逃げ出したほうれん草
大きな長靴がのっしのっしと歩きまわります。太い手が草を弄って引っこ抜きます。
ぼくもあんな風にされるのかな、と思うとほうれん草は急に怖くなりました。
土に埋まった小さない足を引っ張り出して、てくてくと畑の外を目指して走りだしました。
人間に見つかってはいけません。すぐに食べられてしまうからです。
ほうれん草は一生懸命短い足で地面を蹴りました。
早く逃げ出さないと…
焦るばかりで畑はとても広く、ほうれん草はクタクタになってしまいました。
なんで逃げ出したりしたんだろう。そのまま引っこ抜かれていればよかったのに。こんな畑の隅っこで干からびてしまうなんて嫌だ。
ほうれん草は土手を上りあぜ道を走り始めました。
ひゅうと音がして、ほうれん草が男の大きな手で捕まえられました。
ほうれん草はもうじたばたする気力もありませんでした。
「あれ、なんでこんなところに立派なほうれん草が」
男はそう言って持っていたかごにほうれん草を放り込みました。
ほうれん草は運ばれて袋に入れられて、出荷されていきました。
そのほうれん草を女が買い、キッチンへたどり着きます。ほうれん草はうとうととしながらキッチンのカラフルな飾りを眺めていました。
ほうれん草は冷たい水で丁寧に洗われて、次に熱湯に放り込まれました。
ほうれん草の体は細くしなしなになり、女が包丁でほうれん草を切り分けていきます。
キッチンに良い匂いが立ち込めます。
今晩のご飯はなあにい
小さな子供の声がします。女は笑って鍋をかき混ぜました。
ほうれん草のグラタンよ。あなたの大好物でしょう
やったああ
きゃあきゃあと子供の声が続き、ほうれん草の意識は遠のいていきました。
美味しく食べてもらえるならそれでいいや。
逃げ出した時の心細さを思い出しながら、ほうれん草は幸せな気持ちでシチューに入れられました。
おしまい