ネコと車椅子
あなたの日常は、自分自身で造り上げたものですか。
「おはよう」に始まり「ただいま」で家庭に還る毎日に、納得し人生の軸足を置いていますか。
平穏な日常生活は、事故や病気による障害にて一瞬にして姿が変わります。
介護なくしては生きれない障害は、身体からはじまり家族に仕事に、そして経済面にも及びます。
「当たり前に」「何気なく過ごす」「普通」の日は、保証されておらず脆いものです。
明日も続くはずの暮らしが激しく揺り動かされ、苦悩で家庭が支配される日々が続きます。
そして時間と共に、それぞれに苦悩を抱えた家族の将来にも容赦なく障害が及びます。
時を振り返っても豹変した生活には、後悔も自省も祈りも、やり直しがきく術には成りません。
いかにして、今この時を紡いでいくかの日々が日常と成ります。
なぜ私、なぜ我が家にと、理不尽を胸に、歳月の積み重ねが二つ目の人生の日常が形造られていきます。
不条理には因果はなく、いつどこにでも起きうる気持ちを持つことが自分自身を支える糧です。
禍福は紙ひとえで、とらえ方次第でどちらにも変わります。
本書にて、意思に関係なく突然にすべてが変わってしまった今日明日を、日常の本質にする一助と成れば幸甚です。
第一章 気づいたら一家の主
第二章 吹き飛んだ四十歳の不惑
第三章 無知の人生らせん階段
第四章 干天の慈雨の後に
第五章 抱くものと背負うもの
第六章 あ・うんのミッション
第七章 原風景におかえり
第一章 気づいたら一家の主
オレの名前は「茶太郎」らしい。ウチの皆が、そう呼ぶ。
「こらあ!チャタ!」「チャーぼう、ごはん!」「チャーちゃん、おいで」
などなど適当に呼び名を変えて、大声、小声、なで声で話しかけてくる。
尻尾に茶色の縞模様が付いている。茶トラネコと言われるけど、オレは「ネコ」たるものは見たことがない。
まったくもって解らないことを家の連中は言うから困ったものだ。
家の皆はオレの体の十倍以上デカいが尻尾がない。彼女たちの声と話は解かるが、どうもオレの言っていることは一割ぐらいしか解らないようだ。
体は小さいが、やはりオレ様の方が頭良いのだ。
オレの部屋は玄関を入って、スキージャンプ台のような急勾配で直線の階段を、一気に上がって右に在る。
部屋には二つ窓が有り、ひとつは隣の家との間、もうひとつは道路側に有る。
隣家側の窓からは道路が眼下に見えて、誰がウチに来たかが判る。
オレは、ここの窓辺に座って行き交う人とウチに来る人を見張っている。
道路に面した窓からは、家の向こう側に一両編成の赤い電車が通っているのが見える。
春には田んぼの向こうの小高い丘に桜並木が眺められる。
この窓辺に座ってよくボーっとしている。
桜が満開の春、オヤジが車椅子を押してもらって花見に出かけるのも、オレはここから見て知っている。
窓の向こう側にスズメ君がよく遊びに来るし、突然目の前をカラスくんが横切って行く。
うたた寝の邪魔をされるが、オレはこちらの窓が好きだ。
ここ西三河地方の豊田市は、夏は体温を上回るほど暑くなり、冬は隣の名古屋市と豊橋市より三度位は低く寒い。北に隣接する岐阜県多治見市が暑さ日本一と有名に成っているが、豊田市はいつも多治見より一℃位低いため、暑いところとは知られていない。
暑さにも寒さにも弱く、病気に成りやすいオヤジは、オレの部屋に来てテレビで天気予報を見ては、ブツブツと文句を何度聞いたことか。
オレが何とかできることじゃないのに、とかくボヤキが多いのだ。
オレの部屋にはエアコンもコタツが有るから、まあまあ快適だ。
テレビもカウチも、そして空気清浄機とやらも有る。
去年の夏に成る前頃、オヤジがおかしなモノを持ってきてガチャガチャやっていた。
「アレクサ!エアコンつけて!」
「よし、ベッド上からでも、このアレクサから茶太郎の様子も見えるし、エアコンの操作も出来るようになったゾ」
オヤジがワケ分からんこと言っていた次の日から、アレクサというモノの画面にオヤジの顔が映り、オレに話しかけてくる様に成った。
勝手に部屋を覗いて、プライバシーも有ったものじゃない。
また、エアコンも勝手に動きだしたりもする。まあ、暑くてだるい時に、自然とエアコンが動き涼しく成る。快適さが増したから文句は言わないことにした。
下階の南側の大部屋の庭バルコニーに面したベッドには、いつもオヤジが寝ている。
オヤジはいつも寝ている。オレは十八時間くらい寝るが、オヤジはもっと寝ている。
手脚が動かなく、ゴロンと寝返りもできないが、首は横向けができて
「茶太郎!」「茶太郎」とオレをよく呼んでいる。
我が家は人の出入りが多く、朝、昼、夕、夜と決まった時間に女の人がやって来る。
オヤジはヘルパーさん(訪問介護士)と呼んでいて、オレのご飯を用意したり、トイレや部屋の掃除をしたり、オヤジのご飯も作ったりしてくれる。
ヘルパーさんは、毎日、毎時間来る人も違っていて、ひと月に二十人以上入れ代わり立ち代わる。とにかくウチの家族は大人数だ。
更に白い服を着た(訪問)看護婦さんや、オヤジが「センセイ」と呼んでいるお医者さん、リハビリテーション、針灸整体のオジサンもよく来ている。
「おはようございます!」
朝八時には最初のヘルパーさんが来る。
今は十二月と朝の冷え込みが寒い。家中のカーテンを全部開けて、もっとコタツの中に居たいオレを「茶太郎!」と大声で呼び出す。
しぶしぶ起きて一階の大部屋に行くと、オヤジも電動ベッドの背もたれを起こして座って、朝食を食べている。
「茶太郎!いい天気だ、日向ぼっこできるぞ!」
と庭を目で指している。ベランダに出るとまだ空気は冷たいが、おてんとうさまが当たり眩しくも温かく気持ち良い。
ベランダのタイル床にはネコ草のプランターが置いてある。柔らかい部分のネコ草食べて、ついでにプランターの中に入り小便してやるのが毎朝のオレの日課だ。
ベランダにはいろいろな花や草、野菜などのプランターが置いて有る。
匂いが様々で花の色も季節の度に変わっている。
よその奴が来たかどうか、鼻を上に向けてチェックするのだが、花の香りが強くて、判らない時がある。取り敢えず所かまわず頬をこすりつけて、オレの匂いを付けておくのだ。
野菜やシソの葉や種には、多勢のスズメが集まって食べちゃっている。そこにヒヨドリが横取りに乱入して来る。
ベランダの外側には桜の木や、キンモクセイなど季節ごとに香りや色が異なっている。
たまに、オヤジが車椅子に乗ってベランダに出て来て花や樹をチェックしている。
オヤジがヘルパーさんに花のことを訊いている。
だからオレは、花の名前を憶えてしまっているが、オヤジはすぐに忘れてしまう。
毎年同じことを訊いている。まったくモノ覚えが悪いオヤジだ。
オレは専用の縁台に座り、トカゲくんやチョウチョ、マル虫、イモ虫が這い上がってくる。昔、カマキリにちょっかいをかけたら、奴は真剣にカマを振り上げてオレ様の鼻の頭を切りつけやがった。けっこう痛かったので、あれ以来は、虫くんや鳥さんたちには手を出さないことにした。見ているだけにしたら、奴らはオレの足許をノウノウと横切ったりしている。
同じ時間を、同じ空間でオレと一緒に今の季節を味わっているから、仲間にしてやっている。
「茶太郎、ぼちぼち入って来て、ご飯を食べろヨ!」
家の中からオヤジが叫んでいる。ホントにいちいちウザイオヤジだ。
でも、そんな庭で二時間位ひなたぼっこしているひと時が、オレのお気に入りのひと時だ。
◆
昼間はオレの貴重な昼寝時間。
下の部屋からは大音量でビートルズやデビッド・ボウイなどの楽曲が聞こえる。
飽きもせず毎日と云っていいほど同じロックを流し、知らぬ間にオレもビートルズが子守歌になってしまった。
オレのお気に入りの曲は、ポール・マッカ―トニーが歌っているGolden Slumberだ。
「黄金のうたた寝」という意味だとオヤジが教えてくれた。ある日、オヤジが楽曲の歌詞を噛みしめて、仏壇の前で涙目に成っているのを見てしまったことがある。
昼寝と云ってもゴロゴロしているだけだから、うるさくてもストレスが溜まることはない。
オレは、そんな度量の小さい男ではない。
「茶太郎。オマエは器量が悪いから、噛みついたりしてあかんぞ」
「ヘルパーさんたちに可愛がってもらうようにしろよ!」
何度も同じことを言う。オヤジはまったく口うるさい爺だ。
夕方のヘルパーさんが来たら、おもむろに昼寝を終わる。
部屋を出ると、左側に直滑降の階段が有るので、寝ぼけていると足を踏み外しそうになる。
一階では朝と同じように、オヤジがベッドの上で夕食をしている。オヤジはアグラ座りじゃなく、膝を伸ばして、ベッド用テーブルと背面に挟まれるように座っている。
オレはベッドに飛び乗り、オヤジの脚の間で丸くなってゴロゴロしているのが、これまた何故か心地よいのだ。
どうせオヤジは蹴ることもできず、動かないから安心で爪を立てても痛がらない。
夜、寝る時もオヤジの脚の間や、掛布団が凹んでいる脚のあいだあたりで寝るのが良質な睡眠が摂れる。
腹の上に乗っても、太ももの隙間に体をこじ入れて眠りやすい体勢にしても、全然怒らず文句ひとつ言わない。
この点はオレより度量が大きいのかもしれない。
オヤジは、いつも上を向いて寝ている、というか、仰向けでしか寝られないようだ。
オレは、腹の上で爪を研ぎ、足の指を噛み、あごの運動などやりたい放題できる。
ヘルパーさんたちは、膝の上に載っている時に爪を立てるだけで、すぐ叫び怒る。
オヤジは文句ひとつ言わないから、一緒に寝るのが大好きだ。
ある日、看護婦さんが来た時、オヤジの熱が三八度近く有り、身体をチェックしていた際、 「えー!なにこれ!」 「おなかも、スネもひっかき傷だらけで、赤く腫れあがっている!」 その直後、 「茶太郎!あんたがコレやったね!」 「お父さんは、痛みが分からないから噛んだり引っかいたりしては、絶対にダメ!」 えらい剣幕でオレは怒られたことがある。
この日からオヤジと寝るのは禁止されてしまった。
夜間は別居、オレは二階の大部屋で寝ることにされ、しかも、階段につながる廊下への扉には鍵をかけられてしまった。
「監禁だ!虐待だ!」
夜のヘルパーさんが帰る際に二階に追いやられ、大部屋に閉じ込められる。
翌朝八時にヘルパーさんが来たら、鍵を開けてくれる。超苦痛の約十時間だ。
といっても、二階大部屋はエアコンもソファーもコタツも有り、ベランダにもつながっている二十畳ほどの広さだから、走り回れ、寝食には困らない。
しかし、オレはイヤで嫌でたまらなく、朝になるまでの時間がメチャクチャ長く感じる。
「オレはオヤジのそばが良いのだ!」
「オレはなぜか、無性にオヤジが気になる、心配でもある」
「オレは、オヤジを護らなくちゃならんのだ!」
と、訴え続けたら約一年後に、地獄の監禁からは解放された。
夜間はオヤジの腹の上に乗れないように、ベッドの上にオーバーテーブルが設置された。
オヤジのベッドに乗ると、即刻ド叱られるようになったが、まあ、そばに自由に来られるから、夜間のオレのストレスは無くなった。
撫でてもくれず、遊んでもくれず、ご飯もくれず、トイレの掃除も何もしてくれないくせに、口うるさいオヤジ。
年に一度くらいは救急車で運ばれ、四~五日間居なくなり、ヘルパーさんも来なくなる。
その間はオレがこの家を護っている。
毎晩、オヤジがまた連れていかれるか心配で、いるか否かにチェックせずには居られない。
つまり、オレが家もオヤジも、しっかりと護る必要がある。
ギーコ、ギーコ、ゴツン
「あっ!やばい、曲がり切れなかった」
ギーコ、ギーコ・・・
日暮れ頃に成ると、オヤジが車椅子でやって来る。下からくるだけなのに時間がかかる。
特に大した用事もないのに、オレの部屋にやって来てはアレコレ話しかけてくる。
「茶太郎!いるかっ?寒くないか?朝ごはんが全然食べてないから下りてこいヨ」
オヤジの方こそ、あぶなかしい。まあオレがオヤジのそばに居てやるから、安心しなって!
何故か、うんと昔からオヤジのことを心配している気がする。
「オレが、この家もオヤジも護るのだ!」
「オレがこの家の主だから!」
年月が経つにつれ、生まれた時からミッションの自覚が強くなる茶太郎である。
第二章 吹き飛んだ四十歳の不惑
ピッー! けたたましい審判のホイッスルが体育館に響いた。
「三十九番! ファール! プッシング!」
「あっ!お父さん!」
「バカ!健太! スコアラー席に向かって手を挙げろ!」
今日は岐阜県可児市立小学校スポーツ少年団、年に一度の小学校対抗公式試合。
三八歳の加藤千幸は毎週日曜日、住んでいる桜が丘団地の高学年小学生にバスケットボールのコーチをしている。
千幸の息子、小学4年生の加藤健太は、桜が丘Bチームでポジションはトップガード。
4年生から入団でき、Aチームつまり1軍は6年生と、優れた4~5年生から選ばれた者から構成されている。
コーチはボランティアだが、子供相手にガキ大将の如く叫び走り回っているのは気持が良い。
また、社会的地位は全く関係がない同じ団地に住む父親で、純粋にスポーツ好き、子供好きなコーチ仲間とワイワイと一緒に気持ちの良い汗をかく。
これで仕事ストレスをブラッシュアップでき、活力アップできる。
そして翌日からの週始めの気合を仕切り直せる。
今日のような公式試合時には各学区のコーチたちが全試合の審判をすることと成っている。小学生相手といえども、コートサイズは二八m×十五m。百点ゴールゲームなどされた場合は、二十八mを五十往復、単純計算で一試合一四〇〇mは全力疾走していることになる。
これを十試合程度、軽く十四㎞をホイッスル口に走り回るおかげで、体重は落ち、夕食が美味く食べられ、エクスタシーの疲れを味わえる。
桜が丘の自宅は百坪の敷地に建つ築二〇年の戸建て。2階建て4LDKで15畳のリビングは、洒落た山小屋風の吹き抜けスタイルの借家。
会社の借り上げ社宅であるため、二万円/月の廉価で住んでいる。
名古屋へJRで五十分の通勤圏の戸建て数千件の団地だ。小・中学校、スーパーマーケットも医療・歯科クリニックも有り、団地内で教育、医療、買い物など日常生活には困らない。
住宅内道路からは、団地内のバス道路には三叉路で交わるように造られており、信号は全くない。各住宅の道路との境はブロック塀などなく、石垣に低木樹の植え込みのみと景観設計にも配慮されており、住み心地は申し分ない。
千幸の妻、富美子と息子の健太との3人暮らしでは、全部屋は使いきれない余裕の間取り。五〇坪位の家屋は南側に全室向いており、日当たり充分なのだが、ここ東濃地方の冬は寒く、吹き抜けの居間では暖房が効きにくいのが難である。
暮し面での余裕なのか、ここ桜が丘の街ではペットと暮らす家庭が多い。
また、外ネコ、街ネコが多い。
我が家の庭でも、様々のネコ一家が季節のたびに住み変わっている。
吹き抜けのリビングの掃き出し窓に氷が張る寒さも緩んで、三寒四温の季節替わりの五月のこと。
あまたの外家族ネコたちにキャットフードをあげているうちに、一匹のキジトラネコがニャアニャアと催促していると思っていたら、ピョンと部屋の中に入って来てしまった。撫でてもオナカを見せてゴロゴロと喉を鳴らし、しばらくすると無警戒で真剣に熟睡してしまっている。
近所の飼いネコかと思っていたが、コタツの中で寝泊まりするようになった。どうもオナカに子供を宿している様だ。
「この家で子供を産ませてちょうだい」
このネコが家に図々しく寝泊まりする魂胆が判ってきた。 ネコを飼うつもりではなかったので、可哀想だが我が家での寝泊まりは禁止として夜には庭に出て行ってもらった。
「ニャアニャア、ニャアニャア」
トラちゃん(適当に名前をつけていた)は部屋に入りたがる夜が続き、富美子も健太も心が締め付けられる日々が過ぎた。
街樹の桜もそろそろ葉桜が目立ち、入れ替わるように花水木の花が咲き始めて来た、五月。
数週間後の冷たい雨の日、トラちゃんの声に混じって子猫の合唱が庭の松の木の下から聞こえるではないか。
「近所に体裁悪いから、あんたチョット見て来てヨ!」
千幸は富美子に促されて、そっと松の木の根元を覗いてみた。
雨でビチャビチャなトラちゃんが、四匹の赤ちゃんトラネコに雨がかからない格好で母乳をあげているではないか。
早速、5匹を抱き家の中に連れて来た。
トラちゃんは瞬きをパチパチと千幸の顔を見て、 「ありがとう」と嬉しそう。
身重の彼女を家から閉め出した非情な人間は、この加藤千幸なのに。
「ネコは嬉しいこと、楽しいことしか覚えていない。恨んだりすることはないようだ」 そう思うと、また心が痛む想いがした。
子供は4匹ともトラ模様だ。茶トラ2匹とキジトラと黒トラ。
トラちゃんはキジトラだから、父親はきっとあの茶トラネコだろうと心当たりは有った。
庭で居座っていた警戒心の強い三毛ネコの、最初の彼氏の子供に茶トラ(勝手にチャトラと呼んでいた)が居たから、アイツが父親だろうと。
ミケ(庭に定住している三毛ネコを勝手にそう呼んでいた)はモテキでチャトラを産んだのち、別の二人の男の子供を産んでいて、一時期は庭中じゅうミケ一族でネコだらけに成った。
子供たちは各々、町内の外ネコとしてたくましくも自由に人生?を築いていったようだ。
ミケの父親違いのネコがあまた居る庭では、トラちゃん一人で4人の赤ちゃんを護り育むのは無理なのは明白だ。
この思いには、トラちゃんとひととき一緒に暮らした、富美子も健太も異論なかった。
トラちゃんの子は「プチ」「コトラ」「クロ」「チャチビ」と、これまた適当に名前を付けられて、加藤家の家族と成った。
3か月ほど子育てがてらウチのネコの暮らしを堪能したトラちゃんは、次の恋の季節らしく「この子たちをお願いします」
若いトラちゃんもモテキを謳歌しているのか、新しい男と旅立って行ってしまった。
ウチのネコとしてこの家で、この庭で育っていく「プチ」「コトラ」「クロ」「チャチビ」。
トラネコ4匹は家中を縦に横に走り回っている。一つの玉に成って取っ組み合い遊んでいる。
四本足でトランポリンみたいにジャンプしているかと思ったら、突然スイッチが入ってパカラッパカラッと馬のように走り回っている。
暴れ回ったらキャットフードを食べて、貯金箱のように4匹並んでいる。
手先をペロペロと十回以上舐めまわしたと思ったら、チョイと顔を撫でている。
トラちゃんに顔の洗い方を教えてもらったのだろう。
この先、壮絶な運命、いや宿命というか天命が待ち受けているとは知る余地もない。
富美子と健太と加藤千幸と共に、稀有で不穏な物語を歩むことと成る。
◆
時代は「二四時間闘えますか!」のバブル経済絶頂期。
千幸も企業戦士、今朝は空が白けるまで自宅の居間で仕事をこなし、三時間ほど熟睡。
こんな家での毎晩デスクワークの日々では、ストレスばかりか腹回りの皮下脂肪も増え、メタボ体型一筋と成る。だから、寝不足であろうと朝食前の団地周りのジョギングとバスケットボールコーチは、フィジカル面で必要であり、また楽しみでもある。
会社では会議やら来客やらで、本業務の新商品開発の企画や構想が練れず、自宅にアタッシュケース満杯の書類を持ち込み、毎日このような仕事に埋没の日々。
