1章ー2
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そこは特別教室だった。四人掛けの黒い天板の机が並び、黒板の横には人体模型が立っている。何か生き物を飼っているのか、教室の後方に置かれた棚にはいくつもの水槽が並んでいた。
「理科室……?」
「ここは生物室だ」
さっきの人が黒板の近くのドアから出てきた。
「俺は二年と三年の生物を担当している結城という。君は一年生かな?」
「あっ、はい。一年の佐上イチと言います」
ぺこりと礼をすると、結城先生はうなずき、「スリッパもなくて申し訳ないんだが、準備室に来てくれるか。そっちで手当しよう」と、もと来たドアへと引っ込んでいった。
僕はため息を押し殺して後に続いた。本音を言えば回れ右をしてここから逃げ出したかった。いくら葉さんに似ているといっても結城先生はまったくの別人だ。このままここにいたら、なんの関係もないこの人に余計なことを言ってしまいそうで怖かった。
準備室に入ると、先生が窓際に置かれた机の上で救急箱をひっくり返していた。ようやく消毒薬や絆創膏などを見つけると、「そこに座って」と丸椅子を指さした。
先生は大きな体を屈めて真剣な顔で処置をしてくれた。
「ようし、これで大丈夫だろう」
「ありがとうございました」
腕に何枚も不格好に張られた絆創膏を眺めながら、僕は礼を言う。
「いやいや、不器用で申し訳ないな。なかなか難しいもんだ」
先生は表情を弛めて「ははは」と笑うと、使い終わった消毒薬や絆創膏などをケースに入れて立ち上がった。
結城先生の後ろ姿をぼんやり見つめた。さっきは動揺していたから結城先生が葉さんそっくりに見えたが、こうして落ち着いて向かい合ってみれば、似ているのは目と眉のあたりくらいだった。なによりも身にまとう雰囲気が全く違う。葉さんはこんなに大きな口を開けて笑わないし、このくらいの傷に何枚も絆創膏を貼ったりするほど不器用ではない
。
それに、葉さんはこんなに整理整頓が苦手じゃなかったしなぁ……。僕は窓際に置かれた結城先生のデスクの上をしげしげと眺める。そこには何冊もの本が積み上がり、その向こうでは分厚いファイルが雪崩を起こしている。
部屋の中を見回せば壁際においてある棚もめちゃくちゃだし、その足下にある段ボールにも適当に本やら書類やらが突っ込まれている。部屋の惨状を観察していると、部屋の奧にあるこじんまりした給湯コーナーの上の棚の中をごそごそしながら、先生が僕に声を掛けてきた。
「ええと、君の名前はーー」
「佐上イチです」
さきほど自己紹介はしたのだが、もう頭から抜けているようだ。
「そうそう、佐上。君はコーヒーは飲めるか?」
「はい。でもお構いなく」
僕はそう言ったのだが、先生は僕の言葉を遠慮ととったようで「俺が飲むついでだ」とお湯を沸かし始めた。
仕方なしに僕は壁際の棚に置かれた本の背表紙を眺める。生態論、生物基礎、生命科学、森林生態学ーー。そういえばここは生物準備室だったことを思い出す。二メートル近くありそうな大柄な結城先生は、生物の先生というよりも体育の先生の方がしっくりくるかもしれない。
なんて若干失礼なことを考えていると、僕の前に湯気の立つマグカップが置かれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お礼を言って口を付けたら驚いた。ひとくち飲んだコーヒーは、舌がしびれるほどに甘かったのだ。どれだけ砂糖を入れたのだろう。
「甘……」と僕が呟くと、先生はおやと眉をあげた。
「もしかして佐上はブラック派か?」
「ええ、まあ」
「大人だなあ」先生は感心したようにうなずく。「俺は砂糖か牛乳が入っていないとダメでな」
ははは、と笑う声が大きい。楽しそうに笑う先生に毒気を抜かれて、なんだか張りつめていた気が緩んだ。思わずふっと笑って顔を上げて驚いた。結城先生がじっとこちらを見ていたのだ。
「な……何ですか?」
「いや、少しは元気が出たかなと思って」
「え?」
僕が首を捻ると、先生はゆっくりと自分の椅子に腰掛けた。
「実はな、窓を開けていたら先ほどの君たちの会話が聞こえてきてしまってな。盗み聞きのようになってしまい申し訳ない」
先生が僕に向かって小さく頭を下げた。
さきほどの会話……? しばらく考えてやっと思い出した。先生と会った衝撃で忘れてかけていたが、僕は名も知らぬ男子に、友達になることを断られたのだった。僕はついため息をつきそうになったが、いそいで首を横に振った。
