レイニーヘヴン
雨が降っていた。
冷たくもない、温かくもない雨が、ただ淡々と。
それは今の彼の心境に相応しく思えた。
ビルの屋上から曇天を見上げる顔は傘に守られるでもなく濡れている。
雨のシャワーを諾々と享受する彼に声が掛かる。
「恐」
叱るような、或いは懇願するような声に、恐は顔を向ける。緩慢に。
「風邪をひくわよ」
そう言った郁が投げて寄越したのは、傘でもタオルでもなく、ホット缶コーヒーだった。
恐の行為が、一種の儀式であることを、郁は理解していた。
即ち、妹を殺された復讐心を忘れない為の――――。
恐も郁も、組織内におけるコードネームだ。本名はもう、互いに遠い過去に置いてきた。
十年前、妹を暴力団に殺害された恐は、その復讐の為だけに裏社会に身を投じた。
郁は恐の、まだあどけないような顔を眺める。
両親を亡くしたあと、二人三脚で生きてきた、仲睦まじい兄妹だったと聴いている。妹はある日、図書館に本を返すと言って出掛け、そしてそのまま帰らなかった。永久に。冷たくも温かくもない、こんな雨の降る日の出来事。
恐はプルタブを開け、コーヒーを口に含んだ。
濡れながら妹の最期の笑顔を想う。
「取引場所が解ったそうよ」
「――――どこ」
雨と同じく淡々とした恐の、その問いだけは、鋭利なナイフのようで、郁は内心、固唾を呑んだ。
メモを渡す。受け取った恐は、天使のような笑みを浮かべた。
ガーネンは倉庫で取引相手を待ちながら、嫌な雨だと思った。どうせ降るなら、豪雨であれば良い。街を蒼く染め上げれば良い。こんな雨の日が昔もあった。民間人の少女を、組織絡みの抗争に巻き込み、死なせた。だからと言って、ガーネンに別段、悔いはなかった。自然淘汰だ。必要な事象であったのだ、と自分を納得させる。彼女が死の直前、お兄ちゃん、と呼んだ声は、なぜだか耳から離れないが。
薄手のコートの懐に忍ばせた、M3913を布地の上から撫でる。日本のSATなどがよく利用する自動拳銃を、ガーネンは愛用していた。寂れた倉庫の中は、湿気が籠り、その癖どこかうすら寒く、季節感を麻痺させる。ガーネンは今朝、起きた時からの違和感をまたも感じていた。
いつもと異なる一日となる。そんな予感にも似た確信。
倉庫の扉が、開く音がした。
錆びついた蝶番の奏でる耳障りな不協和音。
ガーネンの他の仲間たちも、この空気に倦んでいたと見えて、やっと来たかという弛緩めいた気持ちを、誰しもが抱いた。
だがそこに立っていたのは、取引相手ではなかった。
死神だ。
ガーネンは瞬時にそう思った。
まだ二十歳そこそこと見える、若い青年が構えるコルトガバメントが咆哮を上げる。彼の後ろに続く仲間と思しき男たちの手にも自動拳銃はあった。凄まじい銃撃戦となったが、戦いを制したのは、先手必勝のセオリーに則った青年――――恐たちだった。ガーネンは、今朝、成行きで面倒を見ている老犬が、彼のコートの裾を咥えて離すまいとしたことを思い出していた。薄れゆく意識の中。普段は聞き分けの良い犬が、この日に限って。
恐は微笑を浮かべてガーネンに歩み寄る。
まるで慕わしい旧友のようにガーネンの背に手を回し、抱き締め、彼と自分諸共、コルトガバメントで撃ち抜いた。逢いたかったよ、という囁きが、誰に対するものなのか、ガーネンには解らない。
一足遅れで現場に着いた郁は、ガーネンと重なるように息絶えた恐を見て、髪の毛を搔き毟り、声にならない声を上げた。
最初から恐は、絶望の縁に佇んでいたのだ。
妹を殺した世界に背を向けて、その目は生や未来を見てはいなかった。
恐の唇には微笑の名残があった。
雨が降っている。
冷たくもない、温かくもない雨が、ただ淡々と。
この作品を書くに当たりまして、恐怖院怨念さんには「恐」の、EXITさんには「ガーネン」のモデルとなっていただきました。御礼申し上げます。