コンプライアンス云々が厳しい今なら、会社の書類やノートパソコンを自宅に持ち込むのは、機密保持上タブーなのだろう。
富美子と健太は夕食後に風呂に入り、だいたい夜十時頃には二階の寝室に上がっていく。
コトラは富美子の布団の中で寝るのが大好きらしく、寝る時間に成ると真っ先に階段をダッシュで駆け上がっていく。
妻子が寝たら、居間のコタツテーブルは千幸の自宅残業机と成る。
仕事に取り掛かると、必ず茶トラネコのプチが千幸の横に座り、顔を見るだけで「ゴロゴロ」と喜び目を細めている。頭やアゴの下を撫でようものなら、コロンと仰向けに成り白い喉から腹まで撫でろ、撫でろと催促して来る。
プチと遊んで居ると30分ほどが即刻過ぎてしまい、仕事に成らないので足でコロコロとプチを転がして相手してやりながら仕事に取り組んでいる。
2時間弱でプチは千幸の脚を枕にして寝てしまう。
コトラは富美子を、プチは千幸を、暴れん坊のクロは健太が好きなようである。
イタズラ盛りのトラネコ四兄弟のうちチャチビは、綺麗な茶トラ柄で目鼻パッチリの男前であったためか、ネコ大歓迎の桜が丘の住民のよその家ネコになっていた。
昨年、千幸は東京に単身赴任していた。
今以上に寸暇を惜しんで仕事と通勤ラッシュの企業戦士であった。
桜が丘の自宅に戻れれば、家族とネコたちとの時間も持ち、心穏やかな夕食や休日を過ごせる、と夢見した東京生活であった。
しかし時代はバブル超好景気、日経平均株価は四万円近くまで高騰。
こんな時代に企業は攻めの一手で、新規事業、事業拡大、新規商品開発など事業計画には右肩上がりのグラフ満載で、消極的な護りのニュアンスは禁句である。
春の移動で、孤独と激務の単身赴任は終わったが、昇進して戻って来た千幸を待っていたのは、激務の頭に「超」が付いていた。
週の半分近くは出張、出張中に累積された業務に加え予算と労務管理などなど。
バブル景気は終焉を迎える様相がメディアでも叫びはじめ、右肩上がり業績は方向転換を強いられてきた。開発業務も、それに対処すべき更なる競合他社との差別化、イノベーションを求められ、従来通りの開発業務では許されなくなっていた。
家庭団らんなどの淡い期待もバブルの如くはじけ、帰宅後も毎晩の自宅深夜残業。
単身赴任時よりも物理的仕事量もメンタル負荷、ストレスは倍増した日々が待ち受けていた。
しかし千幸は、激務超多忙で心身アップアップの様相は他人に見せたくない虚勢主義派であり、身だしなみは崩さず、午後七時には 「お先に失礼~♪」 と帰宅するスマートスタイルに努めた。
自宅残業でヒイヒイと満身創痍の姿は社内では見せたくない。
しかし実際は目の充血やら、持病の喘息持ちの咳込みでバレバレであったのだろう。
桜が丘の子供たちのバスケットボールコーチは、喘息予防と気持ちの百八十度切り替えによるリフレッシュを兼ね、学生時の経験を活かし小学生相手のバスケットボールコーチで毎週日曜日は思いっきり良き汗をかきストレスをリセット。
また、息子の健太には走投跳の基本的運動能力を人並み以上に付けたい思いが強かった。
また、「負けて悔しい!」という競争魂を心身に染み込ませたいのが、千幸の親心でもあり、心底の願いである。
クヤシイ想いをするたびに自身を鍛え、更に強くなる。
父親たる千幸は「健太のスーパーサイア人計画」と称して自分の信念の一つとしていた。
◆
1996年夏。みごとにバブルははじけ、「ハゲタカ・ファンド」や銀行の「貸しはがし」などの文言がメディアでは飛び交っている。
地価、企業株式時価総額を担保にして融資を受けていた会社は、資金のやり繰りに奔走の日本経済状況。
加藤千幸が勤める住設機器メーカーも、建築需要の激減にて売り上げは逆Ⅴ字状態。
好景気時は、問屋や販売代理店をインセンティブにて囲い込み、施工業者に製品を流通すれば、利益は確保できていた。
しかし、トイレやキッチンの水回り機器、外壁や内装タイル商品指定の決定者は、市場流通業者ではない。
オフィスビルや商業施設などは建築設計者または建築発注オーナー。戸建て住宅なら施主、つまり個人発注者である。
そして仕様の決定者は、家庭の主人ではなく最も長い時間家に居て、使い勝手や暮し易さニーズを握っている主婦である。
夫婦でショールームに来訪して、商品タイプやカラーコーディネート、使い勝手の質問はほとんど主婦であり、決定権も主婦にある。
男たる主人は、予算を気にするだけで口出しはしないのが実態ある。
「決めるのは妻子であり、男は金を出し口出しするな」
商品を訴求すべきターゲットは、市場中間流通業者ではなく、商品を決定する建築設計者とオーナーや主婦層である。
したがって、各業界も中間業者を極力簡素化し、納期短縮と利益確保に努めた。
メーカーと消費者・顧客の近接化によるマーケットの直接把握と生活提案商品など、いわゆる流通革命の走りが始まった。
千幸の勤める会社の戦略も、顧客マーケットの「選択と集中」方針を余儀なくされていった。
千幸は外装・内装タイルを主とした、建築設計者が仕様を施主に提案する商品の開発部門に所属していた。
仕事内容も単に他社との差別化や利益改善できる新商品を開発から、購入決定者への訴求方法開発にシフトが主と成った。
CGを駆使して設計図面に製品を落とし込んで、建築完成時に周囲の街並みに照らし、どのような建築物と成るか。朝から夕の太陽の当たり方にて、舗道から見上げたイメージ、離れた場所からのイメージや周囲との調和感など、タイル製品仕様をバーチャル体験できるプレゼンテーションツールの開発。
また、設計しているビル内空間でのエントランス舗道建材商品、床タイル商品と壁面建材とのデザインコーディネートのCG提案。
戸建て住宅向けの商品は消費者から受注した工務店・ハウスメーカーが、建築の際に専門施工職人を必要としない建材商品の開発。
たとえば、タイル職人でなくとも外装タイルを施工でき、人件費コストダウンできるタイルシステム商品を工務店に提案する新規商品の開発。
このような業務発想の変革に各業界とも迫られ、変革が出来ない企業は他社に合併吸収または倒産の負け組となる。負け組の子会社や製品納入業者などは、資金繰り出来なく連鎖倒産がオイルショック時代より多くなっていた。
この様な悲惨なサバイバル経済状況を目の当たりにして、千幸はひとつの会社の自分への考えに気づいた。
「三年前の突然の東京への単身赴任辞令は、バブル景気の終焉への事業部方針として開発部門の技術者である私を、東京しかも全く畑違いの営業本部に送り込んだのだ。そして、二年も経たず開発部門に戻したのだ」
顧客、建築設計者や消費者に近い営業戦略を担う営業本部で少々マーケット戦略をかじった千幸は、バブル崩壊時の流通革命に伴う商品開発+業務開発が任務と成った。
業務開発とは、新たに建築設計者や住宅会社の商品開発者、工務店が住宅発注施主など顧客キーマンに、営業マンが単なる販売でなく提案、商品技術プレゼンテーションができる「場」の構築が彼へのミッションでもあったのだ。
これが、「単身赴任から戻れば、家族と夕食も休日も・・・」という淡い期待は木端微塵に吹き飛んだ事由であった。
◆
1996年8月15日。今日は、一昨年前の秋に亡くなった千幸の母親の三回忌を、豊田市の兄貴の家で行うことと成っていた。
しかし、40歳に成っても何が最も重要かが分らぬ千幸は、盆休み間中は母親の三回忌をないがしろにして、妻の実家である三重県との境にある愛知県弥富市に家族とプチとコトラ連れて遊びに行くこととした。
弥富に出かける際、何故かクロは一人で外に遊びに行って帰っていなかった。
プチとコトラはキャリーバッグに素直に入り、車に乗り込んでもらったが、エンジンをかけるなり、思いがけぬことが起こった。
オットリ性格でいつもはお利口なプチが、車の中で大暴れ始めて、ネコが本気で威嚇するとき発する「ケモノ臭」を発し「止まれー!」「行ってはダメだー!」と言わんばかりの叫びだ。初めて見るプチの断末魔のような異常な泣き叫び。
後に思えば、アレはプチの動物的本能、猫特有の大凶の予感から来る、アラームだったのだ。
加藤千幸はお盆休み明けの月曜日に必要な、事業部会用のプレゼン資料作成に追い詰められていた。妻の実家の居間で、おもむろにパソコンを開き、頭は完全に仕事モードに戻し関係資料を広げて資料作成にかかっていた。
隣の部屋では、健太と従姉がスーパーファミコンに朝から没頭している。
「こんな良き天気の日は、バスケットボールなり外で遊べ!」
悶々としながら仕事に集中していたが、悶々の堪忍袋の緒が切れてしまった。
「よっしゃ!プールに連れて行ってやる!」
車で10分ほどに在る「B&G25m屋内プール」に行った。四季を通じて利用できるB&Gプールは弥富市に来るたびにしばしば行き、自分の運動がてら健太の水泳訓練を兼ねていた。
普段からハンデーを与えて水泳の競争などをしていた。
健太は後方から追ってくる加藤千幸に追いつかれると、羽交い締めされ、沈められるので、真剣に全力で泳ぎ急いでプールサイドに這い上がり逃げるのだ。
「今日は飛び込みを教えたる」
顔や頭から水中に飛び込めず、水面には足からしか着水できない、息子健太に、歯がゆい思いをしていた。
プールサイドから手を伸ばして倒れ込むように顔頭から着水する、簡単な飛び込み姿勢の見本を見せるのだが、恐怖心からか、倒れ込む途中で足が出てしまう。
一度できれば「こんな簡単なことか!」と簡単に会得できるはずなのだが。
何度トライしても、顔や頭から着水する怖さは取り除くことが出来ないようだ。
ここで「父親の凄さを自慢がてらみせてやろう」とバカな邪心が出てしまった。
エンドサイドの少し段差で高いスタートセット台から、思いっきり上にジャンプして落差のある飛び込みをやってみせた。
水深1.2mでは自分の身長より0.5mほど浅いため、水底でオデコをぶつけてしまった。
ここで止めておけばよいものの、元来の無鉄砲性格とバスケットボールで鍛錬している運動神経に過信してしまい、「惑わず」2度目の見本自慢にトライしてしまった。
「今度は水中に入ったらイルカのように水中で頭を水面方向に身体をしなってやる!」
再度、高く上にジャンプしたら、ほぼ垂直に着水してしまった。
水底に刺さるように、頭頂部を全体重がかかりぶつけてしまった。
気が付いたら仰向けの状態で水面に浮いていた。しかし手足が全く動かない。
健太が不思議そうな顔して父親を見ている。
また「お父さんのことだから、溺れた真似をして、傍に行ったら羽交い締めで沈ませる魂胆じゃないか?」と、顔に出ていた。
「健太!係員を呼んで来い・・・」と言ったきり、プール底に沈んでいった。
監視員二人がプールサイドに千幸を運び寝かせた時、経験したことがない異様さに気づいた。
自分の身体の横に「ドタッ」と音がしたので見たら、自分の腕ではないか。
首から下の身体が全く動かない! 感覚が全くない!
救急車で搬送されている時、救急隊員が病院と交信している
「首の骨、骨折のもようで顔から下全身が麻痺している」と聞こえる。
何が起きているのか分らず、興奮しているため痛みはなく、
ただ、ただ、「惑う」四〇歳の加藤千幸であった。
第三章 無知の人生らせん階段
搬送された南海病院では、連絡を受けた富美子と義父母が待っていた。 加藤千幸は尋常ではない大怪我をしたのは感じており、ストレッチャーの上からうろたえる富美子の顔を見て、 「ごめん、フミ、ごめん、やっちまった・・・」
潤み声を発するのが精いっぱいであった。
「喋れるの!」「わたしが悪いのヨ!ごめんなさい、ごめんなさい」
富美子は泣きじゃくって、ストレッチャーに連いて来ていた。
CT、MRIなど一連の検査を終え、病室に運ばれて間もなく、担当医から説明を受けた。
「頸椎(首の骨)の圧迫骨折で、頸髄(脳から体への中枢神経)のC4とC5番部位が潰れており、
首から下部の身体は完全麻痺状態です。C4頸髄の損傷状況により自発呼吸できなく成れば、気管支切開し人工呼吸器を装着します。今夜がそのヤマでしょう」
「・・・・・・・・」
身体を支えている背骨の中には感覚や運動を司る「脊髄」という中枢神経が通っている。この脊髄がダメージを受け、様々な症状が生じる後遺症のことを脊髄損傷と言う。
背骨は首からお尻まで繋がっており、その中に脳からの信号を全身に伝える中枢神経が有り、首の部位を「頸髄」、背中部を「胸髄」、腰部から「尾骶骨」までの「腰髄」「仙髄」に分かれている。
それぞれの脊髄のどのレベルがダメージを受けたかで、脊髄損傷の障害重症度が決まる。
千幸が損傷した首部位の頸髄は、8つの部位から成り、脳に繋がっている最上部がC1とされ首の最下部意をC8と呼ばれている。
頸髄(C1~C8)からは主に上肢の運動・感覚、呼吸する運動に関わる神経が分岐している。
障害を受けた部位より下へ脳からの指令が伝わらなくなり、また下からの信号が脳へ伝わらなくなる。
そのため運動麻痺、感覚障害、排尿障害、排便障害、呼吸機能や体温調節障害などのさまざまな障害が生じる。
しかし当の千幸は、医療とは全く異なった業界のワーカーホリックだ。
医師が言う医療専門用語への理解が、曖昧かつ脊髄損傷については「背骨骨折の重傷」程度の見識である。
楽観的に「首の骨の骨折か」と腕脚の骨折の重い程度と捉えていた。
「南海病院では頸髄圧迫損傷が出来る専門医師は居ないため、2週間後に名古屋大学医学部附属病院から来る専門医師に手術治療をする予定とします。損傷頸髄部のMRI画像が真っ白でしたので、麻痺などの後遺症が残る可能性が有ります」
と、担当医師から更なる説明を受けた際も、千幸はドラゴンボールの見過ぎか、全く根拠なく 「オレに限って後遺症なんぞは在り得ないはずだ!現代医学の手術をすれば、あとは悪運強き根性のリハビリテーションで治してやる。」
「月末の手術では、事業部会の資料は諦めるしかないか・・・」
と、楽観的観点のみのお陰で受傷の悲壮感はあまりなかった。
しかし富美子は元看護師、助産師であり総合病院にも勤めていたから、担当医師の説明と後遺症の有無に関しては100%解っていただろう。
只、オメデタイ亭主とは対照的に、生死の間際と今夜のヤマによる人工呼吸器必要性の有無など、目の当たりの亭主の瀕死の容態に全神経を費やしていたのだ。
翌日から病室で治療が始まった。
現代なら幹細胞移植による再生治療を躊躇なく施術するのだろうが、時はiPS幹細胞で山中教授のノーベル賞受賞より10年近く以前の二十世紀。
治療は、受傷部炎症緩和のステロイド点滴と潰された頸髄2か所の物理的な牽引のみ。
この「牽引」という治療の野蛮さには驚いた。
左右こめかみをメスで切り、フリーザーの冠のようなハーネス鋳物金具を、こめかみにボルトネジで留める。
これがまた、絶頂の痛さだ。
「ミシ、ミシ、ミシ」
と、頭蓋骨テンプルにネジが締め入っていく音が、頭蓋骨全体に響き亘り
「頭がスイカの如く破裂する!」
意識が遠くなる寸前であった。
このハーネスを頭蓋骨に固定された頭頂部側と足先に、各10kgの砂袋重りをぶら下げて首を引っ張るのだ。
首から下身体が完全麻痺している上に、ハーネスにて頭も固定され、動かせる部位は「まぶた」「目の玉」「口」「舌」のみに成ってしまったのだ。
蚊の野郎がプーンと顔に飛んできても、追い払う抵抗も出来ない。睨みつけて、フッフッフーと吹くのが精いっぱい。
蚊のヤローも
「こいつには、殺られるコトはないな♪」
と舐められてしまい、以降毎晩のように蚊どもに輸血する口惜しい日々であった。
朝も夜も24時間、視界に入っているのは病室の白い天井のみ。
部屋の明るさのみが、昼夜や天候の区別できる術であり、空が青いのか、夕方か夜明けかも判らなくなっていく。
「気がおかしくなりそうだ! 突然に体は動かなくなったし!何も見えんし!」
身体機能の急変を受容できず、黒目しか動かせない状況が気の毒に思った看護師が、 「これなら、窓から外の空と景色が見える?」
千幸の視界左端の天井に、ベッド右横の窓からの景色が反射して見える様に、洗面台に付いている程の大きさの鏡を工夫して設置してくれた。
おかげで、日にちの過ぎる区別ができるようになった。
2~3日が経過し、ヤマを超えてとりあえずは命にかかわる状態は脱した。
しかし、呼吸する胸の筋肉も半麻痺状態のため、呼吸は浅く大声は出せない。
唾を誤って飲み気管支に入ったら、むせて咳込みも強くできない。また、持病の喘息を誘引してしまうなど、麻痺による2次的疾患や発作が憂われる容態として医療留意された。
会社では、あのポジティブな加藤千幸が盆休み明けでも出社して来ないのに、大騒ぎと成っていたようだ。
何とか事情を聞いた上司である事業部長の大川 建が、最初の見舞い客であった。病室で大川の声を聴くや否や、千幸の左右脳は仕事モードに瞬時に戻り、
「申し訳ありません。建築中の東京の技術センターの資料が出来ていません・・・」
「千幸君!何を言っているのだ!そんなことは気にしなくて良い!から、今は、ゆっくりと治療に専念せよ!」
「ゆっくりと」の言葉を聴き、彼は容態、受傷部位など怪我の重さを知っているのだと判った。
髪は丸坊主にされ、ハーネスで固定された顔面は見られたくなかったのでタオルで目まで覆おってもらっていた。
大川に同行して来ていた部課長との話声を聴き、会議の彼らのきりっとした顔が鮮明に浮かんだ。しかし、今日の大川をはじめ連中の話し方は、会議でのいつもの鋭さがない。
穏やかさ、優しさ以上に、共に戦って来た戦友の如く
「千幸、オマエが居てくれなくては困るが、今は治すことだけを考えろ・・・待っているゾ」
「会社の資料とパソコンはとりあえず全部預かるぞ」
短い会話の中で、このバブル崩壊兆し厳況のさなかに戦線離脱する申し訳なさと、悔しさでタオルは潤み
「はい・・・」
それ以上喋ると嗚咽に成り、言葉には成らなかった。
数日後、人事課長の城 忠邦が来院し、事務関連の話をして行った。
「千幸は有給休暇と傷病手当支給期間を併せて2年間位あるから、焦らないで治してくれ」
「それと、千幸の仕事面と雑務の世話を栗山隆一が担当し、彼にチョクチョク来させるから」
以降、大川をはじめ城と栗山のうち、誰かが十日間に一度は病室に来てくれた。
おかげで厚生面での家族への負担は全くなく助かったが、彼らの顔を見、会話し帰る度、
「仕事に戻りたい❘❘ いや、絶対に復活してやる!」
社内の景色、東京に建築中の技術センターの進捗等々、悶々とした焦燥感で頭いっぱいに成り、公衆電話に行こうとしてベッドから足を下ろそうとするが、過酷な現実はピクリとも手足は反応しなかった。
富美子と夏休み中の健太は、毎日というか常時そばに居てくれた。
「あんたは治る人だから。健太が待っているヨ。」
「お父さん、今度いつボーリングに連れて行ってくれる?」
医療従事者であった富美子は真剣に奇跡を信じていたようだ。今にして想えば。
あと半年で卒業するはずだった、桜が丘小学校から弥富市の学校に転校する羽目になってしまった健太は、あの強いお父さんは必ず回復する、それがいつかと待っている。望みでなく、秋までか、冬休みまでかかるのかと。
