ゼニストとクルト
茫然自失で崩れ落ちているゼニストの意識を現在に引き戻したのはどこからか聞こえるすすり泣く声であった、ふと正気に戻ると彼は涙を拭い、声のする方向へ歩き出した。実際の所ゼニストの精神はかなりのダメージを受けていた、今まで信じていた現実が崩れたのである、根本的には信じていた人間の裏切りはなかった、という喜ぶべき発見ではあるのだが、それに伴い自らの人生が少なからず否定された事は間違いない、長期的に見れば喜ぶべき事かも知れないが今の彼の考えられる事は何度も繰り返される自己否定であった。しかし、ゼニストは数限りない修羅場をくぐりぬき生きてきた男である、精神を安定させる事には長けていた、彼を動かしているのは情緒的な部分ではなく、生きる事を根底に行動する動物的な部分であった、『得体の知れない何かが近くにいる』この危機意識が彼を動かす動力になっていた。
ゼニストが部屋を出るとすすり泣く声は奇しくもゼニストが接触者に噛まれた部屋から聞こえてくるのであった、因果の二文字が彼の脳裏に浮かんだ。メルと出会ったのもここでだ、あの時はまさか彼女の保護者になるとは思いもしなかった、そう思った途端、言い知れぬ不安が彼を襲った、この町の異常を思い出したからである。メルは大丈夫だろうか、その不安が何とも言い表せない程彼の意識に纏わりついた。しかしまずはこの声の正体を知る事が先決だ、そう思いゼニストは隣の部屋へ入っていった、ゼニストの足音に気が付いたのか、鳴き声は止み妙な静けさが辺りを包んだ。すでにゼニストは声の方角と距離が理解出来ていたので迷わずその方角へ進んだ、相手は武器を持っているかも知れない、一応間合いを気にしつつ声の主に近づき、両手を挙げ敵意が無い事を示しつつ相手の確認をした。軍服をきた金髪の青年である、何があったかはよく分からないが銃に手を伸ばす事もせずただ不安そうにゼニストを眺めていた。服装を見る限り世界平和維持局の兵らしい、ゼニストは屈みこむと男に喋りかけた。
「驚かせてすみません、私の名はゼニストといいます。たまたまこの町に用事があり足を運んだのですが、町の様子がおかしく少し調べていた所なのです。」
軍服の男は何かを思い出した様に顔をしわくちゃにて泣き出した。男は首を振りながら何かうわ言の様に喋っていたが、どうやらそれはゼニストに対してではなかった様である、聞き取れた言葉は誰に対する訳でもない謝罪の繰り返しである。あまりにも様子が変なのでゼニストは問いただす様に男に喋りかけた。
「あなたのお名前は?一体この町に何が起こったのですか?」
男は泣きながら弱々しい声で答えた。
「クルトといいます、この町は、世界平和維持局によって粛清されました…」
ゼニストは心臓が締め付けられる様な感覚に襲われた。
「粛清とは一体どういう事ですか?」
「世界平和維持局は…サイト居住者以外を敵とみなし...無差別攻撃を決定しました...」
クルトと名乗る青年はそういうと声を上げながら泣き崩れた。ゼニストは焦燥の念に駆られ立ち上がった、不安に押しつぶされそうになりながらも男に言った。
「娘が心配です、すみませんが失礼します。」
クルトは立ち去ろうとするゼニストの服を握り彼を止めた、ゼニストが振り返るとクルトは立ち上がりながらこう言った。
「車が下にあります、僕も連れてって下さい、彼等と戦ってでも犠牲を抑える。」
男の眼はゼニストにまだ未熟であった昔を思い出させた、この青年もこれから幾度となく人生の荒波に呑まれながら成長していくのだろう、と親や教師の気持ちに似た気持ちになり彼を連れていく事にした。二人は急いで廃墟から出ると少し離れた所に停まっていた車に乗り込むと村へ向かった。車の中ではクルトが懺悔をする様な口ぶりでこれまでの経緯を語った。
「大々的な演説があったんです、アッシュペルジィさんが...維持局の最高幹部が行ったものです、狂気に満ちていた、反対する者は容赦なく殺されました、僕も反対を叫びたかったけど、怖くて何も出来なかった。僕はずっと自分は強い人間だと思ってきた、何かミスがあっても周りのせいにして自分を正当化してきていた。維持局の本部で鍛えられて、色んな人から感化されて、僕は自分が強くなったとずっと思っていた、でもあの時に気付いたんです、あの狂気が渦巻く中で僕は僕の命の心配だけをしていた、周りで正義を主張して殺される仲間を助ける事も庇う事もせず、僕はただ同調するふりをして助かる事だけを考えていた、僕は卑怯者だ!口ではいつも偉そうな事を言って、周りで劣る連中を嘲笑しながら生きてきた、しかもそんな事を気付かずに当たり前の様に生きてきた!僕はあの時に叫ぶべきだったんだ、間違っている事が理解出来ていたのに叫ばなかった!怖かったんです、あの時、足が震えて寒気がして、何も出来なかった...そして狂った連中にただついて行って...