「気にしないでください。先生は悪くないです。あんなところで大声で話してた方が悪いんです。僕が……」
きっと僕がすべて悪いのだろう。あのときの彼が急に態度を変えるほどのことを、僕がしでかしてしまったに違いないのだ。でも何が悪かったのかさっぱり検討がつかない。
言葉を詰まらせた僕を、先生は「うん」と励ますように先を促した。視線を上げると、結城先生の真剣な目が僕を見守っていた。それはやはり葉さんの瞳に似ていて、魔法をかけられたみたいに僕は心のうちをぶちまけていた。
「……僕、転校してきてしばらく経つのに、ひとりも友達が出来ないんです。それどころか、クラスの人たちともまともに喋れない。挨拶だってまともに交わせない。きっと僕には何かが欠けてるんでしょうけど、それが何であるかはわからないんです。このままじゃひとりも友達が出来ないんじゃないかって不安になります。せっかく学校に通わせてもらえるようになったのに」
ずっと自分が置かれた環境こそが孤独なのではないかと思っていた。だがそれは思い違いだった。学校という社会の中で、異物として馴染めないことこそが本当の孤独だったのだ。
「そうか」
先生はゆっくり頷くと、僕をじっと見つめた。
「君はどうして友達が欲しいんだ?」
「……え? どうして?」
友達が欲しいと願うのはごく自然な欲求だと思っていたので、理由など考えたことはなかった。
「ええと、仲良くなって、そのひとを観察したいから……ですかね」
先生は僕の言葉を聞くと、腕を組んで「う~ん」と首を捻った。
「その、『観察したい』という言葉がまずいんじゃないか。なんだか一方的に搾取される感じがして相手も警戒するんだろうなぁ。高圧的というか、偉そうというか」
「えっ」
僕はぎくりとした。そういえばさっきの彼にも観察したいと言ってしまった気がする。僕は全くの無意識だったのだが、だから彼は急激に態度を硬化させたのかもしれない。
「観察したいと言われて、喜ぶ人はいないと思うぞ」
「そうなんですか……」
今まで思いも及ばなかったが、もしかしたら僕の不遜な態度が言動にも出てしまっていて、それが故に遠巻きにされていたのかもしれない。
「そんなにしょげることはないぞ。言い方ひとつで相手の誤解を招くということだな。 勉強になっただろう!」
先生は「ははは」と快活に笑うと、目元をゆるめる。
「君の言う『観察』というのは、他者を理解したいということと同じ意味だと思うのだが、合っているだろうか?」
「……はい、たぶん」
先生は「そうか」と満足そうにうなずく。
「友達というのは、決して一方的なものではないんだ。相手を理解して自分のことも理解してもらう。そして互いに同じところ違うところを認め合い、衝突し譲り合いながら落としどころを見つける。それが健全な人間関係だ」
先生の言うことの半分も理解出来なかった。そんな上級者の技を初心者の僕ができるわけがないとも思った。でも、先生が僕のことを理解しようとしていることだけはわかった。
「僕にできるでしょうか」
「できるよ。君ならきっとできる」
先生は力強くうなずいて笑って見せた。笑うと目尻がさがり、人懐っこい大きな犬のようだった。それはどこか葉さんの笑顔に重なって見えた。
「……またここに来てもいいですか?」
先生の笑顔に見とれ、気が付くと僕はそう口走っていた。
「あっ、いやその、もちろん先生の邪魔にならなければ、ですけど。たまにでいいので、先生の話聞きたいです。もっといろいろ教わりたい」
僕が正直な気持ちを口にすると、先生は一瞬驚いたような顔をして、それから「もちろんだ」と言って目を細めた。
「ありがとうございます」
学校の中に自分の居場所を見つけたみたいで嬉しかった。また先生に会いに来よう、そう決めて椅子から立ち上がる。
そのとき先生がいきなり「そうだ」と言って両手を打った。
「君、生物部に入らないか?」
「えっ」
「俺は生物部の顧問をしているんだが、最近部員が何人も辞めてしまって困っていてな。あと一人いないと、部活から同好会に降格してしまうんだ。もし佐上が入ってくれれば生物部は部として存続できるし、佐上も部員と友達になれる。君さえ興味あればと思うのだが、どうだろうか」
生物部……。って何をするところなのだろうか。想像もつかなかった。でも僕は、考えるより先に「入ります」と返事をしていた。
「本当か?」
先生が目を見開く。
先生も驚いているが、僕も僕で自分の言葉に驚いていた。そして僕の口はもう一度勝手に動いた。
「はい。僕、生物部に入ります」