約束したスーパーサイア人計画。
健太の無垢な一言一句と表情が、千幸には重すぎた。
「健太、けんた・・・・」
健太が富美子の実家に帰った日の病室消灯後は、千幸は声が出るほど涙が漏れる夜となる。
ただ一つ救われるのは、
「健太じゃなくて、俺で良かった。」
そして、もうひとつ涙が漏れる想いがある。
三回忌にも行かないバカ千幸に罰?子への親心に、それは在り得ない!きっと、
「そんな無茶苦茶に無理をして働いていると、喘息が酷くなって死んじゃうヨ」
これ以上無理をせず休みなさい、と首を骨折しても命は護ってくれた母親の想い。
一人暮らしに放っておいた40歳の若さで障害者に至るのを目の当たりにした、親父の悲哀。
「放蕩息子の千幸が、取り返しのつかない重いバカをした」
「ごめんなさい、五体満足に産み育ててくれたのに・・・」とサウダージ。
◆
8月30日、手術実施。
頭のハーネスから解放され、千幸は初めて病室と鏡に映っていた窓からの眺めの実像を見た。
ストレッチャーに移乗され病室を出たら、看護婦さんたちが一同並んで、エールをくれた。
「千幸さん、頑張って!頑張ってね」
たかが骨折の手術だろうに大袈裟な連中だ、千幸は自分の思いとの違和感に苦笑いするのみ。
手術室に入り、手術台に移されて、執刀医氏から手術の概要を説明された。
「首の前側からメスを入れ、気管と食道を避けて圧迫骨折部を伸ばします。腰から骨を削り取り、棒状にして骨折部位に繋ぎ留めます。またチタン製の金具を頸椎前方にネジ留めし、伸ばした頸椎状態を固定します」
数名の医師と数名の看護師。手術のシミュレーション練習を繰り返し行ったのであろう。
まるで造り付け木工細工ように、工務店大工さんの説明に聞こえた。
「麻酔を吸入してもらいますので、吸い込んでから数字を数えて下さい」
「1、2、3、4・・・・」ここからは覚えていない。
「ガチャ、ガチャ、ガチャ・・・」と耳の側で器具類を片付ける音が聞こえ、気が付いた。
「終わりましたヨ」と執刀医師。
6時間近い手術時間であったらしい。
刺激に弱い気管支に違和感、たぶん気管支を剥がし移動させたのちに元の位置とは微妙に異なるところに戻されているのだろう。
喘息特有のヒューヒューとした喉からの喘鳴と息苦しさが残っていた。
病室に戻ると担当医師が待機しており、 「2週間仰向け状態で居たから、側臥位(横向き)にしますね」 ゴロっと頭も横向きに成ったら、グルグルグル~とバク転と前転を高速で繰り返された如く、天井や病室景色が回って見える、これほど激しい目眩は初体験であった。
長時間同じ姿勢の後に90度回転しただけで、三半規管の平衡感覚がこれほど乱れて反応するのに驚きである。
「手術で骨折部位は固定されたので、明日からリハビリテーションしてもらいます」
千幸は武者震いする思いで、己の根性魂に気合を込めた。
「よおし!明日からが運命の勝負だ!ド根性でリハビリに打ち込み、完全復活してやるゾ」
頸髄圧迫完全損傷の知識がない、浅はか者の雄叫びとも知らず・・・。
リハビリテーションはPT(理学療法)による残存筋力の強化と麻痺部位の他動運動。
そして生活に必要な機能助長へのOT(作業療法)が各々毎日1時間ほど行われた。
手術で圧迫破壊された頸髄を伸展修復した効果は、翌日から顕著に現れた。
首しか動かすことが出来なかったが、肩の上下すくみ、腕を動かす肩周りの三角筋、腕を曲げる上腕二頭筋の動きが戻って来た。
「この分で行くと腕を伸ばす上腕三頭筋、前腕を動かす腕橈骨筋、バスケットボールに必要な手首のスナップ力などの手腕機能は、秋~年明けまでには戻せる。そして春までには、大小胸筋、腹筋、背筋などの体幹機能を回復させれば、立つことも可能だ」 千幸は希望に満ちた思いで
「既定の2時間リハビリでは甘い。自分独自のリハビリで数時間プラスしよう!朝食後とリハビリ終了後の夕食までの時間は、手動車椅子で病院内を徘徊しよう」
と、決意した。
千幸を車椅子に移乗させるには看護師さんなど、3人以上の人手が要る。
「オーイ! 車椅子に乗せてくれ❘」
麻痺した手ではナースコールボタンが押せないため、都度大声で呼ぶのが、日常恒例と成った。
腹背筋が麻痺しているため、幅広の布帯で車椅子に縛り、上体を固定した。
また、車椅子のリム部を握れないので、キッチン用のゴム手袋を着用し感覚がない手のひらでリムを擦り、カタツムリより遅いスピードだが車椅子を自走させ始めた。
千幸の居る病室前の廊下は、ナースセンターから隣の病棟までの2~30mの直線。
自主訓練の当初は一往復するのに約1時間を要した。
1日に数往復移動するのが精一杯であった。
それでもベッドに仰向けで、目の玉しか動かせなかった一か月前と比べれば、座って見える病棟内と看護師たちの顔、そして自分の意志で360度方向の視界が確保できることにストレスは溜らず、数往復の車椅子自走訓練による肩周りの筋肉痛も苦ではなかった。
理学療法リハビリ訓練室では、残存筋力のアップと体幹機能の向上を主に毎日訓練を行った。訓練室では上半身両側に両腕を立ててマット上で自力座位をとる。平衡感覚と上体を支えた両腕の力のバランスで座位を保つ訓練。
座っている千幸を見て富美子は大喜びをした。
「健太にお父さんが座っているところを見せたい、呼んでくるわ!」
ところが健太は千幸の座位保持を見ても、喜ぶどころか苦々しい顔をして戻って行ってしまった。健太にとって「強いお父さんのイメージ」と大きく異なり、失望しかなかったのだろう。
「夏まで、バスケットボールコートを走り回り、水泳やプロレスでも絶対勝てなかった、お父さんには程遠い!」
千幸にとっても初めて健太から、失望と憐みの眼差しを受け、
「転校させて仲の良い友達もできないだろう、意地悪もされているだろう、健太の唯一の強い味方であったお父さんが弱くなってしまい、ごめんな、健太」
と悔しくも情けなくも、初めて抱く父親として申し訳なさの感情であった。
秋に成りテレビでは「メークドラマ」でプロ野球が盛り上がっていた。
星野監督率いる中日ドラゴンズは、ナゴヤ球場を一軍本拠地とした最後のシーズンで あった。
東京出張する際に、桜が丘から名古屋駅までのJR中央線から眺めていた、 建設中のナゴヤドームに観戦に行けるのだろうか、と複雑な思いであった。
落合博満と松井秀喜をクリーンアップに据えた、ジャイアンツが最終試合で勝ちリー グ優勝をした。
地元ドラゴンズファンの千幸は、メークドラマの口惜しさも重なり、自主トレは欠かさず実施した。病室前の廊下往復は克服し、正面玄関のロビーやエレベーターで上下階まで、病院内を車椅子で制覇していた。
車椅子を漕ぐ上腕二頭筋は強力に鍛えられていったが、計画していた上腕三頭筋や前腕、手首の麻痺は治らず自在に動かせず、知覚も戻っていない状態のままであった。
正月が過ぎ、リハビリで麻痺が戻るといわれた急性期の受傷後6か月間まで残り2か月。
担当医師と理学療法士に訊ねても、いつも同じ回答であった。
「まあ、そう焦らずリハビリ頑張って下さい」
そう言われても、手術後に戻った肩周り他の手脚の機能は全く戻らない現実に、人一倍自主トレを重ねた千幸には焦りが積もるのみである。
のちほど判明したことだが、鬼気迫る表情で毎日欠かさず自主トレに励んでいる千幸に対しては、損傷頸髄部の状況からして重い後遺症が残るのは自明の理であったらしい。
しかし千幸の希望に満ち溢れた、自主訓練を目の当たりにし、 「障害者、後遺症、回復困難、復活不可」 宣言及び言葉すら、看護師にも御法度かつタブーと申し合わせていたのだ。
背骨骨折の脊髄損傷、さらに重病である自分の頸髄損傷の知識がゼロであることが、千幸の根性魂である自主トレなどへの活力源泉であったのだ。まったくもってオメデタイ男であった。
二人部屋に入院していたのだが、隣のベッドの患者は次々と治癒し退院していく。
脊髄損傷患者も入院してきたが、当初は千幸と同様に手脚が麻痺し動かせないが、手術後リハビリで車椅子を自由自在に操れるまでに回復していった。
自主トレ中に廊下で逢う他の部屋の患者も、自主トレ当初に会釈を交わした同胞と思っていた人たちは皆退院し、今では夏季に入院していた人は誰も居ない。病棟で最古参に成っていた。
これも後で知り得たことだが、脊髄損傷と頸髄損傷は損傷部位が異なるだけでなく、麻痺、後遺症面では全く異なる怪我と云っても差し支えないという。
2020東京パラリンピックで周知された様に、ボッチャ競技や車椅子バスケットボールでは、脊髄損傷と頸髄損傷麻痺の度合いにより競技クラスが別けられている。
寒中、立春が過ぎ、巷では春めいた話が聞かれる2月15日、南海病院は加藤千幸の頸髄損傷は急性期を過ぎ、麻痺や後遺症の改善は望めないと判断し退院とした。
今後のリハビリや生活面の方法などを病院側に相談したが、手のひらを返し 「障害者施設に入所するしかない・・・」 と、完全に匙を投げたコメントであった。
寝返りも大小便排泄も食事も自分で出来ない身状では、仕事どころか家族と暮らすのさえ出来ない現実ではあった。
妻子の生活はどうなる?健太は養護学校に転校か?
千幸の楽観的であった頭の中では、自分の身体能力は自覚しており、家族の今後は悲観的で
「富美子、健太そして着いて来てくれたプチとコトラを放って、四十歳で己だけ施設生活か!」
「誰のせいでもない、すべて己の責任であり、罪のない家族たちを不幸にできない!」
搭の先端では行き交う船舶を安全に誘導する「燈台内のらせん階段」の下段辺りで、しゃがみ込んでいる己が・・・登り上がれば明るく導き燈台灯り、下段に行くほど暗くなり踏み外して闇に落ちて二度と這い上がれない。
「どう成るではなく、どうする!千幸!」
まさに今、人生のらせん階段でたたずんでいる。
千幸の頭にフっと燈台灯りの先に会社の仲間の面々が浮かび上がった。
喘息の身体に鞭打ち、寿命を削る思いでエネルギーを注いだ会社。
看護師を呼び、公衆電話まで車椅子で連れて行ってもらい、受話器を耳に当てダイヤルを回してもらった。
「城さん!頼みが有ります。脊髄損傷者のリハビリに注力している、名古屋労災病院に転院したい、早急に手配お願いします」
名古屋労災病院は、南海病院で入院中同胞から噂を聞いていた。
名古屋労災病院にはリハビリテーション科が有り、まさにスパルタ式の訓練は勿論、 病室内での看護師も自立を目的とし厳しいらしい。
よほどの意志がないと続かず、3~5割の患者は挫折して自主退院すると聞いていた。
千幸には「願ったり叶ったり」であり、またまた楽観的でオメデタイ男の闘志が戻って来た。
「よお~し、労災病院では家族と共に暮らせる様、全精力を注いでやってやるゾ!」
人生のやり直し。その岐路に立ちすくんだが、灯りが見える方の道に歩み始めた。
第四章 干天の慈雨の後に
「あー、筋肉痛で今夜も熟睡できそうもないわ・・・」
6人部屋の頸髄損傷同胞は、リハビリが終わり夕食前にベッドに戻ると口癖に成っていた。
この病室の天井には、吊り下げ型のモノレールレールのようなものが各人のベッドの上にいきわたっている。
自力でベッドに乗り降りできない、または車椅子からベッドに移乗できない手足の四肢麻痺障害患者を、クレーンのごとくつり上げ下げして移行するリフターが設置されている。重度障害患者のみ集められている。
名古屋労災病院リハビリテーション科の担当医師は、千幸が転院し、最初の診察で言及した。
「障害者手帳を見せて下さい」
「えっ!障害者?私のですか?そのようなものは持っていません」
「えっ!前の病院では発行しなかったのか。障害者ですヨ、しかも加藤さんは重度障害者です。早速こちらで発行手配します」
「C4完全頸髄損傷。気管支切開人工呼吸でなく会話できるのが不思議なくらいです。呼吸する力がかなり落ちていますので、まず呼吸訓練をしたのちに残存機能の強化PT(理学療法)と生活に必要な動作訓練のリハビリテーションをしてもらいます」
午前中は医療処置。膀胱洗浄や尿道カテーテルの消毒や交換。
摘排便(看護師が浣腸してから肛門に指を突っ込み、大便を搔き出す)、シャワー浴などで何かと慌ただしい。
その後、ベッド上でただひたすらに呼吸訓練をする。
訓練はお祭り夜店で売っているような喫煙パイプの先に、吹く力によりパイプ先に有る、プラスチック製ボールを浮かせるオモチャのようなものだ。
プラスチックボールは5色あり、赤色のボールを30秒以上の間吹き浮かし続ければ正常な呼吸力である。
「こんなオモチャで呼吸機能のリハビリになるのかよ?」
千幸は小バカにしてめいっぱい息を吸い込み、一気に吹き出してみた。
結果は最も軽い白色ボールが基準線まで吹き上がるのみで、10秒間と持続できなかった。
「やっぱり頸髄C4番にダメージが有り、気管支切開人工呼吸器が必要とする少し手前だね」
そして看護師は付け加えて言った。
「今、息苦しくない?5番目の赤いボールが上がるまではフィジカルなリハビリは無理だから、ベッド上で呼吸力リハビリのみを終日して居てください」
「エーッ、マジかよ!俺は四肢と体幹機能の訓練をして、復活しなくてはアカンのだ。
こんなお遊びみたいなことを、一日中ベッドでやるために転院したわけじゃないゾ」
とは、声には出せなかった、呼吸力機能の貧弱さを目の当たりに証明されてしまっては・・・。
千幸は早くスパルタ式リハビリテーションをし、毎晩筋肉痛の納得できる日に移行するため、食事中以外の殆どの時間、寸暇を惜しんで、ピューピュー呼吸訓練をした。
上がるプラスチックボールが、白色の次の黄色、緑色、青色そして赤色が少し浮くように成ったのは、2週間後であった。
転院時に喘息症状が有り、点滴治療を暫らくして完治したのも、呼吸機能の改善に功を奏したようだ。
午後から夕食までは身体機能のリハビリの許可が出たので、勇んで前日に訓練室を見学しに行った。
まず驚いたのが、訓練室とはバスケットコート1面有す体育館ではないか。フィットネスジムのように、ダンベルがゴロゴロしており、レッグプレスなど筋トレマシンだらけである。
手が動き握る機能が残っている脊髄損傷者は、徹底的に腕力強化トレーニングをしている。
腕の力だけで車椅子からベッドへの移乗や、腕だけで匍匐前進できるパワーをつけ、退院後に部屋内を自力で移動できるよう鍛えている。
うわさに聞いた「軍隊のようだヨ」の一片が理解できた。
担当のPT(理学療法士)は、肩と腕の残存筋力をチェックの上、まず車椅子の漕ぎ方を千幸に適し最も楽に早く操る方法を指導した。
南海病院では自主トレと称し我流で車椅子を動かしていたのと異なり、漕ぎだす時の手の位置と上半身を重力と慣性を利用して前後にスイングして操る。
なるほど理にかなった、千幸の残存機能にカスタマイズさせた方法だ!と感心していたのは初日だけであった。
翌日も担当PTに指導いただこうと思ったが、
「加藤さんは昨日教えた方法で体育館を回っていて下さい。5周ごとに反対回りにして下さい」
その翌日は、
「昨日は2時間弱で15周でしたが、50周回れるまで毎日続けて下さい」
2週間ほどで50週回れるように成ったら、
「バスケットコート外側1週を、早く漕いで30秒以内で回れるようにして下さい。
インターバル摂ってもイイですヨ」
あれほど好きであったバスケットコートとは縁があるようだが、今は目の前のエンドライン、サイドラインが恨めしく見える。
リハビリ訓練終了後の夕方4時からは、車椅子バスケットボールの練習をしており、近くで見ていると確かに速い。
千幸と同じような頸髄損傷レベルでもターンオーバーの速さと、10分近くプレイしているのを見るに、自分の未熟さを痛感した。
翌日、車椅子バスケットしている連中が、どんな訓練をしているのが判った。
「体育館内の訓練は終了し、今日からは屋外で車椅子訓練をしてもらいます。まず、病院敷地内を周回して下さい。アスファルト面は体育館の様に平坦でなく凸凹が有り、側溝に車輪が落ちない様に注意して下さい。また、砂利石道やコンクリが敷いていない草道部も有りますので、まっすぐに走行するだけでも結構な力が要ると思います。病院外周は約1km程ですので、30分以内で帰って来て下さい。」
屋内と屋外では左右腕の力の使い方が全く異なり、石ころひとつに舵を取られてしまう。
また、舗道は真ん中を頂点とし側溝側に低い山形になっており、側溝側の腕の力を強く漕がなければ、側溝の方向に進んで落ちて行ってしまう。
特に難儀したのは、草むら道では路面の状態が目視で確認できないため、左右の前輪後輪にかかる抵抗を腕ヘの負荷で感知しながら、まっすぐに走行する難しさだ。
はじめた頃は、一時間以上を要し、側溝に前輪がはまり脱出不可能と成り立ち往生しては、担当PTが心配して助けに来てくれることがしばしばであった。
ノルマの30分で一周できるには1か月ほど要した。訓練に励めば必ず車椅子の操舵が思い通りと成り、走行の小回りやスピードアップが実感できるのが、辛さよりむしろ快感で在った。
初春過ぎの5月頃には、病院周りを春の陽気と樹々や草花を喫する余裕も持ち、2週以上の走行は景色を眺めながら、ジョギング気分でできるように成っていた。
ひたすら車椅子を操舵するパワーを鍛える理学療法リハビリ、昼食後の1時半から3時半までの2時間訓練で腕力は疲弊しきる。
3時半から5時半までは、自立生活に必要な機能を強化する作業療法(OT)2時間の訓練である。PT訓練の体育館からOT訓練室へは、移動距離だけでも段差がある20mほどの通路であり、この移動だけでも四苦八苦の残体力だった。
前入院の南海病院では、作業訓練は動かせる手腕を使って生活に必要な動作を練習する。
ギブスの様に右手前腕用に特注制作した樹脂製装具をバンド留め装着し、食事動作の訓練であった。この装具の掌あたりに付いているネジ穴にボルト付スプーンを固定し、スプーン部を口許まで持って来る動作の繰り返し練習である。
スプーンを歯ブラシに交換して歯磨き動作練習、鉛筆を付けて図形や字を書く練習などであった。リハビリテーション専門語では、QOL(Quality of Life)の向上ということらしい。
確かに自力で動かせる肩周り筋肉だけを使い、装具を使用しても自力で食事できることは、他人に食べさせてもらうよりは、噛んで吞み込むタイミングが合い美味しく食事ができる。
また介護する人が「あーん」と食事介助する手間は、格段に楽に成る。
しかし千幸には、理学療法や自主トレに比べ疲労も筋肉痛にも成らず楽な訓練であった。
ここ名古屋労災病院でも、まず作業担当OTと面談し、千幸の手腕機能や肩周りの可動域などのチェックから始まった。
そして訓練内容の説明に、驚きであった。
「それで、加藤さんは何が一番やりたいですか?」
「はっ!言われていることの意味がよく分かりませんが・・・」
「いや、退院して家に帰ってから障害が有る身体でも、最も行えるようにしたいことです。」
千幸はまだ主旨がよく分からなかったので、生半可の知識を振りかざして答えた。
「QOLのアップです。自力で、食事や文字を書けるように成りたいです」
