駅で拾ったメモ
一枚目
私は死んでいる。それは確かだ。
あの日、私はいつものように駅のプラットホームで電車を待っていた。線路の向かいにある化粧品の広告をぼーっと眺め、口紅を片手に持ち、視線を引きつける強い眼差しをした女優は撮影中、一体何を考えてカメラのレンズと見つめ合っていたのか。その画像データを編集した者は、途中彼女と目を合わせる度何を思ったのだろうか、なんてくだらないことを考えていた。
そして電車が視界に入った瞬間、私の後ろに居たのであろう女性が線路へ飛び込んだ。
――今になっては、そんなに早くに飛び込むのではなくぎりぎりに、もしくはホームの端からやってくれればよかったのに。私もタイミングが早かったがために特に焦ることなくある種の期待を秘め、下卑た笑いを浮かべながら携帯を取り出す連中のようにしていれば良かったと思ってしまう。
私は自然と手に持っていた鞄を放り、奴らの笑みがさらに深まるのを視線から感じながら彼女を追って線路に降りた。
彼女はまるで祈りを捧げるように腹を抱えて背中を丸め、線路に座り込んでいる。身重だった。電車の音が大きくなる。
とりあえず無理やり彼女を立たせたが、私だけでホームに上げることはできない。私は助けを求めて人々をみやった。誰も手を伸ばさなかった、駆け寄ろうともしなかった。――連中は賢かった。ここで助けなくても個人が糾弾されることはなく、社会的な評価が下がることはない。死ぬリスクがあるのに助けようとするのはバカか、無償の愛によって天国へ行けると信じてる大バカだけだ。
すぐ近くまで来ている電車から必死に意識をそらし、彼女をホーム下の避難スペースに押し込んだ。
二人も入れる程広くはない。私もすぐにホームに上がろうとしたが――間に合わなかった。
背骨が砕かれ、肉が、体液が、汚物が泥のようにぐちゃぐちゃとこねられるを感じてながら、私は彼女に対して申し訳なさを覚えていた。
勝手に命を救われ、目の前で凄惨な死に様を繰り広げられているのだから。
私は救いようのない大バカだった。
それからは急速に意識が遠のき――気がつくと私は上半身だけのまま、未だにこの駅のホームにいた。
二枚目
最初は駅にやってくる人々のほとんどが――生前よりずっと薄く、輪郭がわかる程度ではあったが――見えていた。時々、表情までもがはっきりと見える者がおり、相手もそれは同じようで皆怯えた顔をする。一時期駅のホームに現れる上半身だけの幽霊として騒がれていたことも知っている。元より私の存在を認識して来ているからだろうか、見物目的で来た者、集団ははっきりと見え、触れられもした。
だが今では非常に細く、透明に近い線が動いているのが時々、こちらの世界を覗くようにして見える程度だ。噂も消えていることだろう。誰も私を覚えていない。
電車の音を聞き、広告の女性を見つめることが癒やしだったが、世界が白くなっている。
あらゆる光が混ざってきていた。
私はこれからどうなるのだろうか。完全にそちらから見られることも、そちらを見ることもできなくなることはわかる。だが今も自身が認識している私は? 私を救ってくれるさらなる死はあるのか?
私は何か悪いことをしただろうか。
私は、人を救ったことで命を落とした。なのにこの仕打ちはあんまりだ。ひどすぎる。
私は常に道徳的な行動を心がけて生きていた。そのことを後悔したくはなかった。
何故私は道徳に支配された人生を送った?
そうすれば死後は天国とやらに行けるとでも思っていたのか?
いや違う。そう納得させられてきたのだ。私だけじゃない、きっと誰もが。健全な社会を築くため。
天国はなかった。地獄も、神様だっていない。
死の先にあるのは絶対的な孤独だけだ。
三枚目
私がこれを君に渡したのは警告のためだ。
そちらの世界がほとんど見えなくなっていた中、何故か君だけがはっきりと見えた。君が持っている物も。まるで君は”そちら”と”こちら”なんてない――自由に行き来できるか、境界に存在しているようだった。私と君に何か特別な繋がりでもあったのだろうか。
このメモを書くのに君が持っていたものを勝手に借りさせてもらった。
ひどく飢えている時に小動物が目の前を横切ったらどうなるか。上半身だけとはいえ、私は君の腕を掴み、線路へ倒れ込むだけでいい。
実際、道具を君のポケットから取るとき、何年振りだろうか、生きている人に触れられたのだ。私の手もはっきりと姿を現した。――非常に危うかった。
恐らくこれが人間として最期にできることだ。
だからどうか無駄にしないでくれ。
そして可能な限り逃げてくれ。