこの生えたお尻を椅子から引き剥がそうとしつつも、しかし身体へ纏わり付く気怠さに負け、一度諦めてテーブルへ左手で頬杖をつく。
カウンターの向こう側には、同じく間接照明に照らされた様々な雑貨が仄かに輝いて見えた。けれどそれらはふわふわと二重になってぼやけたり、視線を動かせば、時たま瞬間移動したかのように消えたり現れたりもした。
年が三十を過ぎたあたりから、目に疲労が溜まるとこういった状態が長く続くようになった。普段なら――しかしそれでも、綺麗に視認出来る訳ではないのだけれど――、ある程度狙いを定めて、目標となる物体をそれらしく判別する事くらいは出来る。
例えば、信号機なんかが良い例だ。遠く離れていたとしても、少し時間をかけてゆっくりと視野を捜査すれば、自ずと何色に点灯しているのかも見えてくる。
しかし今のような状態では、その”視野捜査”そのものが上手くいかない。こんな状態で夜道を歩くのは危険だ。いくら芳香から自宅が近いとはいえ、無事に辿り着けるのかと問われれば、正直自信は無い。
もう少しだけ――。
思って、僕は再び椅子へ体重を預け、付いた頬杖へどっしりと身を委ねた。
店内は静かだった。キッチンの奥から、音葉さんが洗い物をしているのだろう物音はするものの、それ以外は酷く静的で、時の流れすらもあやふやになる程に停滞している。
刹那、それは唐突にやってきた。僕の後頭部付近から背骨にかけてを、酷く生々しい漠然とした恐怖が駆け抜けたのだ。その恐怖は、次に耳元でこう囁いた。
――いつか、諦めなきゃならない時が来る。君だって分かっていたはずだ。そうだろ?
分かってる。でも……お願いだ。もう少しだけ――。
心の中でそう返事をすると、恐らくは僕の弱い心が生んだその恐怖は、『やれやれ』といったふうに嘆息しながら去っていった。
僕は――僕等は、人間としての生活を満足に行う為の寿命を削って、日々の物事へ取り組んでいる。学生の頃は、この障がいが実は大した物では無いんじゃないのか――などと、ぬか喜びに浸った事もあった。しかし冷静に考えれば、両目の視力を合わせても0.1にすら満たないような僕の目で、健常者と同じような生活を送っていれば、自ずと身体にガタが来る事くらい簡単に想像が付く。ましてや、ただでさえ目を酷使する”物書き”なんて物を続けていれば――。
僕は視線はそのまま、ぼやけた視界へ薄らと文字を並べてみる。
”後どれくらい、僕は僕のままで居られるのだろうか”……と。
そのタイミングは、いつか必ず緩やかに――或いは唐突に訪れる。そして僕は挫折を味わうだろう。悲しみに暮れるだろう。今までは出来ていた事が、”出来なくなってしまった”という事実を突きつけられ、それを飲み込まざるを得なくなった瞬間、僕等は初めて、本当の意味で”死人”となるのだ。
それでも――寿命を縮めると分かっていたとしても、僕等は挑戦する事を辞めはしなかった。毎日のようにPCの画面へ向かい、僕は目へ――彼女は身体へ鞭を打って、ついに一つの物語を完結させるにまで漕ぎ着けた。
人間という生き物は、挑戦する海が広ければ広い程に、それを渡り切った時の達成感を存分に味わえるように出来ている。確かに端から見れば、僕等の航海はちっぽけな物に映るかもしれない。たかがネット小説だ。商業作品でもなければ、何かの賞を受賞した訳でもない。それでも、僕等にとっては宝物同然なのだ。生みの親である彼女からすれば、恐らくはそれ以上の――。
僕は今一度スマートフォンを取り出して、彼女が書き上げた小説――”LINNE”の掲載ページを開いた。作品タイトルの脇には『完結済み』の文字が掲げられ、エピソード欄へは、丁寧に銘打たれたお話の数々がずらりと並んでいる。
評価の値を表す項目へは、初作としては申し分ない程のポイントが寄せられていた。完結を祝福する暖かいコメントも幾つか届いている――が、少しスワイプしていけば、剣呑な内容の書き込みの数々が目に付いた。
――だっさ。文章が臭い。やり直し
――パクリじゃん。おもんな
――もっと勉強してから出直せ
――臭い小説なんて書いてないで、昼間に更新する暇があったら仕事しろ
――学生なんじゃない? 許してやれよ。まぁお話は臭いけど