「そんなことは当たり前です。病室の食事の時に看護師に言って訓練してもらって下さい。それだけで良いのですか?」
ここまで言われて千幸は気づいた。
自分は家族を養い、共に暮らせるよう復活する目標を。
「パソコンが打てるように成りたい。仕事レベルのスキル、早く長時間出来るように」
「はい、分かりました。明日までに専用の装具を作りますので、今日はキーボード打ちとマウス操作に必要な筋肉を、強化する訓練のみしてもらいます」
「ここは労災病院です。主な患者は労働災害受傷、つまり勤務中に起きた事故で怪我を負った患者です。治療の目的は、再び働ける身体に回復させることです。加藤さんも受傷前の状態までに回復は無理ですが、パソコンで仕事が出来るまでの機能回復に頑張ってリハビリして下さい」
「目標が有りませんと、リハビリへの頑張り度合いが違い、回復の程度も顕著に異なりますよ。ある患者はタバコが吸いたい、また別の患者はSEXができるように成りたいなど。願望が強いほど、カスタマイズ装具を用いて様々な方法で目標を達成していますよ」
千幸と同じ病室の患者も、仕事中に上階から落下し首の骨を骨折や、配達中の交通 事故で縁石に頭から激突して受傷したなどと、就寝までの間の会話で知った。
ただ大きく異なることが有る。
労働災害の場合は労災保険から休職中の給料は保証される。
ましてや交通事故の様に相手がいる場合、自動車保険からも保険金が貰えて受傷前よ り収入が多くなっているケースも有る。
その点、千幸は大バカ者である。お盆休み中にプールに飛び込んで首の骨を骨折だ。
労働災害事故の適用にかすりもしない。交通事故の様に、加害者や相手もいない。
つまり、保険金や休業中の保障はゼロだ。
ある意味、リハビリにて復活は他の者より遥かに高いモチベーションが身体から染み 出ている。
前腕が麻痺しているためキーボードを打つのは、手のひらに専用の装具を付けて麻痺のない、肩を上げ下げする三角筋を鍛えるのが必須であった。
両手がバンザイの体勢で、両手首にワイヤ―が繋がっている革製の手首ベルトが 巻かれた。
「最初は各手に10㎏程度から始めようか」
ワイヤーの上側は滑車で後方に繋がり、後方にはダンベルの円形の鉄製重りが積 み重ねられてあった。バンザイの体勢から麻痺の少ない上腕二頭筋で肘を曲げ、重りをガチャンガチャンと上下させる、筋トレである。
この三角筋強化筋トレを約1時間続ける。ガチャンガチャンの音のペースが早くなると、重りを5㎏ずつ多くしていく。
逆に1時間以内で力尽きて両手がバンザイのままの状態に成ると、荷重は軽くしてくれるのだが、そこは「根性なし」と思われたくない以上に、己のレベルアップへの意地で、当日課せられた荷重を1時間は続けた。
「こ、これが、QOL向上という作業療法か?単なる拷問だ・・・・」
翌日には作業療法士がキーボード打ち用の装具が準備されていた。手のひらにス ティックが付いた手首までの手袋である。スティック小指側にキーボードのボタンが押せる、指大の樹脂が付いている。
当時では最高スペックのNEC9801VM2デススクトップ型パソコンが準備された。
会社で使用している同タイプだ。口元が緩んだ、筋肉痛の千幸に次なる課題が与えられた。
「あちらに有る雑誌から好きなのを選んで、記事文書をワードで転記していって下さい。1時間で何文字、何頁をキーボード打ちして書けるか。また図柄やイラストをペイントソフトで描き模写などもして下さい。Excelソフトも活用して下さい。今日1ページ打ち込めたら、翌日は1ページ半と自分で目標設定して毎日訓練を進めて下さい」
指が動かなくてもスティック装具を使い、右手でトラックボール、肩の上下可動域にて両腕でキーボードを打つ。この連続動作にて半日間ほどパソコンを自在に使いこなせれば、できる仕事の目安が立つ。
そう想えば自ずと、車椅子上でのキーボード打ちトレーニングに真剣に取り組むことが出来た。肩や腕が悲鳴をあげようと、怠けよう、スローペースでやろう等とは一抹も思えなかった。
疲労の限界は身体が正直で、腕が挙げることが出来なくなる、座っている姿勢を保てなくなり上半身が前か横に傾き倒れて、自力では戻れなくなってしまう。
文字通り、クタクタで座る姿勢が採れなくなってしまうのだ。
僅かに残る余力で、病室まで車椅子を漕いで数分を要して戻った。
途中、廊下ですれ違う顔なじみの配食のオバチャンが、冗談で車椅子をバックさせる。「千幸さん!おかえりー、お疲れさーん、ホレホレもう一息や~」
これには、マジで怒れてしまうのもしばしばであった。
そして、病室までの最後の難関「車椅子ホイホイ」。
病棟入口ナースセンター前の廊下に、5mほどの粘着シートが敷き詰めてある。
リハビリを終えて来た車椅子のタイヤの汚れを、強力粘着除去して病棟内には泥汚れなどを持ち込まないようにするためだ。
ここを通過するには、結構の腕力で車椅子を漕ぐ必要がある。初速の惰力で、一気に通過するのがコツだ。途中で止まったら、弱い腕力では粘着力に負けてしまう。
しばしば途中で止まってしまい、にっちもさっちも動けなくなった患者が、ゴキブリのような目で、ナースセンターに助けを求めていることが有る。
スパルタ式リハビリ繰り返しの日々も2カ月ほど過ぎ、腕のパワーアップは自覚できるほどに成った。しかしながら、目標であった前腕や背腹筋機能の復活は、教科書通り全く進展は現れない。
車椅子の重度障害者生活が現実味を帯び、俺に限っての「奇跡」が遠ざかり落胆気味、時にはヤケに成ったりしていた。
夜中に目が覚め、トイレに行こうとベッドから足を下ろそうと、何度と挑戦したことか。
障害を受け入れられない。典型的な苦悩と葛藤の時期である。
受傷障害者が最も多く自殺するのは、この時期だという。
特に、桜の花がほころぶ4月初旬は、入学、進学、転勤など新天地への期待に溢れる春は、落ちこぼれる己に失望し易いらしい。
或るリハビリがない日曜日、ベッド上で相変らず天井模様を見ていたとき、 「お父さん!」
健太が学生服を着て、ベッドの横側に立っていた。
健太は中学校入学前に、学ラン姿をお父さんたる千幸に早く見せたくて祖父に連れてもらってきたという。
「スーパーサイア人計画」が頓挫し、残念無念で自暴自棄気味であった千幸より、十二歳の健太のほうが、障害者に成ってしまった「お父さん」を現実として受け入れていたのだ。
新しい環境でイジメも受けただろうに、愚痴も言わない。
そんな息子の方が遥かに己より逞しく成長していることに、嬉しくも哀しくもあった。
「あっ~筋肉痛で、これでは夕食を食べる力もないゾ~。」
と、毎日同じ様な題目を叫んで病室に戻る日々が続いた。
ソメイヨシノ花吹雪の4月初旬の或る日、病室には、会社の後輩である栗山が待っていた。
リハビリの状況や会社の状況など、ひと通りの雑談の後、カバンからドサッと数冊の本をベッドテーブルに置いた。
「千幸さん、この本を来週までに読んでおいて下さい。他にも有りますので、来週また来ます」インターネット関係の本らしく「Norton Anti Virus」「Netscape Navigator」「Eudora」など、聞いたことがない英文字ばかりである。パソコンはワープロソフト「一太郎」や表計算ソフト「Multiplan」などNEC社製PC98のN88-BASIC上でのソフトは使い慣れていた。
しかしインターネット利用は経験がなく、パソコン通信レベルで千幸の知識は止まっている。
僅か1年弱の入院期間中に、オペレーティングシステムもソフト類も海外製となり、日本メーカーはパソコンを組み立てているだけの業界構図に成っていた。マイクロソフト社とアップル社がインターネットの利用を独占していたようだ。
つまりパソコン活用の場は、スタンドアロン利用から世界中の情報に繋がるネット活用に豹変しており、千幸は浦島太郎に成っていた。
「パソコンで仕事をするのには、基礎的知識ですのでマスターをお願いします」
栗山は有言実行で、毎週新しい本を持って来てくれた。千幸を浦島から現代に導くのに容赦のない勉強を科してくれた。
理学療法と作業療法の両スパルタ式リハビリ後の夕食後に、新たに頭のスパルタリハビリが追加された訳だ。
夕食、といってもリハビリテーション科の看護師さんもスパルタ式看護がすり込まれている。右の手のひらにフォーク付スプーンを縛り付けた装具を使って、自力で食事を摂るのだ。
食べさせてくれる、食器の位置を食べやすい位置に移動してもらう等、出来ないことへの介助は全くない。
味噌汁もコーヒーも、ストローで吸う味気なさ。ラーメンやパスタなどは、思うようにフォーク付スプーンに乗せられなく、口元まで持って来るには何度もトライを要する。
かんしゃくを起し、味わうというより何とか口に入れるトレーニングだ。
「あらっ、千幸さん、その分だと寝る時間まで掛かりそうだね。私は夜勤の人と交替するから、頑張って食べてね」
「なんという薄情な看護師だ! 意地でも完食してやる」
この食事難関を自力で超えられなく、食べる量があまりにも少ないとリハビリは中 止と成る。最悪の場合は、点滴で栄養補給、リハビリテーション中止、自主退院の末路と成ってしまう。
自立意志がなく、名古屋労災病院には落第という判決だ。
千幸は5時半からの夕食の後、9時の就寝消灯までの2~3時間はインターネットを利用できる知識をマスターする、栗山の課題をこなす貴重な時間であった。
本のページをめくるも、麻痺した手腕では重労働である。
指に唾を付けてめくるなり、紙の質によっては舌を使ってめくる。
読むよりページめくりに時間を要し、これまたイライラの絶頂だが憤っていては内容が理解不足と成るので、気を鎮めて集中することに専念した。
同病院リハビリテーション科は後遺症が残った容態でも、自宅に帰り最低限の介護で自立支援を達成させる治療、訓練が目標である。
患者の障がいと残存身体能力に応じた、自宅バリアフリー具合と同居家族の介護体制ができたら、退院と成る。従って、退院までには自宅に必要なバリアフリー改修が必要とされる。
また自宅で衣食住の宿泊体験し、介護を含めた生活が可能かを数回実施される。
通勤し仕事できる身体状況でないため、桜が丘の社宅には帰ることは出来なかった。
受傷前にお盆休みに来た、愛知県弥富市の富美子の実家に退院後は住むことにした。
義父母の大きな好意にて、実家の庭に十畳ほどのバリアフリー部屋を増築してくれた。
通院用に自家用車も買い替えた。車椅子からベッド移乗用の手動リフター、玄関段差の高さまで車椅子を上下させる昇降機も設置。会社からは、バリアフリー浴室の試用モニターということで、介護用シャワー、トイレをユニット室化したバリアフリー新商品を設営してもらった。
南海病院退院時は、障害者施設行きかと、困惑で頭を抱え込んでいた自体からは、大好転だ。
3度の帰宅宿泊を経て、帰宅許可が出され、5月末に退院と成った。
◆
垣根のツツジの季節は終わりかけ、新緑の初夏の始まり。増築部屋の南側は一面の田んぼに面している。田植えを待つ蛙の合唱が千幸を歓迎してくれた。
不本意の念で桜が丘から連れてこられてしまった、茶トラのプチとキジトラのコトラは、秋田犬とセントバーナードが同棲できるほどの大きさの小屋に棲んでいた。
「プチ!コトラちゃん! 帰って来たゾー」
十ヶ月ぶりの千幸の顔をチラ見しただけである。罪の意識と淋しさが込み上げた。
在宅介護は現在の介護保険制度の様な公的支援はない。
小便は「膀胱瘻」と呼ばれる、へその下辺りに手術で開けられた膀胱に通じた穴にカテーテルが留置され、そこに繋がった尿パックに垂れ流しである。
このカテーテルに尿のカスが溜まると詰まってしまうため、膀胱洗浄などの常時メンテナンスを要す。膀胱瘻カテーテルの尿詰りは、昼夜問わず突発的に起き、悪寒と頭痛が生じ、放置しておくと腎盂炎に成る危険性が有る。
大便は腸自体も麻痺しており、ぜん動運動がなく便は肛門側に送られない。大腸に溜まった大便は、肛門に指を突っ込み、便を書き出す「摘便」をしてもらう必要がある。
これらの医療ケアは家族らが協力して行うものとされ、退院までに病院で看護師の指導を受け、自宅ケアが出来るように成るまで練習をする。
妻の富美子は看護師資格を持っているので指導は必要なく、入浴ケアも含め介護の殆どが妻の務めと成った。
4週に一度の通院にて、新しい膀胱瘻カテーテルに交換される。が、体調により尿中のカスの量は変わり、数日に一度はカテーテルが詰まるトラブルは起きる。その都度シリンジでイソジン消毒液をカテーテルから膀胱内の洗浄が必要である。
摘便は隔日に行う。入浴はシャワーチェアを用いて、週2回してもらう。
元来、体が弱い富美子には重労働の介護の日々と成った。
退院後、弥富の増築部屋にはインターネット接続工事やパソコン、様々なソフトが会社から配達された。ワーケーションに必要なハードと機器は、会社がすべて準備してくれた。
同時に、栗山が頻繁に来訪し、入院中に鍛えたキーボード打ちと詰め込んだ知識を実用化。
インターネット活用した情報の収集やホームページの作成など、2~3か月間パソコン活用実践トレーニングを実施。
「千幸君には在宅勤務を定年の六〇歳までしてもらう」
大川事業部長の意向であった。千幸は奇跡的な果報者であった。
テレワーク。コロナ禍で企業が具体化を進めた働き方を、四半世紀前に千幸は日本では先駆者的に進めていたのだ。
妻実家に仕事部屋を増築。バリアフリー水廻り設備の会社からの提供。まだ一般的でないインターネット環境のハードとソフト提供と人的派遣。なんたる恵まれた果報者。
まさに「干天の慈雨」だ。中国の老子が伝えたという、古い慣用句だ。
日照り続きですべてが枯れ尽くして、「もうダメだ!」と倒れた時に頬に落ち感じた一滴の恵みの雨のこと。たかが一滴に雨への希望が開く、ありがたい感謝の念、苦しい時の救いの手と言う意味らしい。
半年前の初春、千幸は障害者施設に入所、富美子と健太との家族生活は終わり。
何の保証もなく仕事を失い無収入に。手足不自由な四肢麻痺で生活の基盤をすべて失い、万事休すにて途方に暮れて見つめていた病室の天井模様。
半年後の初夏、家族同居できる住処、パソコンする部屋と仕事ができるだけの体力とスキル、通勤できずとも在宅ワークで保障されるサラリー環境。
まさに「青天の霹靂」「棚から牡丹餅」と嬉しき故事満杯の大転換だ。
受傷した夏から3年が経った1999年の夏。
巷では、ミレニアムとざわつき始めている。
在宅ワークも軌道に乗っていた。インターネット活用で特許調査など仕事の幅も拡がるに連れ、大川事業部長をはじめ共に仕事に忙殺された営業や開発部門の同輩、後輩たちの支援も有り、サラリーも順調に上がっていった。
父も母も常に在宅している環境が奏功してか、健太も学業成績がのびていった。
残暑厳しきお盆過ぎ、蝉しぐれに降り込められた様な、お昼過ぎ。
座敷向こうのトイレで、聞いたことがないような鈍い音がした。
「お母さん!お母さん!」
「富美子!富美子! おいっ、直ぐ救急車呼んでくれ!」
健太と義父の悲鳴か怒号とも採れる叫び声が、座敷間じゅうに響いた。
義父と健太に頭と脚を持たれ、自力で動けない千幸の視界に入って来た富美子は、返事も反応も意識もなかった。
義母の119番は5分もしない間に、サイレンが間近に聞こえてきた。
数名の救急隊員が富美子のバイタルをチェックしたか否かの間に、運び出され南海病院に向かって行った。
健太と義父が救急車に同行し、極端に静寂と成った仕事部屋の床で千幸は叫んでいた。
「フミ!戻ってこい!フミ!戻ってこい!」
夕刻過ぎ、車椅子の千幸が健太と富美子の病室を訪れた。
富美子は気管挿管され人工呼吸器に繋がれ、心臓モニターに心電図波形と脈拍音が部屋内に無機的で規則正しく、虚しく響いていた。
温冷感覚が麻痺している千幸の手には、握った富美子の手からの温もりは分からなかった。
「いわゆる脳死状態です。今夜がヤマです。」
救急担当医師は、これまた無機的な口調で言葉短く伝えるのみであった。
千幸と健太は、富美子のベッドサイドで数時間が過ぎたのだろう。
たった3人の家族水入らずで、父子二人は何を話したのか千幸は記憶になかった。
モニターの心電図波形が乱れ始め、脈拍音リズムもひどく乱れ始めた。
担当医が急いで看護師と共に病室に入って来て、蘇生措置を始めた。
日が変わる少々前に、富美子は息を引き取った。1999年8月20日、享年四三歳。
健太は中学3年生、小学6年生の時に父親が障害を負ってから3年の後に母親を失った。
まさしく、人間万事塞翁が馬だ。
※ 幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからない。
だから安易に喜んだり悲しむべきではないということ。
/ 中國漢時代の故事
五章 抱くものと背負うもの
ベッド南側の掃き出し窓からの眺めは、稲穂できつね色絨毯が敷き詰めてあるようだ。
外構ではコオロギ達の声が、秋の深まりと共にトレモロやテンポが変化して来ている。
「人は、いや命は亡くなった後どうなるのだろう。」
千幸は七日ごとの読経中は、生命たるもののことばかり思案していた。 菩提の曹洞宗では、生きている人生こそが「苦」であり修行で在り、未来や過去に囚われず「今、ここを生きる」この瞬間に邁進せよと云う。
「徳」を積んでいき、亡くなって浄土(天国)に昇る。そして、生きている間の未練がさっぱり無くなり、悟りの境地に達し「成仏」すると云う。
浄土真宗の親鸞は「念仏を唱えよ」、されば罪人の善人も皆、死後は極楽に行くと説く。元来、誰もが罪を背負ってこの世に生まれたのだから、浄土に行くには念仏を唱えよ、と。
仏陀は生老病死の、人生で避けることができない四つの根源的な苦しみを説いた。
死生観を説く宗教とは異なり、哲学の域である。
科学では、死ねば思考も意識も「無」と成り、遺体は単なる物体に過ぎないと定義する。しかし、死ぬ瞬間には身体質量が2~3g軽くなることも証明されている。
それは魂の質量か?高校の物理で「物質、質量はエネルギーである」と知った。
手塚治虫の「火の鳥」で、物質も生命もエネルギーであると結論付けている。生命も物質も、個々のエネルギーでなく、火の鳥に集合されている。火の鳥は、宇宙をも包括する大きなエネルギー体のたとえであり、宇宙全体の質量は不変である。
生命エネルギーも死ねば、この大きなエネルギー体に吸収されると、親鸞も云っている。
誰かが死ねば、他で生命が誕生している。モノが燃えれば炭酸ガスと熱エネルギーに成る。
宇宙というひとつのものから、エネルギーの出し入れを繰り返しているに過ぎない。
ひとつのエネルギー集合体から産み出された生命だから、情報共有体からの一抹の情報は、新しい生命体に伝えられているに違いない。
それを「輪廻転生」や「霊魂は残る」「天国から見ている」などと言い換えられているのだろう。
千幸は、そんな結論を勝手に導き信じるように成り、聞こえる秋の虫も、窓ガラスに貼りついているヤモリも、目の前を横切る小さい虫さえも、むやみに殺すことが出来なくなっていた。
「この蚊は富美子の一部を持っている。何か言いに来ているのかもしれない」