あんな...あんな酷い事を、ただ見ているだけしか出来なかった、助けを求める人の声も聞こえていた、目の前で必死に助けを求めていたんだ、なのに…なのに...僕は…僕はその場から逃げ出した!助けてくれと懇願する人を見捨てて自分の保身だけを考えて、怖くて、逃げ出したんです…何かが僕を掴んでいるかに思えた、車を見つけてすぐにでも逃げ出そうとした、でも捕まったまま、逃げる事も怖くなってどうしたらいいのか分からなかった、どこにいても何かがついてくるんだ、それが嫌で、死ねば楽になれるとも思った、けど...その勇気もなくて...ただ闇雲に町中を走っていた、怖かった、止まれば死ぬ事より恐ろしい事が起こりそうで、ただ何かから逃げていた、どこにいっても叫び声と助けを求める声が聞こえてきた、そして何かはずっと僕を見ているんだ、僕が逃げれば追いかけてきた、どこに隠れても無駄だった、もうどうしたらいいか分からなくなったんです、自分を殺したかった、でも死ぬのが怖かった、死にたいなら誰かを助ければいいのに、分かっていてもそうする勇気がなかった、僕は卑怯者だ!どうしようもない臆病者だ!」
泣きながら懺悔する青年の話を親身になりながらゼニストは聞いていた、彼には少なからず青年の気持ちが理解出来た、これ程劇的な状況ではなかったにしろゼニストには理解出来た、それだからこそ、ゼニストはただ黙って青年の話を聞いていた。
「毎日ある平和に感謝もせずに、平凡が退屈だと思っていた、その瞬間に苦しんでいる人がいるにも関わらず僕は自分の事だけを考えていた、沢山あったはずなんだ、僕が出来た事はたくさんあったはずだ、でも僕は何もせずにいた、事態が起きたらすぐに正しい行動が出来ると思っていた、信じていた!でもダメだった、僕は何も出来ずにただ恐怖に身を震わせているだけだった、情けない自分が憎かった、でも同時に…同時に自分が助かっている事に安堵していた、周りで人が死んでいる、なのに僕はその事に安心した、そしてそう思うたびに何かが僕の心を覗いている様に思えて、裁かれている様に思えて、怖かった、だから何も考えずに隠れていたんです、それでも恐怖は僕を見つけた、どこにいてもどんな事をしても僕をずっと見ている、逃げてもついてくる、きっと死んでもついてくるんだ、そう思って、怖くて怖くてあそこで泣いていたんです、外に出るのが怖かった、外に出れば殺されると思った、死にたいと思っても、外に出れば殺されるって思うと死ぬのが怖くなって、何も出来なかった...僕は…僕は…」
青年はそのまま口を震わせる様に動かしながら黙ってしまった。ゼニストは若干間を置いた後に彼に言った。
「それでも君は行動する決心をした、それは偉大な前進だよ。人は弱いものだ、だから自分を誇張したがるし強く見せようとする、弱さを隠そうとする、だから弱さを認めようともしないし理解しようともしない、でも自分の弱さを認識するという事は重要な事だ、それは自分に可能性を見つけているという事だ、強さを強化する事だけが成長ではない、弱さを補う事も成長だし、その方がずっと難しいし有意義でもある、と私は思う。私は今まで人として決してしてはいけない事をしてきた、その事を悔いているし罰せられるべきだとも思う、でも同時にその経験が成長の糧になった事は確かでもある、私は人生で何度も絶望した、死を覚悟した事も多々ある、そして死んで楽になりたいと望んだ事も少なくない、そんな事を繰り返しているある日、ふと考えたのだ、人生の意味とはなんだろうか、と。もちろん絶対の答えなど存在しない、でも私の、私なりの信じる人生の意味を持つ事は出来る。何度も何度も苦しみ、何度も何度も這い上がって来た、そして私はこう思うのだ、人生とは経験する事にこそ意味があるのではないかとね。君は私の行ってきた悪行や蛮行を知らないが、もし知っている者がそれを聞けばそれは自己正当化にしか聞こえないかも知れない。それでも私は信じたいのだ、どんな不幸があってもどんな絶望を味わおうともそれは人生において重要な経験なのであると、それからは死にたいとは思わなくなった、それと同時に生に固執しなくなった、矛盾しているかもしれないがね、それは死にたがりという意味ではない、経験を更に得る為に死を恐れず精一杯生きる努力をする事が私の生きる目的になったのだ。君が逃げ出した事も行動出来なかった事も事実だ、だが同時に君は前進する一歩を踏み出した、そして何より君はまだ生きている。それならば過去の経験を糧に前進し続ければいいじゃないか、たとえ間違えた方向に向かって進んでいたとしても、停滞しているよりはいいと私は思う。」
ゼニストはそう言いうと青年に目を向けた、青年から流れていた重たい空気は若干軽くなっていた様に思える、青年は無言で何かを考える様に前を向いていた、その眼は決して死んではいなかった。