――キモい。おもんない
この他にも、似たような内容の書き込みが次から次へと顔を出した。
ネット小説の投稿サイトには、完結した作品のみをピックアップして取り上げる機能が存在する。そこへ掲載された作品は、恐らくは連載中の何倍もの読者へ認知される事となり、俗に言う”完結ブースト”状態に入る。
彼女の作品も例に漏れず、完結後に夥しい数の新たな読者から評価が寄せられた。異世界モノという巨大なジャンルに居を構えていた事も影響してか、その勢いは僕等が想像していた何倍にも膨れ上がり、ついにはその週のランキングで一桁代に食い込むまでに至った。
悪目立ちだった。初めて書いた作品が、ましてや評価される事に飢えた書き手の巣窟たる小説投稿サイトで、誰もが羨むような扱いを受けている。誹謗中傷の理由としては、それで充分だったのだろう。大人げないと思われるだろうが、しかし実際にこういう事が日常的に行われているのが物書き界隈だ。僕はこの事を重々承知の上で、彼女を絶望の穴へと突き落としてしまったのだ。その昔に僕が落ちた、底の見えない忌々しい大穴へ――。
スマートフォンを握りしめ、僕は一瞬の気の迷いから、手に持ったそれをテーブルへ叩きつけようとした――が、しかし思い直して、振り上げた腕をだらりと下げ、元あったポケットへスマホをしまった。そんな事をしたって、僕の罪が軽くなったりはしない。始めからやり直せたりはしないのだ。今の現状をしっかりと受け止め、次の手を打つ。僕に出来るのはそれだけだ。
僕が何度目かの溜め息を吐いた頃、意識の隅から、カチャリと食器が触れあう音がした。同時に物腰柔らかな声が背後から伸びてくる。
「はい、どうぞ」
音葉さんの声だった。僕が声へ首を向けると、彼女は黒髪をふわりと揺らしながら科を作って見せた。
差し出された珈琲からは、香ばしい豆の香りと、微かに柑橘系の果物に似た爽やかさが感じられた。僕はカップを見つめつつ、口元へ手を当てながら少し思考を巡らせた後で、「グアテマラ、ですか?」と訊ねた。
「お? 正解。芳澄君も、だいぶ分かってきたね?」
嬉しそうに穏やかな声で言う彼女は、傍らに引き連れたワゴンからもう一つのコーヒーカップを手に取ると、僕の隣の席へと腰掛けてから湯気の立つそれを一口啜る。
「――はぁ、美味し」
そんな彼女の声がカウンターの奥へ吸い込まれた刹那、濃密な静寂が僕の耳へ蓋をするようにへばり付く。しかし、何か話題を振ろうとも思わなかった。時折珈琲を啜っては、その余韻に浸るフリをして、僕等はただただその静けさをやり過ごした。
ここへ通うようになった頃は、音葉さんと二人きりになる事へ、それなりに緊張や照れ臭さを覚えたリもしたが、今ではそういうのも良い意味で薄れてしまった。
思えば、すっかりこの店にも通い慣れてしまったな――と、僕は何とはなしに思った。初めてここへ訪れた日の僕がこの光景を見たら、さぞ腰を抜かして驚く事だろう。今の僕でさえ、これが現実かどうかを疑うくらいなのだから。
もし、これが現実でないのだとしたら、恐らく今の僕は、夢から覚めるほうを真っ先に選ぶだろうけれど……。
そんなふうに思ってしまう自分が嫌だった。どうせなら、この非日常的な毎日を心から楽しんでいたい。それが満足に出来ない僕は、やはり社会不適合者なのだろう。
丁度同じふうに思ったあの夜――1.16インシデントが起こったあの夜も、今日と同じように疲労を抱えながら、自宅への帰路の途方も無さに不安を覚えたっけな……と、僕が記憶の中をゆらゆらと漂っていると、隣の彼女が「ねぇ」と僕へ声をかけた。僕は言葉無しに首を向け、視線だけで返事をする。
音葉さんは続けて、「私さ」と切り出してから、此方へ視線をやりつつ突拍子も無い事をサラリと口ずさんだ。
「……え?」
僕は反応に困って眉を顰めると、彼女はクスクスとおかしそうに笑う。そして同じように繰り返し言った。
「だから、『何もかも全部投げ出して、私と駆け落ちしよ?』って、兄ちゃんに言い寄った事があるの。直接そう言った訳ではないんだけど……まぁ、そんな感じの事を――ね?」
「お兄さんって……えっ、間違ってたら申し訳無いんですけど、彩華ちゃんのお父さん――ですよね? 今、東京に居らっしゃるっていう」