「あのスズメやカエルは、不孝した母親の意識部を継ぎ、見守ってくれているかもしれない」
時空を超えて来たエネルギーが、今この時をこの場で共に存在する生命、生きる己と無関係とは思えなくなっている。
富美子の弔いは、会社の若い衆が受け付け役や駐車場への弔問者の誘導など、テキパキと完璧に準備から進行、片付けまでこなしてくれた。
たぶん大川事業部長の大号令も有ったのだろう。いずれにせよ有難い好意で、千幸は感謝の念いっぱいであった。
千幸は、ただ祭壇の前で遺影を眺めて、呆然として時間のみが過ぎて行った。
多くの弔問客の中で、八三歳になる自分の父親の姿が無性にやつれて哀しく見えた。
重度障害を負い、更に妻も亡くした息子の姿、運命を堪えがたい想いで言葉もなかったようだ。
大学時代に母親が体を壊して床に伏し、介護状態に成っても自分のことしか眼中にない千幸は、介護を父に任せて実家を出た経緯が在った。
死去するまでの十六年間の介護を父親に任せっきりで、三回忌を始め、ろくに法要にも関与しなかった、大不孝息子。
そして、己を伴侶として選んだ富美子を亡くした。
「仕事だから仕方がないだろう!」
頻繁な出張やら単身赴任やら、その結末は重度障害者の介護。
夫としては自己採点零点である。
愛より急ぐものが どこにあったのだろう。
愛を後回しにして 何を急いだのだろう。 ※「慕情」中島みゆき
「明歴々露堂々」という禅語が有る。
世の真理と呼ばれるものはどこかに隠れているわけではなく、 最初からありのままに現われていて、それに気付く心こそが大切である。
家族が大切という、当たり前のこと。千幸は、手足が動かなくなり、日々の暮らしで目の前の妻を失って、やっと気づいた始末だ。懺悔には、全く遅すぎる。
心が痛い「背負うもの」。母の想い、父の想い、妻の想い。この十字架は背中に焼き付いた。
そして、まったく罪がない息子健太には、既に母がいない人生を背負わせてしまった。唯一の家族である父親も、重い障害者である定めも背負わせてしまった。
温かい家庭を築くのが、望みであった千幸のシナリオは一片の欠片もない。
こんな稀有な家庭環境で人生を紡いでいく、人並みの家庭の愛情を授けるのができない、息子健太には十字架の重みを感じさせない様、この身体が尽きるまで「改悟の念力」を注ぐ。
この肩に「担ぐもの」と、千幸は決意した次第であった。
◆
モコモコとした鱗雲があらわれ秋分が近いが、まだまだ日中は暑い日が多い。
南側の窓から、茶トラネコ「プチ」が義母に抱かれて、日向ぼっこしているのが見える。プチもキジトラネコのコトラも、終日、庭の小屋の中で「食べては寝る」だけの日々である。
障害を負って3年余りの間、多くのこと、多くの思いで千幸の犠牲者であるプチとコトラのことを気にする時間も激減している。
だからか、プチもコトラも千幸の顔や姿を見ても、桜が丘の家にいた頃の様にゴロゴロと喜ぶことは無くなってしまった。
「こんな処に軟禁しやがって!」
「母さんと兄弟姉妹の5人で、樹の上から草むらを駆け回り、桜が丘の家では階段から窓枠までかけ登って遊び舞われたのに・・・。」
「きっと怒って、スネて、恨んでいるだろうな」
千幸は自責の念で謝りたいことだらけであった。
特にわんぱく元気ボウズのプチの運動量は、妹のコトラの数倍であった。
桜が丘での或る日曜日の快晴な朝、布団を天日干しする際に二階寝室の庭側窓を開けた時、松の木の上で待ち伏せていたプチが、寝室にダイビングジャンプして入って来た。
「内窓や障害物が有ったら、首の骨を折ってしまうゾ」
飼い主に似たのだろう。
そんなプチが軟禁小屋で「食っちゃ寝」の毎日は、さぞ退屈で悶々としていたのだろう。
日差しが強めのある小春日和、小屋の中で高い所から気を失い落ちてしまっていた。
健太と義父が、その日の夕に動物病院に連れて行った。
「糖尿病です。運動不足に因るものです。朝と夜の食前に血糖値を測って、インシュリン注射を打ってください」
動物病院の診断結果は、あたかもメタボ人間と同じで、一生もの不治の病を与えてしまった。
食事も低糖質の療養食のみと成ってしまった。
桜が丘での走り回り遊んでいた暮しが、狭い小屋での運動不足と成り、更に大きなストレスであったのだ。
手足が動かない千幸にはできない一連の世話。健太が中学校への登校前と、バスケットボール部活動後の帰宅時に注射と食事やりの仕事に成ってしまった。血糖値測定とインシュリン接種量の決定、定量の療養食、一連のケアは結構面倒であるが、怠ればプチの命に関わる。
「背負う」決意はまったく役に立たず、プチに一粒の食事も与えられない自分の障害は、結局、健太に負荷を掛けてしまう現実に、千幸は情けなさと自責の念が膨らんでいくのみである。
風通しの良くない屋外小屋では夏季の日中は三十五度以上の暑さになる。
脱水症状に成りやすい糖尿病。
プチの命までも摩耗させることは絶対に避けたい千幸は、夏季中は空調が効き、ケアが万全である動物病院に入院療養してもらうことにした。
入院費7千円/日を約3ヵ月、決して容易なコストではない。
しかし3年前のお盆休み、ここに来る桜が丘宅を出発の際に、 「行ってはダメだ!クルマを止めろ!」 わんぱくネコだが性根は、優しく穏やかな性格のプチ。
あれほど興奮して暴れまくるプチ。
必死なアラートを無視し今に至った、プチの寿命には替えられない。
ドラゴンボールに登場する、老界王神が時の異次元空間と呼ぶ「精神と時の部屋」を、プチは生前に体験してウチの家族に加わって来たのだろう。
起こり得るアクシデントを知っていた。
三回忌の席で千幸一家と会いたかった、プチ心の中の母親のエネルギー単位が、あのように注意したに違いない。
そして、この朝晩のインシュリン接種が健太の将来を護るものとは、まだ誰も知らなかった。
富美子の四十九日法要を終えた十月中旬、空気が澄んで夜空が美しく見えるが、朝晩の冷え込みも次第に強くなってきた。
中学3年生の健太は、高校受験日まで半年を切っていた。
母を亡くし、さすがに成績も落ちて来ていた。中学校では進路説明会、同級生は親と担任先生を交えての三者懇談会などが盛んに催されている。
親が関わる行事には参加不可能と、健太は重々自覚していた。
夕ご飯時には、プチへのインシュリン接種にプチとコトラの小屋に入っていく。
部活動用のウォーマーを羽織り、しばらく出て来ないことがしばしばである。
一人っ子の健太には、唯一の兄妹は小学4年生から一緒に過ごしてきたプチとコトラ。
色々と愚痴や不平不満などの思いを告げることができる、小屋が自分の部屋でも在ったのだろう。
「なんで俺だけ三者懇談がないのだ!親父は『勉強しろよ』と勝手なことしか言わない」 プチとコトラは目をパチパチして、優しく健太の話をたくさん聞いたのだろう。
間脳機能も壊れ、自律神経が不調で、体温調整も出来ない千幸の身体には辛い。
受験勉強で追い詰められていた健太も精神的に辛い、冬が過ぎ、そして春が来た。
桜が丘宅ではコタツの中で温もっていたが、屋外の小屋で過ごし、寒さには弱いプチとコトラにも日向ぼっこができる春が来た。
プチとコトラの時空を超えた尽力で、健太にも、志望校に通える春が来た。
千幸は訊いた。
「合格祝いに何が欲しい?健太」
パソコンか「踊る大捜査線」の青島コート程度かと高をくくっていた。
「自分の部屋が欲しい」
とてつもない要望で虚を突かれた。千幸は数日思案して、大きな決断をした。
健太とプチとコトラが、憩える「時間と場」が有る住処。
「オレの家に遊びに来い」と友達を連れて来ることができる我が家。
この先「故郷、実家」と呼ぶことができ、旅立った後も帰って来られる、心が落ち着く住処。
そして、千幸自身の「終の棲家」となる、本当の我が家を造ろう。
年老いていく義父母に、このまま介護し続けてもらい世話に成るわけにはいかないし。
「よしっ!家を建てよう!」
◆
「桜が丘がいいか?8年間住み慣れた静かな街。会社の知り合いが多いし、 健太の小学同級生も居るし、プチとコトラの故郷でもあるし・・・」
「千幸が生まれ育った家が有る、名古屋市の堀田がいいか?同級生や幼なじみ友人も多く、医療、介護の情報も入手しやすいだろう。
交通の便は良く、健太の高校も自転車で通える・・・」
「街の情報はゼロ、医療介護体制が全く未知で知人もいないが、兄貴一家が住む豊田市か?」
千幸は住処の場所を、岐阜県桜が丘、名古屋市堀田、愛知県豊田市の3候補で迷っていた。
桜が丘なら百坪以上の広い敷地の中古物件を、バリアフリー仕様にリフォームする。
堀田であれば三十坪足らずの狭小地住宅だから、古い実家を壊し、隣の空き地を買い取り、バリアフリー三階建て住宅を新築する。
最も高コストと成るだろう。
名鉄本線で名古屋駅まで一〇分少々で行ける、栄までは地下鉄で三十分と立地条件が良い分、建て坪が狭くなるので、樹や季節の花を植える土の庭は無理だろう。
無機的なアスファルト駐車場では、プチとコトラには不満であろう。
ベッド時間が多く、家に籠りがちな、千幸が望む「花鳥風月」を味わうのが出来ないだろう。
豊田市は土地も物件も全く心当たりがないが、健太が就職などで家を離れる数年後も、実の兄貴の家の近くであれば、心強いだろう。
そして命尽きるその時も、我が家で看取り尊厳死も叶うだろう。
敷地百坪とはいかないが、桜が丘と堀田の長短所中庸な住処を築けそうだ。
在宅勤務は相変わらず忙しいが仕事の合間に、間取りやデザインなどを、パソコンソフトでシミュレーションしているのは楽しく、つい夢中に成り時間が経ってしまう日々を過ごした。
土地取得の問題も有り、堀田の実家狭小地に、四肢麻痺障害の千幸に必要バリアフリー仕様住居を新築設計するのは、不可能だと判って来た。
数年後には、健太も巣立ち、独居の障害者は、二十年後には独居障害老人に成ると考えたら、兄貴の近隣で住むのが安心だろう。
そして、八十五歳と高齢な父親を堀田の実家に独居させておくのは限界とのことで、兄貴宅で同居することに成り、増改築を進めていた。
実家を出て二十四年、父親独りに母親の介護を押し付け、母を亡くして8年、長男の兄貴と同居し、近くで次男の千幸が居る。
四半世紀ぶりに親子三人が集い住めば、父親にもやっと孝行ができる。
との事由にて、千幸と健太の住処は、豊田市に決めた。
「健太、堀田のお爺ちゃんが入院している豊田市の病院行って、様子見て来てくれないか?」
千幸は受傷する5年前までは、月に一度程度は実家に顔を出し、雑談をしがてら父親の健康状態を確認していた。
受傷してからは実家に行くことができず、富美子の法要時に豊田市にいる兄貴の車に乗せてもらい、ここ弥富市の家を訪れていた。
老いと千幸への落胆のせいか、やつれた感じは顔にも動きにも隠しようがなく、みすぼらしいほどであった。
堀田の家で倒れているのを、世話に成っていた近隣の人から兄貴に連絡があり、兄貴宅に近い豊田市の病院に入院したのであった。
高血圧症で狭心症の持病のうえ、八十五歳独居で栄養も充分摂っていなくて、この冬季の寒さで体調を壊してしまった様だ。
「おじいちゃん、元気そうだったよ。一緒にコーヒー飲んできた。」
退院して、春には兄貴一家と一緒に棲み、千幸と健太が今秋には近所に住めば、散歩がてら気兼ねしない実息子の家を行き来し暮せば、寂しさと不安も失せ体調も回復し健康状態でご隠居させることができるだろうと、千幸は楽観していた。
健太は高校二年生、十七歳と成っていた。
バスケットボール部で県大会に行けるか否かのボーダーラインで、朝練習と授業後の部活動に加えて、帰宅後も休日も走り込みの自主トレに夢中である。
高校で良き友達、良き仲間が出来たようだ。勝っては大喜びし、負けては共に悔し泣きできる、生涯友人で居られる仲間と青春真っただ中だ。
5年前に故郷ともいえる桜が丘から転居し、誰ひとり友達の居ない環境に放り込まれ、登校拒否か不良ヤンキーもどきに成長がネジ曲げられると半分覚悟していた。
部活の話をする面構えに充実感がみなぎり、スイカの様な口で笑む表情が戻っているのに、千幸は担いだ甲斐に浸された。
障害と妻の死、やっと残された者たちの人生に日が差し、顔を上げて今後の計画が明るく成って来たと、車椅子とパソコン装具でテレワークしていた昼下がり、兄貴から電話が有った。
「親父が入院している病院から、容態が悪化したと連絡が有った」
警戒アンテナを低くすると、必ず勿怪が起きる、と千幸はイヤな気がした。
「明日は新築の件で住宅会社の担当者たちが来て、打ち合わせの予定が有るが。ドタキャンして、タクシーをチャーターして豊田市の病院まで行くわ」
明らかに親子ならではの「虫の知らせ」だった。
病院に着き、父親のベッドサイドに車椅子を寄せた千幸の目の前では、あの時と同じだった。
人工呼吸器と身体からは数本の管に繋がれた、親父が横たわっていた。
「お父ちゃん!何やっとるの?千幸だけど、一緒に家に帰るよ!早く!」
昔と同じように話しかけ、叫んで、呼んだ。
側臥位状態の親父の横側の眼から、大粒の涙が溢れ続けた。千幸だと判っている。
気管挿管器具で口が塞がれて話せない。しかし、親父の声が千幸にはハッキリと聴こえた。
「ああ、千幸が来てくれたか、ありがとう、待っとったぞ。お父ちゃんは、もうダメだ。元気でやって行けよ。ありがとう、な・・・千幸」
母親の介護を十数年以上も任せっきりに放っておき、自分勝手で自己中だった放蕩息子。
「今更だけど、車椅子の障害者に成ってしまったけど、孝行する時間を持つつもりだったのに」
いつの時も、母は信じてくれた、父は背中を支えてくれた。
また、背負うものが増えてしまった。重みが肩に食い込む。
第六章 あ・うんのミッション
昨年2000年シドニーオリンピックでは、高橋尚子が女子マラソンで初の金メダルに輝いた。その前の1996年アトランタオリンピックでは、有森裕子がマラソンで銅メダルを獲った。
受賞記者会見で「自分で自分をほめたい」という言葉は、千幸がプール飛び込みで受傷して搬送された夜、南海病院でラジオから聞こえていた。
「イヌは人に就き、ネコは家に就く」と言われている。
全く見知らぬ場所に住処を変えられたのは、二度目のプチとコトラちゃん。
新築の我が家もご多分に漏れず、プチとコトラちゃんの洗礼を受けた。
入居して3か月後には、玄関から階段、廊下、居間の壁紙ほとんどに爪とぎをして、とどめに捲れた壁紙の端をくわえて、きれいに剥がしてくれた。
「これでプチとコトラちゃんの匂いが付き、奴らは我が家として認めてくれたのだろう」
壁紙張り直しの費用を支払いながら、千幸は怒りと呆れを通り越して、安堵の気持であった。
家屋内の地の利も判らず、訪れる人たちは知らぬ者ばかり。恐れと不安で屋外に脱走しないよう、4匹用のゲージを千幸ベッドの隣部屋に据えて、新居に慣れるまで兄妹には住んでもらった。
わんぱく元気だけど優しくも賢くもある、お兄ちゃんのプチは新居に成れるのも早く、健太部屋がある二階の間取りまで、数日で制覇した。
妹のコトラちゃんは気が小さく、臆病で用心深く、千幸と健太の唯一の家族以外の人たちには心を開かず、ゲージの中で引きこもっている日が続いた。
ご飯時に、健太がプチに血糖値測定しインシュリン注射している最中から、プチはニャゴニャゴ「早く飯をくれ!」と甘えて騒いでいる。
コトラちゃんは「お兄ちゃんはニャゴニャゴとダサイワネ!」と冷たい視線をプチに射っている。キャットフード袋の音が聞こえると、プチは大騒ぎにせがんでいる。
その健太の足許では、コトラちゃんが柱に頬をコスリ付けている。
「なんだー、コトラちゃんも、腹が減っていたのか」 と健太に話しかけられると、小声で「ミャア」と瞼をパチパチさせて喜んでいる。
まったく甘え下手で、損ばかりするコトラちゃんだけど、プライド高く、ツンデレで、お兄ちゃんには強い。
プチは昼寝も夜寝も健太部屋のベッドが大好きで、徹夜勉強にも付き合っていた。
コトラちゃんはゲージが近くの、千幸ベッドで腿に挟まれて寝るのが安心でお気に入りだ。
振り向けば、怒涛の五年の歳月が流れていた。
高校二年生の健太とプチとコトラちゃんを連れて、豊田市の住民に辿り着いた。
ここに引っ越してくる際には、前日に弥富市の家から千幸のベッド以外のものは運び出した。
翌日に豊田市新宅に搬入据え置きし、千幸が午後に行った時には、褥瘡が出来ぬように新しいベッドで寝られるように設置してもらっておいた。
時候は十一月の晩秋で朝晩の冷え込みが始まり、三寒四温の季節の変わり目であった。
頸髄損傷者には体温などの調整ができず、体調を崩しやすい辛い時期だ。
エアコンなどの空調設備や、食事に必要なガスと上下水、電話とインターネットは滞りなく、すべて予め使える様にしておく必要があった。
からだが不自由な障害者の転居は、緻密な計画と連携が必要で、健常者の倍以上のコストと時間と手間がかかる。
転居後まず、車椅子の父と高校生の息子は向こう三軒両隣に挨拶は終えた。
しかし「五里霧中」「手探り」「馬の骨」の状況であった。先住の近隣者には、馴染みのない電動車椅子に乗った重度障害者の転入に、驚きであったに違いない。
千幸の在宅ワーク環境は、会社の若い衆がテキパキと整えてくれた。
医療往診、訪問看護、訪問リハビリテーション、そして日常生活の要である衣食住を世話してくれる訪問介護の体制も、ドタバタ劇ながら整えることが出来た。
目標に向かって、一歩一歩と運んで来たのではない。
その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものだ、と今になって思える。
終の棲家である新宅は「花鳥風月」五感で暮らせるのを、最優先コンセプトとした。
最も長い時間を過ごすベッドからは、南側の庭が眺められる。
庭地には四季の樹木を並べた。季節樹の花の回廊である。
我が家のシンボリツリーの里桜をはじめ、ハナミズキ、ヤマボウシ、ツツジ、紫陽花、イロハモミジ、キンモクセイ。
眺めの左側から、春夏秋冬を季の折々に感じられる様に並んでいる。
暮すためのバリアフリーは、主に車椅子の動線に配慮を最優先とした。車椅子が通るには廊下幅は1m、車椅子が切り替えしなく、旋回するためのコーナースペース。
訪問看護処置が行い易い、ベッド廻りのスペース。ベッドからバスルームへ移動する際に、温度差が無いような空調設備。
等々の仕様を二十坪建て坪に盛り込んだら、一階は1LKしか間取りが取れなかった。
千幸のベッドは、左手に南側の庭を眺められ、足もと側の隣の和室には、今は富美 子が居り、次は自分が入る仏壇を据えている。
頭を起こせば、背負っている富美子と父母の遺影が、千幸を常に見張っている。
翌年の平成十四年、富美子の三回忌法要を、「我が家」と呼べる住処で務めることができた。
母親の三回忌法要を無下にしてから六年目に、車椅子で、豊田市で、お盆を兼ねて棚経を住職と共に唱和しているとは、まさしく「禍福は糾える縄の如し」幸福と不幸は変転する。
日々を重ね、ひとつずつ煉瓦を積み上げる様に、生活のスタイルが定まっていった。
訪問看護による週2回の摘便と膀胱瘻カテーテルのメンテナンス。
訪問介護による週2回のシャワー浴と皮膚手入れ。
訪問リハビリテーションによる週一回の、麻痺四肢の可動域他同運動と拘縮予防マッサージ。
整形外科医と内科医師の4週ごとの往診。
そして、自力では暮らせないための生活の要。
朝のカーテン明けから、就寝時の布団掛けまでの一挙一動をケアしてくれる訪問介護ヘルパーさん。朝八時からと昼十一時から、夕方五時から、夜九時からの一日に4回。
単純に数えて、日に四人、週七日間で二十八人のヘルパーさんと、日々暮らしている。
五年前の三時間ほどの睡眠と出張の日々、常に追いかけられている様な暮しから、まったく様変わりした月日が流れている。
まさに二回目の人生だ。身体は不自由でストレスも有るが、こちらの方が「人間らしい」と想えるのが、千幸のオメデタイ楽観主義の長所でもあるかも知れない。
「道端に咲いていたヨと、一輪挿しに水仙」
「ゴーヤがいっぱい採れたから、夕食はチャンプルにするわ」
「向かえの団地の桜並木が満開だよ」
と、急きょ車椅子を押してもらいながらお花見に。
「庭のキンモクセイの花のアロマ香りでリラックス!」
と、エアコン止めて窓全開に、などなど。
ヘルパーさんたちの「慈」の心で障害者や老人をケアし、いかに活力のある生活を援助するか。
「人に感謝してもらえる仕事。『ありがとう』と言ってもらえるのが、やり甲斐の仕事」
千幸が心身を削って忙殺していた仕事は、 「俺が日本経済、いやグローバル視点で日本人の生活水準を上げる一役を担っているのだ」 この世に生きる上で、どちらが「主」か「副」か、とは云えず、両輪として必要な生業なのだろう。いや、仕事という視点で考えるのでなく、「やりたいこと」と捉える方が比較し易い。
いろんな環境や考えで生活を紡いでいる、各々のヘルパーさんとの会話から、千幸にはまったく知り得なかった人生を垣間見ることが出来、自分の家族にしか焦点を合わせていなかったのが、改めて自戒の念で自覚されるのであった。
しかし、感謝の念は溢れる想いだが、当たり前のことだが自分の家族や肉親ではない反応に触れると、オメデタ楽観の千幸は寂しさを感じざるを得なかった。
◆
「ドンジャラジャラ、ギャッハッハッハッハー!おい、親父が下で寝ているから静かにしろ!」
モミジが新緑の盛夏、健太は高校3年生。バスケットボール部活は、サマーカップで名古屋市歴代の強豪校に負けて、3年生は部活動を引退させられていた。
仲間を二階の部屋に呼んで、徹夜マージャンなんぞをしている。
鉄骨造の家だから、麻雀パイが床に落ちただけでも、下階で寝ている千幸にはマル聞こえだ。
翌朝、いつもの様にヘルパーさんが来て二階のカーテンを開けに行って、これまたビックリ。
汗臭い若者たちがイモムシの様にゴロゴロと寝ている。
高校引退試合で負けて、悔し涙の青春に区切りをつけ、 「大学受験勉強にエネルギーを集中せよ!」というのが学校の主旨なのだろうが・・・・。
プチとコトラちゃんも、多くのヘルパーさんが入れ代わり立ち代わりの日々にも慣れて来た。
「プチ、回覧板を置きに行こうか」
オットリ賢いお兄ちゃんのプチは、リードなしでもヘルパーさんの前を歩いていく。
「こっち、こっちだヨ、ちゃんと連いて来ているか?」
と、振り向き振り向き隣の家に行き、帰りは町内をひと回りヘルパーさんと散歩して来る。
コトラちゃんは相変わらずツンデレで、ヘルパーさんが抱っこしようとすると 「フッー!」と威嚇し、ネコパンチや噛みつき技で「放せー!」と暴れる。
しかし嫌われることはなく、あまたのヘルパーさんはプチのファンとコトラちゃん好きが半々である。プチはお利口さん過ぎて手が掛からないが、コトラちゃんは放かっておけない可愛さがあるらしい。
桜が丘で生まれて、同じ茨の道を千幸に連いてきた兄妹なのに、個性が全く違う。
千幸は相変わらずの在宅ワークで、忙殺されている。
昼のヘルパーさんにベッドから車椅子にリフターで移乗してもらい、昼食を終えるのが概ね午後一時過ぎに成る。ここから夕方のヘルパーさんが来る午後五時までの四時間弱の間は、一心不乱「全集中」でパソコンに釘付けである。
月曜日の朝までに、会社に今週の業務が送信提出されていればOKである。
風邪で熱が有り終日寝込んでいようと、来客が有り忙しかろうと、月曜日の朝に会社のパソコンにレポートが着いていれば、当週の業務は遂行完了なのである。
ある意味では、出勤し顔を出して居れば、サボっていようと居眠りしていようと、OKの通常勤務の方が「楽」と思えることがある。
近所に住む兄貴も、たびたび千幸の家に寄ってくれている。 岐阜県桜が丘と愛知県豊田市と各々離れて住んでいて、お互いに企業戦士で忙殺していた頃より、会話の機会が多くなっている。
父母を亡くし、堀田の家のことや叔母や従姉など親戚のこと、父母の思い出話が出来るのは、兄弟のみに成ったのも事由だろう。
自分のこと、健太のこと、住処のこと、生活のこと、ここ数年に起きた禍事も台風一過の様に、今では単調だが落ち着いた日常生活を過ごしている。
人生初めての我が家を築き、貯金も底が見え心細く成っていた。
健太もその辺は承知の上か、ライフプランでマイホームの次にお金を要す大学教育も、地元の国立に通い助かっていた。
こんな家庭環境でも普通に育ってくれた健太については、千幸には強く思うことが有った。
中学から高校そして大学生の多感な成長期、友人たちと酒盛りや外泊し夜中オールで遊ぶ機会も多いだろう。しかし二十歳すぎても健太には出来ない信念が有ったのだろう。
「俺、プチにインシュリン注射しなければいけないので、無理だ、帰る。」
「一回ぐらい注射打たなくても大丈夫だろう、今夜ぐらいはオールで遊ぼう!」
夕ご飯を少なめにしといてもらおう・・・という選択肢は健太には無かった。
桜が丘小学校四年生、一〇歳から顔を見ない日はない。弥富市の家庭の小屋の中で、たくさんの愚痴も不平も聞いてくれない日は無かった、プチとコトラ。
健太にとっては「朋友以上の竹馬の弟妹」なのだろう。
プチも一〇歳を超え、人間年齢でいえば還暦の六〇歳を超えていた。糖尿病の持病を五年以上抱え、食も細く成って来ているのでインシュリンの効き具合が乱れて来ている。
食前の測定血糖値に合わせてインシュリン量を摂取しても、食欲がなく食べる量が少ない場合は、インシュリンが効き過ぎて低血糖発作で倒れてしまうことも間間ある。
その都度、健太が車に乗せて獣医に駆け込み、点滴をしてくる。糖尿病は血糖値が正常に戻れば、発作時はダメか!と心配したプチは、コロっと元気印で帰って来る。
プチの「泣いた烏がもう笑う」さまと同時に、健太の顔の緊張度が失せている。
千幸は獣医から帰ってくるまでは、気が気でないが、健太は必死に車を飛ばしたのだろう。
たぶん、いや、きっと富美子が亡くなる時に、プチに頼んだに違いない。
「プチ!健太を頼むよ!」と。
「千幸もコトラちゃんも、自分のことしか考えられない者たちだから」と。
コトラちゃんは富美子にベッタリ可愛がってもらっていたが、頼りにはならなかったのだろう。
毎日のインシュリン注射で、健太はグレたり、引き籠もりにならずに、大学生に成れたのだ。
プチの「健太を護るミッション」はいつまでかは、プチのみぞ知っているのだろう。
◆
千幸がパソコンに向かって在宅ワークしている昼間は、ヘルパーさんも居ないので警戒心が強くて気が小さいコトラちゃんも、部屋の中、家の中を安心して闊歩している。
千幸のパソコンのすぐ左手にある窓の外は空き地だ。
道路の更に向こうは、農家の畑に季節の野菜や花畑が見通せる。プチもコトラちゃんも窓辺の桟に二人並んで座って、眺めているのが、マッタリとお気に入りのひと時だ。
天気の良い日の午後は、この日向ぼっこがルーチンであり、幼稚園や小学校の帰りの親子や子供たちには馴染みの窓辺光景に成っていた。
「あっ、あいつら、また座っとるゾ」
「ママ、あれ!ニャンニャンがいる!おいで、おいで」「バイバイィー」
窓の桟の位置によって景色の見え方が違う様で、たて枠側に座る方が見渡し良いらしい。
この場所を取り競うので、よく兄妹ゲンカに成っている。プチがポケーっと窓辺に座っている時に、コトラちゃんが後から来て窓辺に上がると、プチはベストポジションを後ずさりして、妹に譲ってあげる。
しかし、この逆で、コトラちゃんが先に座っている時に、プチが後から来て良い場所に横入りすると、気位の高いコトラちゃんは「フッー」と怒り、プチの鼻頭をバリっと引っ掻く。
プチの鼻からタラーっと血が流れていることもある。
コトラちゃんは感情の沸点が低いのか、すぐ「フッー」「ハッー」と怒る。特にお兄ちゃんには。
横で寸暇を惜しんで在宅ワークしている千幸は、つい見入ってしまうロスタイムが悩みの種だ。
コトラちゃんは元来、免疫力が弱くて毎月のプチ糖尿病通院の際には一緒に連れて行ってもらい、一万円もする注射をしてもらって来る。
豊田市のこの家に来て五年が経ち、健太もプチもコトラちゃんも桜が丘の家に居た頃の様に、すっかりと「オレの家・あたいの家」として日々暮らしている。
桜が丘の庭で目立っていたシンボリツリー里桜が、この庭でも五度目の開花で庭を彩っていた。平成十八年の春の花粉飛散は多く、千幸も健太も鼻をグズグズさせていた。
鼻風邪がうつったのか、コトラちゃんも鼻水を垂らして、ヒューヒューゼイゼイと喘息の様な息使いをしていた。
鼻水は初夏に成っても止まらず、息使いが苦しそうに見える。カビ菌がインスパイアされる梅雨季は、更にゼイゼイと息の音が普段から聞こえて来た。
「この子は感染症に弱いから肺炎に成りかけている」
抗生剤の注射と内服薬を処方されたが、一向に治っていく感じが見受けられない。
食欲は有るので、やつれていくことはないが、呼吸が苦しそうだ。
車椅子からは手が届かないソファーで苦しそうに寝ている。
しかし背中をさすってやる事すらできないのが、千幸はもどかしく、悔しかった。
「コ~ートラ~♪、コ~トラ~♪ ねんねしな~ねんね~♪ コ~トラ~」
創作子守唄で、できるだけ近くで見守るしか出来ない、自分の障害が恨めしさいっぱいである。
コトラちゃんは苦しいにも拘わらず、千幸に目をパチパチとしてくれていた。
千幸は仕事など出来る気持ちに成らない、二、三日過ごしていた。
梅雨が明け、プチとコトラちゃんが場所を取りあった窓の外では、グリーンの葉の間に浮かぶようにヤマボウシが白い花を咲いている。
その日も千幸は、ベッド背もたれをギャッジアップし夕食の時間であった。
この姿勢をとると、必ずコトラちゃんが、股間に飛び乗って来て、自分が寝やすい様にグイグイと身体を、千幸の膝上腿辺りにこじ開けてから寝転んでいた。
夜九時過ぎには、ヘルパーさんが千幸の就寝のため、ベッド背もたれを倒し平たくする。
「はい、お父さんは寝るから」
ヘルパーさんが、いつもの様に言えばコトラちゃんはソファーか、隣部屋のゲージ内の自分の寝床に行く。
夜間も暑く寝苦しい時候になり、タオルケットと薄夏ふとんを掛けてもらった。すると、再びコトラちゃんが、ヒョイッとベッドに上がって来て布団の上から千幸の腿の間に入って来た。
「今夜はお父さんの所で一緒に寝るワ」
と、いつもの様に瞼をパチパチと嬉しそうに、ヘルパーさんに目で訴えていた。
千幸は脚の感覚もないため、コトラちゃんの重さも位置も分からなかったが、苦しそうな息のゼイゼイは聞こえていた。
一時間も過ぎるとコトラちゃんの喘鳴は小さく成っていった。
「寝ると呼吸は浅くなるので、眠ったな」
千幸もそう思いつつ安心したら、自分も眠りに入ってしまっていた。
寝苦しい夜だったが、ベッド横のカーテンから日が入っていたのに気づいた。
ハッと昨夜のことが、頭を駆け巡った。
「アレッ、そういえばコトラちゃんは?!」
千幸は自分で頭を起こすのが出来ないので、耳をすました。
ベッドの右側の床から、ゼイゼイと早く、わずかながらコトラちゃんの息が聞こえた。
「健太!健太!起きろ!すぐ来てくれ! コトラちゃんがー!」
大学生の健太は、昼夜逆転の夜更かしをしているので、二階の健太部屋に聞こえる様、渾身の大声で叫んだ。
ダラダラと起きて来た健太に、千幸はつい大声で言った。
「コトラちゃんが死ぬ!コトラは生きているか!?」
健太はコトラちゃんを抱かえて言った。
「息はしているが、もう意識がないみたいダ!」
ゲージ内のコトラちゃんの寝床に連れて行き、しばらく見守っていた。
看取りだ。
朝のヘルパーさんが時間通りに来て、事態をすぐ察したようだった。
「お父さん、コトラちゃんが、今、息をひきとった・・・」
健太がコトラちゃんを抱かえて、千幸の見えるところに連れて来た。
安らかに眠るように抱かれていた。苦しんだ様子はないのが一抹の安堵だった。
千幸はコトラの額に鼻を埋めてみた。良い香りがしている。体温も温かい。
コトラちゃんは女の子だから逝っても、キレイで可愛い匂いのまま眠っている様だ。
「コトラ、甘え下手のコトラちゃん、昨夜はありがとう。十年間、連れて回ってごめんよ。また、何とかして俺のまわりに来て、コトラの気配を感じさせてくれよな・・・」
声に出せば健太の前で涙が出てしまうので、心で話しかけた。
平成十八年、2006年7月4日、十二歳だった。また、ひとり家族を失った。
千幸が障害を負ってから、激動の十年間だった。
その日の午後には小さな骨壺に入って帰宅した。
庭の里桜の下に、骨を埋め石販プレートに「コトラちゃんおやすみ」刻印のお墓を造った。
桜が丘からの千幸宅シンボルツリーである里桜のセカンドネームは「ケン桜」と呼んでいた。
サードネームとして「コトラ桜」も銘々として加えた。
◆
紫陽花が終わると、毎年のことだが西三河の豊田市は急に猛暑日がやって来る。
三十℃超えは当たり前で、酷暑日と呼ぶ体温並みの三十五℃を超える日がザラである。
お兄ちゃんのプチは精が抜けてしまった様で、ボーっとしている時間が多くなった。
場所を取り合った窓辺にも、あまり登って来なくなった。
ご飯をもらう時に、コトラちゃんがいつも柱に頬をこすり付けたところに、黒い跡が残っている。
プチがその場所の匂いを嗅いでいる姿を見る度に、千幸は自分まで哀しくなってくる。
「病は気から」というが、プチの糖尿病が進んでいるようで目が白濁して来ている。
血がドロドロで毛細血管にまで血液が届きにくくなり「白内障」が進むのが、この病の次のステップらしい。
暑い夏の間は、ダラ~とバテ気味だったが、秋には食欲は戻って来て元気も戻って来た。
翌年の春、コトラ桜は例年に増して、たくさんの花を咲かせた。
一本の枝が他とは違った方向に異常に伸びて来ている。
明らかにウチの中を覗こうとしているようだ。
コトラの骨の養分のせいか、命のエネルギーを里桜に少し残していったようだ。
千幸は論語の「五十にして天命を知る」五十歳に成っていた。
千幸は「不惑どころでなかった四十歳」からの十年間を経験し、「天命」とは天から与えられた命ではなく、天から与えられた使命であると考えていた。
人間の力では抗し難い「運命」や「宿命」が、天から与えられた寿命と思っている。
「天命」を知ることによって、己の人生の価値や方向性を思い定めることは、生きるという事に重みを増すと考えられるように成った。
健常であれば、バブルの崩壊に奔走し忙殺され続けて、今よりもっと浅く小さな器の人間に成っていただろう、これだけは自信を持って言えると、十年間を振り返っていた。
健太は大学生を満喫している様子だ。
小学6年生から寂しい思いをさせて来た、という親の負い目を千幸は強く感じている。
その反動か、モノの面では不自由がない様にさせて来たのが、甘やかしに成ってしまったと、悔やむところでもある。
これにより「自己否定」の強い人間性が助長されるのを、千幸は最も懸念していた。 弥富市の家でプチにインシュリン注射した後、プチとコトラちゃんのゲージの中で本を読むの彼の方が、心が逞しかったとも感じる。
健太にベッタリであるプチが度々、夕食後にコトラの指定席であった千幸の股間に入り、ゴロゴロ言って寝転んでいる。
朝まで千幸のベッド足許で丸く成って眠っていることも多い。
「どうした!プチ、また健太が帰って来なかったのか?」
プチは何も言わない。いろんな思いをしていても、何も言わない。
「お母さんがいなくなり、お父さんは暫らく居なかったし、妹が居なくなり、健太は?・・・」
ただ嬉しい時は「ゴロゴロ」喉を鳴らし、目をパチパチとしてこちらを見てくれる。
白内障の進行も進み、半分くらいはスリガラス通して見えている様子だ。
月日が過ぎるほど、特に寒暖差が激しい季節の変わり目は、食が細く成り朝ごはんが残っているのが多くなってきた。
少し痩せて来たかな。
プチは誰も遊んでくれない、カマってくれずストレスが溜まると、千幸が真剣にパソコンでレポートを書いている時に、突然キーボードの上で寝転んでしまう。
2~3時間かかり作成した文書をオールクリアしてくれる。
怒っても、プチは目をパチパチして喜んでいる。奴は千幸の障害を解っているのだ。
「お父さんは怒っても、僕を叩いたり投げたりして動かす力がないから、ここに居させてくれるのだ。桜が丘の家で夜中仕事をしている時に紙に爪を立てると、怒鳴っていたのに・・・・」
プチも今や十四歳近く成り、人間でいえば七十歳前後で千幸より一回り以上年配だろう。
「五十にして天命を知り、六十にして耳順ひ、七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず」
プチは、つまり七十歳で心の欲するままに任せても限度を超えなくなっている境地なのだ。
千幸も、人の言うことを逆らわないで聴けるようになる「耳順」に近づいている。
穏やかに悟りに近づいている男どうしだから、ここはムヤミに争わず、共にする時間を大切に憩えるひとときに出来るように成った。
プチの病は容赦なく体を蝕んでいった。階段も一歩一歩ジグザグして、上り下りしている。
千幸のベッドに上がるのも、ジャンプでピョンでなく、布団を手で掴んでからヨジ登ってくる。
トイレの場所も判らない様で、近くでウンコしてしまっていた粗相が多く成った。
最近は家中の所かまわず漏らしてしまうように成り、玄関から二階の部屋すべてにペットシートを敷いておく状態に成っていた。
そこはヘルパーさんがプロで慣れたもので、不平ひとつ言わずに片付けてくれる。老人や障害者の介護には、オムツ交換から大小便の汚物処理は慣れたものである。誠にありがたい。
2008年、バブル崩壊不況から十年経ち、立ち直りかけた社会にリーマンショックという更なる鉄槌が下された。
千幸の在宅ワーク業務内容も変わって来ており、「販促企画」「ビジネスモデル開発」の要諦を穿く内容が増してきて、スムーズにレポートが進まなくなって来ている。
健太は大学院に進んだため、就職活動がズッポリとリーマンショックに重なり苦戦している。
プチの糖尿病も加齢が拍車と成り、ヨボヨボにやつれて来ている。
目はほとんど見えてないようだ。光と嗅覚と音と、家内の間取りの記憶に頼って、ヨタヨタと歩いている。
プチは「辛い」とか「痛い」「苦しい」など、ましてや「死にたい」とは絶対言わない。