確認を取ると、彼女は「そう、芳澄君も、うちの店に初めて来た時に一度会ってるでしょ? 綾瀬祐杜お兄ちゃん」と、補足説明を入れた上であっさり認めた。
僕が引き続き、どういうふうに反応すればいいのか困っていると、音葉さんは再びカップに口を付けてから、ゆっくりとそれを味わった後、その詳しくをポツポツと話し始めた。
「今は、もう何ともないんだけどね。兄ちゃんは昔、身体に障がいを持ってたの。それも、結構重めのやつ」
僕は驚きのあまり、思わず「えっ――」と言葉を失った。そんな僕に構わず、カウンターの向こうへ遠い目を向けて彼女は続けた。
「でね? 兄ちゃん、学校でもイジメられてたの。ついには休学届まで出して――」
「え――え……?」
僕は更に眉根を寄せ、声を潜めて言う。すると音葉さんも、幾分声に弱々しさを纏わせながら「私ね」と、そこで一度言葉を切ってから、再び珈琲へ口を付けた後で続きを付け加えた。
「自分の事、すっごい責めてたの。毎晩自分の部屋へ隠れて、目が腫れ上がるくらい一人で泣いてた。私が、兄ちゃんから全部奪っちゃったんだ――って。私さえ居なければ、兄ちゃんがあんなに苦しむ事なんてなかったのに――って。私は、昔から何ともなかったし、授業の成績とかも良かったし、魔法だって、人並み以上に扱えたから、余計に――」
言い終わってから、音葉さんは僕へ視線をもどしつつ、沈黙を使って僕に反応を求めた。しかし、僕は一言も声に出せなかった。僕の頭に浮かぶのは、どれも両親の悲しげな顔ばかりだった。父さんも母さんも、決まって僕へ同じような表情を向ける。それは慰めだったり、同情だったり、謝罪だったりがグチャグチャに入り乱れた穏やかな顔だった。その表情こそが、僕が両親から距離を置く理由そのものなのだ。
僕は酷く動揺していた。同じくらい、音葉さんに対して同情の念を募らせた。彼女の口から飛び出した”魔法”という、常軌を逸した単語にすら気付けない程に――。
「でもね? それから何年もした後に、私が兄ちゃんへその話をしたら、兄ちゃんがこんなふうに言ってくれたの。『いい経験も、悪い経験も、程度はどうであれ――数珠みたいに繋がってるんだよ』ってね」
彼女はそこまで話すと、カップに残った珈琲を一気に飲み干してから、一つホッと息を吐いた後でこう締めくくった。
「芳澄君とか、今の彩華の事を、”同じだ”――なんて、一緒くたにする訳じゃない。でも、兄ちゃんが言うように、程度はどうであれ、辛い事も、悲しい事も、逆に嬉しい事とか、楽しい事だって、全部全部繋がってるんだと思う。辛い経験をしてるからこそ、その分、誰かに優しく出来る。悲しんだ分だけ、誰かの事を分かってあげられる。そういうのが全部ごちゃ混ぜになって、芳澄君だったり、彩華だったり、私だったりする。それでいいんだよ。きっと」
「……そうですね。きっと、そうだと思います」
僕は小さくそう呟きながら、此方へ向けられた碧の双眸へほんのり笑みを作る。同じように微笑み返す彼女の細められた瞳は、何時になくキラキラと輝いて見えた。
* * *
――彩華のところまで、夕食を届けてほしいの。お願い出来る?
勢い余って、二つ返事で了承してしまったものの、冷静に考えてみれば、年頃の女の子が住む部屋へ、あろう事か、事前に連絡も無しに訪ねるというのはいかがなものか……。
今更言っても仕方のない事ではあるものの、結局のところ、良い雰囲気に乗せられて、お転婆カフェ店主に一杯食わされた形になってしまった。
重ね重ね不服に思いつつも、僕は夜の街をゆっくりと歩いて目的地へと向かった。
誰もが知る、阿倍野に聳え立つとびきり大きな高層ビル。元は商業施設だったその場所に、彼女――綾瀬彩華の住まう部屋があるとの事だったが、足を踏み入れてみれば、中は僕の想像を遙かに上回る程に立派な物だった。
エレベーターを使って十九階へ上り、音葉さんに教えられた通りにエントランスにて手続きを済ませた僕は、再びエレベーターへ乗って更に上階を目指す。
目的の階が迫るに連れ、彩華ちゃんへの罪悪感が募るも――そこでようやく、先程の芳香で交わした会話の中へ、妙な単語が混ざっていた事に僕は気が付いた。
魔法……?