「今」を懸命に生き、その積み重ねが「毎日」と成っており、「明日」という観念もない様相だ。
これこそ「宿命」であり「天命」を意志の力でつかさどっているのだと、千幸は見護るしかできない。彼は何も言わない。何か要望を言ってくれれば、絶対にそうしてあげるのに。
お盆の棚経の日だった。健太は夏休みで沖縄に行くつもりでいたのだが、前日の夜中、プチが階段を踏み外して落ちてしまった。
千幸は、大きな異常音で起きた。プチにただ事でない事態が起きたと布団の中でも判った。
健太を大声で呼び、救急獣医に連れて行ってもらった。
落下衝撃で眼を撃ち、眼球が飛び出てしまったのを押し戻す処置が施されて、帰って来た。
プチは何も言わない。しかし健太に、「行かないで!」「行ってはダメだ!」と訴えているのだと、千幸は確信した。
ちょうど十二年前の今日、千幸がプールに飛び込み障害を負った日だからだ。
あの時も、プチは車の中で「行ってはダメだ!」と訴えたのを、千幸は無視して家族を不幸にした、原罪人だからだ。
障害を負ったのは子年の健太が子年十二歳の小学六年生の時、そして干支もう一回りした子年の2008年の二十四歳。十二年間の歳月。
リーマンショックを何とか超え、健太が就職内定を獲得したのは翌年の2009年の春。千幸も高校と大学進学の時よりも、心底ホッとしていた。
安堵の中の盛夏に、プチの眼は完全に見えなくなった。
歩くのが精いっぱいで、食も不調のため低血糖発作が頻繁に起こり、インシュリン接種量を決められなくなった。
美味しくない療養食もヤメにして、市販の美味しさ追求の食事に変えた。こんな美味を味わったのも、十年ぶりぐらいだろう。
もう、千幸も健太も判って来た、「そろそろか」と。
そして、その時はやって来てしまった。
ツクツクボウシが庭に来てくれる初秋。
就職内定した会社から勤務地の知らせ届いた。
静岡の沼津市。新幹線でも高速道路利用しても、三時間あれば帰って来られる地だ。
「プチ、俺、静岡に行くことになったよ。 インシュリン注射も、急いで病院に連れて行くのも難しい・・・」
やせ細って、目も見えない、横に成って寝ている時間が殆どの日々のプチに、健太は話した。
プチは抱っこして膝に乗せてもらっている。健太の匂いと息も吹きかかる声に喜んで居る。
プチは、ゴロゴロ、ゴロゴロと喉を鳴らす振動で答えている様だ。全身が辛いだろうに。
2009年、平成二十一年の早秋、巷ではマイケル・ジャクソンが逝去、民主党政権が立ち上がり、新型インフルエンザ流行の兆しでパンデミック、前年のリーマンショックの傷跡など、エンタメ・政治・社会・経済の各界で激動、メディアはニュースに事欠かなく喧騒としている。
千幸の仕事も激変のビジネス界に振り回され、情報収集の切り口が定まらず、頭を抱える日々だった。
デスクに向かう千幸の車椅子の左側に、屋内の日向ぼっこで使っているコットン・ネルに横たわっている。パソコンディスプレイを見る視界の左端に、プチの様子が入るようにしていた。
もうプチは自力で歩くのも出来ない。
ヘルパーさんが、寝転びながらもご飯と水分は採れるように、彼の茶碗を配置してくれている。
プチは千幸と同様、首だけは自力で上げて水やご飯を食べようと難儀している。
上手にご飯の位置まで口を持っていけず、皿だけがズルズルと動き食べられず、諦めてしまう。
「お父さん、僕はもうダメだ」とは決して思わないようだ。
千幸は、ご飯や水の器をプチが飲み易いように、口元に移動してあげられない身体障害を、これほど恨めしく思ったことはない。
逆に千幸は、「もういいよ、プチ。寝なさい・・・」
と、安楽死させてあげたい気持に成る。
待っている。プチは健太を待っている。
卒論で忙しいのか、注射が不要に成ってから、健太は家に居ないことが多い。
九月十四日の月曜日の昼下がり。二階の自部屋で寝て居る、健太をインターホンで呼んだ。
眠そうな顔をして降りて来た健太も、横たわるプチの危篤容態に即気づいたようだ。
すぐ抱かえて、膝に乗せソファーに腰かけた。
「プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!・・・・」
呼びかけに、一言「ニャ」と微かに返事した。何かを告げたのだろう。
「ケンタ、ボクのことはもうイイよ。ケンタ、ありがとう。ケンタ、ありがとう」
千幸には、そう聞こえた。健太にも、そう聞こえたろう。
「プチ!オマエ死ぬのか!」
プチはもう形骸であった。
物体であった。プチの心、生命エネルギーはそこにはなかった。
ヘルパーさんが茶碗を片付けている間も、健太は男泣きしていた。
桜が丘小学4年生十歳からの十五年間、健太の兄妹が逝った。
また一人、家族が逝ってしまった。
千幸一家は、健太と車椅子の千幸、二人きりに成ってしまった。
「阿吽の呼吸」。
「あ」は全く妨げのない状態で口を大きく開いたときの音から始まり、口を完全に閉じたときの「ん」で五十音は終わる。
そこから「阿吽」は宇宙の始まりから終わりまでを表す言葉とされている。
宇宙のほかにも、「あ」を真実や求道心に、「ん」を智慧や涅槃にたとえる場合もあるという。
「心が考えるもの、心が伝えるもの」と解釈されている。
富美子が息をひきとる際に、二人の間だけの非言語的コミュニケーションで伝えた、 「プチ!健太を頼むよ!」
「あ」が、健太の高校受験そして「ん」が大学院を卒業し就職して配属された時。
健太が道を間違えず、一人前の社会人に成るまでの「あ・ん」の十年間はインシュリン接種という責任感を損なえない方法にて、プチは「ミッション」を完遂したのだろう。
その日の夕方には、プチも小さな骨壺に入って帰宅した。
庭の里桜の下に、骨を埋め石板プレートに「プチ!ありがとう」刻印のお墓をコトラちゃんの隣に造った。
ウチのシンボルツリーである里桜の名前は「プチ・コトラ桜」とした。
第七章 原風景におかえり
昨晩の夜間電話当番は、朝方まで緊急訪問要請が多く、さすがに疲れ気味だ。
厚生病院の訪問看護ステーションから車に向かいながら、看護師の太田靖子はブツブツ言いながらプリウスのドアロックを解除した。
正午前の職員駐車場は朝夕の通勤時に比べ、靴音も聞こえる静けさの中、運転席ドアを閉める音が響き渡った。
「ん?何か音がする!鳥の声か?」
靖子はセルモータースイッチを押す前に、再度耳を澄ましてみた。
膝先のボンネットの方から、ミーミーと声が確かに聞こえる。
重い足取りながら車を降り、前方のボンネットを開けてエンジンルームの中を見た。
「みゃあ、みゃあ、みゃあ、・・・みゃあー、みゃあー」
「子猫の声だ!どこに居る?」
根っからのネコ派の靖子は、ラジエーターの裏からサスペンション周りを隈なく見たが居ない。
駐車場内にある防災センターの職員を呼びに行き、事情を伝え職員二人に来てもらった。男の職員が懐中電灯を照らし、エンジンルーム奥を調べたが、泣き声が止まり見当たらない。
更に車体の下にもぐり込んで隅々まで捜した。
「あっ!いた、子猫だ、こんなサスペンションとディファレンシャル・ケースに挟まっている!」
何とか子猫の手足を挟まないようにして、胴体を掴みゆっくりとエンジンルームから出した。
黒い潤滑オイルをオデコから口元に付けた、生後一ヶ月過ぎた頃の茶トラネコだ。
セルモータースイチを入れエンジン動かしていたら、死んでしまう間一髪のところであった。職員の手を噛みつき、手と足の爪で引っ掻きまくりジタバタ暴れている。抱かえられた両手の軍手から必死に逃げようとしているのだ。
子猫だから、大人の軍手では爪も歯もたたず、まったく痛くもない。
取り敢えず、防災センターに有った深さのある段ボール箱の底に毛布を敷き、入れておいた。
靖子は防災センター職員と話し合い、夜間は当直職員が常駐する防災センター内の部屋で預かってもらい、昼間は厚生病院エントランス脇の舗道に段ボールごと置いてもらった。
【里親募集! 誰か、もらって下さい】
里親に成ってくれる人が見つかるように、立札を立ててもらった。
十日間経ったが、里親に成ってくれる人は見つからない。
「こんなに可愛いのに、ウチの子になるか?でも、高層マンションだからなあ・・・」
ファッツ・マイケル風の人気の茶トラ柄の子猫だから、貰ってくれる人はすぐ見つかるだろうと、靖子は考えていたのだが。
夜間預かって世話している、防災センターの若い女性職員は情が移って来てしまっている。
「私が欲しいのだけど、父母が猫アレルギーで無理だしなぁ・・・。この子、噛むのだよ。
子供が喜んで撫でようとするのだけど、すぐ噛みつこうとするし、年配の方たちが抱きあげると、両手足で引っ掻き、噛みつこうとして暴れるからダメなのだよ。
この子、ウチへ帰ろうとしているのかなぁ、しきりに、何処かへ行こうとしているみたい」
翌日の夕方、訪問看護ステーションの面々が防災センターに集い、相談した。
「もうこれ以上、防災センターの皆さんに厄介掛けるわけにはいかないし、明日にでも豊田市動物愛護センターに引き取ってもらって、里親探しをお願いしようか」
普段は凛として、どちらかと言えば気が強い靖子が、泣きべそをかきそうな声でつぶやいた。
「千幸さんの家で預かってもらおうか?ヘルパーさんからのクチコミで飼ってくれる人を・・・」
「衛生的に良くないことを、私たち医療従事者がやるべきじゃないけれど・・・」
千幸宅に訪問看護に長年訪れている、年長のベテラン看護師が靖子の言葉を追うように言った。
「そう!千幸さん、最近なんか覇気がないというか、元気がなくて、口数も少ないヨ。健太くんの就職が決まり静岡に配属と成り、育て上げたという達成感と、子離れで、燃え尽き症候群みたいだわ。それに、ついに独居に成ってしまう淋しさだと思うよ。長い間必死に頑張って来て、これで肩の荷が下りて生きる気力が、失せているのだよ!」
気持は勝手に千幸家の家族にするつもりだ。
ヘルパーさんのクチコミで、里親探しするのではなく。
「そうか・・・、千幸さんは、常に何かをしていないとダメなのだよね。いつも何かと取っ組み合っていないと、千幸さんらしくないからなぁ。何ていうか、適度なストレスが要るのだよ!」
元気がなくなっている所見対処に、ネコでストレス療法というわけだ。
千幸とは日頃よく言い争っている、靖子が説得するように皆の顔を見回し、さらに言い続けた。
「明日の訪問看護、私、この子を連れてってみる!看護の間、ちょっとプチのゲージに置かせて、とか言って、千幸さんと対面させてみるわ」
◆
プチが居なくなって約一か月、庭のイロハモミジの所どころ赤みを帯び始めている。
十六年ぶりだ。千幸家からネコの気配が感じられないのは。
「家の灯りが消える」とは、このことか、と目が覚める度に千幸は家の静けさを、砂を噛む想いで受け止めていた。
「プチ! コトラちゃん!」
と呼んでも、千幸の声が家の中を泳いでいるだけだ。歩く音も鳴き声も温かさも気配もない。
当たり前だが、つい呼んでしまう。
貯えてあったキャットフードも、爪とぎ、おもちゃ等など、プチとコトラの物はネコと暮らしているヘルパーさんたちに、全部もらってもらった。
プチとコトラのものが有ると、様々な場面が思い出されるので、忘れ去れるように全部処分したかったのだ。
今、残っているのは、大きなゲージとボロボロに成ったキャットタワーくらいだ。
「おはようございます。訪問看護の太田です」
「ミー、ミー、ミャァ、ミャァ、ミャァ」「ミー、ミー、ミャァ、ミャァ、ミャァ」
翌朝、太田靖子はいつも通りの元気な声と、何故か子猫の泣き声と一緒に何かを持って入って来た。
「千幸さん、処置の間だけで良いからプチのゲージに子猫を置かせてネ。あの通りやかましいけど、気にしなくていいから。見なくていいから」
摘便と膀胱瘻カテーテルの洗浄処理中に、靖子は子猫の経緯を話してくれたが、
「千幸さんの家で飼ってもらうつもりはないから、気にしないでね」
「ミャア、ミャア、ガッチャン!ギャア、ギャア、フンギャア、フンギャア!ガッチャン!」
千幸はどんなネコか見たかったけど身体は動けないが、
「出してくれえ!今すぐオレをここから出せぇ!」と叫んでいるのは分かった。
「まァ、この子はヤンチャで天井まで登っちゃっている、これっ!降りなさい!」
靖子は逐次実況中継しながら、看護処置を坦々と進め終わった。
千幸は興味本位以上の何かに取り付かれたように、思わず叫んでしまった。
「気にしなくていい、という訳には出来ないだろう!ちょっと見せてくれ!」
靖子は隣の和室に有るゲージに行き、両手の平を合わせて戻って来た。
「見る?見るだけだヨ、すぐ連れて帰るから」
と、言いながら、千幸の顔の横で両掌を玉手箱の様に、ソーっと開いた。
「あっ!茶トラネコだ!」
生後一カ月位、人間でいえば一~二歳だろう、目はしっかり明き、靖子の指に噛みついている。
千幸は茶トラ子猫と目が合ってしまった。見ている、千幸の眼をジィーと見ている。
ゲージ内であれほど叫んでいた奴なのに、なぜか何かを言いたげに、おとなしく千幸を見ていた。
「ウチでは俺が世話できず、健太も半年後は静岡に行ってしまうし、ヘルパーさんに世話してもらう事は出来ない。介護勤務規定が在り、ペットの世話は違反に成るから、ウチでは無理だ」
千幸は既にこの茶トラ子猫に情が移りかけていたが、連れて帰ってもらう様に言った。
「分かっているヨ、ありがとう。ヘルパーさんで里親に成ってくれそうな人を訊いてみて」
靖子は茶トラ子猫をキャリーバッグに戻して、落胆した模様もなく看護を終え帰って行った。
靖子は千幸の性格を知り尽くしていた。子猫はカワイイに決まっている。
ペットロスで沈んでいた一ヵ月ぶりに、ネコの声を聴き、プチと同じ茶トラネコと目が合ってしまった。
このまま見過ごして諦めきれない加藤千幸。
しかも動物愛護センターに預けられて、一週間ほど里親が見つからなければ、殺処分にされる恐れがある。
「あの茶トラネコは俺に訴えていた。『オマエの家族にしてくれ!』と」
ここまで思ってしまったら、千幸は仕事には手が付かず、策を練って動き始めてしまった。
先ずは、ヘルパーさんを派遣している数か所の訪問介護事業所の責任者に電話しまくった。
「事業所としては、『はい了承しました。』とは返答できません。各々のヘルパーさんから千幸さんがペットロスで元気がないとは伺っております。ので、ネコを飼うことは事業所としては聞かなかったことにします。各ヘルパーさんにケア時間外で、ボランティアをお願いしてみて下さい」
千幸は最大の難関所を通過できた気分であった。
「事業所の反応は概ねOKだな。あとは二十人程のウチに来ている、各々ヘルパーさんに了解をもらえば、あの茶トラネコを我が家に迎え入れるぞ!」
朝、昼、夕、夜と一日に四人、週に二十人弱、ケアに来てくれるヘルパーさんに説得、お願いして了解を得る旨を一斉メール送信した。
千幸の目論見どおり、快諾の返事を容易に得られた。
コトラとプチ兄妹の実績が功を奏したのだろう。
特に、糖尿病のプチがボロボロに痩せこけて終末ケアと看取りまでしてくれた、我が家のヘルパーさんにとっては子ネコ一匹くらい「おやすい御用」と受け取ってくれた様だ。
「千幸さん、やっとネコ飼う気持ちができたのだね。コトラちゃんとプチが居なくなって随分と気を落としていたから、心配していたのだわ」
この御用がコトラとプチとは全く違う、おやすくない洗礼を受けるとは、まだ誰も予想できなかった。
翌日、千幸は訪問看護の太田靖子に意気揚々と電話をかけた。 「この間の茶トラ子ネコ、ウチで預からせてくれ!ウチなら里親が見つかるかも知れない」
靖子が電話する後ろから、他の看護師連中が歓喜のどよめきをあげたのがマル聞こえだった。
次の訪問看護日に、千幸家家族新参者はキャリーバッグの中で相変らずミャアミャアと騒ぎながら来訪、いや降臨したと言うべきだろう。
お供の看護師二名と、防災センターで過ごした二週間余りの所帯道具と共にやって来た。
あたかも御輿入れのようで来るべきして、やっと来たという雰囲気を千幸はベッド上で感じた。新たに購入した室内用トイレセットと、お食事道具が据えられたゲージ内の毛布に寝かされた。
訪問看護が終わった昼下がり、二階から健太が下りて来てゲージ内の手合を凝視している。
茶トラ子ネコも引っ越しに疲れたのか、黙ってゲージ外から覗いている手合を見つめている。
「これは『プチ』じゃない!プチとは違う!全然プチじゃない!このネコはお父さんのネコだからな!俺は関係ないから、お父さんの好きにすればいいよ!」
失望したのか憮然とした表情で、自分の部屋に上がって行ってしまった。
十五年間、共に遊び、一緒の布団で寝て、共に成長し、糖尿病と闘って来たプチは、一人っ子の彼には思春期を共にすごした唯一の兄妹のような、重すぎる存在であったのだ。
この子を家族にするのは、プチとコトラ兄妹ロスを埋めるためではない、何か宿因が千幸を動かしたのだ。
茶トラ子ネコ新参者は、千幸が寝ているベッドの隣の和室のゲージ内でしばらくの間は暮す予定でいた。
子犬4匹用のゲージの間仕切りを外した二階建て2LDKで、一階はトイレとダイニング仕様にしてある。二階に上がる途中にもロフト風の中階が在り、二階は日向ぼっこできるフロアと毛布が敷いてある寝室フロアの二部屋と、ゴージャスにリフォームしてある。
「知らない処に来て不安だろうから、快適に過ごし快眠出来るように」 と、ヘルパーさんたちが千幸のケア時間以外にも、わざわざ買い物して我が家に来てくれて準備してくれたのだ。
しかし奴は、そんな好意は知ったことじゃないと、気に入らなさそうに常に脱走を図っている。
特に夜中に成ると活発に成り、
「ミャアミャア、ミャア」「ガッチャン!ギャア、ギャア、フンギャア、フンギャア!」
隣部屋の千幸は眠れたモノじゃない。三日目で寝不足ストレスを満タンにされた。
ゲージのドアはオープンにして、そこの和室間仕切り襖は締めて、部屋では自由にできる様に和室を奴に明け渡した。これで千幸の安眠は妨げられないようにと。
「ミャアミャア、ミャア」「バリッ、バリッ!ガリッ、ガリッ!バッタン!ドッタン!」
翌朝ヘルパーさんが来て、和室の襖を開けた途端、叫んだ。 「ナニッー、コレ!コラァー!イタイッ!ヤメテッ!」
襖は破れ、仏壇の花や仏具類が床に落ち散らかり、畳はあちらこちらが爪立ててボロボロ等々。
部屋から脱走しようとしてヘルパーさんの脛に噛みつき、ゲージに戻そうと捕まえたら、掌に噛みつき、両手足でマッハパンチとマッハキックの連続攻撃。
「こりゃあ折角の仏壇部屋がボロボロにされるから、俺が寝ている広い居間とキッチンまでを開放して、洗面所や浴室に通じる扉と、玄関や階段に通じる廊下への扉は閉めておこう」
「ミャア、ミャア」「バリッ!ガリッ!バタン!」
「ガチャーン!パリン!ドッタン!フンギャッ!」
千幸の寝不足は五日目と、体の限界に来ていた。ヘルパーさんの片付け仕事量も限界に来ていた。
「ダメだ、こりゃあ。俺も家も破壊されるゾ。屋外に出さえしなければいいから、外からの出入りだけ気を付けてもらって、上下階とも家の中の行動はすべてアイツの自由にさせてやろう」
一週間にして新参の無法者に我が家は完全に征服された。家の中すべてが破壊される前に。
健太の部屋にも夜間忍び込んで、布団の中にもぐり込んだ。健太が脚を動かそうものなら容赦なく噛みついていた。
「痛えー!この野郎!」ドタン!バタン。
「また健太部屋から放り締め出されたナ」
「ミャア、ミャア、ミャア」
下階ベッドの中で千幸は、チェシャ猫の様にニヤニヤして聴きながら、良き睡眠ができていた。
数日後、健太にもヘルパーさんにも慣れて、アイツの名前を決めた。
健太の案で「チャタ」に決まったのだが、ひと月ほど経ったら「加藤茶太郎」と加藤の姓を授けられて、茶太郎と名乗っていた。
翌年2010年の冬は、強い寒気団が日本上空に幾度も居座りひときわ寒さが染みる日が多い。
茶太郎はどこで生まれ、親とはぐれ、どうやって厚生病院の駐車場まで辿り着いたのかは、本人しか知らないだろう。
厚生病院では噛みつきまくって、里親が見つからなかった。しかし太田靖子が我が家で千幸と対面させた時、自分の家に帰って来たような安堵の目をしていた。
半年が過ぎた今では本人も素性は頭から消え、昔から住んでいる「ここがオレの家」そして「オレの家族たち」と思っている。「当然・自然・当たり前」としか感じていないのが不思議だ。
朝から夜まで入れ代わり立ち代わり多くのヘルパーさんが来た時も、必ず寄って来て匂いを嗅いでいる。そして「ヨロシク!」と言いたげに、頬っぺたを手脚にこすり、全く怖れない。
こんなに人懐こい子猫に里親が見つからなかったのが理解できない。
と、思いきや、ヘルパーさんが歓んで抱き上げようとすると「カプッ」と掌に噛みつく。
両手両脚をバタバタと引っ掻き「降ろせー!放せー!」と暴れまくる。
茶太郎の洗礼はヘルパーさんに漏れなく授けてくれた。
ウチの救急箱は消毒液とキズパワーパッド、バンドエイドなど、常時いっぱい入っていた。
「茶太郎くん!なんで噛むの!」
「プチはお利口さんだったのに、この子はバカだね!」
ロックオンして尻を振っていると、 「ヤメテ!また飛びつこうと狙っている!」 キッチンで調理していると、お尻辺りに飛びつく。
「キャー、ズボンが脱げちゃったがね!」
「キャア!ダメッ!」
看護師が千幸の膀胱瘻を処置している際も、肩や頭まで登って来る。
「イタイッ、ヤメテッ、あっち行って!」
「もうー、ホントにダメネコだね!茶太郎は」 ヘルパーさん、看護師さんの悪評は枚挙にいとまない。
それは千幸も健太も百倍承知であった。
しかし、誰もかもウチに来ると第一声は 「茶太郎くん、おいで。オリコウさんにしとった?」 「ニャア」「カプッ」「イタイがね!」 バカほど、ダメネコ過ぎて可愛いようだ。特に訪問看護師たちは、親の目でみている。
プチとコトラちゃんとのギャップが大き過ぎて。家の物も、たくさん、たくさん壊してくれた。
障子・網戸・襖・花瓶・食器・置物・革張り応接セット・壁紙・畳・などなど。
茶太郎は御年十ヵ月で人間なら中学校に入学する、成長盛りで疲れ知らずの元気いっぱいのわんぱく者である。
訪問看護師が想定していた「適度なストレス」は、千幸には桁違いの大きさのストレスであった。
晩年のプチが出来なくなった、階段の全速三段飛び上り下りや、カーテンレール上の伝い歩き、そこからダイビングしベッドで寝ている千幸の腹に着地。
トラブルもストレス源のバーゲンセールだ。
ヘルパーさんが玄関扉を開けて入って来る際に、足もと隙間から飛び出す。ゴミの始末をしに勝手口を開けると、ヘルパーさんの肩越しに外へ飛び出す。
脱走の前科は数えきれない。
特に夜ケアにヘルパーさんが来たときに脱走した折には、即戦力の耐ストレスが必要だ。
茶太郎が遊び疲れて帰って来て家に入れる様に、千幸ベッド横側のベランダサッシを開け放し状態で朝のヘルパーさんが来るまで待つしかない。
夏場は蚊や虫が大喜びで、入りたい放題だ。心配で眠れぬ千幸の顔面を容赦なく刺しまくる。
脱走外出時は、向こう三軒両隣の庭にウンコしまくり涼しい顔でご帰宅なさる。
「ペットを放しがいにしないで下さい。糞害で困っています」
町内回覧板に掲載もあった。
菓子折り持参で、ヘルパーさんに車椅子を押してもらい、町内を陳謝回りもさせてくれた。 我が家の庭でも、ヘルパーさんが季節の花でガーデニングしてくれるが、プランター中には必ず、茶太郎が糞尿で天然堆肥してくれる。
想えば、プチも幼少の頃は桜が丘宅の広い庭で、走り回りや近隣の庭に不法侵入するは、木登りなど、日没過ぎるまで遊び回っていた。
千幸が障害を負い小屋に軟禁生活を数年間強いられ、糖尿病を持ちここに来た時には、そんな元気も失せてしまっていた。
プチがこの家でやりたかったことを、茶太郎が代わりに、やりたい放題しているようだ。
千幸の夕食後にはコトラと同じように、千幸の股間で安心かつ気持ち良さそうに眠っているのを見ると、ワンパクかつストレス大量生産してくれた事は忘れてしまい、癒される。
ヘルパーさんにご飯をもらう時は、ゴロゴロと喉を鳴らしコトラちゃんが擦った柱の跡を同じように茶太郎も頬で擦っている。
そして、千幸の体調が悪い時は、茶太郎が傍らでおとなしく寝ている。また茶太郎の食欲がない時や尿量が少ない時、一晩中帰って来ない時など、千幸は心配で仕事に集中できない。
そんな茶太郎を、富美子の遺影が微笑んで観ている気がした。
今年の気候は茶太郎の真似か、大暴れである。
強い寒気で降雪を携えた冬の寒さで風邪をこじらせ、千幸は喘息で入院してしまった。
春到来でも、暖かい気温が平年を大幅に上回ったと思えば、寒気が南下し東京では最も遅い降雪を記録した。
血圧の調整と体温コントロールが不調な頸髄損傷の千幸には、加齢のせいか体調が優れず気落ちしている日々が続いた。
気落ちの原因は、本人が重々承知していた。受傷して一五年間。
いや病院の窓から見える満開の桜にも気がそぞろで分娩室からの声に耳をそばだてていた、我が子の産声から、二十五年。
健太が就職で家から、親から巣立つ家族の大きな節目の春を迎えたからである。
茶太郎は相変わらず健太にも噛みついて半年が経ち、健太の部屋に居ることが多くイタズラし放題だが、一つの布団で寝るのが常と成っていた。
健太が出ていく際にくれたSDカードには、五百枚以上の茶太郎の写真が写されていた。
そして健太は、「あ・うんのミッション」を茶太郎に言ってしまった。
「チャタ。お父さんを頼むぞ」と。
加藤家の表札は、千幸と茶太郎の二人だけの住処と成った。
そんな日々を365日過ぎた頃、千幸は納得できそうな未知解が見えて来た。
「茶太郎はプチなのだ」
「茶太郎はコトラなのだ」
そして「茶太郎は富美子でもあるのだ」
「茶太郎は亡き父母の想いも持っている」
皆の個々生命エネルギーは、この世では宿っていた身体が無くなったら、火の鳥に例えられる宇宙全体の大きなエネルギー体に吸収される。
そして大きなエネルギーからほんの一部が分離し、或るものはまたこの世に存在している。分離と融合を繰り返しているのが、存在のありのままのすがたなのだろう。
これこそが真理、仏陀が最後に説いた、宗派を超えた「仏性」「実相」と呼ばれる、生物から物体のすべてに在るエネルギーのことであるのだろう。
他の宗教では、それを「神」と呼んでいるのだろう。
だから茶太郎自身は自覚して無いのだろうが、プチ、コトラ、富美子、母親、父親をはじめ多数の生命エネルギーをヒュージョンされている。
だから、千幸の脚の間で眠ることも、庭の樹に登ることも、時おり暫しのあいだ千幸の顔を凝視するのも、いわゆるデジャブなのだろう。
千幸自体が彼らの「原風景」であったのだ。すべてが繋がっていたのだ。
先祖、友だち、知り合い、ネコたち、時空を超えて千幸を知る皆の「原風景」であったのだ。
千幸は寝返りをすることが出来ない。スマホを操作する手指も麻痺している。
夜間に目が覚めてしまい、夜明けまで天井の模様を眺めている時があまたある。
そんな長い時間は、自分が障害を負ったこと、不孝を悔やむ両親のこと、何とか育てあげた健太のこと、辛い時にはハグさえしてあげればよかったと悔いる富美子のこと、仕事のこと、ヘルパーさんのことなど。
二十年近くの間、たくさんの時間、想い、考えて来ている。
「瞑想」に近い修行の様だ。
心穏やかに生きられるために、すがる様に本をネットで読み漁った。
小説の中の人生、エッセイからの著者の考え方、そして宗教や哲学の人文思想関係の本。
そして、知らぬうちにジャンルが淘汰され、仏陀の説くことが、千幸の迷いや葛藤を鎮める、安らぎに効果を感じた。
千幸の稀有な人生因果、今この時も自在にできぬ己の身体、そして無我夢中でいつの間にか辿り着いてしまった六十五歳という高齢。
孔子のたまう「六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」 改めて、これが座右の銘に成って来た。
「心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった」と。
二十年間、三六五日、二十四時間、「自力」で出来る事が殆どない千幸の暮らしを造り支えている「他力」には、感謝の念しかない。
「感謝します」は対面では気持ちが通わない。「有り難い」「有り難うございます」「ありがとう」の方が同じ空間、同じ時間で交わすには言霊が伝わることを知った。
「お陰さまで」のひと言の方が、千幸が暮すには「感謝」より遥かに言霊を表せるのも知った。
人付き合いのマナーではなく、自分が心穏やかに日々の暮らしを過ごすのに重要なことは、「勘のツボ」と「感の沸点」を加齢と共に低く成っていくのも心得ることができた。
ヘルパーさん、訪問看護師の「慈」にて積み重ねられた二十年間、様々な生き様や考え方に接し、「障害を受け入れる」己の在り方を六十五歳にして会得できてきたと感じる。
◆
二十年間、毎朝八時、
「おはようございます」
来なかったことのないヘルパーさん。
「おはようございます。お願いします」
と、昨夜十時に寝かされたままの状態の布団内で答える。
「今日はいい天気だよ。調子はどう?」
と、千幸のベッド横南側カーテンを開けながら顔色を観ている。
「ありがとう」「足先を布団から出しておいてもらって、お蔭さんで良く寝られた」
と、今日もまた始まる。
夜間に暑かろうと寒かろうと、自力で布団を剥いだり、かぶったりできないので前日の布団の選定と掛け方が、翌日の暮す力を大きく左右する。
夕方、午後四時半頃に毎日、千幸は茶太郎が寝ている二階の部屋に行くのが習慣だ。
西側の窓辺に香箱座りして、夕焼けの陽だまりから電柱の雀や、道行く人を眺めている。
茶太郎にブツブツといろんな思いや出来事を、心で話しかける。
健太がプチとコトラの小屋に居座り、たくさんの話をしていたのと同じことをしている。
「またオヤジが難しいこと考えとるワ」
と、茶太郎が千幸の車椅子膝に乗って来る。
「柔らかな陽を浴び、オヤジがここまで来ることができて、オレの相手をしてくれる。その一瞬、一瞬が嬉しくも安らぎ心地よければ、オレはノー・プロブラムだぜ」
茶太郎に何度となく教えられる。
「空の移り行きを眺め、耳をすまし鳥の声を知り、香りで季を吸い込み、肌で昼夜が移りゆくのを知り、口から旬を味わう。感覚と意識だけで過ごし、それから今を思い、考えれば良いじゃないか」
やっぱり茶太郎は全てが解かっている、火の鳥から出て来て「実相」を知っている。
「オヤジは生半可の知識で、またもや難しく理論付けようとしている。誠に難儀でアホや!」
茶太郎が千幸の想いに、耳さえも傾けようとしない。ただゴロゴロのどを鳴らしている。
「六根清浄」感覚と意識だけで、今この時を過ごせば良いじゃないか、と言っているのだろう。
プチ・コトラ・ケン桜は今年もたくさんの「陽光」に近い濃い桜色で魅せてくれた。
ツボミから開花し散り行く花を二十年間ベッドから五感で感じ、千幸は想った。
満開に咲き乱れている花は確かにきれいだが、すぐに見飽きてしまう気がする。
それよりも五分咲きぐらいの方に、かえって風情を感じる。
満ちたりた状態というのは、だれでも願うところだが、それが果たして幸せなことなのかどうか、よく分からない。
「曲がって立っている樹の方が、根っこはしっかりしている」
しかし、
「立っている樹の根っこは、人には見えない」
「花を見て、根っこを思う人になりたい」
まわりから見て、なんの不自由も心配もなさそうな人がいる。
しかし、そんな人に限って意外に深刻な悩みをかかえていたりする。
それに、満ち足りた状態というのはおおむね長続きしない。
千幸のように一瞬で人生の舞台が回ることもある。
登りつめたら、満開の花がすぐ散っていくように、転落する日も近いと覚悟すべきだろう。
だから、いろいろ悩みも尽きないということになるようだ。
だから、満開、絶頂はあまり誉められた状態ではないかもしれない。
むしろそこまで登りつめないで、ほどほどのあたりが理想ということなのだろう。
茶太郎も今秋で十四歳、人間年齢なら七十歳くらい。往年の毛艶は失せてしまった。
親の温もりも知らずに生きてきた。千幸をオヤジでなく父親と信じている。
車椅子の膝に乗っている時、スティック装具で眉間を撫でてやると手足を踏み踏みしている。
千幸の股間でゴロゴロするための、ベッドに飛び乗る力も、今はもうない。
晩年のプチと同じように、千幸のベッドに上がるのも、ジャンプでピョンでなく、布団を手で掴んでからヨジ登ってくる。
千幸は昨年六十五歳に成り、介護保険で公的支援を受けて訪問介護にて暮している。
障害を受けて在宅介護生活も四半世紀が過ぎている。
豊田の終の棲家に辿り着いて、二十年以上が過ぎ、健太が巣立って十二年。
昨年、千幸は心疾患も持病に加わってしまった。心房細動は3回のカテーテル手術で治まった。
しかし、高度狭心症が見つかり数多くの服薬が、一生ものに成った。
二十五年間、歩けず立てず肩から上半身のみの生態には、受傷前のスポーツ心臓は必要ない。
つまり身体の「退化」が進行していたということだ。
既往症を持ってしまったので、微かな希望であったiPS幹細胞による再生医療治験への参加も夢の泡と失せてしまった。
飛行機は飛び立つ時より着地が難しいという。
墜落せぬよう懸命に護り抜いた千幸一家は、障害老人独居に成っていた。
「なあ茶太郎、俺たち、やるべきことはやったよな。もうここらでよかろう」
茶太郎は千幸に話しかけられると、いつもの様に目をパチパチしてくれる。
そして、今日は最後の瞬きが、いつになく大きく長い間、瞼をとじて応えてくれた。
「私の気持ちなんて、分からないくせに!」
「誰も私の気持ちを解ってくれない」
こんな言葉を、昨今よく聞く。親子間で、夫婦間で、友人間で。
自分の気持ちが他人に判るはずがない。自分も他人の気持ちが解るようなら、魔術かテレパシーの持ち主だろう。
「孤独」と「お気楽さん」は紙一重と、何かで読んだことが有る。
要は「寂しい」だけなのだ。
最近メディアで「格差」についての話を、聞かない日の方が珍しい。
所得の格差、教育の格差、家庭の格差など、犯罪や経済状況、イジメ問題などの悪い出来事の要因とされている。
諸問題の源泉は各人の「器量の格差」ではないかと考える。器量と言っても容姿ではない。
人としての「器の量」だ。同じ言葉を投げられても、受け止め方と咀嚼して取りこめる量だ。
また逆に、他人に言う言葉を自分が言われたら、どんな気がするかわきまえて話すことが出来るスキルの格差が、各個人間で著しくなっている。
「生半可の返事しかしないけど、自分の言うことを適当に聞き流されたら怒るくせに」
「私が話しているのに、すぐ言葉をかぶせてくる。
ムッとして返事はいつもネガティブ」
聞く側の気持ちを軽んじている人は、会社や学校でも本気で相手をしてくれる人が居ないだろう。と、哀れむ気持ちで受けとめれば、怒りも大して生じない。
総じて喜怒哀楽の気持ちをキャッチボールする際に、相手の言葉をスルー気味にしているのであれば、他人の気持ちは離れていく。
相談相手も誠意を持って寄り添ってくれる事もなくなる。
普段その様な対応している人が、冒頭の台詞を吐いて孤独感に陥るのだろう。
「人は元来、孤独に決まっている」
「わたしは私、他人と同じであるわけがない」
と、自他の区別を判っている人は、「他人の気持ち、想い、考え方」を知りたく、分かろうとする。このように「個」「多様」をわきまえている人は、多勢の中でも居心地が良く友人も多く出来るはずだ。
多様な人間関係のなかで「心穏やかに暮す」のに、最も大切なことは「感情と思考」でなく「感覚と意識」で相手を受け止める器量を志す気持ちだ。
「感覚と意識」と言うと、瞑想や禅の世界で修行して得られるものと難しく感じるかも知れない。しかし、皆この「感覚と意識」は日常で多く経験してきている。
小学校の時、体育で50m走のタイムを測り全力疾走している時。プールで初めて25m泳ぎきっている時の「感覚と意識」。または映画のクライマックスで感動し目が潤んでしまう時やライブで自ずと会場全体で歌い鳥肌が立つときなど。
これらの時は「感覚と意識」だけの言動に成っており「感情と思考」は働いていないという。
この時の心の状態を常に思い起こせる様、普段から意識することで「感覚と意識」で相手を受け止める器量は大きく成っていく。
手脚が動かない障害の長い日月で、「人を嫌いに成る」「他人の悪口は言う」ことが「心穏やかに暮す」「お気楽さん」には、最大のタブーであると解った気がする。
本書では実相や天命を仏陀の教えを基に述してきたのは、私が宗教への信心を会得しきれないためである。欧米人のようにキリスト教社会で歩んできていたら、求めて来た幸福や大きな器量を会得し易かったのではと想う。
神の存在を信じ、原罪を償うには「無償の行為」が自然で感覚と意識に常態していれば、「穏やかな心」にはもっと容易に達することが出来たのだろう。
良いことは他人が見てないところで行う。神は見ています。
無償の行為が当たり前の人格、社会であれば日本は「器量の格差」がもっと少なかったと思う。「無償の行為」が当たり前であれば、親への想い、夫婦の想い、子供への想い、友人への想いと、自分の想いとの間のすれ違いはなかったに違いない。
私は人生を二つ体験することができた。
受傷前は社会人に軸足を置き「感情と思考」をフル回転し、幸せに成るために懸命に宿命のままに生きていた。ドイツ児童文学作品であるミヒャエル・エンデの「モモ」のごとく、時間を抜き取られている様な日々であった。
そして身体の機能を突然失った受傷後は、他力の施しがなくては生きられない。そのため、他人の「慈」の中で如何に穏やかに暮せるよう「感覚と意識」を主軸として暮らしてきた。
本書第一章「気が付いたら一家の主」の茶太郎のように、生きる一瞬一瞬を「感覚と意識」だけで生きるのが生命の本懐である。
そして、プチとコトラのように、運命を意志でつかさどり、天命を全うするのが、実相であり神の思し召しであると思う。
私も、ネコのように生き、ネコのように死にたい。