一体、あれは何だったのだろうか。あまりにも彼女の口から自然に飛び出した異質なその二文字は、エレベーターを降りて彩華ちゃんの部屋の前へ辿り着くまでの間、僕の思考の中心へ居座り続けた。
何かの比喩表現だったのだろうか。それにしては、脈絡を欠いているようにも思える。何方かと言えば、言葉通りの意味として受け取るほうが、何となく自然なように思えてならなかった。しかし――いや、だとしても、ファンタジーの世界でもあるまいし、魔法だなんて……。
とは言え、無意味に考え込んで時間を稼ぐのにも限界があった。こんなところで立ち尽くしていては、もしも他の誰かが近くを通りかかりでもすれば、僕は確実に不審者にでも間違われるだろう。何としてもそれだけは避けなくてはならない。
落ち着け、別に今から疚しい事をする訳ではないのだ。彼女の元へ、温かい食事を届ける。ただそれだけである。自然体でいいのだ。何時も話している時を思い出せ。そうすれば――。
あれ、自然って、どうやるんだっけ……?
頭の周囲を巡回する思考を振り払うように、僕はドアノブへと手をかけた。
ドアはあっけなく空いてしまった。カギはかかっていないとは聞いてはいたものの、あまりのあっけなさに、中へ入ってからも少しの間、僕は一歩たりとも部屋へ踏み入る事が出来なかった。
その声――啜り泣く彼女の声を聞くまでは……。
部屋は暗かった。僕の目では、薄らと家具の輪郭が視認出来るかどうかという程度だ。
どうやら彼女は、この部屋には居ないらしかった。暗がりに慣れ始めた視界を頼りに、なるだけ物音を立てないように注意しつつ部屋を見て回ると、一つのドアの前へと辿り着いた。
固く閉ざされたドアの向こう側から響くは、酷く穏やかで、切なく力のない泣き声だった。
声が響く度、僕の脳裏へ、彩華ちゃんの明るい笑顔が浮かんでは消えていった。
怖かった。今まで生きてきて、これほどにまで途方もない恐怖を覚えたのは初めてだ。このドアをノックし、彼女と顔を合わせて、何時も通りに会話をする――というイメージが、何度やったって綺麗に描けなかった。
僕は料理の入ったバスケットを傍らへ置き、ドアへ背を向けてそっと座った。ドアへ寄りかかると、先程にも増して彼女の声がハッキリと感じられた。
こんなにも悲しみに暮れる彼女へ向けて、僕は一体何をしてあげられるだろうか。
僕はそっと目を閉じ、情けない自分に出来る全てを尽くして、心の中で節に願った。
もし、この世界に神様なんてものが存在するのなら、僕の細やかな願いをきいてほしい。
今夜だけでいいんだ。このちっぽけな部屋に響く小さな涙を、優しく拭ってあげてはくれないだろうか。
充分頑張ったじゃないか。十分苦しんだじゃないか。なんなら、代わりに僕が対価を払ったっていい。それで彼女の努力が報われるのなら、僕は何だってする。
決して多くは望まない。幸福である必要なんてないんだ。だから――頼む、お願いだから、このドアの向こう側に居る彼女の涙くらい、優しく拭ってあげてはくれないだろうか。
「お願いだ……」
小さくそう漏らした瞬間、ガチャリッと大きな音がしたと思えば、背中から突然硬いドアの感覚が消え、景色がグルリと回る。
「え――ちょ……!」
僕は声が上げながら、勢いよく背後へと倒れ込んだ。
次に視界が安定した時、眼前にあったのは、僕の頭上側から僕の顔を覗き込む彩華ちゃんの泣き顔だった。涙に濡れた碧の瞳からは、ポツリポツリと僕の顔へ柔らかい雫が落ちてくる。次にその顔はそっと此方へと降りてきて、僕の額へ彼女の額がそっと重なった。
言葉は必要なかった。彼女は静かに涙を流し、僕は彼女の頭をそっと撫でた。今の僕等には、それだけで充分だった。
やっぱり、神様なんて当てに出来ないな……。
そう思い直しながら、遠くなる意識に身を任せ、僕は再びそっと目を閉じた。
次回更新予定:8/14(木) 21:00




